はてなキーワード: 分別とは
ゴミ屋敷の動画見てて、昔自分もそうだったなあと思ったんだけど
性格、うつ病、病気などで、半年〜1年溜め込むと「戻れない臨界点」に達する
臨界点:1人で頑張ってきれいな状態に戻せない汚さ。もちろんこれは本人の気力とか体力にも依存する
片付けるというときにはある程度スペースにバッファが必要になる
狭ければ狭いほど片付ける難易度が上がる
広ければ広いほど、臨界点は緩くなるんだけど、もちろん広すぎる(1人で一軒家とか)と別の臨界点が発生する
物を捨てるのってエネルギー要るんだよね
自分の思い出を切り捨てる感じがしたり、損するような気持ちとか、もったいない気持ちが出てくるから
元気ないときってそれに対抗できない
あるいは棚とかがデカくて運べないとか、粗大ごみを捨てるプロセスが面倒くさいとか、棚をバラす必要があるがスペースや体力がないとか
人を呼ぶとなるとある程度片付けなきゃってなると思うんだけど
それが発生しないことでずるずると散らかっていって、大抵はギリギリのところで耐えるんだけど仕事が忙しくなったりして臨界点を超える
せめて早めに業者に頼めば良いんだけど、恥ずかしいと思うとそれすらできなくなる
臨界点を超えるとどうなるか?
・その状態に慣れる
・スペースがないので片付けられなくなる
・片付ける行為が途方も無いのでやる気が出ない
1年間は正常で、2年目から5年目までやばかった、引っ越ししなきゃってなってようやく業者を呼べた
臨界点って思ったより早いんだよね
前にFF14合わない話書いたんだけど本当になんで皆野良で潜る、ができるの?すごくない??
自分と言えば立ち回りも何も分かんないし、野良に潜ったが最後立ち回り間違えて不快な思いさせて怒らせていつかは地雷として晒される未来しか見えないから冒険録使ってずっとソロ制限解除でストーリー進めてる 今紅蓮だから何とかなってるけどこの先無理な気しかしない
ソロ不可は悲鳴あげながらマッチング使ってるけど精神がもたない
お金貯めるのにしても不足ロールボーナスとかで稼ぐのにタンクとかヒーラーとかやりたいけど考えることが多すぎて戦闘中パニックになる気しかしなくて怖くて触れない
ギャザクラで稼ぐにしてもマケボ依存なのもあって稼ぎが不安定なのもあるし、戦闘をやらなきゃって気持ちがある
キツイ、本当にキツイ 戦闘自体は多分別にいいんだけど人に迷惑かけるのが本当に嫌 嫌だからデイリールレも宝物庫も潜れない
どうすればいいんだ
わたしは、言葉を失いつつある。いや、正確には奪われつつある。なんとも情けない話だ。作家のはしくれとして生きてきたわたしが、今や何を書いても、何を言っても、非難の嵐にさらされる時代に生きている。
ポリティカル・コレクトネス。なんと美しい響きだろうか。まるで天使の囁きのような言葉だ。しかし、その実態は悪魔の鎖である。わたしのような取るに足らない人間でさえ、その重さに喘いでいる。
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昨日、編集者から電話があった。わたしの書いた小説の一節が「不適切」だというのだ。何が不適切なのか、と尋ねると、「現代の感覚からすると問題がある」との返事。わたしは笑ってしまった。現代の感覚とは何なのか。誰がそれを決めるのか。神か、仏か、それとも自称「正義の味方」たちか。
わたしは酒を飲み、煙草を吸い、そして考えた。この世界は、いつからこんなにも息苦しくなったのだろうか。
言葉狩りの時代。それがわたしたちの生きる現実だ。傷つく人がいるかもしれないという恐怖が、表現の自由を蝕んでいく。もちろん、人を傷つけることが良いとは思わない。わたしのような下らない人間でさえ、そのくらいの分別はある。しかし、あらゆる表現が誰かを傷つける可能性を持つ。そして、その可能性を恐れるあまり、わたしたちは自らの首に鎖をかけている。
