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- 藤原 孝道(ふじわら の たかみち、仁安元年(1166年) - 嘉禎3年10月22日(1237年11月18日))は、平安時代から鎌倉時代にかけての雅楽師。官位は従四位下木工権頭尾張守に至る。法名は義善房智観。 父は尾張守藤原孝定で、子息に正五位下右馬助孝時・正四位下刑部大輔尾張守孝行ら、女子に大外記の室となり西園寺実兼の母を生んだ讃岐局がいる。 自らの幼少期の経歴を「七歳より百詠をよみ、九歳にて弓をひく、十一歳より笛をこしにさす、十四歳にてはじめて琵琶をまなぶ」と述懐している。琵琶を父と藤原師長に学び、やがて師長に仕え、木工頭楽所預となった。楽器の演奏・製作・修理いずれにも長じ、「管絃音曲の精微を窮す人也」と称された。『体源抄』が示す琵琶伝来の系譜によれば、妙音院太政大臣師長公の血脈を継ぎ、後高倉院・徳大寺公継・久我通光・法眼公審らに伝えた。西流の当主となり琵琶の秘事や口伝を『知国秘鈔』『残夜抄』などに書き記した。 若い頃に秘曲の「啄木」に執心した逸話がある。師長が孝道と同門の藤原定輔に「啄木」を伝授する約束をしたところ、孝道は食事を受け付けないほど病み衰え、見舞いに来た師長が孝道の意を体して「定輔には孝道の西流ではなく、源経信の桂流「啄木」を伝授する」と慰めると、孝道は見違えるように元気を取り戻したという(『古今著聞集』)。 後妻(仁和寺女房)所生の孝経を偏愛した。秘曲を孝時に伝授する琵琶灌頂を孝時が29歳になるまで渋り、晩年には孝時を勘当して嘗て譲った笛を奪還した上、相伝の秘譜・楽器・文書類をすべて後妻所生の孝経と播磨局に譲ったという。 (ja)
- 藤原 孝道(ふじわら の たかみち、仁安元年(1166年) - 嘉禎3年10月22日(1237年11月18日))は、平安時代から鎌倉時代にかけての雅楽師。官位は従四位下木工権頭尾張守に至る。法名は義善房智観。 父は尾張守藤原孝定で、子息に正五位下右馬助孝時・正四位下刑部大輔尾張守孝行ら、女子に大外記の室となり西園寺実兼の母を生んだ讃岐局がいる。 自らの幼少期の経歴を「七歳より百詠をよみ、九歳にて弓をひく、十一歳より笛をこしにさす、十四歳にてはじめて琵琶をまなぶ」と述懐している。琵琶を父と藤原師長に学び、やがて師長に仕え、木工頭楽所預となった。楽器の演奏・製作・修理いずれにも長じ、「管絃音曲の精微を窮す人也」と称された。『体源抄』が示す琵琶伝来の系譜によれば、妙音院太政大臣師長公の血脈を継ぎ、後高倉院・徳大寺公継・久我通光・法眼公審らに伝えた。西流の当主となり琵琶の秘事や口伝を『知国秘鈔』『残夜抄』などに書き記した。 若い頃に秘曲の「啄木」に執心した逸話がある。師長が孝道と同門の藤原定輔に「啄木」を伝授する約束をしたところ、孝道は食事を受け付けないほど病み衰え、見舞いに来た師長が孝道の意を体して「定輔には孝道の西流ではなく、源経信の桂流「啄木」を伝授する」と慰めると、孝道は見違えるように元気を取り戻したという(『古今著聞集』)。 後妻(仁和寺女房)所生の孝経を偏愛した。秘曲を孝時に伝授する琵琶灌頂を孝時が29歳になるまで渋り、晩年には孝時を勘当して嘗て譲った笛を奪還した上、相伝の秘譜・楽器・文書類をすべて後妻所生の孝経と播磨局に譲ったという。 (ja)
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- 藤原 孝道(ふじわら の たかみち、仁安元年(1166年) - 嘉禎3年10月22日(1237年11月18日))は、平安時代から鎌倉時代にかけての雅楽師。官位は従四位下木工権頭尾張守に至る。法名は義善房智観。 父は尾張守藤原孝定で、子息に正五位下右馬助孝時・正四位下刑部大輔尾張守孝行ら、女子に大外記の室となり西園寺実兼の母を生んだ讃岐局がいる。 自らの幼少期の経歴を「七歳より百詠をよみ、九歳にて弓をひく、十一歳より笛をこしにさす、十四歳にてはじめて琵琶をまなぶ」と述懐している。琵琶を父と藤原師長に学び、やがて師長に仕え、木工頭楽所預となった。楽器の演奏・製作・修理いずれにも長じ、「管絃音曲の精微を窮す人也」と称された。『体源抄』が示す琵琶伝来の系譜によれば、妙音院太政大臣師長公の血脈を継ぎ、後高倉院・徳大寺公継・久我通光・法眼公審らに伝えた。西流の当主となり琵琶の秘事や口伝を『知国秘鈔』『残夜抄』などに書き記した。 若い頃に秘曲の「啄木」に執心した逸話がある。師長が孝道と同門の藤原定輔に「啄木」を伝授する約束をしたところ、孝道は食事を受け付けないほど病み衰え、見舞いに来た師長が孝道の意を体して「定輔には孝道の西流ではなく、源経信の桂流「啄木」を伝授する」と慰めると、孝道は見違えるように元気を取り戻したという(『古今著聞集』)。 (ja)
- 藤原 孝道(ふじわら の たかみち、仁安元年(1166年) - 嘉禎3年10月22日(1237年11月18日))は、平安時代から鎌倉時代にかけての雅楽師。官位は従四位下木工権頭尾張守に至る。法名は義善房智観。 父は尾張守藤原孝定で、子息に正五位下右馬助孝時・正四位下刑部大輔尾張守孝行ら、女子に大外記の室となり西園寺実兼の母を生んだ讃岐局がいる。 自らの幼少期の経歴を「七歳より百詠をよみ、九歳にて弓をひく、十一歳より笛をこしにさす、十四歳にてはじめて琵琶をまなぶ」と述懐している。琵琶を父と藤原師長に学び、やがて師長に仕え、木工頭楽所預となった。楽器の演奏・製作・修理いずれにも長じ、「管絃音曲の精微を窮す人也」と称された。『体源抄』が示す琵琶伝来の系譜によれば、妙音院太政大臣師長公の血脈を継ぎ、後高倉院・徳大寺公継・久我通光・法眼公審らに伝えた。西流の当主となり琵琶の秘事や口伝を『知国秘鈔』『残夜抄』などに書き記した。 若い頃に秘曲の「啄木」に執心した逸話がある。師長が孝道と同門の藤原定輔に「啄木」を伝授する約束をしたところ、孝道は食事を受け付けないほど病み衰え、見舞いに来た師長が孝道の意を体して「定輔には孝道の西流ではなく、源経信の桂流「啄木」を伝授する」と慰めると、孝道は見違えるように元気を取り戻したという(『古今著聞集』)。 (ja)
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