はてなキーワード: 座禅とは
てめぇら耳かっぽじってよーく聞きやがれ!!
この「坐掃喫歩(ざそうきっぽ)」ってのはな、言ってみりゃ 生きざまそのものだ。細けぇ理屈はあとだ、まずは感じろ!!
朝っぱらからバタバタしてんじゃねぇ。ケツを地べたにつけて、ただ坐る。
呼吸を整えて、くだらねぇ雑念ぶっ飛ばして、脳ミソもスッキリだ。雑魚寝とはワケが違うんだよ。
これは戦だ。己と向き合う、魂の座禅だ。
部屋が汚ぇってのは、心が腐ってる証拠だ!!
雑念もゴミもまとめて燃やして灰にしちまえ!
食うときはな、命をいただくってこった!
だらしねぇ態度で喰ってんじゃねぇぞ。
「五観の偈」忘れんな!食材、命、作った奴らに感謝して、腹の底から噛み締めろ!
ダラダラ歩いてんじゃねぇぞ。大地を感じろ。足の裏からエネルギー吸い上げろ!
これが歩行禅ってやつだ。足を止めたら即死だぞコラ!
てめぇら、わかったな!?
調身(ちょうしん)と調息(ちょうそく)は、心を調えるための大切な準備である。
調息とは、呼吸を整えること。
ゆっくりと深く呼吸することで自然と静まり、今この瞬間に意識を向けやすくなる。
息の出入りを観察し、それと一体となることが勧められている。
調身と調息によって煩悩に振り回されることが少なくなり、思考が明晰になり、慈しみや智慧が育まれる。
これは、安らぎ(サマタ)と洞察(ヴィパッサナー)の基盤となる。
これらの実践は「涅槃(ニルヴァーナ)」すなわち、苦しみからの解放へと通じる道となる。
まず、静かで落ち着いた場所を選ぶことが大切である。床に座る場合は座布や座禅用のクッションを用いるとよい。
坐禅の基本の座り方にはいくつかの形があるが、一般的なものを紹介しよう。
① 結跏趺坐(けっかふざ)
1. 右足を左ももの上に乗せる。
2. 左足を右ももの上に乗せる(両足を交差させる)。
この座り方は最も安定し、長時間座るのに適している。
② 半跏趺坐(はんかふざ)(初心者向け)
2. もう片方の足は床に置く。
これは結跏趺坐よりも楽な姿勢だが、安定感が少し劣る。
足を組むのが難しい場合、正座や椅子に座ってもよい。大切なのは背筋を伸ばし、安定した姿勢を保つことだ。
④ 手の形(法界定印・ほっかいじょういん)
呼吸は深く、自然に行う。特に、息をゆっくりと吐くことを意識するとよい。方法としては、以下のようなやり方がある。
どちらの方法も、呼吸とともに「今、ここ」に意識を向けることが大切だ。
目は完全に閉じず、半眼(はんがん)とするのが基本である。視線は1~2メートル先の床に向け、ぼんやりと焦点を合わせる。完全に閉じると眠くなり、開きすぎると外の刺激に気を取られやすいからだ。
坐禅の目的は、何かを「考える」ことではなく、心を静め、ありのままを観ることである。
禅では「只管打坐(しかんたざ)」つまり、ただひたすら座ること自体が悟りの実践とされる。
急に立ち上がると、めまいや身体の負担が生じるので、以下の流れでゆっくり終える。
2. 両手をこすり合わせ、温めてから膝の上に置く。
3. 頭を少し下げて(合掌するのもよい)、心を落ち着ける。
4. 片方の足をゆっくりほどき、もう片方も解く。
5. 手を床について、ゆっくり身体を起こし、静かに立ち上がる。
初心者は 5分〜10分から始め、慣れてきたら 20分、30分… と延ばしていくとよい。
坐禅を続けることで、次のような変化が現れるだろう。
✅ 心の静寂:雑念が減り、穏やかな心が育つ。
✅ 気づきの力(マインドフルネス)の向上:日常の瞬間に意識を向けられるようになる。
✅ 慈悲と智慧の発展:自己中心的な考えが減り、広い心を持てるようになる。
「坐禅は何のためにするのか?」と考えることもあるかもしれぬ。
雲が流れるように、風が吹くように、ただ坐り、ただ呼吸する。それが、悟りへの道となるのだ。
では、静かに座り、この瞬間に心を向けるがよい。
元増田ではないけど、それは仏教的には退化、というか別物なのでは?
