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- 野辺 盛忠(のべ もりただ、生没年不詳)は、鎌倉時代に北条氏の代官として本貫地、武蔵国榛沢郡野辺郷(埼玉県深谷市岡部町)から櫛間院一円(宮崎県串間市周辺)に下向し、地頭職を歴任した野邉氏の嫡流家第8代当主。肥後守。 盛忠の父、野辺久盛は、幕府より日向国櫛間院の地頭職をあてがわれ、当地に櫛間城を築き領地の平定化に努めたが、嗣子の盛忠は、建武元年8月、日向国南郷を中心に蜂起した北条氏余党に名を連ね、対外政策に奔走した。建武二年五月十一日の雑訴決断所諜案によると、盛忠は城郭を構え狼藉を致すとして訴えられ、決断所は薩摩国守護島津貞久に城郭の破去等を命じている。しかし、盛忠はその後も宮方(南朝方)として日向南部、大隅方面の各地に勢力拡大を図り、反島津氏の動きを見せている事から、守護職としての島津氏も既に抑えのきかない状況であった事が窺える。本領は櫛間院一円であるが、深川院(鹿児島県曽於市末吉)の地頭職も兼任しており、同地に南朝方の五辻宮守良親王を出迎え奉る等、専ら南朝方武将としての性質を前面に押し出している。 また、同じく宮方の一大勢力であった肝付兼重らと共に大隅国分へも侵攻しており、武家方(北朝)豪族の重久氏らと激しい攻防戦を繰り返すなどしており、後に足利直冬より国分郡田の領地を安堵されている。 晩年は、嗣子の盛房に家督を譲り、深川院の宝寿庵城、末吉城などを拠点とし、本領櫛間院周辺地域の勢力拡大に努めた。弟の盛政は、深川院の代官職を勤め、深川氏の祖となった。 (ja)
- 野辺 盛忠(のべ もりただ、生没年不詳)は、鎌倉時代に北条氏の代官として本貫地、武蔵国榛沢郡野辺郷(埼玉県深谷市岡部町)から櫛間院一円(宮崎県串間市周辺)に下向し、地頭職を歴任した野邉氏の嫡流家第8代当主。肥後守。 盛忠の父、野辺久盛は、幕府より日向国櫛間院の地頭職をあてがわれ、当地に櫛間城を築き領地の平定化に努めたが、嗣子の盛忠は、建武元年8月、日向国南郷を中心に蜂起した北条氏余党に名を連ね、対外政策に奔走した。建武二年五月十一日の雑訴決断所諜案によると、盛忠は城郭を構え狼藉を致すとして訴えられ、決断所は薩摩国守護島津貞久に城郭の破去等を命じている。しかし、盛忠はその後も宮方(南朝方)として日向南部、大隅方面の各地に勢力拡大を図り、反島津氏の動きを見せている事から、守護職としての島津氏も既に抑えのきかない状況であった事が窺える。本領は櫛間院一円であるが、深川院(鹿児島県曽於市末吉)の地頭職も兼任しており、同地に南朝方の五辻宮守良親王を出迎え奉る等、専ら南朝方武将としての性質を前面に押し出している。 また、同じく宮方の一大勢力であった肝付兼重らと共に大隅国分へも侵攻しており、武家方(北朝)豪族の重久氏らと激しい攻防戦を繰り返すなどしており、後に足利直冬より国分郡田の領地を安堵されている。 晩年は、嗣子の盛房に家督を譲り、深川院の宝寿庵城、末吉城などを拠点とし、本領櫛間院周辺地域の勢力拡大に努めた。弟の盛政は、深川院の代官職を勤め、深川氏の祖となった。 (ja)
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- 野辺 盛忠(のべ もりただ、生没年不詳)は、鎌倉時代に北条氏の代官として本貫地、武蔵国榛沢郡野辺郷(埼玉県深谷市岡部町)から櫛間院一円(宮崎県串間市周辺)に下向し、地頭職を歴任した野邉氏の嫡流家第8代当主。肥後守。 盛忠の父、野辺久盛は、幕府より日向国櫛間院の地頭職をあてがわれ、当地に櫛間城を築き領地の平定化に努めたが、嗣子の盛忠は、建武元年8月、日向国南郷を中心に蜂起した北条氏余党に名を連ね、対外政策に奔走した。建武二年五月十一日の雑訴決断所諜案によると、盛忠は城郭を構え狼藉を致すとして訴えられ、決断所は薩摩国守護島津貞久に城郭の破去等を命じている。しかし、盛忠はその後も宮方(南朝方)として日向南部、大隅方面の各地に勢力拡大を図り、反島津氏の動きを見せている事から、守護職としての島津氏も既に抑えのきかない状況であった事が窺える。本領は櫛間院一円であるが、深川院(鹿児島県曽於市末吉)の地頭職も兼任しており、同地に南朝方の五辻宮守良親王を出迎え奉る等、専ら南朝方武将としての性質を前面に押し出している。 また、同じく宮方の一大勢力であった肝付兼重らと共に大隅国分へも侵攻しており、武家方(北朝)豪族の重久氏らと激しい攻防戦を繰り返すなどしており、後に足利直冬より国分郡田の領地を安堵されている。 (ja)
- 野辺 盛忠(のべ もりただ、生没年不詳)は、鎌倉時代に北条氏の代官として本貫地、武蔵国榛沢郡野辺郷(埼玉県深谷市岡部町)から櫛間院一円(宮崎県串間市周辺)に下向し、地頭職を歴任した野邉氏の嫡流家第8代当主。肥後守。 盛忠の父、野辺久盛は、幕府より日向国櫛間院の地頭職をあてがわれ、当地に櫛間城を築き領地の平定化に努めたが、嗣子の盛忠は、建武元年8月、日向国南郷を中心に蜂起した北条氏余党に名を連ね、対外政策に奔走した。建武二年五月十一日の雑訴決断所諜案によると、盛忠は城郭を構え狼藉を致すとして訴えられ、決断所は薩摩国守護島津貞久に城郭の破去等を命じている。しかし、盛忠はその後も宮方(南朝方)として日向南部、大隅方面の各地に勢力拡大を図り、反島津氏の動きを見せている事から、守護職としての島津氏も既に抑えのきかない状況であった事が窺える。本領は櫛間院一円であるが、深川院(鹿児島県曽於市末吉)の地頭職も兼任しており、同地に南朝方の五辻宮守良親王を出迎え奉る等、専ら南朝方武将としての性質を前面に押し出している。 また、同じく宮方の一大勢力であった肝付兼重らと共に大隅国分へも侵攻しており、武家方(北朝)豪族の重久氏らと激しい攻防戦を繰り返すなどしており、後に足利直冬より国分郡田の領地を安堵されている。 (ja)
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