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流行の「ジブリ風」画像生成 文科省の見解「作風の類似のみなら著作権侵害に当たらない」 - 産経ニュース
まあこれが全てなんだけどね。でも全部を理解せず、一部を引用して否定したり、誤認したりする人が絶えないよね。
中原氏は「著作権法は創作的な表現に至らない作風やアイデアを保護するものではない」と述べ、「AIで生成されたコンテンツに、既存の著作物との類似性や依拠性が認められれば、著作権侵害となり得る」と語った。
司法で判断されるというのは「既存の著作物との類似性や依拠性が認められれば、著作権侵害となり得る」のことで
有り体にいえば元絵とそっくりな絵を出力しない限りは問題ないし、
オリジナルの写真を元にしたジブリ風化で、依拠性が認めらることはない
「既存の著作物を知らず、偶然に一致したに過ぎない場合は、依拠性はない」とされるからね
作風を「個人の物」とする方が、文化の発展に悪影響があるとされているので今の著作権法がある
まさか、AIが出力したものはすべてチェックが必要で、人間が出力したものは最終成果物だけチェックすればいいと勘違いしている??
AIが描こうが人間が描こうが、最終候補の数個をチェックするのは変わらんでしょ
出してない。ただの読み間違いが広まっただけで
簡単に言うと「個人の作風を学習して出力しまくると、既存の著作物と同じのが出力される可能性が高まるから気をつけて」という文章です。
今回の
中原氏は「著作権法は創作的な表現に至らない作風やアイデアを保護するものではない」と述べ、「AIで生成されたコンテンツに、既存の著作物との類似性や依拠性が認められれば、著作権侵害となり得る」と語った。
とほぼ変わらん話。
それでも10枚学習して、その10枚と類似性が認められる生成物がでたら依拠性が認められるというだけで
その送り仮名間違いは小学二年生で「話」の漢字を習った時に真っ先に注意されるやつじゃん
よしんばその時習わなかったとしてもその後の学生生活で多くの記述式問題を解くときに
「話し」なんて書いたら絶対にどこかで赤ペンチェックされただろうに
そんでそういう書き方をする人に限って、例えばWeb小説の感想欄で読者に指摘されても
マジで頑なに「話し」と書き続けるんだよな
酷いと商業化で一律「話」に直されたにも関わらず新しい作品を投稿する時にはまた「話し」に戻ってる
本当に何でなの?あまりに意固地で気になりすぎる
お前らってAIを使うか使わないかをしばしば議論するけどそもそも使わせてもらえないって発想はないわけ?
当たり前だけどAIだって対応する言語を増やせば増やすだけコストかかるんよ
https://www.rakumachi.jp/news/column/364926
不動産投資コラムで公開された「相続した古いアパートで起きた孤独死の実態」の実体験記事である。
オタク兼クリエイターの端くれである増田として感想を残したかったのでここに記す。亡くなったのは小説家だったようだが書かれていることに「ア…」と思うものがあった。
これはウーとなってしまった。衣食住は無頓着だけど機材はちゃんとしたものって人…………ウー
孤独死レポ系でよく見るのは「兄弟姉妹」「子・甥姪」といった続柄に知らせが行ってゴニョゴニョ…となるケースだ。
生前の不仲・毒親といった背景が多い中でこういうこともあるんだな…と思った。
誰かの推しがマイナンバーを提出したくなくて筆を折ったケースがあるってコト…!?
