はてなキーワード: ピタとは
A子と会うと、高確率で始まるのが彼女の不倫話だ。しかも、それをまるで輝かしい武勇伝のように語ってくる。「彼がね、こないだこんなサプライズしてくれて」「奥さんには悪いけど、私たちは本気だから」みたいな。こっちは「へー」「ふーん」としか返せないのに、本人は恍惚とした表情で語り続ける。
最近気づいたんだけど、この不倫武勇伝が披露されるのは、私がその相手の男と全く面識がない場合に限られるっぽい。
もし相手が私たちの共通の知り合いだったり、私がなんとなくでも顔を知っているような相手だったりすると、A子はその手の話を一切しない。ピタッと口を閉ざす。
私が知らない、完全にA子のテリトリー内の男との関係だけを、なぜか私相手にだけ詳細に語ってくるんだよな。私が相手を知らないから、罪悪感とか気まずさとかを感じずに、純粋なロマンス(?)として語れるんだろうか。
聞かされるこっちは、正直「知らんがな」としか思えないんだが。まあ、こっちもこうやってネタにしてるから、ある意味お互い様なのかもしれないな(白目)。
まずまとめ
万博、事前に予習せずに行ったら、想定してた内容と違ってた。悪い意味ではないんだけどね。
自分は見知らぬ国について知りたいねワクワクと思ってたけど、自国の紹介をしていたのは半分くらいだったイメージ。残りは自国の目指す未来のイメージみたいな紹介をしていて、みててパッションは伝わるのだが、どんな国なのか伝わってこないな…という印象を受けた。つまり自分は博物館や展示会をイメージしてたんだけど、ちょっと違ったなという感じ。
あと、めちゃ並ぶから、対策はした方が良い。列に日陰がないので、帽子とかはあった方が良い。さらにだけじゃなくて、暇つぶし。スマホでもいいけど、文庫本持って行って正解だった。まぁ、こういうのは一人でいくんじゃなくて一緒に待ってても楽しめる相手と行くべきなんだろうけどね。。。。。。。
それと、トイレ問題はやっぱりある。想定よりはトイレの量が多いけど、でもやっぱり少々辛いかも。。。
総合評価としては、楽しかった。年パス買おうか悩んでる…ってところ
-----
さて、まず11時予約だったけど、色々あって11時40分頃に舞洲駅につく。そこから歩いて、45分には列に。11時入場列で空いてはいたけど、列は出来てて全然進まない。今日は涼しかったから良いけど、それでも窓無しでコンクリートの上で、ジリジリ焼かれる感じ。これ、夏場はコミケで東駐車場に並んだ時みたいになるだろうな。。大丈夫かな。。とか考える。
それで、リング、これが大きい。おぉおーってなった。いろいろいわれてたけどこれはすごい。。ってなった。
通り過ぎて、まずほとんど列に並ばなくて済む、フリー入場のコモンズってのにに入った。いろいろな国の展示を見て回った。南アメリカの国々とか、聞いたこともないような国もあって、はえーって勉強になった。
元々中東あたりの歴史に興味が強いので、イエメンの闇市みたいな店で交渉して買い物とかした。楽しかった。イスラエルにユダ王国の頃の岩があって、おぉーとなった。
その後、予約してたセルビアに行ったんだけど、遊びをテーマにした展示で、子供向けとまでは言わないけど、なんというか期待外れだった。ただ、セルビアのカフェのピタが美味しかった。ワイン飲もうと思ったけど、グラスワインがカリフォルニアワインで、セルビアのワインはボトルだけって言われてやめた。
その後お隣のウズベキスタン館に並んで入った。30分は並んだか。少し日焼けしたかなくらい。展示は正直微妙。
そのあと散歩して、別のコモンズを見に行く。パレスチナの展示をみて悲しくなる。モンゴルの展示をみて、あれだけ栄えてたモンゴルはどうしてこうなったんだ。。とか思う。モンゴル史の内容はよかったけど、今のモンゴルがどうなのかとかは知りたかったな。
