生活費を稼ぐために日本人向けピアノバーで働く
「決してあなたのことを忘れない」という意味を持つ日本語の歌に、シンディ・ローパーが最初に出会ったのは1982年のことだった。
1980年にブルーエンジェルというバンドでデビューしたまではよかったが、タイミングが悪いこともあって、どこからも認めてもらうことができなかった。

そしてシンディは、生活費を稼ぐためにニューヨークにある日本人向けピアノバー「MIHO」で働くことになった。
働くきっかけとなったのは、雑誌『LIFE』の1982年3月1日号(表紙/エリザベス・テイラー)に掲載された、「ガール・ロッカーズ」の特集で、ゴーゴーズやプリテンダーズと一緒にシンディも取り上げられたからである。
「MIHO」を取り仕切っていた日本人女性は、芸術にかかわる有名人を迎えたり、応援したりするのが好きで、『LIFE』が撮影したシンディの写真を気に入ったのだ。
仕事は日本人客におしぼりや飲み物を出したり、煙草に火をつけるといったホステス役だったが、その延長で“シンディ&オシボリエッツ”という名前をつけて、店で雇われていたギタリストとピアニストをバックに歌うことがあった。
その時に十八番にしていたのが、日本語の『Wasurenaiwa(忘れないわ)』だった。
オリジナルは、史上最年少で全米No.1のヒットを放った記録を持つアメリカの少女歌手、ペギー・マーチが1969年1月に日本でリリースしたシングル盤だ。
作曲は三木たかし、作詞が山上路夫という、純日本製のポップスで、アメリカのシンガーのために書き下ろされものだ。
オリジナルは目立つほどのヒットにはならず、競作となった伊藤愛子のシングル盤がそれより売れたような印象もあるが、ヒットチャートを上昇するまでには至らなかった。
日本ではほとんど忘れられてしまったその歌が、なぜか1980年代のニューヨークの片隅で唄われていたのだ。
「MIHO」のギタリストだったピーターから、「これを日本語でやったらパーフェクトだよ」と曲を教えてもらったシンディは、当時のことを自伝で次のように記している。
ピーターと女性ピアノ奏者の伴奏で歌うのだけど、フレーズごとに彼女が「ダ・ダ・ダ」とピアノでちょっとした装飾をつけてくれる。ギタリストは私がまるでブレンダ・リーみたいに聞こえると言ってくれた。私はこうした人たちに魅了され、彼らを大好きになってしまった。今もこの店の親切な人たちを思い出すと、ほんとに心が温まる。私は良いホステスになろう、みんなを笑わせてやろうと一生懸命頑張った。
とはいえ、シンディがその頃に「MIHO」で歌っていたのは営業用で、シンガーとして成功してから自分のステージで取り上げたことは一度もなかった。