ようは、悟りを目指す上での言語化できない部分の修行が座禅(禅定)なので、言及されているマインドフルネスとしての座禅は、やはり本来の趣旨とは異なっているものかと。
座禅に「目的を持ってはいけない」と言われるのは、執着や欲望を手放すためです。しかし、「目的がなければ座禅をしないのでは?」という問いもまた、真理の探求者として自然な考えでしょう。
ここで考えてみましょう。もし座禅を「何かを得るための手段」としてしまうと、それは取引のようになってしまいます。「悟りを得たい」「心を落ち着けたい」「ストレスを減らしたい」といった目的は、一見よいもののように見えますが、これらに執着すると、それが達成されないときに苦しみになります。仏教では、こうした執着こそが「苦(dukkha)」の原因であると説きます。
しかし、だからといって「座禅をする動機が不要」というわけではありません。最初は「心を静めたい」「悟りを開きたい」という動機で始めてもよいのです。しかし、座禅を続けていく中で、そのような「目的」への執着が自然と手放され、ただ「坐ること」がそのまま完全な行為となる境地へと導かれます。
たとえば、風が吹いて木の葉が揺れるとき、その木の葉は「揺れよう」と考えているわけではありません。ただ、風に身を任せています。同じように、座禅も「目的があるから座る」のではなく、「ただ座る」という行為そのものが、そのままで完全なのです。
矛盾があるように思えるのは、「目的を持たなければ行動できない」という考えが強いからでしょう。しかし、座禅の真髄は、「ただこの瞬間にあること」です。それに気づいたとき、座禅は「何かを得る手段」ではなく、「ただ坐ること」そのものが十分であることに気づくでしょう。
まずは、どのような動機であれ、坐ってみてください。そして、その動機さえも手放し、ただ「今ここにある」ことを味わってみましょう。
「ただ座ること」を目的にするならば、それもまた一つの目的ではないか?という問いは、座禅の本質を深く考えさせるものです。
ここで、「目的」とは何かを考えてみましょう。一般的に「目的」とは、未来のある目標を達成するための意図や動機を指します。しかし、座禅の本質は、「今ここ」に完全にあることです。それは未来の何かを求める行為ではなく、ただ「今、この瞬間」にあることに気づくことなのです。
もし「ただ座ること」が「何かを達成するための目的」になっているならば、それはまだ何かを求める心が残っています。しかし、本当に深く坐ると、「座ること」はもはや手段でも目的でもなくなります。ただ、坐る。そこには「何かを得よう」とする意図も、「座ることで何かになろう」とする期待もありません。ただ、風が吹けば木々が揺れるように、心が静かになれば、ただ座るのです。
この問いは理論ではなく、実践の中でしか答えが見つかりません。ですから、「目的があるのでは?」と考えながらも、まずは座り、そしてその問いすら手放してみるのです。そのとき、言葉では表せない「ただある」という感覚に気づくでしょう。
合掌 🙏
ギャンブルにおける秘匿戦略の優位性は、情報非対称性を利用した収益獲得の理論に帰結する。
しかし、戦略の露呈は模倣を誘発し、収益性を著しく低下させる。
資本主義社会において、ミニマリズムを徹底することは、労働負荷を極限まで削減し、充足感を最大化する戦略となり得る。
だが、ミニマリズムの過度な普及は、消費低迷を招き、経済成長を停滞させ、収入減少を招く恐れがある。
故に、ミニマリズムは個人的実践におけるフリーライド戦略なのである。模倣されないからこそ、最大の利益がある。
ソローはウォールデンにおいて、生活費の厳密な算出と、必要労働量の逆算、そして必要最低限の労働を推奨している。
