ゆうせい @Yusei_Matumoto 情シスをしていると端子がつながっておらず、「モニターが映らない!なんとかしろ!」といった事を言われる。あまりに腹が立ち尊敬する先輩にどう思います?と聞いた。返ってきた言葉は意外なもので、「こういう(馬鹿な)方がいるおかげで、我々がご飯を食べれるで、むしろ感謝すべきですよ。」と。 2024-05-16 03:30:58

アニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』(Amazon Prime Video) 1995年はPC業界にとって特別な年となった 1995年11月22日、秋葉原は異様な熱気に包まれていた。 当時の秋葉原電気街では、多くの店舗が18時から19時にかけての早い時間帯に閉店し、夜遅くまで営業している食堂や居酒屋も皆無ではないにせよ少なかったので(注:電気街口側の話です)、20時を過ぎるころには人通りがあまり見られなくなるものだった。 だが、その日は違った。 日が暮れてからも客足がまったく途切れず、ふだんであれば各店舗が閉店する時間帯からむしろ路上を行き交う人間の数が増え始め、ついには車道に溢れかえるほどに人並みが膨れ上がり、警察が車両を出して自動車の通行を規制する騒ぎとなった。 そうした中、ソフマップ秋葉原1号店やT-ZONEミナミなどの中央通り沿いの大型店舗や、“ザ・コン”
この連載コラムもこれが最終回となるので、社内では現役最年長の編集者として、自分が経験してきたコンピュータ雑誌について語ろうと思う。 筆者はこの9月で63歳。1967年のビートルズのアルバム「Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band」でポール・マッカートニーが歌った曲の年齢まであと1年だ。ヴィーラ、チャック、デイブという名前ではないが、孫も2人生まれた。 「人生が二度あれば」の欠けた湯呑み茶碗を使っている父親の年齢まで2年。60歳から定年後再雇用で編集部に所属しているが、それも8月いっぱいで終わり。次の道へ進む予定だ。仕事を終わらせるめどがついたので、週末に2人目の孫に会いに自転車で25km走ってきた。 アイティメディアに限らず業界全体を見ても、筆者より年上のコンピュータ雑誌/メディアの編集者はほとんどが引退しており、同年代でも現役は数えるほどしかいない。記憶
2年前、弊社には激震が走った。16期(98年度)上半期は会社の歴史上初の赤字決算であった。現在、それを乗り越えてきたところである。当時、希望退職を4次まで募ったが、その他に指名・懲戒解雇者まで出した。その結果、460名の社員は約270名に、半年分の販管費は25億円から15億円に削減された。その間、俄か組合によるストライキや計画的怠業が続いたが、会社の生き残りをかけた施策をスピーディーに断行した。期中にマジック事業部をイスラエルのMSE社とのジョイントベンチャーに移管するなど、人件費、事務所経費等の削減を徹底した。 ご存じのように、弊社は統一協会の信者による創業である。コンピュータを通じて社会貢献しようという目的でスタートしたが、会社の業績が目立つようになればなるほど、資本や経営に何の権利も有しない宗教者から、宗教的権威を盾に不当な介入がなされた。 自分は、信仰はプライベートなもので、会社は
「PCはネットワーク接続できて当然」になったのはいつから?:“PC”あるいは“Personal Computer”と呼ばれるもの、その変遷を辿る(1/4 ページ) 昔ながらのIBM PC、PC/AT互換機からDOS/Vマシン、さらにはArmベースのWindows PC、M1 Mac、そしてラズパイまでがPCと呼ばれている昨今。その源流から辿っていく第18回は、今や常識すぎる「ネットワーク接続機能」をPCが持つようになったのはいつ頃からか、というお話です。 第1回:“PC”の定義は何か まずはIBM PC登場以前のお話から 第2回:「IBM PC」がやってきた エストリッジ、シュタゲ、そして互換機の台頭 第3回:PCから“IBM”が外れるまで 「IBM PC」からただの「PC」へ 第4回:EISAの出現とISAバスの確立 PC標準化への道 第5回:VL-Bus登場前夜 GUIの要求と高精細ビ
米マイクロソフト(MS)は14日朝、ウィンドウズの基本ソフト(OS)「10」や年末に投入される次世代の「11」がクラウド上で利用できるサービス「ウィンドウズ 365」を始めると発表した。8月2日から…
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