その後予約してたクウェートへ。長蛇の列だったから予約してて良かった。内容はまぁまぁ。ちょっと子供向けかな。。という印象。ヘレニズム硬貨の紹介とかあったけど実物みたかったな。。とも思った。良いデザインのお土産かった。そうそう、お土産屋さんが入ってるパビリオンが多くて、旅行してる気分になれて良かったよ。
そしてぷらぷら歩いてたら、トルクメニスタン館が並んでたけど列がスムーズだったので入った。10分くらい。ここは当たり。面白かった。
その後ポルトガルへ。ここも15分くらい並んで入れた。自分の中でポルトガルって後ウマイヤ朝と大航海時代しかなかったから、海洋国家であるということをアピールしてて、おぉ〜こういう話がききたかったんだよ〜ってなった。かなりよかった。
それで、ポルトガル館でたのが17時頃だったんだけど、レストランがあって、列ができててなんとなく並んでみた。17時45分に入られた。ポルトガル料理とワインをいただいて、良かった。ポルトガル料理食べたことないからわかんないけど、味が日本ナイズされてなくて、調理場が見えてポルトガル人がちゃんと料理つくってて、おぉこれが本物かとなって、楽しかった。グラスワインもポルトガルワインだった。
暗くなると列が短くなってたので、バーレーンに入ってみたら、大当たり。こういう国の歴史とか特徴とか聞きたかったんだよ〜〜〜!!!ってなった。パンフレットもくれた。でもお土産は微妙だったので買わなかった。ごめんなさい
日が沈むと寒くなってくる。一枚羽織るの持ってきてて良かったとなる。
その後予約してたブルーオーシャンドームってのに行った。これ全然期待してなかったんだけど、非常によかった。終わったのが20時くらいで、この頃になると列がもうなくなってすぐに入られるようになっている。
歩いてて呼び込みしてたインドネシア入ったら良かった。インドネシアは文化とかを伝えてくる感じだったんだけど、あんまり詳しく説明はなく、これも博物館とは違うんだな。。となった
その後サウジアラビアに入った。今のサウジアラビアのことはわかりづらいのだけど、未来に向けて進むぞ!ってのがめちゃ伝わってきて、良かった。未来だね。
この時点で21時。外へ出るとドローンショーをやって、すげーってなった。パビリオンが閉まり始めて、帰るかとなった。お土産見ていきたいなと思ったんだけど、店も閉まり始めてるのと、いわゆる普通のお土産屋さんみたいなのがどこにあるのかわかんなくてそのまま帰り道へ。
東ゲートのところで年パスの割引券配ってたから並んで貰った。その後駅まであるく。列にはなっているが、止まることはなかった。ゲートから15分くらいで朝の埼京線みたいになった地下鉄に乗れた。
一番良かったのがバーレーン。ポルトガルも良かったけど、飯と酒補正が入ってる。
逆に、何なのコレ。。ってなったのがセルビアとウズベキスタン。
駄目なところとしては、チケットアプリの出来が悪すぎる。アプリでチケットが見られない。アプリから外部サイトにつながって、チケットを表示させる。これが二段階認証だけど、気づいたらログアウトされるから、何回もログインすることになる。サイトの表示も微妙で、どこからチケットが見られるのか何回開いても直感的にわからない。そして会場では当日チケットを申し込めるんだが、どこが何時にあいてるのかとかがぱっとわからない。
他人に自分の辛さを言うのが好きではないのだが、どうしてもしんどくて吐き出したい。
鬱で休職。
自発的には何もやる気が起きなくて、目が覚めて食事して二度寝して食事して寝ての繰り返し。
ただのクソ製造機。
昔好きだった元気や勇気を貰った漫画やアニメに手を出してみても、すぐにやっぱりいいやと投げてしまう。
頭が重くて息が苦しい。
でもそれは我慢できる。
自発的にやる気が起きないだけで、たとえば通院だとか、友人から食事に誘われるだとか、決められた時間に決められた場所が指定されれば概ね問題なく行動できる。
だから動ける。
「鬱じゃなくて怠惰じゃね?」
「かといって今復職出来る気はしない」
「どうしてこんなことになってしまったんだろう」
