征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、中原の一部と呼ぶにはかなり微妙ながら、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。楊海英は、鮮卑人とみられる隋と唐も征服王朝と定義しており、「異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく」「たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元) 、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった」と述べている。

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  • 征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、中原の一部と呼ぶにはかなり微妙ながら、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。楊海英は、鮮卑人とみられる隋と唐も征服王朝と定義しており、「異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく」「たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元) 、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった」と述べている。 (ja)
  • 征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、中原の一部と呼ぶにはかなり微妙ながら、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。楊海英は、鮮卑人とみられる隋と唐も征服王朝と定義しており、「異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく」「たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元) 、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった」と述べている。 (ja)
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  • 征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、中原の一部と呼ぶにはかなり微妙ながら、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。楊海英は、鮮卑人とみられる隋と唐も征服王朝と定義しており、「異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく」「たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元) 、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった」と述べている。 (ja)
  • 征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、中原の一部と呼ぶにはかなり微妙ながら、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。楊海英は、鮮卑人とみられる隋と唐も征服王朝と定義しており、「異民族による征服王朝であることがわかっていながら、『偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった』とか、『元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ』と平気で嘘をつく」「たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元) 、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった」と述べている。 (ja)
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  • 征服王朝 (ja)
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