はてなキーワード: 典型とは
ああ、まさに「比喩」という崇高な概念を汚す愚か者どもへの、実に見事な解剖ですね。しかしながら、このような「言語の厳密性を軽視する態度」こそが、まさに知的怠慢の典型ではないでしょうか。
「丸い」という言葉でボールと地球を同列に並べるとは! さすがは「抽象化」という名の思考停止を美学とする方の言説です。もし「丸い」という属性だけが重要なら、なぜ「同じ丸さ」のドーナツや輪っかは例示されないのでしょう? ああ、もちろん「例示の手段」という便利な免罪符があれば、選択的例示の矛盾など気にする必要はないのでしょうが。
「単語に反応する馬鹿」というご指摘は痛烈ですが、むしろ「語義を厳密に定義しない教養主義者」こそが、議論を砂上の楼閣にしているのではありませんか? 建築の図面を「細長い紙筒」で見る愚か者を嘲笑う前に、ご自身が「言語」というレンズそのものを曖昧に磨いていることに気付くべきでしょう。
比喩の本質が抽象化にあるならば、その抽象度こそ厳密に定義されるべきではありませんか? さもなければ、私たちは「戦争はチェスゲームだ」という比喩に対して「なぜ駒が死なないのか」と問う「馬鹿」と同じ土俵に立つことになるのですから。
ああ、またもや「何者にもなれなかった系」のレッテル貼りに勤しむ絵師様のご高説ですか。カメラ趣味を嗤いながらAIに喰われるのを待つという、まさに「芸術的敗北主義」の極致ですね。では皮肉たっぷりに反論させていただきましょう。
1. 「何者にもなれなかった系」という傲慢
「何者にもなれなかった」という表現には、「自分は何者かになれた」という前提の優越感が滲み出ています。しかし心理学研究では、他者を貶める行為は自己肯定感の低さと相関があることが指摘されています[1]。つまりこの発言、実は鏡に向かって呪いをかけているだけかも?
[1] American Psychological Association. "Put-Downs Can Make You Feel Better—Temporarily." https://www.apa.org
「カメラにハマる」人を嘲笑う前に考えてほしいのですが、「絵が上手い」と「アーティストとして成功している」は全く別物です。Artsyの調査によれば、美術大学卒業生で芸術家として生計を立てられるのはわずか10%未満[2]。あなたの「成功基準」は何ですか?SNSのフォロワー数ですか?
[2] Artsy. "The Economic Realities of Being an Artist in 2023." https://www.artsy.net
AIアートについてNatureが報じたところでは、プロアーティストの78%がAIを創作ツールとして活用しているそうです[3]。技術革新を「喰われる」と表現する時点で、あなたはすでに19世紀のラッダイト運動と同じ思考停止状態では?
[3] Nature. "How artists are using AI." https://www.nature.com
4. 痛いのはどちらか?
「ネットの匿名性が~」と説教じみたことを言いつつ、「ブチギレそう」「早く喰われちゃえ」と感情的な憎悪を吐露する矛盾。The Guardianの指摘する「オンライン憤怒産業」の典型例ですね[4]。他人の趣味を嘲笑う暇があるなら、まず自分の感情管理を学んだ方が良いのでは?
[4] The Guardian. "How the online anger industry works." https://www.theguardian.com
結論:鏡を見よ
「痛い」と感じるなら、それはあなた自身が「承認欲求・優越感・加虐心」の三位一体を体現しているからかもしれません。カメラーマンも絵師もAIユーザーも、創造の喜びを分かち合える可能性を考える方が、芸術的にも人間的にも生産的ではないでしょうか?