と益体もない自問自答で毎日苦しい。
もう100社以上書類で落ちた。
面接すらしてもらえない事実に、私の経歴なんて他所では使い物にならないレベルなんだと悲しくなる。
イイネをするのもマッチングするのもメッセージするのも、何もかも面倒くさいが、一度お金を払ってしまったので惰性で覗いている。
たまに趣味が合いそうな人にイイネをしても、すげなくスルーが当たり前。
珍しくマッチングしてもメッセージが億劫で、相手も受け身だし、結局自然消滅。
これに関しては私に非があるのは承知だが、世の中の異性からも相手にされてないと思うととても情けなくなる。
社会からも異性からも相手にされない低レベルな私にも数少ない友人はいる。
ただその少ない友人に低レベルな一面を見せて嫌われたら、去られたらと思うと苦しくて、絶対に辛いだなんて言えない。言わない。
身体にも影響が出ている。
よくある症状の頭痛やら吐き気は薬のお陰で収まっているが、その薬の影響で20kg太った。
医師に相談して薬を変えたらピタッと過食が止まったが、今は舌と、左手の小指と薬指がずっと痺れている。
まだ医師に相談してないので薬との因果関係はわからないが、どうしてこうなんだろう。
あと、そう、これだけつらつらと書き連ねられているように、文字を打つことはなぜかできる。
よくわからない。
どうして上手くいかないんだろう。
子どもの頃に漠然と思い描いていた、大きくなったら普通に働いて普通に結婚して普通に子供が出来て、という「普通」がこんなにも難しい。
でも周りはその「普通」ができている。
だからとても情けない。悲しい。
これだけ辛い辛い言ってるけれど、死ぬのは物凄く怖い。絶対死にたくない。
こんな駄文読んでる人がいるかわからないけれど、どっかの誰かが匿名で辛い辛い言ってもしかして死ぬんじゃないかだなんて心配だけはしなくていい。
ほんの少し楽になった気がする。
まともになりたいなあ。
頑張りたいなあ。
無料漫画を積極的に読むようになってから「漫画読むのに忙しい」という状態になってるのがバグとしか思えない。前は匿名掲示板とかにも結構入り浸っていたのが時間無さすぎてピタっと辞められたから結果的に人生は豊かになっている。
ゲームも全然遊べてなかったんだけどゼンゼロの期間限定報酬が今週までの奴が溜まってたから一気に片付けた。でも最近は忙しくてデイリーこなして育成アイテム集めしてないから報酬とかどうでもええやんって感じはあるね。
コンテンツに金払うの封印した今の方が娯楽の密度高まってるの本当にバグだ。
絵のイメージと内容が全く違う。ずっと「医龍の人って今回は恋愛モノにしたんだ」と考えてた。恋愛要素がないわけじゃないけどベースはサスペンスミステリーじゃん。幽麗塔と同じ系列じゃん。見かけに騙されて自分が読む必要のない漫画リストに入れてしまっていた。次からは気をつけよう
YouTube見ないお前さん向けにまとめてあげると
・縫製は職人の技術と手間。底のあるカバンは底を外から縫いつけるより内側から縫って裏返す方が手間がかかる。ステッチ縫いがぐるっと一周回った時にピタッと位置が合わさるかそうでないか(ズレる)は職人の腕。持ち手の細さも。
https://youtu.be/CjhMJHEM5Hk?si=ZMxvyMCZuhajvTPr
職人のもらえる手間賃が売値の1割とすると、もらえる金額3000円と3万円ではやれることやかけられる時間がだいぶ違うって言ってたけど、1割しかもらえんの辛いなと思った。職人さんすげーわ
増田よりレベルは低いからまずはここまで色々やってきたことを尊敬する
大抵のことは始めてみれば「未経験の人に比べたらそれなりに出来ます」のレベルにまで割とスムーズに行くけど、成長曲線がスタートダッシュ全振りすぎて途中でピタッと鈍化するせいで、一歩づつ着実に成長していく場合よりも「自分はここまでなんだ」感が強くなるんだよな
