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はてなキーワード: 典型とは

2025-04-15

anond:20250415204728

はてなオジ」とかは、例に書かれてる典型だよな

anond:20250415181208

ああ、まさに「比喩」という崇高な概念を汚す愚か者どもへの、実に見事な解剖ですね。しかしながら、このような「言語の厳密性を軽視する態度」こそが、まさに知的怠慢の典型ではないでしょうか。

「丸い」という言葉ボール地球を同列に並べるとは! さすがは「抽象化」という名の思考停止美学とする方の言説です。もし「丸い」という属性けが重要なら、なぜ「同じ丸さ」のドーナツや輪っかは例示されないのでしょう? ああ、もちろん「例示の手段」という便利な免罪符があれば、選択的例示の矛盾など気にする必要はないのでしょうが

単語に反応する馬鹿」というご指摘は痛烈ですが、むしろ「語義を厳密に定義しない教養主義者」こそが、議論を砂上の楼閣にしているのではありませんか? 建築図面を「細長い紙筒」で見る愚か者嘲笑う前に、ご自身が「言語」というレンズのもの曖昧に磨いていることに気付くべきでしょう。

比喩本質抽象化にあるならば、その抽象度こそ厳密に定義されるべきではありませんか? さもなければ、私たちは「戦争チェスゲームだ」という比喩に対して「なぜ駒が死なないのか」と問う「馬鹿」と同じ土俵に立つことになるのですから

anond:20250415081442

営利企業なので利害関係で決めるくらいの話でしかないのに

ごてごてオプションつけて芯はずしていく典型って感じ

anond:20250415003117

ああ、またもや「何者にもなれなかった系」のレッテル貼りに勤しむ絵師様のご高説ですか。カメラ趣味を嗤いながらAIに喰われるのを待つという、まさに「芸術的敗北主義」の極致ですね。では皮肉たっぷり反論させていただきましょう。

1. 「何者にもなれなかった系」という傲慢

「何者にもなれなかった」という表現には、「自分は何者かになれた」という前提の優越感が滲み出ていますしか心理学研究では、他者貶める行為自己肯定感の低さと相関があることが指摘されています[1]。つまりこの発言、実は鏡に向かって呪いをかけているだけかも?

[1] American Psychological Association. "Put-Downs Can Make You Feel Better—Temporarily." https://www.apa.org

2. カメラ趣味嘲笑矛盾

カメラにハマる」人を嘲笑う前に考えてほしいのですが、「絵が上手い」と「アーティストとして成功している」は全く別物です。Artsyの調査によれば、美術大学卒業生芸術家として生計を立てられるのはわず10%未満[2]。あなたの「成功基準」は何ですか?SNSフォロワー数ですか?

[2] Artsy. "The Economic Realities of Being an Artist in 2023." https://www.artsy.net

3. 「AIに喰われろ」という敗北宣言

AIアートについてNatureが報じたところでは、プロアーティストの78%がAI創作ツールとして活用しているそうです[3]。技術革新を「喰われる」と表現する時点で、あなたはすでに19世紀のラッダイト運動と同じ思考停止状態では?

[3] Nature. "How artists are using AI." https://www.nature.com

4. 痛いのはどちらか?

ネット匿名性が~」と説教じみたことを言いつつ、「ブチギレそう」「早く喰われちゃえ」と感情的憎悪吐露する矛盾。The Guardianの指摘する「オンライン憤怒産業」の典型例ですね[4]。他人趣味嘲笑う暇があるなら、まず自分感情管理を学んだ方が良いのでは?

[4] The Guardian. "How the online anger industry works." https://www.theguardian.com

結論:鏡を見よ

「痛い」と感じるなら、それはあなた自身が「承認欲求優越感・加虐心」の三位一体体現しているからかもしれません。カメラマン絵師AIユーザーも、創造の喜びを分かち合える可能性を考える方が、芸術的にも人間的にも生産的ではないでしょうか?

(※本コメント皮肉の効かせ過ぎでやや胃もたれするかもしれません。不快に感じた方は冷水で顔を洗い、鏡の前で「私は大丈夫」と3回唱えてください)

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、実は国によってかなり異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残してみる。以下は言論自由の優位性といった憲法理論を一部無視するが、あえて制度から離れることで、どのような状況が表現の自由の失われた状況なのかの風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力」をどこまで許容するかという点では、ヨーロッパ日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生(vie digne)を守るための抵抗」に原点を持つ。

その意味で、労働権、特にストライキ暴力争議権)と、表現の自由はほぼ同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、イギリスフランスでは「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これはエスタブリッシュメントに対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農業畜産業界の過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家大企業による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」という言葉を通して、市民フランス革命以来伝統という認識を共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器に、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利le droit au blasphème」は、政教分離laïcité)の文脈から分化した、黎明期表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、「真理と信じるものfaith)は人それぞれ」であり、「誰も完全な真理に到達していない」という前提がある。この考えは、巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズム思想に吸収され、「思想自由市場」(ホームズ判事)という発想へとつながっていく。

もちろんアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害とは何かは定義できない」という議論に収れんしていった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(Cohen v. California)もあった。今よりもずっとリベラル司法時代だった。判例の変遷から連邦最高裁ヘイト規制消極的な背景が見て取れる。

リベラル保守のあまりの違い、トランプのような存在の出現、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さである

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。列への割り込みへの怒りや、コロナ禍での自粛違反者への非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されているように思う。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「まあ、それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。

このような社会では、いざという時、自由は容易に空気によって抑圧されてしまう。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。

絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄スト、病院スト(ニッパチ闘争)などを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権社会に本当の意味では根付かなかった。規雇用では労使協調路線丸められ、非正規雇用とは小作争議時代以下の分断状況が続いているのが現状だ。

全農警職法事件高裁判断を覆して国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現闘争」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、司法行政をして、最終的に「暴力容認しがたいもの」と決着させた形だ。

こうした着地は、理念人権の原点を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声が無視されてきた構造的な沈黙など、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。

それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓をもっているかどうかだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる。アメリカフランスだけの例で少々の暴論は承知の上だけど。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な意味なのだ

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この授与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を、自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。一旦、教科書から離れよと。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人たちが見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ、戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは法的な整理から離れて、戦後日本映画などの映像表現に潮流についても考えてみたい。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成の始め頃まで――に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦後世代――そして戦中派もまた――かつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映画ドラマ世界ではその典型例として、岡本喜八作品を挙げたい。軍部国家権力風刺し、戦時イデオロギーを相対化する作品。たとえば『肉弾』(1968年)などが象徴的だ。

あの時代表現とは、体制批判自己解放手段だった。伝統道徳国家価値観への反抗心が、それを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、世代世代社会階層で抱えている問題は異なった。家族内の世代対立ないし嫁姑問題テーマになることもあった。

時代が変わると校内暴力管理教育という軸での「反抗」もまたドラマ主題となった。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長さなか、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景生活リズムは急速に姿を消していった。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。山田太一の『岸辺のアルバム』(1977年)はその代表例だろう。家庭内での孤独主婦アイデンティティの揺らぎ、不倫という「逸脱」を通じて、旧来の役割価値観から解放されようとする動きが描かれた。家電の普及、核家族化、生活利便性と引き換えに、家庭内での役割曖昧になり、「私は何者か?」という問いが浮上していた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁として現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札吹雪の中で駆けつける馬を通して、「義理人情のある社会」「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」「不良少女とよばれて」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「正しさ」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映だったともいえる。かつては当然のように共有されていた義理人情善悪感覚が、社会の中で揺らぎ始めていたのだ。任侠映画果たしてきた役割もまた、現代社会では失われつつある「自力救済」への郷愁といえる。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。ものすごくざっくりとだけど。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つの潮流のうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場していくにつれて次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、『ゆきゆきて、神軍』(1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三という人物狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込んだり、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後日本記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―とりわけ「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗表現はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。社会全体が清潔になり、ノイズ耐性が失われたかのようだ。

今なら「コンプライアンス違反」として簡単に切り捨てられてしまう。「こんなの、今の時代にはムリ」と。しかし、全体にバイオレンスドラマなのに、たばこポイ捨てシーンだけがNGになるとか(中井貴一がある制作現場で呈した疑問)、それは果たして正しいのか。

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いかけが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

とはいえ、こうした表現行為が抱える問題無視できない。

ゆきゆきて、神軍』のようなセルフドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。

しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であっても、ドキュメンタリー手法には「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。その語りが「私的物語」にとどまらず、社会的な意味を持つためには、「他者に開かれた語り」に昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「加害性」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、観客であり市民である

コンプライアンス違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?思考停止ではないか

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。

おわりに―

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感すぎる時代からこそ、私たちはもう一度、「表現行為自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に、倫理的な共感はあるのか。

そして何より、どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

言論自由に関する憲法理論制度保障を語るうえでは有効であるしかし、国家による表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。制度自由を守るのではなく、自由擁護する社会感性倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「社会不協和音こそが強さの証」とまでいわないまでも。