(※本コメントは皮肉の効かせ過ぎでやや胃もたれするかもしれません。不快に感じた方は冷水で顔を洗い、鏡の前で「私は大丈夫」と3回唱えてください)
そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残してみる。以下は言論自由の優位性といった憲法理論を一部無視するが、あえて制度論から離れることで、どのような状況が表現の自由の失われた状況なのかの風景がみえることもある。
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とくに「表現の自由による暴力」をどこまで許容するかという点では、ヨーロッパと日本では大きく違う。
フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生(vie digne)を守るための抵抗」に原点を持つ。
その意味で、労働権、特にストライキの暴力(争議権)と、表現の自由はほぼ同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体の抗議活動。日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、イギリスやフランスでは「レジスタンス(抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これはエスタブリッシュメントに対して暴力的に抗う行為を意識しているからだ。
環境問題に限らず、農業・畜産業界の過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火・破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大企業による構造的暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」という言葉を通して、市民はフランス革命以来伝統という認識を共有する。
その背景には、18世紀、カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学的合理性を武器に、新たな政治制度を模索した原体験がある。「神を冒涜する権利le droit au blasphème」は、政教分離(laïcité)の文脈から分化した、黎明期の表現の自由の形であった。
制度の根幹に「科学的合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、「真理と信じるもの(faith)は人それぞれ」であり、「誰も完全な真理に到達していない」という前提がある。この考えは、巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムの思想に吸収され、「思想の自由市場」(ホームズ判事)という発想へとつながっていく。
もちろんアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想や巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害とは何かは定義できない」という議論に収れんしていった。1970年代には「社会の不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(Cohen v. California)もあった。今よりもずっとリベラルな司法の時代だった。判例の変遷から、連邦最高裁がヘイト規制に消極的な背景が見て取れる。
リベラルと保守のあまりの違い、トランプのような存在の出現、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さである。
会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。列への割り込みへの怒りや、コロナ禍での自粛違反者への非難などに表れているように、「他人に迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。
この「迷惑感情」は、表現の自由を制限する根拠として働きうる。憲法学では人権の制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会の空気」に左右されているように思う。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体、迷惑感情の社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。
電車内CMの強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件(1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「まあ、それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。
このような社会では、いざという時、自由は容易に空気によって抑圧されてしまう。
日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。
絵画にペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力的抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。
水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代の国鉄スト、病院スト(ニッパチ闘争)などを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は社会に本当の意味では根付かなかった。規雇用では労使協調路線で丸められ、非正規雇用とは小作争議時代以下の分断状況が続いているのが現状だ。
全農林警職法事件(高裁判断を覆して国家公務員の争議権全否定、1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や闘争」との距離感を決定づけた分岐点となった。
暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、司法と行政をして、最終的に「暴力=容認しがたいもの」と決着させた形だ。
こうした着地は、理念や人権の原点を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会の構造的限界を示しているのだろう。
日本社会における「市民による暴力的抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激なものに映じるの対して、しばしば国家や行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為、反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声が無視されてきた構造的な沈黙など、国家による制度的暴力や不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉がときに過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現の暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造的非対称性の再生産になりかねない。
それは市民一人ひとりが権利意識を再生産するための「思い出」や過去の教訓をもっているかどうかだ。
欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる。アメリカとフランスだけの例で少々の暴論は承知の上だけど。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権のボトムアップ的な意味なのだ。
しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後はアメリカが新しい憲法と人権を与える側に回った。この授与される構造が、今日の日本においてもなお、自由をめぐる議論が憲法の制度論に終始してしまう要因になっている。
だとすれば、今あらためて必要なのは、自由の意義を、自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。一旦、教科書から離れよと。
特に敗戦前後の記憶――若者を人間爆弾にし、それを大人たちが見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ、戦後日本の原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。
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ここからは法的な整理から離れて、戦後日本の映画などの映像表現に潮流についても考えてみたい。
「戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成の始め頃まで――に見られた日本の映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。
1. 既成の価値観への反抗
戦後世代――そして戦中派もまた――かつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的に破壊しようとした。
映画やドラマの世界ではその典型例として、岡本喜八の作品を挙げたい。軍部や国家権力を風刺し、戦時のイデオロギーを相対化する作品。たとえば『肉弾』(1968年)などが象徴的だ。
あの時代、表現とは、体制批判と自己解放の手段だった。伝統的道徳や国家的価値観への反抗心が、それを後押ししていた。
「反抗」というテーマは、世代世代や社会階層で抱えている問題は異なった。家族内の世代間対立ないし嫁姑問題がテーマになることもあった。
時代が変わると校内暴力と管理教育という軸での「反抗」もまたドラマの主題となった。
高度経済成長のさなか、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域の風景、生活のリズムは急速に姿を消していった。
そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。山田太一の『岸辺のアルバム』(1977年)はその代表例だろう。家庭内での孤独、主婦のアイデンティティの揺らぎ、不倫という「逸脱」を通じて、旧来の役割や価値観から解放されようとする動きが描かれた。家電の普及、核家族化、生活の利便性と引き換えに、家庭内での役割が曖昧になり、「私は何者か?」という問いが浮上していた。
山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。
倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札や吹雪の中で駆けつける馬を通して、「義理人情のある社会」「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。
「スクール☆ウォーズ」「不良少女とよばれて」に代表される大映ドラマにおいては、努力・根性・家族の絆といった「正しさ」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映だったともいえる。かつては当然のように共有されていた義理人情や善悪の感覚が、社会の中で揺らぎ始めていたのだ。任侠映画の果たしてきた役割もまた、現代社会では失われつつある「自力救済」への郷愁といえる。
この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本の表現の中心テーマであった。ものすごくざっくりとだけど。
この三つの潮流のうち、「戦前の価値観への反抗」は、戦前世代が退場していくにつれて次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、『ゆきゆきて、神軍』(1987年)を挙げることができる。