手法やセオリーと言った基礎を習得するのは得意だけど、その先の応用に行くのが致命的に苦手なタイプ
結局「それが楽しくて楽しくて仕方ない」みたいな奴かよっぽどそれに向いている奴じゃないと、その道で上には行かないことに気づいて、最近は一芸を身につけることを諦めた
プログラミング、小説、音楽、Webサービス作り、動画編集、ブログ、オンラインゲームの全ての経験が活きてくる
基礎はあるからあとは手を動かすだけだ
各工程でプロになることは出来ないかもしれないが、これだけのことを一人で全部やれたらそれはプロと同じくらい凄いことだと思うし、インディーゲームの世界は一本でも完成させたら立派なゲームクリエイター
ゲームに限らず、こういうディレクターやプロデューサー系は、関係するセクションの知識を幅広く持ってるジェネラリストはかなり強みだし、もしかしたら仕事への道も開けるかもしれない
もしも増田にまだもう一度何かをする意欲があるのであれば、ぜひ挑戦してみてほしい
ソクラテス: プラトンよ、君はクリーニング店でもらうプラスチックの黒いハンガーが使いやすいと感じたことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はサランラップの端がピタッとなってしまって取れなくて結局捨ててしまった経験はないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はホットカルピスという概念を知った時「カルピスを温めて美味しいのか!?」といぶかしく思ったことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はスキーに行った時ヒートテックを着てたら逆に暑すぎて困ったことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はカラオケでスピッツのチェリーを歌おうとしたら意外とサビが高くて恥ずかしい思いをしたことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はエリクサーをラスボス戦まで温めておいて結局使いきれなかったことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はドリンクバーで複数のジュースを混ぜて飲んでみたが美味しくなかった経験はないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はトイレットペーパーの芯を交換した後、その芯を捨てる場所を思わず探してしまったことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君は渾身の増田が全くバズらず、適当に書いた増田がバズって腑に落ちなかったことはないか?
ソクラテス:プラトンよ、君はコンビニで肉まんを頼む時、安い方と高い方をどうやって言葉で言い分けたらいいか迷ったことはないか?
世間では「時間停止もの」なんて言ったところで、どうせ大半は撮影テクニックや編集、もしくはカメラ外での演出トリックで作られた“疑似”現象にすぎないと思われているらしい。実際、ネットの掲示板や動画サイトのコメント欄を見ても、「いやいや、絶対こんなの嘘だろ」「カメラが止まってる間に位置調整してるだけじゃん」といった声が大半を占めているわけだ。俺だって、そういう意見や憶測が出ること自体は否定しない。映像制作の現場に少しでも触れたことがあるなら、どのように編集して“それらしく”見せるかは、割と想像がつくものだからだ。けれど、俺はそんな世の中の風潮にあえて逆行してでも言いたい。「時間停止ものの九割は偽物かもしれないが、俺が作るのはその残りの一割、本物なんだ」と。