記事では大家に当たるライター氏の主観+出版社編集とのやりとりのみなので真意は不明だが、恐らく普通に該当者が特定できてしまうのでは…?という情報も書かれていた。
まず始めに一次創作BL・商業BLとは無関係の話であり、BL自体を批判する意図はない。
いつものようにXを覗くと、ソシャゲ公式からこんな投稿がされていた。
そう思ったが、あとから調べてみれば個人間でいざこざが起きたようだ。
その当人が一応の正当な理由でソシャゲ運営に通報し、それが今回の公式声明に至ったのだろう。
公式のガイドラインに言及するポストは、二次創作を容認することを改めて示していた。
その創作に問題があった場合は、公式が直々に動いて対応するとのこと。
ここで筆者は別のショックを受けた。
それに意味が一つ加わったような、今になって頭を殴られた気持ちだ。
それでも。
現代のXではまだ配慮があってもいいんじゃないだろうかと筆者は配慮を訴えたい。
何もPixivに対して言っているわけじゃない。
Xのアルゴリズムが憎い。
「いろんな検索をするので皆さんがどういうふうにAとBを見ているというのはなんとなく知ってますけど〜」
オタクと関係ない単語で気になったユーザーのホームに飛ぶ→非公式BLを固定にしている。
オタクと無関係の単語で検索すると非公式BLとセットで呟かれたポストが表示される。
別の作品になってしまうが記憶からこびりついて離れないのが、キャラの誕生日にそのキャラのBLカップリング名がトレンドに上がっていたこと。
健全な作品を上げる表アカから非公式カップリングを含む鍵アカに誘導してくれたっていい。Pixivから鍵アカに誘導してくれたっていい。
公開アカウントで発信している限り、伏せ字や検索避けの意味なんてなかった。
今回の公式ガイドラインのポストに、鍵パカ腐妄想を完全に肯定された気分だった。
筆者の被害妄想であってもそう思うと……。
今回の一件を受けて、今の時代はユーザー側がスルーするしかないのだと強く認識させられた。
原作に似た絵柄なのに何が起きているか分からずショックで、男性器の棒がとても怖かった。
一般人が見れる場所に置くことの意味を本当に分かっているだろうか。
「ゴキ腐リ」「汚男子(おだんご)」と叩かれていた腐女子腐男子の時代もあった。
「一般人の目に届かない場所でお楽しみください」という少しは配慮していたインターネットはもう無くなっている。
キャラ名で検索したら濃厚なキス妄想を長文で見せられて気持ちが悪くなった。エロポストは一般ユーザーから見えないように鍵アカでお願いしたい。
公式への敬意をいつも忘れないでほしい。
公式が肯定寄りの容認をするというのなら、これからも筆者は非公式BLが苦手という思いをより隠さなくてはいけない。
意図せずカップリング絵が流れてきても、自分でブロックするしかないと公式から改めて示されたから。
Xの他にもう一つ、オタク向け以外のSNSを始めてくれないだろうか?というのが今の本音だ。
インスタにスタンプが実装されているらしい。そのまま公式アカウントも作ってほしい。
また、お返事をありがとうございました。
夢だけでなく、腐の見る専で同人誌買ってた事もあるし、男性向けジャンルに居た事もある。
ただ最近は古いジャンルばかり漁ってるから最近の界隈の雰囲気について知らない事も多いのでそこは大目に見てください。
まず夢女子の語源となった夢小説とは何なのかという話からしたい。
おそらく、夢小説を読まない人にとっての夢小説とは「原作キャラクターではない人物を登場させ、自分の名前をつけるなどして、キャラクターとの恋愛を楽しむ小説」という認識ではないだろうか。
長年の夢小説に慣れ親しんできた人の中には、この定義はちょっと合わないなと感じる人もいるだろう。
そもそも夢小説の定義は書き手や読み手の間でも長年フワッフワの状態のまま宙を漂っていたし、夢小説がそうなのだから夢主の定義もまたフワッフワだ。