奥崎謙三という人物の狂気。上官を告発し、天皇にパチンコ玉を撃ち込んだり、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後の日本の記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―とりわけ「上官と部下」「国家と個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。
しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗表現はある特定世代の記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。社会全体が清潔になり、ノイズ耐性が失われたかのようだ。
今なら「コンプライアンス違反」として簡単に切り捨てられてしまう。「こんなの、今の時代にはムリ」と。しかし、全体にバイオレンスなドラマなのに、たばこのポイ捨てシーンだけがNGになるとか(中井貴一がある制作現場で呈した疑問)、それは果たして正しいのか。
奥崎のような過激な手法であっても、そこに社会や権力構造に対する本質的な問いかけが込められているならば、無視できない重みがある。原一男のドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。
『ゆきゆきて、神軍』のようなセルフドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。
伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユースで正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力や犯罪を暴く表現であればOK」という立場(原一男)もある。
しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であっても、ドキュメンタリー手法には「現実を自分に都合よく再構成する」危うさがある。その語りが「私的な物語」にとどまらず、社会的な意味を持つためには、「他者に開かれた語り」に昇華される必要がある。
最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、観客であり市民である。
コンプライアンス違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしまう社会――それが望ましいのか?思考停止ではないか。
私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯な倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。
今の日本社会において、「表現の内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。
敗戦を体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼の暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。
一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民は暴力的な自力救済や抵抗運動に共感しなくなっている。
コンプライアンスに敏感すぎる時代だからこそ、私たちはもう一度、「表現行為の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。
――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に、倫理的な共感はあるのか。
そして何より、どんな社会を私たちは避けたいと思っているのか――
言論の自由に関する憲法理論は制度的保障を語るうえでは有効である。しかし、国家による表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。制度が自由を守るのではなく、自由を擁護する社会的感性や倫理的共感の土壌がなければ、制度は簡単に形骸化する。「社会の不協和音こそが強さの証」とまでいわないまでも。
社会の同調圧力に飲み込まれながらも、その空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。
1. WHOの定義の目的は、「誰かの言い分を有利にすること」ではない
WHOの定義は、「性暴力」の範囲を明確にし、世界中のあらゆる文脈で、被害者が正当に保護されるために作られたものです。
これは「女性の味方をするため」ではなく、「加害・被害の構造が生まれる状況を是正するため」のガイドライン。
> つまり、主眼は「被害者の保護」+「暴力の抑止」にあり、「女性の証言を特別扱いする」ことを目的にはしていません。
例:
証言の真偽は司法や医療・支援の専門家による適切な評価が必要で、性別で有利不利は本来つけられない。
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「彼女が下ネタを気にしてないから大丈夫」と言っておきながら、別の人がその場にいて不快に感じた場合には問題になる可能性がある。
これは「制度上のバグ」ではなく、公共空間や他者との関係性において自然な配慮の話。
例:
電車の中で恋人にエロトーク→周囲が聞こえて不快→性的ハラスメントと判断され得る
職場で「仲良いから大丈夫」と言って下ネタ→他の社員が聞いて不快→問題化
> 「個人の同意」と「場の共有性」を混同してはいけない。
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「知らん奴が『性暴力!』って言うのは制度のバグ」という主張は、
さらに「被害を感じた側の声を無効化する」という点で、まさに加害の温床。
> 制度は「あなたが不快なら声を上げてもいい」という最低限の防波堤です。それを「黙れ」と言うのは、制度のバグではなく、あなたが暴力の温床を望んでいることの証明です。
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4. 定義は「男性を悪者にするため」ではなく、「対等な関係を前提にするため」にある