そもそも、どうして俺が「本物」を撮ることができるのか。その理由は簡単に言えば「俺自身が時間を止める能力を持っているから」にほかならない。……といっても、いきなりそんなぶっ飛んだことを言われても誰も信じないだろうし、下手すれば「都市伝説的なジョークだろ」「SFかファンタジーの話?」と片付けられて終わりだ。だが、俺は高校生の頃にその力に目覚めて以来、その“特殊技能”を使ってさまざまな実験を重ねてきた。もちろん、当初は「まさか自分がそんな非科学的な力を持っているわけがない」と思っていたから、これは自分だけの妄想ではないのか、本当に世界が止まっているのかどうかを確かめるために、あらゆる手段を講じたものだ。
たとえば、最初は時計を手に持ち、周囲の秒針と自分が認識している時間感覚とのズレを確認してみた。時間を止めたつもりで周りに何らかの変化を与え、それが再び動き出した後にどういう結果として表出するのかを丹念に観察した。結果は自分が期待していた以上に「本物」だった。針は確かに停止していたし、俺が止まっている間に手を伸ばして動かしたものの位置は、そのままの状態で再開後の世界に引き継がれていた。さらには友人や家族といった“他人”の意識や行動が、一瞬の遅れや戸惑いすらなく自然に続行されているのを目の当たりにしたとき、「これは俺の気のせいでは済まされない」と思ったわけだ。
しかし、この力を本当に「作品」として世の中に発表しようと思ったのは、もっとずっと後になってからだ。最初のうちは「この能力を人に見せたらどうなるか」なんて、怖すぎて考えもしなかった。国に連れていかれて研究対象にされるのではないかとか、社会から隔離されてしまうのではないかとか、そういうSF映画さながらの展開を想像しては自分の力を隠して生きていた。だけど自分の中で色々あって、ようやく「もしかしたらこの力を面白い形で世に出せるかもしれない」という発想に至った。どうせバレたって信じる人間は少数派だろうし、大半の人は「撮影トリックです」と言われれば素直に納得する。ならば、“時間停止もの”というニッチなコンテンツを通じて、この能力を遠回しに表現できないか……と、思い立ったわけだ。
最初に手がけた映像作品は、いわゆる自主制作の短編映像だった。役者は大学時代の演劇サークル仲間に頼んで、「ちょっと協力してもらえない?」と半ば強引にお願いした。もちろん彼らにも「時間を止める」なんて話はしていない。役者たちは俺が示す演出プランを、単に「このシーンでは合図をしたら全員ピタッと止まってね。息とか目線もできるだけブレずに」という程度の指示だと思っていた。俺はスイッチを入れて、本当に時間を止める。すると、役者たちは「命じられた通りにそのポーズを保っている」ように見えるけれど、実際には全世界が静止している。ただし、俺の目から見れば「止まる瞬間」を観察することはできるが、その後は俺が自由に動けるわけだ。その間にカメラの位置を変更したり、人物の配置をちょっと変えてみたり、まるで“セット”を自由に組み替えるような作業を行って再び時間を動かす。そして役者たちは元に戻った世界で何の違和感もなく演技を続行する……という算段だった。
撮影を続けるうちに分かったのは、俺が止めた時間の中でどれだけ動いても、その“しわ寄せ”は自分の身体にだけきっちり返ってくるということだ。要は、自分が動いている間の疲労や消耗はそのまま残る。一方で、周囲にいる人々は一瞬のうちに次の瞬間へ飛んだ感覚になるから、俺がやっていることには全く気づかない。結果、撮影が終わるころには役者たちは「いやー、一発撮りだから緊張したよ」なんて笑う一方で、俺は何度も繰り返し止めたり動かしたりをしているからぐったりと疲れ果てているわけだ。それでも撮影映像を見ると「これは明らかに“ただの演技”や“編集”じゃ再現できないだろうな」というほど、微妙な物体の配置や空気感が変わっていて、そのギャップが俺としては最高に面白かった。