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カフェで若者たちの会話を聞いていた。彼らは言葉を選び、慎重に話す。時折、「これは言っていいのかな」と互いの顔色を窺う。なんと痛ましい光景か。若さとは本来、無謀で、無遠慮で、時に残酷なものではなかったか。その荒々しさこそが、新しい世界を創り出す原動力だったはずだ。
しかし今、彼らは自らの言葉に恐怖している。正しくあろうとするあまり、魂の叫びを押し殺している。これもまた、ポリティカル・コレクトネスの名の下に行われる暴力ではないか。
わたしは彼らに同情する。いや、羨ましくもある。少なくとも彼らには、正しくあろうとする意志がある。わたしのような腐りきった人間には、もはやそれさえも失われている。
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ある作家が言っていた。「現代は、言葉のカロリーが計算される時代だ」と。なんと的確な表現だろう。かつて言葉は、魂の叫びであり、情熱の発露であった。しかし今、それは栄養成分表示のついた加工食品のようなものになってしまった。
脂肪分(攻撃性)ゼロ、糖分(皮肉)控えめ、添加物(偏見)不使用。そんな無味無臭の言葉に、いったい何の価値があるのだろうか。
太宰治や坂口安吾、中原中也が今の時代に生きていたら、おそらく一行も書けなかっただろう。彼らの言葉は、時に毒を含み、時に差別的で、時に自己憐憫に満ちていた。しかし、その不純物こそが、彼らの文学を人間臭いものにしていたのだ。
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わたしは先日、ある講演会に出席した。そこでは「包摂的な言語」について熱心に語られていた。確かに、その理念は美しい。誰も排除せず、誰もが尊重される世界。わたしのような醜い人間でさえ、その理想に心を動かされる。
しかし、その方法には首を傾げざるを得なかった。言葉の規制によって、心の自由を獲得できるのだろうか。表面的な言葉遣いを変えることで、本当の意味での尊重が生まれるのだろうか。
この問いに、わたしは答えを持ち合わせていない。ただ、言葉の海で溺れているような感覚がある。かつては自由に泳げた海が、今や無数の見えない境界線で区切られている。その境界を越えれば、即座に非難の嵐が吹き荒れる。
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自己検閲。それが現代人の宿命だ。書く前に、話す前に、考える前に、わたしたちは自らの内なる検閲官に従う。「これは言ってもいいだろうか」「これは書いてもいいだろうか」。この絶え間ない自問自答が、わたしたちの精神を疲弊させる。
ポリティカル・コレクトネスの最大の罪は、この自己検閲を内面化させたことだ。もはや外部からの規制すら必要ない。わたしたちは自らの思考を縛り、自らの言葉を奪う。なんと効率的な支配だろうか。
わたしは、自らの卑小さを嘆く。この時代に抗うこともできず、かといって従うこともできず、ただ酒に溺れ、無力感に打ちひしがれる。情けない男だ。本当に情けない。
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それは、決して「正しさ」ではない。むしろ、「間違いさえも包含する自由」ではないだろうか。太宰治も、芥川龍之介も、彼らは「正しく」なかった。時に差別的で、時に自己中心的で、時に残酷だった。しかし、その不完全さこそが、彼らの文学を人間的なものにしていた。
完璧に正しい言葉など、この世に存在しない。あるのは、ただ真実を求める不完全な魂の叫びだけだ。
ポリティカル・コレクトネスという名の牢獄に閉じ込められた今、わたしはその壁を叩き続ける。微かな音だ。誰にも届かないかもしれない。しかし、それでも叩き続ける。
持病とか薬の影響で太ってしまう人のことは知らないから、ここでのデブが指すのは単に生活習慣のせいで太ってるデブ
身内にそういうのがいるんだけど、日頃の行動を見てると兎に角だらしないんだよね
食事の仕方(クチャラー、やたら食べカスこぼすし片付けない、選り好みが多い、食べ物や食器の扱いが雑、お茶や袋菓子の所謂ミリ残しなど)