私の例を挙げれば、社内ニートとしてフルリモートで1日6時間労働により月収20万円を確保し、田舎生活で月10万円の生活費を賄っている。労働時間を4時間に短縮しても十分な余裕がある。
年収800万円以上を目指す場合、労働時間は必然的に増加し、1日8時間労働は避けられない。
幸い、私の趣味は数学、散歩、座禅であり、消費を必要としない。消費社会に惑わされる必要はない。
「パーカーおじさん」と揶揄されようとも、そのスタイルを貫けば、衣服購入の必要性は皆無である。食事も、家庭菜園の野菜と質素な食材で十分満足できる。
ユダヤ教と禅(禅仏教)は一見すると異なる宗教伝統ですが、意外な共通点も多くあります。
どちらも深い精神性を持ち、内面の探求を重視する点で共鳴する部分がありますね。いくつかの共通点を挙げてみましょう。
禅といえば座禅(瞑想)が中心ですが、ユダヤ教にもהתבוננות (Hitbonenut, 内省)やהתבודדות (Hitbodedut, 孤独な祈り)の実践があります。
例えば、ハシディズム(חסידות)では、自然の中で一人になって神と語る習慣があり、これは禅の「只管打坐(しかんたざ)」に似た側面があります。
どちらも「今この瞬間」に意識を向けることが大切です。
禅では「公案(こうあん)」という、論理的には答えが出せない問いを使って悟りを得ようとします(例:「一つ手で打つ音とは何か?」)。
ユダヤ教でもタルムードには、相反する意見が並べられることが多く、「両方とも正しいかもしれない」とする考え方があります。
有名な例では、ヒレル派とシャマイ派の議論があり、「これはこれで正しく、あれもまた正しい」という精神が根付いています。
ユダヤ教では、「神との関係はシナゴーグ(בית כנסת)だけではなく、日常生活の中にある」と考えます。
食事をする前にブラッハー(ברכה, 祝福の言葉)を唱えたり、仕事や家庭生活を通じて神聖さを見出すことが大切とされます。
これは禅の「作務(さむ)」の考え方と似ており、掃除や料理といった日常の行動そのものを修行とする点と共鳴します。
禅では「無駄を削ぎ落とし、シンプルな生活をする」ことが美徳とされます。
ユダヤ教でも、物質主義にとらわれず、質素な生活を尊ぶ伝統があります。
例えば、ハシディズムの教えの中には「少ないもので満足し、それに感謝する」ことを強調するものが多く、禅の「足るを知る」という思想と通じるものがあります。
禅では、「言葉や理論ではなく、実際に体験することが大切」とされます。
朝だ、起きやがれ野郎共!水でも飲んで、ランニング行ってこい!帰ってきたら水浴びだコラ。今日も一日、気合を入れろ!日曜だが、容赦しねぇぞ
てめぇら、耳の穴かっぽじってよく聞けや!日曜だからって寝てんじゃねぇぞ。世の中甘くねぇんだよ。休みの日こそ自分を鍛える絶好のチャンスなんだよ、バカヤロー!
ランニングから帰ってきたら、腹筋500回、腕立て300回、スクワット1000回だ。「きつい」だの「無理」だの言う奴は、今すぐ荷物まとめて出てけ!甘ったれは俺のジムには必要ねぇんだよ。
飯は?タンパク質たっぷりの鶏むね肉と生卵3個だ。野菜?贅沢言うんじゃねぇ。ブロッコリーでも食ってろ。
午後からは精神修行だ。滝に打たれながら座禅を組め。寒いだの痛いだの言う奴は、今すぐ出ていけ!弱い奴は価値がねぇんだよ。
夜になったら、今日の反省会だ。一日中何をやってたか、細かく報告しろ。サボってた奴は容赦なく制裁を加える。覚悟しておけよ。
明日からは更にハードになるからな。今のうちに心の準備しとけよ。てめぇらの限界なんて、俺が決めてやる。さぁ、今日も精一杯しごいてやるから、覚悟しろや!