作品を完成させたあと、俺は“ある種の実験”として、それをネット上で発表してみることにした。当然ながらコメント欄には「意外に完成度高い」「こんな自然に止まるのはすごい編集技術だな」といった評価もあれば、「いや絶対CGとか加工だろ」と冷静なツッコミもつく。でも、そのどちらも俺にとっては「しめしめ、狙い通り」と思える反応だった。最初から“本物”としては受け入れられないだろうという予想はあったし、むしろ「すごい特殊効果」として話題になれば十分な手応えがある。なによりコメントを読みながら、「自分が本当に時間を止めてるなんて想像もしてないんだろうなぁ」と密かにほくそ笑んでいた。
そこから次第に俺は“時間停止もの”を撮り続けるようになっていった。制作資金を捻出するために、撮影手法を“商業用”にアレンジして提案したりもする。具体的には「編集で繋いだようにしか見えないが、実は役者はリアルに止まっていたんですよ」と、企画書やプレゼン時に“冗談交じり”でほのめかすのだ。まあもちろん、誰も真に受けやしないけど、「この監督は演出のこだわりが強い」という評価になり、それが逆に営業トークとしては効果的に働いているらしい。実際にクライアントから「なんかすごい集中力で一発撮りをさせているらしい」「カットを割ってないのにアングルが妙に変化してるがどうやってるんだろう」といった不思議な噂が広がり、俺の下には「ちょっと不思議な映像を撮ってほしい」という依頼が舞い込むようになった。
もちろん、その全てを受けられるわけではない。実際問題、時間停止の能力を使うには俺の集中力と体力が相当必要だし、一度の撮影にどれほど長時間も止められるわけではない。あまり力を乱用すれば、どういう副作用が起きるか分からない危うさも感じている。それでも、普通に撮ったらちょっとしたVFX(視覚効果)やポストプロダクションが必要なカットも、俺が時間を止めれば“生撮り”でいけるというメリットはでかい。しかも役者たちには「本当に止まってる」とは言えないから、「カメラ外でしっかり指示を出して完璧な静止をしてもらいました」なんて体裁を装っている。現場では「監督、どうしてもピタッと止まるのって難しいですね」「いえいえ大丈夫、大変そうなところはうまく編集しますから」なんてやり取りが行われているが、実際には俺が時間を止めた世界の中でちょこちょこ微調整しているのだから、演者は“少し止まったつもり”なだけでOKなのだ。
こうして撮りためた“時間停止もの”の作品群を時々まとめて観返してみると、まるで俺自身が異能の魔術師になったみたいな気分になる。世の中の大半の人は「時間停止なんてSF。現実にはありえない」と考えている。だから、たとえそれが本当に時間を止めて撮影された映像であったとしても、皆、「よくできた演技」か「巧妙な編集」で片付ける。俺はそれで構わない。むしろ「そういうものだ」と思われたほうが、余計な疑いをかけられずに済むし、俺自身も面倒なことには巻き込まれない。しかし一方で、いつかは「いや、これは何かがおかしい。絶対にリアルだ」と確信してしまう人間が現れるのではないかという予感も、どこかにあるのだ。
その予感を後押しするかのように、最近、俺の作品を見た人の中に「これは本物に見える」と断言する人物が出始めている。ネット上では「これって実は違法薬物とか使って被写体を眠らせてるんじゃ?」「催眠術の一種だろう」といった妙な憶測も飛び交うが、それらを超えるレベルで「このカットの影の位置、物理的におかしくないか?」とか「人の髪の毛が微妙に揺れている瞬間が、どう考えても止めただけじゃ再現できない動き方をしてる」といったマニアックな指摘をする人が出てきた。映像に関する知識が豊富な人ほど、逆に“不可解”な点に気づいてしまうらしい。これをどう受け止めるかは難しいところで、俺の立場からすると「まあそこまでマニアックに観察されても困るな」と思う一方で、「もしかしたら俺の本当の力に気づいてしまったのか?」と少しドキリともする。