ある人は夢主は自分だから没個性でなくては認められないと言う。自己投影する。
ある人は夢主は単なる舞台装置にすぎないので、性格はどうでもいいし、自分とも思っていないと言う。感情移入はしても投影はしない。
ある人は疑似恋愛を楽しみ、ある人は原作にはあり得ない状況(非恋愛多数)を楽しむ。※1
つまり夢小説を定義づけるにあたって「夢主や小説の内容、自己投影の有無は基準にならない」。
我々が楽しんでいる小説に共通するのは「夢主の名前が変更できる(名前変換)」または「夢主の名前を登場させない(ネームレス)」という機能だけなのである。※2
よって夢小説とは、「名前変換」あるいは「ネームレス」を機能として有する小説の総称である。というのが私の認識している夢小説の定義だ。夢小説とは文庫本やウェブ小説に近い言葉だと思っている。
※2補足。この前提があるので、「名前変換機能がある乙女ゲー」の乙女ゲー主人公を主人公とした「名前変換なしの二次創作小説」は夢小説ではなく、カップリング小説であると見る向きが強い。なお、名前変換機能がある乙女ゲーの名前変換ありの二次創作小説は原作準拠のカップリング小説、もしくは夢小説である。こちらは書き手の認識による。
初出は定かではない。
ドリーム小説スレを遡ったら2015年に「夢女子」という言葉が使われている。一応2010年まで遡って検索したけど0だった。
吐き捨てスレでは2012年に1件書き込みがあった。こちらは2008年まで遡った。
少なくとも2012年には存在していた言葉のようだ。有識者求む。
なお、2016年のスレには「夢女子って自称しにくいよね」という話題が出ており、夢女子という言葉が頻出している。
この当時の認識としては、夢女子は以下のような人を指すための言葉だったようだ。
・夢小説を読んでいる、または書いている人
・夢絵や夢漫画を描く、見る、読んでいる人
・キャラにリアコしている人
私が初めて「夢女子」という言葉を強く意識したのは、2014年頃アニメイトで「夢⭐︎恋-ドリコイ」を見た時。「商業もついに腐女子のみならず夢まで手を伸ばしてきたか……」と思った。
ただ「夢女子とは二次元キャラに本気で恋するオタク女子」という説明には違和感があった。それが夢の全てじゃないと感じてたんだと思う。友達に夢小説のゆの字を出したら蔑みの視線を向けられるような時代だったのもあり、ドリコイを手に取る事はなかった。
その頃まで、夢小説読み友達や個人サイトのブログからも「夢女子」という言葉はあまり見聞きした覚えがない。
言葉の意味は変化するものだ。夢女子という言葉もまた2016年頃の定義から変化してきた。
現代では「夢女子」とはほぼ「リアコ」と似た意味を持つ言葉になったのではないかと思う。(なぜ変化したかについて詳しくないので記述できないが、最近の使い方を見るにこの定義に間違いはないのではないかと思う)
2016年当時の3種類のうち、「キャラにリアコしている人」という意味が特に強くなり、他の意味は付属品のような扱いになったように感じる。
夢小説に絡めて言う「夢女子」とは、「リアコなので夢小説という疑似恋愛も嗜む」という認識なのではないか。
しかし前述の通り、夢小説を読み書きする者(以下夢小説好きと呼称する)は必ずしもリアコではない。夢小説好きには、自己投影する人もいればただ物語として楽しむ人もいる。
よって現代の「夢女子」は「夢小説好き」を完全にカバーした言葉ではなくなった。
男性オタクは「全員」夢女子的な思考がある。は主語が大きすぎるので否定するとして。
「多くの男性オタクは夢女子的な思考をする傾向があるか?」を考えてみると、そもそも夢小説や夢女子の定義が曖昧なので、人によって真にも偽にもなるとしか言えない。
夢女子=リアコと考えるのであれば「男性オタクは全員夢女子的な思考をしている」という認識を受け入れられないのは当然。
一方、夢女子=「キャラと関わる「何者か」に感情移入しがちである」という認識であれば、男性オタクはかなり近い思考がマジョリティではないかと思う。