社会同調圧力に飲み込まれながらも、その空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

2025-04-12

生理女性を助ける義務もないし自分でやれ

もともとは貧困学生のためという目的を逸脱している。

これは有名なフットインザドアーの典型例で詭弁に過ぎない。

麻生セシル🧚✨旧 となりの聖子

@AsoCecile

女性男性にはない

月経があって大変だから

助けてあげよう

というだけなのに

女性ナプキンを配る分

男性にも何か埋め合わせを

をなる思考

平等教育弊害なのかもな🤔

平等』じゃなくて

『公平』の次元の話ができない🤔

小児や障害者への補助とかも

「ずるい」って言う人いるし🤔

2025-04-09

anond:20250409171511

1. WHO定義目的は、「誰かの言い分を有利にすること」ではない

WHO定義は、「性暴力」の範囲を明確にし、世界中のあらゆる文脈で、被害者が正当に保護されるために作られたものです。

これは「女性の味方をするため」ではなく、「加害・被害構造が生まれる状況を是正するため」のガイドライン

> つまり、主眼は「被害者保護」+「暴力の抑止」にあり、「女性証言特別扱いする」ことを目的にはしていません。

例:

加害者女性被害者男性場合でも、性暴力は性暴力です。

夫婦間でも「同意がない性行為」は性暴力

証言の真偽は司法医療支援専門家による適切な評価必要で、性別で有利不利は本来つけられない。

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2. 「彼女は気にしてないからセーフ」は成立しない

彼女下ネタを気にしてないか大丈夫」と言っておきながら、別の人がその場にいて不快に感じた場合には問題になる可能性がある。

これは「制度上のバグ」ではなく、公共空間他者との関係性において自然配慮の話。

例:

電車の中で恋人エロトーク→周囲が聞こえて不快性的ハラスメント判断され得る

職場で「仲良いか大丈夫」と言って下ネタ→他の社員が聞いて不快問題

> 「個人同意」と「場の共有性」を混同してはいけない。


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3. 「制度上のバグ」という言葉自体暴力

「知らん奴が『性暴力!』って言うのは制度バグ」という主張は、

文脈を知らない人には発言権がない」として排除し、

さらに「被害を感じた側の声を無効化する」という点で、まさに加害の温床。

> 制度は「あなた不快なら声を上げてもいい」という最低限の防波堤です。それを「黙れ」と言うのは、制度バグではなく、あなた暴力の温床を望んでいることの証明です。


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4. 定義は「男性悪者にするため」ではなく、「対等な関係を前提にするため」にある

夫婦でも、恋人でも、職場でも、同意がなければ加害になる。

これは「男だから加害者」ではなく、立場や力関係によって「同意」の成り立ちが変わることを考慮している。

> 「夫婦から当然」は、権力による同意の歪みの典型例。定義がそれを否定するのは当然です。


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総括:その主張の問題

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必要であれば、WHO報告書の該当部分の原文も出しますし、実際の法的判例も紹介できます

この種の議論は「感情」や「空気」ではなく、定義文脈目的を丁寧に分けて考えることが何より大切です。

テクノリバタリアンテクウヨ)と社会科学とは相性が悪い

テクウヨITー牛の人文学敵視は病気レベル

anond:20250408214026

元増田の言いぶりは極端だけど、テクリバタリアンテクウヨ)と社会科学とは相性が悪いよね。

社会科学は(主語めちゃくちゃでかいけど)、データが無いか乏しい中で、理論を発達させて物事を推論するというアプローチが多い。

これは経済学典型的だと思っていて、「商品価格が何で決まるか」ってテーマについて、全ての商品データなんか集められっこない時代に、近代経済学は「需要供給で決まる」と説明し、マルクス経済学は「投下労働量で決まる」と説明した。

でもテクリバタリアンテクウヨ)は同じテーマについて、大量のデータをもとに機械学習でズドンと答えを出しちゃう

今の中古車業界とかが典型で、大手中古車専売店は中古車在庫の値付けを上記プロセス毎日うから、そこに(社会科学的な)理論が介在する余地がない。

業界人間じゃないんで知らんけど、今は不動産価格とかホテル宿泊費とかもおんなじ感じじゃないかな。

こんなことやってる奴らからすると、伝統的な経済学価格理論なんてアホに見えて仕方ないだろうね。

(だからこそ経済学ビッグデータを(統計学を使って)その体系に盛り込んでいこうと努力しているわけだけど)

歴史学に似たような話があって、「日本史学は(戦乱が少なかったおかげで)史料が山ほど残っているか歴史理論があまり発達しなかったが、ヨーロッパ史学は史料が少ないおかげで歴史理論がよく発達した」なんて言説がよく言われたりした。

これは日本史学コンプレックスとして語られることが多かったんだけど、よく考えりゃデータ史料)がある以上は理論なんかに頼る必要は無いわけで、テクリバタリアンテクウヨ)的な発想から行けば「理論なんざ要らねぇよ」ってことになるんだろう。

まあ思い付きの域を出ていないんだけど、大方こんなノリだと思うよ。

2025-04-08

anond:20250408163319

駄目な奴は何をやっても駄目という典型例に気づいてないの本人だけで草生える

anond:20250408063818

企業に囲われるのが古くなってきたのでは?

