Property |
Value |
dbo:abstract
|
- 本部 朝救(もとぶ ちょうきゅう、乾隆6年10月20日(1741年11月27日) - 嘉慶19年7月14日(1814年8月28日))は、琉球王国の歌人。沖縄三十六歌仙の一人。正式には本部按司朝救と称する。唐名は、向国珍(しょうこくちん)。向氏本部御殿五世。位階は按司。真境名安興の『沖縄一千年史』に、古より最も有名な琉歌の歌人6人のうちの1人に挙げられているが、詳細な経歴は不明。1773年、浄岸院の進香使として薩摩へ上国している。また、同じ三十六歌仙である摂政・や三司官・与那原親方良矩らとともに歌会に参加した記録が残されている。 『古今琉歌集』に10首あまりの歌が伝えられている。恋を詠んだ歌が多い。そのうちの一つに 思きやげも知らぬ 年の寄て渡たる 仲島の小橋 命さらめ が収録されている。 (ja)
- 本部 朝救(もとぶ ちょうきゅう、乾隆6年10月20日(1741年11月27日) - 嘉慶19年7月14日(1814年8月28日))は、琉球王国の歌人。沖縄三十六歌仙の一人。正式には本部按司朝救と称する。唐名は、向国珍(しょうこくちん)。向氏本部御殿五世。位階は按司。真境名安興の『沖縄一千年史』に、古より最も有名な琉歌の歌人6人のうちの1人に挙げられているが、詳細な経歴は不明。1773年、浄岸院の進香使として薩摩へ上国している。また、同じ三十六歌仙である摂政・や三司官・与那原親方良矩らとともに歌会に参加した記録が残されている。 『古今琉歌集』に10首あまりの歌が伝えられている。恋を詠んだ歌が多い。そのうちの一つに 思きやげも知らぬ 年の寄て渡たる 仲島の小橋 命さらめ が収録されている。 (ja)
|
dbo:wikiPageID
| |
dbo:wikiPageLength
|
- 805 (xsd:nonNegativeInteger)
|
dbo:wikiPageRevisionID
| |
dbo:wikiPageWikiLink
| |
prop-en:wikiPageUsesTemplate
| |
dct:subject
| |
rdfs:comment
|
- 本部 朝救(もとぶ ちょうきゅう、乾隆6年10月20日(1741年11月27日) - 嘉慶19年7月14日(1814年8月28日))は、琉球王国の歌人。沖縄三十六歌仙の一人。正式には本部按司朝救と称する。唐名は、向国珍(しょうこくちん)。向氏本部御殿五世。位階は按司。真境名安興の『沖縄一千年史』に、古より最も有名な琉歌の歌人6人のうちの1人に挙げられているが、詳細な経歴は不明。1773年、浄岸院の進香使として薩摩へ上国している。また、同じ三十六歌仙である摂政・や三司官・与那原親方良矩らとともに歌会に参加した記録が残されている。 『古今琉歌集』に10首あまりの歌が伝えられている。恋を詠んだ歌が多い。そのうちの一つに 思きやげも知らぬ 年の寄て渡たる 仲島の小橋 命さらめ が収録されている。 (ja)
- 本部 朝救(もとぶ ちょうきゅう、乾隆6年10月20日(1741年11月27日) - 嘉慶19年7月14日(1814年8月28日))は、琉球王国の歌人。沖縄三十六歌仙の一人。正式には本部按司朝救と称する。唐名は、向国珍(しょうこくちん)。向氏本部御殿五世。位階は按司。真境名安興の『沖縄一千年史』に、古より最も有名な琉歌の歌人6人のうちの1人に挙げられているが、詳細な経歴は不明。1773年、浄岸院の進香使として薩摩へ上国している。また、同じ三十六歌仙である摂政・や三司官・与那原親方良矩らとともに歌会に参加した記録が残されている。 『古今琉歌集』に10首あまりの歌が伝えられている。恋を詠んだ歌が多い。そのうちの一つに 思きやげも知らぬ 年の寄て渡たる 仲島の小橋 命さらめ が収録されている。 (ja)
|
rdfs:label
| |
prov:wasDerivedFrom
| |
foaf:isPrimaryTopicOf
| |
is dbo:wikiPageDisambiguates
of | |
is dbo:wikiPageRedirects
of | |
is dbo:wikiPageWikiLink
of | |
is prop-en:人物
of | |
is owl:sameAs
of | |
is foaf:primaryTopic
of | |