日弁連総第48号
2020年(令和2年)1月24日
黒羽刑務所長 友 繁 俊 和 殿
貴所が,余暇時間帯に申立人が瞑想を除くヨーガを行うことを禁止したことは申立人の余暇時間を自由に過ごす自由を侵害する。よって,当連合会は,貴所に対し,単独室に収容されている被収容者が余暇時間帯にヨーガをすることを一律に禁止しないよう勧告する。
黒羽刑務所における余暇時間帯の行為(ヨーガ)の制限に関する人権救済申立事件
調査報告書 2020年(令和2年)1月16日
事件名 黒羽刑務所における余暇時間帯の行為(ヨーガ)の制限に関する人権救済
申立事件(2014年度第11号)
受付日 2014年(平成26年)4月17日
申立人 A
第1 結論
申立人が余暇時間帯に瞑想を除くヨーガを行うことを相手方が禁止したことは,申立人の人権を侵害するので,相手方に対し,単独室に収容されている被収容者が余暇時間帯にヨーガをすることを一律に禁止しないよう勧告すべきと思料する。
2 2012年(平成24年)11月12日,申立人は,相手方所長に対して,「礼拝許可願」と題する願箋を提出し,以下の行為の許可を求めた。明け方 ①太陽礼拝のポーズ,②頭立ちのポーズ及び③瞑想(以下①から③までを「本件行為1」という。)夕食後 ④コブラのポーズ,⑤弓のポーズ,⑥肩立ちのポーズ及び⑦はしのポーズ(以下④から⑦までを「本件行為2」という。)
①太陽礼拝のポーズ:立った状態で両手を上に上げながら体を伸ばした後,うつ伏せになり,腕立て伏せのようにして上半身を反る。②頭立ちのポーズ:頭頂部及び両手の平を床につき,両足を真上に伸ばして倒立する(三点倒立)。③瞑想:座禅のように座りながら目を閉じる。④コブラのポーズ:うつ伏せの状態から,腕立て伏せのようにして上半身を反る。④ 乳首を6本に生やす儀式。⑤弓のポーズ:うつ伏せの状態から,両足首をそれぞれの手で持ち,体を弓のように反る。⑥肩立ちのポーズ:後頭部及び両肩を床に置き,両足を真上に伸ばして倒立をする。⑦はしのポーズ:仰向けの状態から,両手の平及び両足の裏を床につき,体をブリッジのように反る。
10 申立人は,子どもの頃からヨーガを行っている,ヨーガは宗教であり,毎日の作法,礼拝は重要であり欠かせない,一人で静かに行うので,単独室で行っても周りに迷惑になることもない,それにもかかわらず,余暇時間にヨーガの重要な姿勢をとることを制限禁止されているのは人権侵害であり,制限を取り消してもらいたいと主張する。
1 刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(以下「法」という。)67条は,被収容者が一人で行う宗教上の行為について,原則として,禁止し,または制限することができない旨規定している。ただし,被収容者が一人で行う宗教上の行為であっても,多数の被収容者を収容し,その収容を確保し,その処遇のための適切な環境及び安全かつ平穏な共同生活の維持を必要とす刑事施設の特殊性,被収容者の戒護に当たる刑事施設の職員の配置や宗教上の行為を行うことが可能な場所には一定の制約があることなどからすれば,全く無制限な自由としてこれを認めることはできず,そこには一定の限界がある。
普段、このような場所に文章を書き記すことは全くないが、今後の生活について何かアドバイスを頂けたらと思い、非常に長ったらしい文章を認めることにします。こうしたオープンな場所で文章を書くことは承認欲求を満たすためなのではないかと思われる方もいるとは思いますが、自分はそうした欲求を満たすことを目的に、こうした開かれた場所に文章を晒すのではなく、ただ純粋に他人から意見をもらうという行為が今の自分に必要だと思ったから、今こうしてここに文章を書き記すことにしたのです。これまでの人生で自分は自分の考えや気持ちを他人に伝えて、他人からアドバイスをもらうという経験をしたことが全くといってよいほどありません。いつも自分の頭だけで物事を考えて自分一人で決断を下してきたため、自分のとった行動が他人の目にどう映っているのか、また、それは社会的に逸脱しているのかというようなことを知る機会がありませんでした。