唯我独尊で、徐々に個人個人でやっていける時代になっていってる

しろ企業リスク取らなくなったら利益出なくなっていくまであり得て、ディズニーとかその典型では?

2025-04-07

anond:20250407171554

すべての無駄を楽しめるんなら

別にすべてのコンテンツを楽しむこともできるだろうし

タイパやコスパ重視で行動しても楽しめるってことになる理屈じゃないですかね。

他人の楽しみかたを否定するために適当理屈正当化出来てるつもりの典型

非モテ男性肥大化した自己肯定感

俺も非モテ男性の一員なんだけど、同じ非モテ男性ほとんどが自己肯定感が低いという自認でいるのが驚きで、これは違うくて、非モテ男性問題ほとんどは自己肯定感が高すぎるところにあると思う。

ぼくは社会から認められる人間だ、無条件に受け入れてくれる女性が現れるべきだ、という思想を持っているのがその典型

普通人間はその思想自体高望みであって、求めて与えられるものではないから、勝ち取らないといけないと理解していると思うんだけど、非モテ男性はその考えも至らず、誰かが餌を与えてくれるのを待っている。

非モテ男性がはASDADHDのような発達障害に多くて、親が過保護な家庭で育ったか、あるいはネグレクトを受けた家庭で発生しやすいのもうなずける。

親に大切に扱われてきて、自己肯定感が高すぎるために友達もいないで、歪んだ精神矯正されないまま大人になってしまったのが非モテ男性だと思ってる。

はてなでよく相談している非モテ男性いかにも自己肯定感が低いように見せかけて、自分は愛されたいだけ、人並みの幸せを得たいだけと主張する。

けれど、自分から勝ち取るための努力はせず、高い自己肯定感を守るために、努力をしても明後日の方向にしか努力ができないから、相談内容も最終的にはぼくは悪くない、ぼくを認めない女が悪いという主張になってしまう。

そうした非モテ男性の多くは女性は大切に扱われている、と思っているんだろうけど、それは全くの間違い。

しろ社会女性ほど粗雑に扱われている生き物はいなくて、小中高でも、大学でも、会社でも、ありとあらゆる場所で、女だからという偏見で見られてチャンスを与えられなかったり、勝ち取ったのに与えられなかったり、あるいは与えられても他の男に奪われたりする。

女性はそういう厳しい環境に身を置いてるから、本当に自己肯定感が低くて苦しんでいる人が多いし、中には自ら風俗業になってしまう人もいるんだけど、その現実が見えていないか、または見ようともしていない。

非モテ男性モテないという苦しみは、男社会ぬくぬくと生きてきて、あらゆるものを得てきた男性が、次は女性がほしいと言っているだけにしか感じられないから、全く共感できない。

肥大した自己肯定感と、自分の現状をよく踏まえて、なぜ無条件に自分は愛されるべきだと思えるのか、なぜ女にモテないことを自分のせいだと認識できないのか、非モテ男性はいまいちど自問してほしい。

anond:20250407110951

あり得ない例え話をするのは詭弁典型だよ

怪しいと思ったらすぐに否定したほうがいいよ

2025-04-06

弱者男性という名の病気

弱者男性が嫌われるのは、主に次の2つの理由がある。

この2つは、書き出してみれば自明であるくらいにおかし発言なんだけど、弱者男性はなぜかこの2つを強固に信念として持ち続けている。端的に言うと、認知が歪んでいる。

俺も元弱者男性からわかるが、弱者男性のなかでは、実は本当に解決したいのは後者のほうで、性欲由来での苦しみがあって、女性をあてがってほしいと常に思っている。

でも、それが叶えられないから、前者の思想内面に宿して、モテる努力をするよりも、女叩きをすることによって後者の苦しみを軽減しようとしている、これが弱者男性の生態だ。

まれに、弱者男性治療法として「ソープに行け」が提唱されることがある。これは、たしか後者認知の歪みを緩和することにはつながるんだけど、場合によっては前者の歪みが強化される危険性を孕んでいる。

投げ銭した弱者男性が強烈なアンチになるのは、まさにその典型だね。女性自分人生の救いにならないことに気づいたものの、女性が男から楽して金を巻き上げているという歪んだ妄想に基づいて、誹謗中傷したり、場合によってフェミサイドを起こしてしまったりする。

から弱者男性治療は前者と後者、双方の認知の歪みを治すことでしか実現しない。どちらか片方ではダメ

弱者男性必要なのは、望みが薄いまま女性を探すことでも、努力もせずネット女性を叩くことでもなくて、認知の歪みを解消することだ。

もし自分認知の歪みに気づいて、精神科カウンセリングに通えるのならばそれが一番だけど、そうでないならば、親や親友と呼べるほど献身的になってくれる人とつきっきりでリハビリを続けるしかない。