数年ほど艦これの提督をやらせていただいていたのだが、男性向けジャンルでは「何者か」を登場させて感情移入する楽しみ方を否定しない傾向があると思った。カプ者とTヘッド(オリキャラ提督)と画面の向こうの提督※3など別々の楽しみ方が共存していた。まぁ水面下での争いはあったのだろうし、それぞれ嫌う人もいただろうけど、少なくとも「何者か」に感情移入している人達を明確に気持ち悪いと言ったりとか、蔑みの視線を向けたりとか、そういうことはなかった。「推し」という言葉が登場する前はキャラは「嫁」だったし「ママ」だった。自分を主体にキャラとの関係性を考えるというのは夢女子的な思考ではないかと思っている。ただ男性向けはそこをはっきり区別したがらないという印象がある。本気で嫁と思っててもいいし思ってなくて純粋にネタで言っててもいい。そういうグラデーションを許容していたように思う。だからこそ居心地が良かったのだと思っている。
ラブプラスはキャラ×自分の典型的なゲームなので現代的な「夢女子」という言葉にばっちり該当すると思う。
※3 画面の向こうの提督は「何者か」に該当する。役職や立場のみ決まった「何者か」である。
ここまで語ってきて、ちょっと夢主について整理したくなった。計画性なく書いててごめん。
私が思う「夢小説」の「夢主」とは、即「自分」(=読み手、書き手)を意味するわけではない。もうワンクッション置いた存在で、「何者か」と言うのがいいのではないかと思ってる。あくまで私視点の話であって、夢主=自分と認識している人も勿論いる。
書いてる時は個性を意識するし名前も固定で書くんだけど(名前変換の準備の手間が減るし)それでも夢主は「何者か」であってキャラクターではないし自分でもない。読み手がキャラクターとして読みたいならキャラクターに、自分として読みたいなら自分になる。そういう存在だと思っている。
夢というジャンルの存在感が大きくなりすぎて、夢、夢女子、夢小説といった言葉の曖昧な定義が肥大化したり、完全にとまでは言わないものの語源の夢小説から意味が離れてきてしまった。
人によって定義が異なり、かなりブレブレである。だからこそ夢男子のポストは様々な意見が集まった結果バズったのでは?と思う。
現代の「夢女子」という言葉は「夢小説好き」とかぶる部分はあっても、イコールではない。なので2025現在では夢女子と夢小説好きは違う。という話でした。
ちなみに蛇足として、私の夢小説の原点は「ピカチュウが現実にいたらいいのになぁ」です。
ピカチュウと恋愛したいとは特に思ってないけど、一緒に遊んだりバトルしたりしたい。そういうのも私の認識する「夢」に含まれる。でも世間一般では「夢」はほぼ確実に恋愛を含む言葉になっちゃったから「夢」「夢女子」って言葉は使わないようにしてる。
以上です。乱文失礼しました。
Aとは活動初期から相互で、垢移行してもお互いフォローし合うような仲だった。作業通話したり、オフ会したりもしていた。
さて、そんなAがある時「年内に個人誌を出す」と言い出した。イベント出展などはせず、通販限定で出すらしい。原稿執筆はこれからで、自分に発破をかける意味でも皆に向けて言ってみたような感じだった。
しかし、その年に本が出ることはなかった。
まあ商業でもないし、出なかったところで私には関係ないのだが、Aがやたら気落ちしているのが気になった。自分で言ったことを守れなかったのが許せないのかな、自分に厳しいんだなーと思って、なんとか励ましたいなという気持ちになった。これが間違いだったのだけど、それを痛感するのはもっと後のこと。
なんとかAを元気づけたかった私は、作業通話に付き合ったり、気晴らしに遊びに誘ったりしていた。そうするうちにAは私に気を許し始めたらしく、「例の個人誌に寄稿をしてもらえないか」と打診してきた。Aの同人活動を応援したかった私は二つ返事で了承した。
