人間関係や仕事などに疲れて、「すべてリセットしたい」と感じることはありますか? ストレス状況に直面するとわき上がりやすいといわれる「リセット願望」。その背景にあるメカニズムや心理状態について、メンタルヘルスの問題に詳しい心理学博士の関屋裕希さんに伺いました。
心理学博士・臨床心理士・公認心理師
東京大学大学院医学系研究科 デジタルメンタルヘルス講座 特任研究員。専門は職場のメンタルヘルス。ストレスチェック制度や復職支援制度などのメンタルヘルス対策・制度の設計、職場環境の改善や組織活性化に関するワークショップ、メンタルヘルスに関する講演・執筆・研究活動を行う。著書に『感情の問題地図』『モチベーションの問題地図』(ともに技術評論社)など。
リセット願望とは、「すべてなかったことにしたい」という大胆な衝動
──そもそも「リセット願望」とは、どのような概念なのでしょうか?
関屋さん 一般的には「何かをリセットしたい」というシンプルな気持ちのことで、「リセット願望」という医学的な用語や定義、特定の症状が存在するわけではありません。よく見られる事例のひとつが、「人間関係のリセット」。例えば「スマホの連絡先をすべて消す・着信拒否をする」とか、「SNSのアカウントを消す・ブロックする」といった行動です。
上司や周囲に何も告げずに退職代行を使って突然辞めてしまうといった「仕事関係のリセット」もあります。こうしたリセット行動に共通する特徴は、衝動的に行われることです。心理学的にいうとストレスからの「逃避行動」の一種で、問題に直面したときの代表的な反応パターンである「戦う・逃げる・何もしない」のうち、「逃げる」を極端な形で選んでいる状態です。
──何か問題に直面したとき、一時的に距離を取るという対処法もありますが、それもある種のリセットですか?
関屋さん 人や物事との距離を一時的に調整する方法は、自分のペースを取り戻すために意識的に行う穏やかな対応。ストレスとうまくつき合うためのコーピング(対処法)だといえます。それに対して、リセット願望は穏やかな調整というよりも、築いてきた人間関係や積み上げてきた実績すら「すべてなかったことにしたい」という大胆かつ衝動的な反応なので、根本的な部分が違うものだと思います。
現代社会は便利な反面、「あいまいなままでいる」力が弱る?
──リセット願望が生まれやすい状況には、どんなものがあるのでしょう?
関屋さん 多くの場合、背景にあるのは強いストレス状況です。例えば、身近な人と揉めて解決の糸口が掴めない、今の職場では自分のやりたいことができない、仕事がうまくいかずミスが重なる、とか。SNSの場合は、炎上やトラブルだけでなく、「いいね」やコメント返しが負担になる、というケースもあります。
こうした日々のストレスに対して、「どう対処したらいいかわからない」「自分で解決できる見通しが立たない」という状態が積み重なっていくと、「リセットしたい!」という気持ちに結びつきやすいのかなと思います。
──どうして問題の解決が「リセット」に結びついてしまうのでしょうか。
関屋さん そこには個人の「あいまいさ耐性」が関係しています。人間はもともと先が見通せない不確実な状況を不快や不安に感じ、それを避けようとする心理的な特性があります。不確実で明確な答えが存在しない“あいまいさ”への耐性が低い人は、答えが出ない状況を脅威に感じて「すぐに解決しなきゃ!」と衝動的・感情的な対処をしやすいといわれています。「リセット」はその表れのひとつだといえますね。
今はネットで検索すればすぐに答えを得られる環境に慣れすぎて、「あいまいさ耐性」が下がっている側面もあります。また、スマホのリセットやSNSの投稿削除など、日常のあらゆる場面で「リセット体験」が手軽にできることの影響もあるだろうと思います。
──社会から受ける影響も関係しているんですね。
関屋さん そうですね。仕事を例にすると、昔は「終身雇用」「石の上にも三年」などの価値観がありましたが、今は転職も当たり前。退職代行サービスを使えば自ら連絡しなくても会社を辞められるなど、環境としてリセットしやすくなっていることも要因としてあるのではないでしょうか。
ただ、人間関係なども含めて世の中にはすぐ答えが出ない事柄もたくさんありますよね。けれど、「あいまいさ耐性」が低くなるほど、すぐに答えを出そうとして冷静に状況を振り返るチャンスを失ってしまう。本当は問題解決ができる可能性があるのに、早々に諦めてしまうことになりかねないんです。
リセット願望と同時に現れる心と体のサイン
──「リセット願望」の裏側に、メンタルヘルスの問題が隠れている可能性もあるのでしょうか?