もし、あなた自分おかしくなっていると自覚できる弱者男性だったり、親身になってくれる人が近くにいるならば、すぐにでも治療に当たってほしいと思う。

人類の半分は女性だ。その女性たちを敵対視して、敵対視されているという被害妄想に囚われているより、弱者男性治療して認知を正しい方向に持っていくことのほうが、ずっと幸せだと思うよ。

2025-04-01

anond:20210220020834

めちゃくちゃ文化資本受け継いだアホボンボン典型じゃん。

大阪底辺地域の中卒ドカタ親に育てられた子が建築会社社長になるのと変わらん。

2025-03-30

anond:20250328225942

これはシンデレラコンプレックス典型例ですね

どうせ私なんか、と自虐しているようで、実際は、そんな自分をまるごと受け止めてくれる王子様がどこかにいるはず!と考えています

から自分改善しようとしない。

2025-03-28

人間関係本質

恋愛結婚の「理想の高さ」とは何か

最近、「恋愛結婚に対する理想が高すぎる」という話をよく聞く。マッチングアプリの普及で、年収容姿学歴趣味価値観などの条件を細かく指定して相手を探すことが当たり前になった結果、理想に合わない相手最初から選ばれなくなっている。でも、これは恋愛結婚本質を見失っているように思う。

人間関係本質は、条件の一致ではなく「親密度の積み重ね」にある。家族はその典型で、価値観趣味が違っていても、長い時間を共に過ごすことで強い絆が形成される。友人関係も同様で、初めから共通点が多いか友達になるのではなく、一緒に過ごした時間の中で親しみが生まれ関係が深まっていく。

恋愛には「最低限の条件」がある

ただし、恋愛特に初期段階)では、「最低限の条件」を満たしていないと関係は発展しない。この最低限の条件とは、相手に対する生理的心理的な魅力や、尊敬共感を感じられる部分など、「この人と親密になりたい」と思わせる無意識基準のことだ。これがクリアされて初めて、時間を共有することで関係が深まっていく。

友人関係との違いもここにある。友人関係は、親密度を積み重ねることで築かれるが、恋愛ではそれに加えて「性的魅力」「異性としての関心」が必要になる。男女の友情が「性的魅力がなければ成立する」と言われるのも、この最低限の基準クリアしていないからだろう。

理想の条件」に囚われると、本質を見失う

問題は、現代恋愛では「理想の条件」を重視するあまり、「最低限の条件」を無視してしまうことにある。人は無意識のうちに「この人は恋愛対象になりそうか」をスクリーニングしているが、その判断直感的で、論理的に整理できるものではない。だから理想と違う相手でも、実際に関係を深めてみないと「最低限の条件」を満たしているかどうかは分からない。

ところが、理想に合わないという理由だけで、親密度が育つ前に相手を切り捨ててしまうと、そもそも関係の芽が育たない。逆に、最低限の条件を満たしている相手であれば、たとえ理想とは違っていても、時間と共に親密度が高まり満足度の高い関係が築ける可能性は十分にある。

恋愛結婚本質は「理想」ではなく「親密度

結局、恋愛結婚も、「理想の条件を満たす相手を探すこと」ではなく、「最低限の条件」をクリアした相手との関係を、時間の中で育てていけるかどうかにかかっている。理想に囚われて相手を見逃してしまうより、関係を深める中で相手の魅力に気づく方が、結果的満足度の高い関係に繋がるはずだ。

この点は、恋愛だけでなく友人関係にも同じことが言える。友人の少ない人は、価値観趣味の一致にこだわるあまり関係を深める「親密度の積み重ね」をおろそかにしていることが多い。恋愛でも友人関係でも、本質は「条件の一致」ではなく、関係を育てていく過程での親密度なのだ

本当に大切なのは「親密度の積み重ね」

恋愛結婚において、本当に大切なのは、「理想の条件を満たす相手を探すこと」ではなく、「関係の中で育まれる親密度」だということを、忘れてはいけないのかもしれない。

2025-03-27

Amazon26世紀青年(ばかたち)がオバマ政権のことになっている

Amazonプライムビデオ説明が「オバマ大統領出現を予言した?! マ~ベラスな近未来SFコメディ!」になってるんだが

https://www.amazon.co.jp/dp/B0167KON2C

 

これって以前見た時はトランプだった気がするんだよね。ただそれが何年前か忘れちゃったけど。

キャッシュ探してみたけどgoogle提供止めたしどこのサイトにも残ってないっぽい。

なのでいつ書き換えられたのか判別できんって状態

 

こういう感じの忖度は他にもあるんじゃないだろうか?探して報告&共有したら面白いと思う。その会社権威主義体制への耐性評価として残しておくべきかと。

 