なんせ非常に自己完結的な生き方をしているわけですからそれも当然です。一般的にいうと他人の意見に惑わされずに自分の頭で物事を考えて自分の意志で行動に踏み切るのはそれほど悪いことではないと思われるかもしれません。しかしながら、あまりに自己完結的、自閉的で、自分の世界の中だけで生活が閉じていると、自分が社会や他人からどのように見えているかを知る術を見失ってしまいます。前まではそのことについてそれほど深く気には留めなかったのですが、今ではそれは良くないことだと思っています。なので、匿名の立場ではあれ、ここで助言やヒントが頂ければと思い、一念発起して今ここに文章を書き留めることにしたのであります。
早速、本題に入ります。自分がアドバイスいただきたいのは今後の生活についてです。今後どういう生き方を選択するのがベストなのか、また、その自分がとった選択は一般的にみて危険な選択なのかというようなことが知りたい。こんなのは一般化できるものではなく、個人の性質や考え方によって解釈に違いがあるのだから参考にならないことは分かっています。しかし、それでも他人の意見が聞きたいのです。
まずはじめに自分はごく一般的な世間の価値観とは大きく外れた人間であることは十分理解しています。自分を客観的に視ると、どうみても自分は社会の価値観からずれていて、その枠組みの中で他人とうまく強調しながら生きていくのが難しいです。自分がそう考えるのは以下の理由によります。
自分は生きようとする意志が非常に希薄な人間です。自身の内部から生きようとするエネルギーが全く湧いてきません。多くの人は外的刺激を受けて自然に「何かをしたい」という意志をもって様々な行動に取り組んでいるのだと思いますが、自分はこの外的刺激を受けて「何かをしたいという欲求」が発生しにくいです。ですから、生命維持のために必要な最低限度(食事、入浴、排せつなど)のことにすら取り組むのが難しいです。生活を続けるのは面倒ですが、積極的に死にたいという欲求があるわけでもないので、自分の体に鞭を打って無理やりこれらの作業を行っていますが、内心非常に面倒な作業であることには変わりありません。今はこうして無理にこれらの作業を行っているため、生命活動を何とか維持できていますが、もし自然に身を任せてしまえば、本当に何もしなくなるだろうと思います。それはまさに廃人状態であり、この状態が長く続けば、いつかは死に至るかもしれません。
こうした性質を抱えているため、一般社会の中で社会参加をして他人と共に生活していくのが難しいです。生活するにはいくらかお金は必要で、そのためにはどうしても仕事をしなければなりません。そこでどこかの会社に応募して面接をする必要があるのですが、そこで聞かれる、働く動機や今後どのようなキャリアプランを築いていきたいか、どういう風に成長していきたいかなどへの応答がとても難しいです。先述したように、生命維持のための最低限度のことをこなすのがやっとであるので、それらは自分にとって意味を為さない質問です。もっと簡単に仕事に取り組めればいいが、社会に出て仕事に従事するにはこんな面倒なやり取りをしなければならないのかと思うと、社会の中で生きるのはとても面倒なことであるのがよくわかります。
自分も他人と同様、社会の中で生存している一人の人間であります。そして社会生活を営むには、身の回りの物を自分の世界に取り込み、それを活用していく必要があります、そうした物を所有するには外へ出て買い物をする必要が当然ながらあります。自分も生活者の一人であるため、スーパーやコンビニへ行って買い物をするのですが、実際に店舗へ足を運んでも何を買ったらよいのか全く分かりません。物を選ぶという行為を遂行することができず、呆然と立ち尽くしていることが多いのです。しかし、何も買わずにいると生活が回っていかないので、無理に「自分はこれが欲しいのだ」と自分に言い聞かせて、それほど欲しくないものを買って買い物を済ませることが多いのですが、これは自分の内側から自然に発生した感情に基づいて行動しているわけではないので、純粋に買い物という行為を実行できているわけではありません。その行為は嘘と欺瞞で満ち溢れています。