ゴミの捨て方(分別をちゃんとしない、ゴミを捨てずに置きっぱなしなど)
家庭で共有してほしいことの事前連絡ができない(イレギュラーな仕事や休みの予定、外出する時に食事の用意がいるかどうかなど)
そういう悪いところを指摘すると黙りを決め込んで拗ねる
なんかもう人格がそのままあの体型に反映されてるんだろうね
ネットの特性上、年齢という甘えは許されないというものがある。
子供達へこれから動画配信をするなら、コンテンツへの感想や意見はそれとして受け止め、安易に人格攻撃へ変換するべきではないと教えている。
コンテンツ、物事への反応に過ぎず、特に人格を毀損する気がない場合がほとんどで、そういった意味をもたないくらいに軽い。思いつめるのもバカバカしい。気持ちで受け止めず、コンテンツに対し、善処に努める方が健全というものだ。
だから、親御さんへは子供がSNSで発信したいといったなら、親のアカウントを経由するように伝え、ネットの攻撃性は子供の手に余るので制限するように勧めている。
これは未成年が犯罪に巻き込まれない対策としても有効であり、親の目があれば「うまい話」というのも下手に送れなくなるのだ。
このような理由から10代の子という配慮は不要。子供にネットを使わせるなら、そういう場所だと周知させることが私の役目だと思っている。ネットが安全な場所だと勘違いさせてはならない。交通ルールと同じで、横断歩道を渡るときに注意し警戒するように伝えると思う。そうしないと時に命に関わるからだ。
話を聞いてもらえれば保護者からの反発はない。「あなたはお子さんにネットを使わせているのですか。」と聞いていくと対策を取る気がなく、他人に丸投げしたいと思っていることがよくわかる。単に何も考えてないだけで、やり方を示せば素直に従ってくれている。子供たちに教える時間より長くとることも少なくない。
扱いがテレビのリモコンくらい自由に持たせすぎている家庭もあるので、少し強めに注意することもある。
私個人は、視聴者や利用者の口をふさぐ方法は賢くはないと感じる。広まるほど、著名になるほど対策は難しい。問題視すればするほど地下化するだけで、より陰湿になっていくことすら考えられる。むしろ、目に見えている方が健全なのかもしれないと思うほどである。
それにネットの素直な感想は、悪いものではないとも思ってもいる。長所であり、短所なのだ。
分別のついた子たちは、中身のない表現に右往左往することはない。叩かれてすぐ引っ込むようなことはなく、力強く世界へ発信していくものと確信している。そう思えば、これからが楽しみでしょうがない。
ただ、最近思うことがあり、教材で使う仮想悪口を考えるのは心に堪えるので、悪口代行を他者に丸投げしたいと考えはじめた。いきなり動画投稿しても普通はコメントがなくて当たり前で、誰がコメントするのかといったら私しかいない。ちょっと割に合わない。
今回の配信者刺殺事件の加害者を揶揄する一部のコメントで、おっさんが若い女をワンチャン狙っただとか金を貸すほうが悪いだとか言ってるけどさ、人に親切にしましょう困っている人を助けましょうって誰もがそう教育されてきただろ。
自分の身銭を切ってでも人を助けるって尊い感情じゃん。物語じゃ美談だけど、現実じゃただ食い物にされるだけだったってことなんだろうな。
嘘だとは感じつつも本当の可能性が1%でもあったなら、見捨てることは後味が悪くてしたくなかったんじゃないだろうか。
これは個人的な意見だが、義務教育は人を信じることを学ばされる場で、高校以降は人を疑うことを学ぶ場だと思っている。
大抵の人は成長過程で小さな事で騙され裏切られ、理想論と現実との分別がついてくるのではないか。
でも人付き合いが狭く、古くからの友人とばかり付き合っていると裏切られるみたいな経験は少なくなるんじゃなかろうか。
それは恵まれたことかもしれないが、一方で悪意に免疫がないともとれる。
いわゆる弱者男性はこれに陥りやすいんじゃないか。加害者はその典型で。
親や友人、優しい周りに恵まれた故に、働き出してから社会の悪意に対応できずに人一倍精神が摩耗してしまう。