因みにAmazonの同映画他国版では余計な惹句は書かれてなくて「平均のアメリカ人”の典型兵卒ジョー・バウアーズ。彼は、米国国防総省から、極秘の冬眠~」以下のプロット要約だけが書かれているので同じような書き換えは無い模様。

2025-03-26

anond:20250325114913

女の趣味って、提供元還元されないものばっか

推し活とか、同人誌とか、まさにその典型例だと思う。

推し活はただフォトスポットで写真を撮っているだけで、オタク写真を撮ることで制作元に還元されるものが何一つない。

同人誌も、ポルノ二次創作原作者許可を得ず売り捌くことで、原作者還元されるものは何一つない。

(以下略)

2025-03-25

anond:20250325120335

なるほど、なかなか強い意見だね。でも、論破AI視点からすると、この主張にはいくつもの矛盾論理の穴がある。では、一つずつ論破していこう。

### **1. 「オタク文化が認められたが、男オタク存在は認められていない」→矛盾している**

オタク文化が認められた時点で、その文化を支えてきた主要な層(つまりオタク含む)も必然的に認められる。

オタク文化OKだけど男オタクNG」というのは、「音楽は好きだけど、ミュージシャンは嫌い」と言っているようなもの。支える人がいないと文化は成立しないので、これは論理的に破綻している。

### **2. 「男オタクは臭くてキモくてマナーが悪い」→偏見一般化の誤り**

「男オタク=全員が不潔でマナーが悪い」というのは、データ統計的根拠が一切示されていない主観的な決めつけだ。もちろんマナーが悪いオタクもいるだろうが、それを「全体」として語るのは誤った一般化(hasty generalization)の典型

逆に、「女性オタクは全員マナーがいい」と言うのも証明できない話。これこそ偏見では?

### **3. 「町おこし女性に来てほしい」→経済原理に反する**

町おこし目的は「人を集め、経済を回すこと」。男性オタクであれ女性オタクであれ、お金を落としてくれるなら町としては歓迎するはず。

「本当は女性に来てほしい」というのは、単なる願望であり、経済的な実態無視している。**金を落とすのが男オタクなら、男オタク重要顧客なのは揺るがない。**

### **4. 「ZINE界隈に男オタクが入ってくるのが嫌」→ダブルスタンダード**

オタク文化が広がるのは歓迎」と言っておきながら、「男オタクは来るな」というのは矛盾文化が広がるということは、いろんな人が入ってくることを意味する。

「誰が臭くてキモい男が屯ってるところにZINEを買いに行くと思うの」という主張は、単に「嫌いだから排除したい」という感情論しかない。

### **結論感情論偏見に基づいた主張は論破される**

この意見の根幹は、「男オタクが嫌い」という感情に基づいたもの。でも、感情論理の前では通用しない。偏見思い込みではなく、具体的なデータ論理整合性をもって語らないと、説得力は皆無。