さすがに人の絵を預かってたらやる気も出るでしょう、と思ってイラストを1枚納品し、前もって伝えられていた頒布予定日。
ここまで読めば予想がつくと思うが、発行されませんでした。
とはいえ執筆をやめたわけでなく、いつか出す気ではいるようだったが、これ以降Aは事あるごとに言い訳がましいツイートをするようになった。
今日は体調が悪い。
別の漫画を描きたくなった。
出せないのは私のせいじゃないから責めないで、とでも言いたげなツイートの数々。まあ猫の件は可哀想だけど、でも最初に言ってた日に出してたら間に合ってるしなぁ。
やがてAのタイムラインはこれらの言い訳と病みツイ、ゲームのスクショで埋め尽くされ、本が出る気配は一向になく。
そんな状態が1年以上続いた。猫はとっくに死んでいた。
頒布開始すると言われた日から1年経ってもそんなんで、Aの態度から誠意を感じられないと思った私は、DMで寄稿の辞退を申し出た。
言いたいことはたくさんあったが、メンヘラを追い詰めて人殺しになってもイヤなので、辞退文は簡潔に書いた。Aは比較的すぐ返信をくれた。
やり取りはスムーズに進み、Aからもきちんと謝罪があった。謝礼(内容は伏せますが金銭ではありませんでした)も辞退し、寄稿は無事取り下げとなった。
「頂いたイラストは大事にします!」と言われたときは「あげてないが…」と思ったが、これ以上揉めたくなかったのでスルー。
そんな状態でも相互関係だけは切ってなかったけど、やがてアイコンを見るだけでもストレスになりブロック。その後は特に関わることもなかった。
……というのが数年前。
最近、某同人誌イベントにAと共通のフォロワーさんが出展することになり、そのことでAを思い出してタイムラインを見に行ったら相変わらず元気そうに病みツイを並べていた。
その中に多分私とのトラブルのことを言ってそうなものがあり、当たり前のように「私なんにも悪くない、誰も私のことわかってくれない」と主張してたので当時の怒りがぶり返したのだけど、それは完全に自分から地雷を踏みに行った私が悪いので割愛。
今思えば私にもたくさん反省すべき点がある。
まず、最初に寄稿頼まれた時点で見えてる地雷だったんだから断るべきだったし、寄稿出すなら出すでもっとAと話し合うべきだった。
それから、Aの病みアピにビビって一回も催促の連絡ができなかったんだけど、今考えればすべきだった。
私はAに親切にしたつもりだったけど、中途半端に手を出して余計苦しめただけだったと今は思う。
同人界隈というのは口約束で物事が進むことが多いので、約束が守られなかった時は大抵悲惨な結果になってしまう。
仲良くなってからだと周りに与える影響も大きいので、こういうのはもっときっちりやろう、と考えを改めるきっかけになった事件だった。
フォロワー2000人ぐらいで月に6枚二次創作を描いたり描かなかったりする日曜絵師です。skebはやったことあるけど、商業では描いてない。だいたい5年前ぐらいから描いてて絵の実力は中の中ぐらいだと自認してる。
まず、生成AIは表現手段としては絵師にとって最高すぎる代物だと思う。では、なぜ嫌悪感を抱くのか、それを拙いながらも言葉にしようと思う。ただ、注意点としてこれは自分の一意見であり、他の人も同じように考えてるとは認識しないで欲しい。
前提として自分の嫌悪感は著作権問題ではない。ぶっちゃけると、自分にとって著作権はたなぼたの叩き棒でしかなった。もちろん、そういう問題は存在すると思うし、AIが話題になり始めた頃にはその手の憤慨ツイートにいいねしたりはしてたが、今思うと後付けの論理だったと思う。
もしAIが今とは違う著作権に問題ない形で絵を生成していたらと思うと少しゾッとする。ただ、その場合はその場合で、絵柄パクリとか別のたたき棒を見つけ出してたんだろうな。
少しズレたけど本題に入る。まぁ1つ目が主な理由で2、3はおまけみたいなものなんだけど。
