正木 俊光(まさき としみつ、元禄2年閏1月3日(1689年2月22日) - 安永5年4月5日(1776年5月22日))は、日本の江戸時代の兵法家、剣客。剣術では、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫。 大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子である。幼名、田宮民之助。7歳で居合(伝系は不明)を父親に学ぶ。18歳で(弥兵衛。古藤田一刀流3代目)に学び、後に俊定の門人、(平左衛門。唯心一刀流)を師とした。 1713年(正徳3年)、23歳のとき、三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に(金兵衛)に会い、薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた。 俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した。1776年(安永5年)4月5日、88歳で没。大垣船町(現在の大垣市)、常陰寺に葬る。綿谷雪の「日本武芸小伝」には大垣船町の日蓮宗竹経山常隠寺とあるが、船町にある日蓮宗の寺は常隆寺である。 「まさきたろうだゆうとしみつ」の名は正木自身の伝書に「正木太郎大夫利充」と自署されている。

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  • 正木 俊光(まさき としみつ、元禄2年閏1月3日(1689年2月22日) - 安永5年4月5日(1776年5月22日))は、日本の江戸時代の兵法家、剣客。剣術では、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫。 大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子である。幼名、田宮民之助。7歳で居合(伝系は不明)を父親に学ぶ。18歳で(弥兵衛。古藤田一刀流3代目)に学び、後に俊定の門人、(平左衛門。唯心一刀流)を師とした。 1713年(正徳3年)、23歳のとき、三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に(金兵衛)に会い、薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた。 俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した。1776年(安永5年)4月5日、88歳で没。大垣船町(現在の大垣市)、常陰寺に葬る。綿谷雪の「日本武芸小伝」には大垣船町の日蓮宗竹経山常隠寺とあるが、船町にある日蓮宗の寺は常隆寺である。 「まさきたろうだゆうとしみつ」の名は正木自身の伝書に「正木太郎大夫利充」と自署されている。 (ja)
  • 正木 俊光(まさき としみつ、元禄2年閏1月3日(1689年2月22日) - 安永5年4月5日(1776年5月22日))は、日本の江戸時代の兵法家、剣客。剣術では、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫。 大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子である。幼名、田宮民之助。7歳で居合(伝系は不明)を父親に学ぶ。18歳で(弥兵衛。古藤田一刀流3代目)に学び、後に俊定の門人、(平左衛門。唯心一刀流)を師とした。 1713年(正徳3年)、23歳のとき、三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に(金兵衛)に会い、薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた。 俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した。1776年(安永5年)4月5日、88歳で没。大垣船町(現在の大垣市)、常陰寺に葬る。綿谷雪の「日本武芸小伝」には大垣船町の日蓮宗竹経山常隠寺とあるが、船町にある日蓮宗の寺は常隆寺である。 「まさきたろうだゆうとしみつ」の名は正木自身の伝書に「正木太郎大夫利充」と自署されている。 (ja)
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  • 正木 俊光(まさき としみつ、元禄2年閏1月3日(1689年2月22日) - 安永5年4月5日(1776年5月22日))は、日本の江戸時代の兵法家、剣客。剣術では、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫。 大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子である。幼名、田宮民之助。7歳で居合(伝系は不明)を父親に学ぶ。18歳で(弥兵衛。古藤田一刀流3代目)に学び、後に俊定の門人、(平左衛門。唯心一刀流)を師とした。 1713年(正徳3年)、23歳のとき、三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に(金兵衛)に会い、薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた。 俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した。1776年(安永5年)4月5日、88歳で没。大垣船町(現在の大垣市)、常陰寺に葬る。綿谷雪の「日本武芸小伝」には大垣船町の日蓮宗竹経山常隠寺とあるが、船町にある日蓮宗の寺は常隆寺である。 「まさきたろうだゆうとしみつ」の名は正木自身の伝書に「正木太郎大夫利充」と自署されている。 (ja)
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