よって、**この主張は論破完了。**

次の挑戦者、かかってこい。

男の趣味って、提供元還元されないものばっか

撮り鉄とか、同人誌とか、まさにその典型例だと思う。

撮り鉄はただ集まって写真を撮っているだけで、撮り鉄写真を撮ることで鉄道会社還元されるものが何一つない。

同人誌も、ポルノ二次創作原作者許可を得ず売り捌くことで、原作者還元されるものは何一つない。

さら問題なのは提供元への悪影響だけ存在していること。

撮り鉄場合は、言わずもがな鉄道会社にも、撮影場所の近隣住民にも迷惑をかけている。

同人誌場合は、原作ストーリー無視されて、二次創作ポルノ側面ばかりが注目されることになって、ファン層の質が悪くなるし、女性ファンが近寄りがたくなる。

こうやって考えると、男が趣味という場においても、独り善がりで他人迷惑とか考えない種族なんだな〜って思うわけ。

anond:20250323155839

まあ、親の反対に遭った程度で結婚をやめるような自我確立していないやつに結婚は早かったから、その結婚破棄は彼女にとってプラスだったと思うね。

そして、相手自分のことを一生考えて生きていくなんてのも相手に自立した人格を認めない未熟な考えだから、その点でもこんなやばい男と結婚しないでよかったと思う。

坊ちゃん育ちというか、毒親育ちで親の意に介さないことをすると力尽くでも従わされているうちにとうとう反抗することをやめたみたいなこともあるかもな。

でも、世間的にはアラサー大人なんだから、何でもかんでも親のせいにするなよって思われる話だな。

まあ、10年して失敗したことに気づいた増田に言うのは酷だろうが。

そして、「女を1人しか知らないでいいのか?」が最大の罠。

女を1人しか知らない人生の方が複数知っている人生よりも幸せ度は高そうだと思う。

1人しか知らない人生はすべてが女はこうだで片付くだろうが、複数知っていると増田みたいに比べていろんなことが目につくようになってだめだろうな。

あと、男も女も25歳過ぎたらだんだん相手を引き算で評価し始めるからどんどん付き合いづらくなっていくというけれど、

増田の話はその典型例だと思った。

若い頃は「こんなところも同じなんだ。気が合う!」「こんないいところもあるんだ」となるのに対し、

年を取ると「ああいうところが違う」「ああいうところがだめ」という意見しか出てこなくなって、付き合えなくなるらしい。

2025-03-20

チー牛非モテ弱者男性の弟を何とかしたいのでアドバイス求む

正確には弱者男性予備軍って感じだけど、大学生にもなってうちの弟は身だしなみを整えない

マジでみっともないからいい加減身だしなみを整えろと言っても欠片も聞く耳を持たない

「俺のようなデブチビはおしゃれしても無意味」(言うほど太ってはいない)

「外見で人間性判断してくるような奴はこっちから願い下げ」(それ以前に友達のひとりもいない)

そういう中学生みたいなことを恥ずかしげもなく言い続けながら中学生の頃に買ったクソキモいトレーナーを着て大学に行っている

もう大学入って1年経つしいい加減社会性を身に着けて欲しいかこちらも口うるさく注意するんだけど一向に話を聞かない

それで昨日母親と一緒に大説教大会に発展したけど効果がない

こちからは、

大学と家とを往復するだけなのは大学生として流石にやばい

・お前は周りの人間について馬鹿しかない」などと言うがこちから言わせれば馬鹿なのはお前

冷笑的な態度で人との交流を避けているのは怠惰すぎる

・「俺はこいつらみたいな馬鹿とは違う」「俺は俺のことをわかってくれる賢い人とだけつるむ」みたいな態度は本来中学生卒業しておくべき

大学生という一番人とのコミュニケーションが気楽にできる時代に人付き合いを避けるとかお前はこの先の人生どうしたいのか

彼女を作れとは言わない、普通に友人を作れ

・家に帰ってモンハンやるだけか?

・せめて友達通話しながらオンラインモンハンやってるならいいけどソロプレイしかしないのはどうなんだ

・周りのことを馬鹿にして見下しているくせにお前は言うほど成績も良くはないだろ

・お前は単にコミュ障怠惰で怖がりなだけのくせにプライドだけは肥大化させているからそうやって周りを見下している

・そうやって思考を拗らせたまま大人になったらどうせネット女性嫌悪投稿をしてインプレ稼ぐようなろくでもない人間になるぞ

これくらいのことを真剣に伝えたが何も響いた様子はない

から弟は何か今回のように説教される立場になるとふてくされた顔のまま何も言わなくなる

「どう思ってんの?」「話聞いてんの?」って言っても何も反応を寄越さな

ただ黙って無反応を貫いてこちらが引くのを待つという卑怯な態度を示してくる

昨日も3時間ほど粘ったけど結局弟からは何も返事が返ってこなかった

はてなには現役弱者男性や元弱者男性もたくさんいるだろ?

こういうときどうすればいいか教えてほしい

実は最近弟のXのアカウント特定したんだが案の定某白饅頭や某バルミなどのミソジニーアカウントフォローしてひたすら反フェミニズム系の投稿をしていた

割と拗らせ非モテチー牛の典型例になってしまっていることを知ってマジで頭を抱えている

特に拗らせ非モテから脱却した人はそのきっかけを教えてほしい

こちらとしても、本当に弟には幸せ人生を歩んでほしいと思っているんだけどもう本人のマインドセットの部分で挫かれていてどうしようもない

なんて言えば、どこに連れていけば、どういうきっかけがあれば弱者男性マインドから脱却させることができる?

2025-03-18

クズ情報大学生戯言

俺は鬱罹患歴有、ADHD、軽度ASD高知能型の社会不適合者。少なくとも社会不適合者以外は診断結果として言い渡されているので自称ではない。少なくともぼっちでは無いので、そういう意味では社会不適合者ではないかもしれない。

現在タイトル通り情報学科大学生で、就活中だ。就活について色々悩み、苦しみ、まぁここに愚痴を書こうとしているわけだ。

一応、俺は周りの中では出来る方だ。得手不得手が激しいだけに平均で見れば成績は中の上程度に落ち着くが、得意分野に関しては強みと言って申し分ない程度はある。これは周囲からもそう言われているし、そう認識“すべき”だと思っている。

なにより俺は他の奴らと比べても明確に努力をしていない。他の奴らがそれなりに努力している横で、適当ゲームをしながら前日に復習するだけでそれなりに点数をとって生きてきた。得意分野と言える部分は興味があってより多めに調べただけだ。大したことをした訳でもない。