ただ、だからといって「作品を公開するのをやめる」なんて考えは今のところない。むしろ「この力を最大限に活かす」方向で、作品のコンセプトをさらに突き詰めていきたいという気持ちが強い。なにせ俺だけに与えられた唯一無二の能力だ。使わない手はない。それに、俺は単に“時間を止められる”って能力が面白いから映像にしているだけではなく、この不思議な現象を通じて「世界の見え方」を問い直したいとも思っているのだ。人間の認識や常識をちょっと覆すような体験を、たとえ疑似的なものだと思われてもいいから作品として提示してみたい。その過程で「実は本当に止めているんじゃないか」なんて思う人がいたら、それはもう観客の自由な解釈だし、それで世界が少しでも豊かに感じられるなら嬉しいじゃないか。
もっと言えば、この“時間停止もの”というジャンル自体、実は昔から根強い人気があるように思う。マンガやアニメ、ドラマ、映画……どのメディアを探しても「時間が止まる」設定は数多く散見されるし、人はそれを観るたびに「もし本当に時間を止められたら何をするだろう」と想像する。だからこそ、多くの人が「本当に時間を止められるわけがない」と一方では知りつつも、“その可能性”にちょっとだけ夢を見てしまうのかもしれない。で、現実に「時間停止もの」は大半が小細工や演出だとわかっていながらも、いざ映像としての完成度が高いと「本当に止まっているようにしか見えない!」と感嘆し、同時に「いや、やっぱりウソだよな」と理性を働かせる。その矛盾をはらんだ感情こそが、このジャンルの魅力かもしれない。
そういう意味で言えば、俺が提供しているのは「本当に時間を止める」映像作品であると同時に、「どうせトリックだろう」という疑いも楽しんでもらうためのエンターテインメントでもある。事実、観客からは「どうやって撮影してるんですか?」と質問されるし、「このシーンは編集で切り張りしたんですよね?」と探りを入れられることもある。そのたびに俺はニヤッと笑って、「企業秘密です」と答える。まさか相手も「実は僕、時間を止められるんですよ」なんてセリフが返ってくるとは思っていないだろう。だからこそ、その“すれ違い”がまた面白いのだ。
さて、「時間停止ものの九割は偽物って言うけど俺はその残りの一割を作ってる」というのが、今の俺の胸を張った主張である。もちろんこれはやや誇張を含んでいる表現だ。実際には“時間停止もの”が100あったとして、そのうちの何本が“本物”であるかなんて誰にも分からないし、他にも俺と同じような能力を秘めている人間がいるかもしれない。でも、現状では俺は「自分だけが本物を作っている」と思い込むことで、この面白い世界を存分に遊んでやろうと決めている。大袈裟に言えば、それが俺の生きる意義のひとつになっているのだ。
いつの日か、もしかするとこの秘密が公になる時が来るかもしれない。誰かに能力を見破られたり、あるいは俺の側が意図的にバラすことだってあるかもしれない。だけどそのときは、そのときだ。今はただ「本物の時間停止もの」を撮り続けることに喜びを感じ、そしてその映像を観た誰かが「おいおい、また嘘くさいけど面白いぞ」と言ってくれることが、俺の創作意欲を支えている。例え“嘘くさい”と思われたとしても、真偽の境界線が揺らぐ瞬間を作り出せるのなら、それはまさに映像表現の醍醐味だろう。
そういうわけで、俺はこれからも「時間停止ものの九割は偽物って言うけど、俺はその残りの一割を作ってる」と胸を張って言い続けるつもりだ。世間がどう思おうと、ネットがどう騒ごうと、俺自身が“本物”であると信じている。それは単に俺に特異な能力が備わっているからというだけではない。俺自身がこの“時間停止”という概念に誰よりも魅了され、“嘘か本当か”を超えたところで映像を創り出すことに情熱を注いでいるからだ。疑う人は疑えばいい。信じる人は信じればいい。このグレーゾーンのどこかで、俺の映像がほんの少しでも視聴者の心をくすぐり、世界の見え方を変えてくれるなら、それで十分。そう思いながら、今日もまた俺はカメラを抱えて撮影現場に向かうのである。誰にも気づかれないように、ほんの数秒だけ世界を止めながら。