前述した通り、生成AIは表現手段としては最高だと思う。下手したら自分より上手い絵や自分とは違う絵柄を圧倒的な速度で生成できる。もちろん、頭の中を100%表現したイラストを生成AIだけでは作れないから、加筆や修正は必要になってくると思うけど、それにしたって便利すぎる。
自分は適当なプロンプトで偶発的に生まれた良いAIイラストは良い物であっても作品ではないと思うが、自分が表現したいものを意識して意図的に生まれた良いAIイラストは立派な作品だと思う。
でも、こういう意味で生成AIを便利だと思えるのって明確に表現したい画が頭の中にある人だけなんだよね。
さいとうなおきはAI促進派として有名だけど、彼がAIを支持しているのもこっち側の人間だからだと思う。他にも、表現したい物を表現し続けている一次創作の絵師さんがAIに期待する胸のツイートをしてたけど、これもそういうことだと思う。
でも、自分は特段表現したい物がない。もちろん、絵を描くために表現したい物を捻り出したり、稀にこういう絵を描きテェという衝動に駆られることはあるが、基本的にそういう姿勢ではない。
正直、承認欲求のために書いている。そして、承認欲求の為にちょっと好きなキャラを人から評価される感じに描いた自分のイラストと前述した適当なプロンプトで偶発的に生まれた良いAIイラストの違いを自分は見出せない。
今まではそれでも良かったが、生成AIで誰でも簡単にいいねを稼げるマトモな絵を作れるようになった現代において、AIでチャチャっとやれば直ぐにできる物をわざわざ時間を掛けて作る意味が分からない。そんな物で承認欲求を得ても、的外れなことをしているような虚しさが埋められない。
別に描くことがめちゃくちゃ好きというわけでもないし。(上手い絵が自分の手で少しずつ出来ていくのはちょっと好きだけど)
生成AIに対して、この虚しさを意識させられるようになったことにムカつき、これから更にそういうマトモなイラストのレベルが上がっていくことにどうしても許せないと思っている自分もいる。
前から薄々気づいていたことではあるが考えないようにしていた。だからこそ、AIの登場によって自分に特段表現したいものがないことを突きつけられたことはかなりしんどい。
あと、今までは絵を勉強してない人間は下手な絵しか作れなかったのに、ただのマトモな絵なら誰にでも作れるようになってしまった。このアイデンティティの喪失もかなりデカい。
生成AIの登場でマトモな絵をいろんな人間がうpするようになって、発信者側の母数が圧倒的に増えた時、自分は今までのようにいいねやリツイートをしてもらえるのか不安になる。
ただ、現状は数字が減った感じはしないし、フォロワーもぼちぼち伸びてはいるから、そんな気にしなくても良さそう。
3.画像生成は絵を描いているという感じがしない。
自分の場合はAIが適当に生成した物で満足してしまうので、加筆や修正すらする気にならないのだが、プロンプトを試行錯誤している時はもちろんのこと加筆や修正をしている時ですら絵を描いているという感覚からは程遠い。だからこそ、AIを加筆して作品を発表しようにもなんというか、絵を投稿しているという感覚にはなれず、AIイラストは偽物という意識が少し生じてしまう。
これぐらいかな。あとは、人によっては大した努力しないでいいねを稼いでるのがずるいとか、商業としてイラストは終わりなのではないかという不安とか、そういうのはあるかもしれない。
前者に関しては自分はそんな気にならないけど、後者に関してはマジでグロいと思うが、趣味で描いているので自分には関係ないという感じ。
あとは、今までの努力の意味がわからなくなるとかはあるかもだけど、自分はそんなにかなぁ。ある程度承認欲求満たしてきたから、そこに意味を見出せる。
もう陳腐な二次創作を人の手で描くことには意味が見出せなくなっちゃったし、既に絵を描けることによる甘い蜜は十分吸ったと思うから、良い機会だし他にやりたかったことに挑戦してみようと思う。んで、気が向いたら絵もぼちぼち描いていこうかな。