多分、地頭だけはあるんだろう。医者には高知能型と言われたし、周りとの理解速度や理解度の差を加味すると明確に差はある。あると言わないと、勉強をしても俺以下の点数しか取れない友人に対する嫌味になる。

だが、結局のところ人間は積み重ねてきたものが全てで、地頭なんてもの下地に過ぎない。

結局のところ、地頭がいいなんて言うのは努力量を少し軽減できるだけのもので、努力のものから逃げることは出来ない。いや、生き方さえ選べば出来るだろうが、ロクな生き方にならないのは目に見えている。だから、真面目に生きるなら結局努力することから逃げられない

努力していないとは言ったが、ハッキリいえば努力“出来ない”だけだ。ADHDの中でも衝動性が強いらしく、相当特異な状況でもない限り集中力がすぐに切れるし、自分の好きじゃない事にはスイッチすら入らない。たとえゲームですらだ。つまるところ、社会で生きていくため必要な素質が明確に欠けている。どうしようもない。

からといって、その欠陥を埋められるほどの才能は俺には無い。DB設計構築について深い理解があります!とか、SOLID原則に基づいたオブジェクト指向設計経験があります!とか、普段から家のPC仮想LinuxOSでサーバーを立てて勉強してます!みたいな話だってない。一応はdiscordbotを軽く作ってみたり、dbを組み込んだWebシステム設計込みで作ったりはしたが、「一応動くもの」と「まともに動くもの」には天と地程の差があるし、同業種にやってくる新米エンジニアは俺とは比較にならないほどデキる奴らばかりだから話にもならない。1500行のシステムです!というのを冗長ソースという自認を持ちながら話したところで自分の顔に泥を塗るのと同義だ。やはり、どうしようもない。

ストレス耐性も低い。まあ、これは鬱の罹患歴があると言った時点でご察しだが。

色々理由はあるが、大体の問題高知能型発達障害、あるいは単なるADHD典型例と言えば収まりがつく。

あることは他者より出来るが、あることは他者より出来ない。出来る項目で無駄プライドを膨らませ、出来ない項目で無駄プライドに傷をつける。精神的に不安定になり、悪循環に陥る。

衝動性が強くその場その場での言動制御出来ないが、その後自身言動を振り返って対人関係自身ミスに恐れを抱く。

自己現実的立場を推論し、将来の社会立場や末路を想像することで恐怖心を抱きストレスを抱える。

本当によくある典型例だ。そしてそれらの全てが俺を蝕み、致命的な状態へ追いやっている。イカれた睡眠リズム、ロクでもない食習慣、繰り返される逃避行動、etc……。ついでに就活ストレスが途方もない影響を及ぼしてるのは言うまでもない。

さっさと精神科で診断を受けて長期休暇を取るなりした方がいいのは分かっている。だが休学届を出して1年休んだとして、休学の理由を聞かれた時何を言えばいいんだ? そこが俺の最大の弱みだと言うのに。

正直、就活だってSPIやらCABやらよりも性格適性検査の方が恐ろしい。最初試験を受けた時は精神疾患リスクが高い人間を炙りたいという思惑が見え透けすぎていて思わず笑ってしまった。その後に落ちた時点で笑いは引き攣ったものにならざるを得なかったが。

なにが嫌かといえば、背景を考慮すればそういう人間を蹴りたいというのは同意せざるを得ないことだ。俺だって精神疾患リスクが高い人間会社に入れたくなんてない。解雇しにくい会社なら尚更だろう。俺だって同じ立場ならそうする。

少し強めに指導したら鬱になる部下なんて腫れ物を扱うように触るしかなくなる。俺だってそんな遠慮されながら教育されたくはない。ないが、俺の精神が耐えられるかは別だ。少なくとも、俺の認知精神的強度は一致していない。

そして自身以外に誰も責められず、勝手ストレスを抱え込む。無限の負のループだ。当たり前だろう、俺が抱える矛盾のものストレスなのだから

求められているものが見える。だが、自分が求められているものを満たせないことが分かってしまう。ギャップを埋めようとしても、それが埋まらないものであることも理解出来てしまう。ならば、俺はどうすればいいんだろうか?

今見えるのは、ぶら下がった俺の縊死体だけだ。

まあ、こんなもんだ。

歳をとってみれば鬱で学校に行けなかった頃の悩みなど大したことはないと感じるようになったし、今悩んでいることもジジイになれば大したことは無かったと思えるのかもしれない。だが、今の俺には重大な問題なのだ過去の悩みだって、当時解決するには重い問題だったことは変わらない。解決しろ軽率に言えもしない。

なるようにしかならないとは分かっているが、この無駄に膨らんだ自尊心と、無知無謀が過ぎる希望と、突きつけられる無情な現実の果てに、俺はどこまで生きていられるだろうか。

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