関屋さん 「リセット願望」が現れるときは何らかのストレス状態にあるため、メンタルヘルス不調の初期サインと重なる部分が多いです。以下のような特徴が現れたら注意しましょう。
【心の変化】
・不安やイライラが増え、気分が落ち込む
・やる気が低下し、人づき合いも面倒に感じられる
・ネガティブなことばかり考えるようになる
【体の変化】
・肩コリ、頭痛、耳鳴り、めまいなどの身体症状
・胃腸の不調
・睡眠の問題(寝つきの悪さ、中途覚醒、早朝覚醒、過眠、昼間の眠気など)
どのタイミングで専門家に相談すべきか迷うと思いますが、実はすごくシンプルで、ふたつの重要な目安があります。
1. 睡眠の問題が2週間以上続いている
2. 好きなことすら楽しめない
特に、好きなことすら楽しめない=それだけエネルギーがなくなっている状態です。心療内科や精神科を受診するのはハードルが高いと感じるなら、かかりつけの内科で相談してもいいので、早めの対応が大切です。
──まわりの人から見たときに、気づきやすいサインがあれば教えてください。
関屋さん 気づきやすいのは、行動と見た目の変化ですね。以下のような兆候が見られることが多いです。
【行動の変化】
・一人でいることが増えたり、孤立したりするようになる
・挨拶しても返事がない、話しかけてもぼうっとしていて反応が鈍い
・言葉の端をとらえて急に突っかかってくる
・急に泣いたり、怒ったりする(感情表現が極端になる)
【見た目の変化】
・身だしなみを整えなくなる(例:寝癖がそのまま、しわのついたシャツ、今までしていたメイクをしなくなる等)
・表情が乏しくなる
・急な遅刻や早退、お休みが増える
・締め切りを守れなくなる
・会議での発言が以前より少なくなる
苦しい状況をリセットしたいと思うのは、心の健全な反応
──状況にもよるとは思いますが、苦しい状況をリセットしたいと思うこと自体は悪いことではないですよね?
関屋さん はい。ストレス状態にいて、なすすべがない中で、リセットしたいという願望が頭に浮かぶこと自体は、言ってみれば健全な反応なので悪いことではありません。
ですが、先ほどお話ししたようにリセットしたいと「思う」ことと、積み上げてきたものを断ち切ってリセット「する」ことの間には大きな差があります。ただし、ハラスメントやDVなど心身の安全が脅かされる状況においては、リセットすることも必要だと思います。
そして、これは個人的な印象ですが、ポジティブな文脈で「リセット」という言葉が使われることは少ないように感じます。例えば、同じ「退職」という行為でも、前向きな決断の場合は「新しいことを始めたい」「挑戦してみる」といった表現になることが多く、「リセットします」という事例はあまり見たことがありません。
──確かにそうですね。「リセットしたい」と思ったときに、それがポジティブなものかネガティブなものかを判断するポイントになりそうです。
関屋さん 心理学では、あきらめにも「いいあきらめ」と「悪いあきらめ」があるという研究があります。いいあきらめは「割り切る」と言い直されたりもしますが、その見分け方は「新しい目標設定ができているか、否か」。目標の設定や調整ができていると、それはウェルビーイングにもつながる「いいあきらめ」だという内容でした。
ですから、もし「リセットしたい」という気持ちがわいたら、自分の中に新しい目標設定があるかどうかを確認してみてはどうでしょうか。「次は何をしたいか」「どう進みたいか」という方向性が見えているなら、それは次に進むための「いいあきらめ」かもしれません。もしそうでない場合は、少し立ち止まって考えてみることも必要かもしれませんね。
イラスト/中島ミドリ 画像デザイン/前原悠花 取材・文/木内アキ 企画・構成/国分美由紀