次期に生成AIも受け入れられるんだろうな。時代の変化に個人や努力は関係ないと20代前半で知ることができたのは良かったよ。
お前は AI が書いたコードを盲信するのか?と言われれば答えはノーなんだけど、現状のクオリティは信用しきれないというだけであって、クオリティは上がり続けるだろうと思っているし、任せられる領域もどんどん増えていくだろう。
じゃあ、それによって今やってる仕事が無くなるかというと、そうも思っていなくて、今の仕事の延長線上で AI と協力しながら仕事をし続けていくだろうと思ってる。
では何故「ほぼ全ての商業プログラマが AI に駆逐される未来はありうる」と思っているかというと、ブラックボックスだけど表面上は問題無く動いて 99% のユーザにバグがないならそれでいーじゃん、と振り切って、プログラマを全く雇わずにサービスを展開し、少量の問題を金でぶっ叩きながら、圧倒的な生産性で急成長するサービスがいずれ現れると思っているからだ。その時、既存の延長線上でサービスを開発していると、人間が介在しているプログラミングではその速度と生産性に太刀打ちすることが出来ず、「俺たちのサービスの方がクオリティは高いのに…」と煮え湯を飲まされながら失業することになるんだと思う。
ちなみに「ほぼ」の部分は、100% の正確性が求められる分野、例えば人の命やお金の計算が絡む分野などが残ると思っている。「人が死んじゃいました、ごめんなさい!でもブラックボックスなので原因は分かりません!一億円は差し上げます!」じゃあ通らんからな。
とある左右固定派の腐女子のnoteを共感しながら読んでいたところ、アツギや宇崎ちゃんが「燃やされた」なる記述が出て来て心底がっかりした。ブルータスお前もか。
私は固定派腐女子の「棲み分け」「表記をしっかり」思想ってまさに、アツギのラブタイツや宇崎ちゃんの献血ポスターを批判するのと同じ発想だと思うんだけど
何故か左右固定派腐女子に限って、この手の男性向け商業エロ表現に対する批判を許さないネトウヨ気質の人間が多いんだよな…
一体どうしてそうなるんだ
逆に何でもイケるリバ雑食腐女子の方が表現の自由戦士すなわち男向けエロの表現に親和性が高く、ネトウヨになりやすいと思うんだが
実際には何故かリバ雑食腐女子の方が男性向けの大っぴらなエロ表現を批判しがち。それ自体はまともな事を言っていても、お前等の普段の言動を見てるとダブスタにしか見えないんだが?
海外はみんなの意見よりも自分の意見を大切にするからこそ、学習手段としてメディアが機能してるのに、
これって一時期ブリキ絵フォロワーがラノベで持て囃されたことあったけどああいうのとどう整合性つけるんだろ
ぶっちゃけアレが商業的にOKだったんだから画風に著作権とかはないんだろうけど
先ほど、山田太郎先生(@yamadataro43)と『作家狙い撃ちLoRAは違法でも実際に訴えるのは困難』という件についてオンラインでお話しさせて頂きました。
僕の例では不十分なので、既に裁判をされているイラストレーターのやすゆき先生から意見書を預かり、そちらもお話の後に受け取って頂きました(続— 樋口紀信@疫神のカルテ全3巻 (@susujinkou) March 28, 2025
ジブリ映画は商業。数億枚の絵を一枚一枚プロが報酬もらいながら描いてつくってる芸術なのよ。
映画『ネムルバカ』見てきた。とにかく最高だった。でも3/20公開で、まだ1週間しか経ってない昨日(3/27)の平日夜に観たが都内の映画館で1日2回の上映、席はまばらになってた。こんなに良い映画がその程度で済んで良いと思わないので自分なりに布教したい。
ネムルバカについての良き言論に飢えてネットをさまよった結果、以下のバキ童さんの動画が最良だと思ったので見てくれ。俺の語りを読むよりこれ見たほうが速いよたぶん。でも俺はテキストの力を信じて書きなぐるから、良かったらこのあとの文章も読んでくれよな!