どうして物を選ぶことができないのか、その理由を自分で考えてみたところ、次の二つの理由があるからこそ、自分は物を選ぶことができないのではないかと考えました。
①身の回りの物を所有し、それを活用することでこの世界を生き延びたいという欲求そのものが希薄であるから
①に関していうと、実店舗に足を運んで色んなものをみても、心が揺さぶられるようなことはありません。この世界には種々雑多なものが存在し、人の心に絶大な影響を与えているというのに、自分はそのどれを見ても心の内に備わっている感情センサーが反応しません。これは自分が生活に必要な物を所有し、それを活用することで社会の中で生き延びていきたいという欲求に欠けるからなのではないかと思いました。そしてそれをもっと深堀していくと、最終的には「生きる力が弱い」から物を選択できないのではないかと考えました。
②に関しては、身の回りの物が自分の生活にとって不要なものになったからではないかという考えです。身の回りの物は生活と非常に大きな関わりがあります。この世に存在する様々なものは生活と密接に結びついていて、生活と分けてその存在意義を考えることはできません。例えば、衣服は体温調節や外部からの攻撃を守るといったように生命維持と大きく関わりのあるものですし、ペンは自分の考えを伝達して周りと共存していくために必要なものであります。こうしたように身の回りの物は生活があるという前提があるからこそ、社会の中で存在意義を持ちます。この世界に誕生意義をも持ちます。もし生活というものがなければ、これらの物は世界に存在する必要がありません。存在意義すら持たなくなります。自分が物を選択することができないのは、自分に生活というものがなくなったからではないか、自分が生活と切り離されているからではないかと考えました。あくまで仮説として考えているだけで、実際のところはよくわかりません。ただ欲求が乏しいだけかもしれないし、物事全般に関心のない人間だからなのかもしれません。
3.人や社会と繋がりを持ちたいとは思えない
第三に、人や社会と繋がりたいという欲求が皆無です。現時点では、人や社会と繋がりたいという欲求が全くありません。そうした感情が自然に湧いてくることもほとんどないです。ですので、必然的に人と関わりのない生活を送りがちになってしまっていますが、外部とのつながりがないことによるネガティブな感情体験についてはさほど心配していません。それよりも、こうした性質を抱えながら人や社会とどのように付き合っていけばよいのかということに自分は頭を悩ませています。どれだけ社会的欲求が希薄であってたとしても、人間が社会の中で生活していくには最低限社会の中で他人と関わる必要があります。けれども、自分は対社会的欲求や対人欲求がない人間であるため、どうしても他人とのコミュニケーションの負担が大きく、仮面を被って人と接触せざるを得ません。しかしながら、持続的に仮面を被って社会に溶け込む生き方はとても続ける気にはなりません。何より精神的負担が大きいですし、そうやって社会に溶け込んでいる自分を好きになることもできません。もっと自分に人間らしい部分が備わっていれば、人とのコミュニケーションもさほど大きな負担にはならないのでしょうが、人間らしい部分があまりにも少ない人間であるため、人間のふりをしてその場をやり過ごすしかないです。これはとても疲れます。ですので、一般的なルートに乗って生活することは、現時点ではあまり考えていません。
以上のことから考えると、どうみても自分は社会の中でうまく生きていける人間ではないです。一般的なルートを経て人生を歩んでいくのは何か違うのではないかという気もしています。これまでは無理をして大多数の人が歩んでいるようなルートに乗って生活をすることに努めてきましたが、結局、無理が嵩じて精神的に疲弊していくことが多かったです。ですので、何か別の生き方を模索しているのですが、今のところ、どの道が良いのかさっぱり分かりません。暗いトンネルの中で右往左往しながら光の扉を見つけているのが、今の率直な心境です。
現時点で考えている生き方
3.社会や他人との接触を最小限に留め、最小限度のお金でひっそりと生活する