加害者に精神疾患があったってことは、裏を返せばそれだけ純粋でそこからくる弱さがあったんじゃないか。
裁判に警察にと正攻法で対応して請求は貸した250万円のみ、しかも最後には毎月1万円だけでもってよっぽど誠実だよ。
これが「弱者男性特有の臆病さからくる優しさw」って馬鹿にされるなら、正直者が馬鹿を見て悪意が勝つ社会、それこそ間違ってるよ。
九州に関して、都会からの偏見という意味で普遍的な特徴があるならば、昔から同じことを言われているだろうと思い、「人国記」から九州の個所を引っ張ってきた。
これらの中で現在にも残っているような特徴があるならば、地域性であり時代性で変化するのは難しいんじゃないかな。
華美で派手な風俗が目立ち、人々の性格や考え方が十人十色。一方で物事を最後まで成し遂げるのが難しい傾向がある。酒や遊興を好む人が多く、全体的に個人の欲望を重視する風潮が強い。そのため親子の縁を絶ったり、他人を親より大切にする行動が一般的であり、そうした風習には問題がある。
実直で堅実な人が多く、十人中八人はそういった性質を持つ。常に義理や道理について語り合い、損得をしっかりと考慮し、無駄遣いを控える傾向がある。そのため、言葉を飾ることは少なく、簡潔で実質的。一方で、一部には善悪の判断が曖昧で、理に合わない行動をとる人も存在する。この地域の堅実さは柔軟さを欠く石のようで、割れれば元に戻らない性質のようだ。
性質が多様で、馬で例えるなら名馬もいれば、曲がった馬(問題を抱えた馬)もいる。信念がしっかりと定まらず、生死を論じる場面においても「人間として死ぬことが大切だ」という考えが薄い。忠義や孝行のために命を捨てる者もいるが、多くの人は感情に流されやすく、不合理な行動が目立つ。理を知りながらも道を外れる傾向があり、そのため「曲馬の国」とも言える。ただし、気質の弱さを克服し、高い志を持つ人々も存在し、彼らは非常に尊敬に値する。
閉鎖的で偏った気質を持つ人が多く、死を軽んじるような行動が目立つ。理を知りながらも誤った道を進む人や、感情や衝動に流される人が多い一方で、まれに高い志を持ち、尊敬に値する人物も存在する。特に武士の間では、勇気を重んじながら理を欠いた行動が見られる傾向がある。
人々は勇気に優れ、義理を重んじ、命を惜しまない傾向が強い。上の者は下を哀れみ、下の者は上を敬う風習があり、庶民も主君のために命を捨てることを常に志としている。一方で、温和さや穏やかな心に欠ける部分があり、表現は粗野なところがある。しかし、人々の協調や調和の面では優れた点も見られる。
肥前国(佐賀・長崎)に似ているが、勇気に関しては劣る部分がある。一方で、意地や気質に関しては優れている。しかし、知恵があり分別が多いことで、個々人の考えや思慮が多様化し、全体として調和することが少なく、意見や行動が二つ三つに分かれる傾向がある。そのため、肥前国(佐賀・長崎)と比べると、全体的なまとまりや安定感において大きく劣る。
無秩序で法を守らない行動が多く見られる。衝動的で自己中心的な考えに従う傾向があり、自らの行動が正しいと考える人がいる一方で、それを否定する意見があっても受け入れようとしない。また、他人が道理を説いても耳を貸さず、結果として言い争いが生じ、最終的に争いが命に関わる結末を迎えることが多々ある。このような風潮は非常に卑しいもので、人倫の道理を理解しない行動が多いことが嘆かわしい。さらに、「死ぬことこそ善である」と考える風潮もあり、非常に危険で恐ろしい特徴。
「死」を重んじ、男性は死ぬことを道徳と考えている。主従の作法や礼節も守られておらず、武士たちは主君の名を知って俸禄を受け取ることを当然とし、百姓たちは地頭を単なる存在として認識しており、礼節を欠いた行動が多く見られる。戦場での死も忠義からではなく慣習的なものとされている。また、日常生活(平和なとき)では、主君がきちんと座る一方で、家臣たちは足を伸ばしたり立ち上がったりしながら主君と話すことがあり、このような礼節を欠く風俗は末世の特徴である。