https://www.youtube.com/watch?v=DcrfLLaae6M
正直、観る人を選ぶ作品で、万人受けはしないと思う。でも聞いた話だがPCゲームSteamのレビューでは「英語圏の人は万人受けしない作品に対して自分が楽しめたなら高評価をするが、日本人はそういう作品に『自分は楽しめたけれど万人受けしないだろうから低評価』にしがち」らしい。確かなソースのない業界人からの噂話だが、俺の偏見と一致するので、事実と捉えて言う。日本人のそのレビュー観はクソだね。俺は最高に楽しめたので、映画ネムルバカは10点満点中の10点です。正直、10点満点中100億点とか言いたいところだが、バズりたい誇張表現くんを見下してるので、すまんが10/10です。こういう映画に満点付けるのって勇気いるんだぜ。ちなみに自分の感動を阻害されるのが怖くてネットの評価あんまり見れてません。スマセン。
まず、前提となる原作コミックのメッセージ性が良く、そこが映画でも上手に描けていた。「何者にもなれない自分」はほとんどの人が葛藤したことあるだろうし、時代を問わず普遍性のある内容だと思う。よく扱われる陳腐なテーマでもあるが、この原作/映画はそれをコンパクトにまっすぐ芯をついて描いているので、脳に打ち込む純度が高くて最高なのです。俺が書いてるこの怪文書は映画観た人ではなく観てない人に向けているので、この作品のテーマや解釈について多くを語るのはやめておきますね。
そのうえで、メディアの性質上原作コミックで表現できなかった部分が映画では完璧に表現されてた。最たるは曲。漫画にサウンドは無いからね。原作読んだ人ならわかると思うが、音楽が大事な作品で、映画で実際に耳で聞ける曲がどれも最高に良かったし、ネムルバカの作品性に沿ってた。ただ、作品性に沿い過ぎてインディーズ感ありすぎる曲なので世に広まる曲じゃないかも。映画『ネムルバカ』はある意味インディーズバンドのライブみたいなものなので、サブスクとかの配信を待たずにぜひ映画館で観てくれ聞いてくれ!
曲以外に原作から補完された要素として、先輩のバンドのメンバーが描かれているが、これも良かった。俺は基本的には原作改変を許さない過激派だが、原作の作品性に沿った上で足りてなかった部分を見事に補完していたので、非常に良かったです。
あと、バイト先のウザイ先輩をロングコートダディ兎が見事に演じていたのも良かった。ネタキャラをきちんと滑稽に演じていて面白かったのもあるが、ネムルバカという作品においてウザ先輩は重要な舞台装置であり、作品に必要な感情をきっちり観客に与える、見事な演技だったと思う。
俺は邦画を見下しがちな残念な大人だが、邦画の良くないところはしっかりあったと思う。あと前半の女子大生ゆるゆる寮生活は漫画で読む分にはほのぼのだが映画でみると退屈感あるかも。でもその退屈感が後半のフリになってるからそこは許してやってくれ。それと主演の二人が大人の魅力ありすぎてリアリティ下げてると最初思ってたが通しで観たら最高のキャスティングだったのでもしよかったらお二人ともサインください。男の大学生ふたりは原作再現の演技をした結果なんか下手っぽく見えちゃうかもだけどそこは原作再現ゆえなので許してやってくれ。あと 阪元裕吾監督の作品見たことある人ならわかると思うが「ベイビーわるきゆーれ」よろしくダラダラしゃべってるシーンありありなのでまあそのへんは覚悟してくれ。
いやすでに高く評価されているし十二分に成功してるけど、俺は石黒正数先生にはもっともっとメジャーになってほしいよ。今は漫画好きなら知ってる、までの印象。誰でも知ってるぐらいになってほしいよ俺は。掲載誌がマイナーなせいかな。あと天国大魔境のアニメ最高だったけどディズニープラスで独占は良くないよ、俺はディズニープラスを契約しているが独占配信されて覇権とれたアニメみたことねえ、東京リベンジャーズ2期ですらディズニープラス独占で盛り上がらなかっただろ。俺はスターウォーズとマーベル好きだから契約してるが、子どもにディズニー見せる以外、大人でアニメ好き・アニメ目的で契約してるやつほとんどいないだろたぶん。まあでもよく考えたら石黒先生は大衆性に迎合せず自分らしさを維持することを大切にしてるんだろうな、ネムルバカもそういう作品だったわスマン。石黒先生、俺は一生応援し続けます!映画ネムルバカもお願いだから商業的に成功してくれ~~~。
さっきも書いたが、映画ネムルバカはある意味インディーズバンドのライブみたいなもんなので、ぜひサブスク配信を待たずに映画館で観てくれ!もしかしたらすぐに上映なくなっちゃうかもよ!観に行って、「なんだあいつが言ってたほど良くないじゃん」と俺をぞんぶんに罵ってくれ!金払って観に行ったなら批判する権利は存分にある!俺はこの映画が評価されるべきとは思ってない、ただ商業的に成功してほしいだけなんだ。以上。