映画やアニメが好き、読書が好きって冷静に考えると趣味の説明として大雑把過ぎる。前々から思ってたけど。
実際おれも「映画が好き」という認識は普通に持ってるけど、じゃあどんな映画もあまねく好みかと言ったら別に全然そんな事はない。
あとそもそも答え方として変な気がする。それって媒体でしかない訳で。
ギターが好きは分かる。ギター演奏はギター演奏でしかなくて、それはまあ心地良い音を出す事のがほぼ唯一の目的だろうから。サッカーが好きもそう。サッカーはサッカーでしかない。サウナもスニーカー集めも座禅も同じ。
でも映画や本って違う。
フィクションでもドキュメンタリーでも解説でも何でもいいけど、とにかく何らかの題材がなければ何も始まらない訳で、メディアはその表現手段に過ぎない。目的ではない。
まあ題材なんて何でもよくて、そのメディアに接するのが好きというのもありえなくはないかもしれない。
内容は何でも良いから映画を垂れ流しソファでゴロゴロするのが好き、とか。ただそれはもう映画というよりリラックスするのが好きとでも言った方がより的確な気がする。
コレクションの対象として本が好き、みたいに情報を伝達するツールではなくモノとして見るなら、それはスニーカー集めみたくそれ自体に価値が発生するかもしれない。でも「本好き」と聞いて、常識的に考えてそういう楽しみ方を想定するだろうか。
積極的に内容を脳みそに入れる体験を伴う限りは、やっぱりメディアは常に手段としてあるんじゃないかなって思う。
上手い例えが思いつかないけど、箸を使うのが好きです、とかスプーンを使うのが好きですって言ってるようなもんじゃないか?映画や本が好きって言うのって。
普通は食べ歩きが好きです、こんな料理を食べるのが好きです、って言うと思う。
となればフィクション(じゃなくてもなんでもいいけど)が好き、という前置きをした上で、その表現手段とての映画が好きなんです、とでも言った方が的確なのではなかろうか。
どんなストーリーだって誰かの頭の中を漠然と漂っているだけではこの世に存在しないも同然で、それを言葉に起こして初めて脚本になる。言葉というメディアなくして世界には存在出来ない。
それを言葉のまま小説にしてみるか、あるいはアニメーションや実写映像に変換してみるか。メディアごとに特性というものがある。
あえて言葉でだけ伝えた方が読み手の想像力を掻き立てるかもしれない。
斬新な世界観に、まだ誰も見たことがないような映像をつければ衝撃を与えられるに違いない。
TVアニメなら短めのを何本も、映画なら数時間をまとめて一本ドンと、という利便性の違いなんかもある。
フィクションでなく社会現象の分析に関するアイデアだったのならわざわざ映像をつける必要もない。
メディアとそれを通じて得られるアイデアは互いに不可分で、その存在形式はしばしばアイデアの性質を反映する。
なら趣味をメディアの種類で語るのも、必ずしもナンセンスという事にはならないんだろうか。
でもやっぱ映画という媒体に先んじて具体的な中身の方が大事な気もする。好みも青春作品やヤクザ映画やSFアクションとかに偏ってるし。ミュージカル映画なんてまるで観る気がしない。
でもでもやっぱり好きなタイプの物語を映画というメディアでコンパクトに、目にも楽しく享受するのが好きって気持ちもある。アクションとか絵面の外連味を期待している時なんかは、内容にはさほどこだわりがない気もするし。もちろんマトリックスみたいに画も話も良ければ最高だけどね。
アニメなんかは更にメディアとしての特性に魅力を感じる。完璧に偽物の世界の中で、全てが等しく本物として存在するのはやっぱ美しいよね。そこに美しさを感じる。
映画のCGなんか、なるべくそれがそうであると気付かないようにあって欲しいと思ってしまうし。本物の人間が架空の人格を演じていたりするし。
あとシンプルに萌え萌えキャラクターは実写の人間の映像からは決して得られない感情を呼び起こしてくれる。
もちろん内容も気にはなるけど、アニメはアニメというだけで愛してしまう節があるかもしれない。
おれに限って言えば、特定の傾向の物語、及びそれに付随する必選の表現手段として映画ないしアニメの形態が好き。