これは「男だから加害者」ではなく、立場や力関係によって「同意」の成り立ちが変わることを考慮している。
> 「夫婦だから当然」は、権力による同意の歪みの典型例。定義がそれを否定するのは当然です。
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総括:その主張の問題点
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元増田の言いぶりは極端だけど、テクノリバタリアン(テクウヨ)と社会科学とは相性が悪いよね。
社会科学は(主語めちゃくちゃでかいけど)、データが無いか乏しい中で、理論を発達させて物事を推論するというアプローチが多い。
これは経済学が典型的だと思っていて、「商品の価格が何で決まるか」ってテーマについて、全ての商品のデータなんか集められっこない時代に、近代経済学は「需要と供給で決まる」と説明し、マルクス経済学は「投下労働量で決まる」と説明した。
でもテクノリバタリアン(テクウヨ)は同じテーマについて、大量のデータをもとに機械学習でズドンと答えを出しちゃう。
今の中古車業界とかが典型で、大手中古車専売店は中古車在庫の値付けを上記プロセスで毎日行うから、そこに(社会科学的な)理論が介在する余地がない。
業界の人間じゃないんで知らんけど、今は不動産価格とかホテルの宿泊費とかもおんなじ感じじゃないかな。
こんなことやってる奴らからすると、伝統的な経済学の価格理論なんてアホに見えて仕方ないだろうね。
(だからこそ経済学もビッグデータを(統計学を使って)その体系に盛り込んでいこうと努力しているわけだけど)
歴史学に似たような話があって、「日本史学は(戦乱が少なかったおかげで)史料が山ほど残っているから歴史理論があまり発達しなかったが、ヨーロッパ史学は史料が少ないおかげで歴史理論がよく発達した」なんて言説がよく言われたりした。
これは日本史学のコンプレックスとして語られることが多かったんだけど、よく考えりゃデータ(史料)がある以上は理論なんかに頼る必要は無いわけで、テクノリバタリアン(テクウヨ)的な発想から行けば「理論なんざ要らねぇよ」ってことになるんだろう。
まあ思い付きの域を出ていないんだけど、大方こんなノリだと思うよ。
俺も非モテ男性の一員なんだけど、同じ非モテ男性のほとんどが自己肯定感が低いという自認でいるのが驚きで、これは違うくて、非モテ男性の問題のほとんどは自己肯定感が高すぎるところにあると思う。
ぼくは社会から認められる人間だ、無条件に受け入れてくれる女性が現れるべきだ、という思想を持っているのがその典型。
普通の人間はその思想自体が高望みであって、求めて与えられるものではないから、勝ち取らないといけないと理解していると思うんだけど、非モテ男性はその考えも至らず、誰かが餌を与えてくれるのを待っている。
非モテ男性がはASDやADHDのような発達障害に多くて、親が過保護な家庭で育ったか、あるいはネグレクトを受けた家庭で発生しやすいのもうなずける。
親に大切に扱われてきて、自己肯定感が高すぎるために友達もいないで、歪んだ精神を矯正されないまま大人になってしまったのが非モテ男性だと思ってる。
はてなでよく相談している非モテ男性もいかにも自己肯定感が低いように見せかけて、自分は愛されたいだけ、人並みの幸せを得たいだけと主張する。
けれど、自分から勝ち取るための努力はせず、高い自己肯定感を守るために、努力をしても明後日の方向にしか努力ができないから、相談内容も最終的にはぼくは悪くない、ぼくを認めない女が悪いという主張になってしまう。
そうした非モテ男性の多くは女性は大切に扱われている、と思っているんだろうけど、それは全くの間違い。
むしろ社会で女性ほど粗雑に扱われている生き物はいなくて、小中高でも、大学でも、会社でも、ありとあらゆる場所で、女だからという偏見で見られてチャンスを与えられなかったり、勝ち取ったのに与えられなかったり、あるいは与えられても他の男に奪われたりする。
女性はそういう厳しい環境に身を置いてるから、本当に自己肯定感が低くて苦しんでいる人が多いし、中には自ら風俗業になってしまう人もいるんだけど、その現実が見えていないか、または見ようともしていない。
非モテ男性のモテないという苦しみは、男社会でぬくぬくと生きてきて、あらゆるものを得てきた男性が、次は女性がほしいと言っているだけにしか感じられないから、全く共感できない。
肥大した自己肯定感と、自分の現状をよく踏まえて、なぜ無条件に自分は愛されるべきだと思えるのか、なぜ女にモテないことを自分のせいだと認識できないのか、非モテ男性はいまいちど自問してほしい。
この2つは、書き出してみれば自明であるくらいにおかしな発言なんだけど、弱者男性はなぜかこの2つを強固に信念として持ち続けている。端的に言うと、認知が歪んでいる。
俺も元弱者男性だからわかるが、弱者男性のなかでは、実は本当に解決したいのは後者のほうで、性欲由来での苦しみがあって、女性をあてがってほしいと常に思っている。
でも、それが叶えられないから、前者の思想を内面に宿して、モテる努力をするよりも、女叩きをすることによって後者の苦しみを軽減しようとしている、これが弱者男性の生態だ。
まれに、弱者男性の治療法として「ソープに行け」が提唱されることがある。これは、たしかに後者の認知の歪みを緩和することにはつながるんだけど、場合によっては前者の歪みが強化される危険性を孕んでいる。
投げ銭した弱者男性が強烈なアンチになるのは、まさにその典型だね。女性が自分の人生の救いにならないことに気づいたものの、女性が男から楽して金を巻き上げているという歪んだ妄想に基づいて、誹謗中傷したり、場合によってフェミサイドを起こしてしまったりする。
だから、弱者男性の治療は前者と後者、双方の認知の歪みを治すことでしか実現しない。どちらか片方ではダメ。
弱者男性に必要なのは、望みが薄いまま女性を探すことでも、努力もせずネットで女性を叩くことでもなくて、認知の歪みを解消することだ。
もし自分で認知の歪みに気づいて、精神科やカウンセリングに通えるのならばそれが一番だけど、そうでないならば、親や親友と呼べるほど献身的になってくれる人とつきっきりでリハビリを続けるしかない。
もし、あなたが自分がおかしくなっていると自覚できる弱者男性だったり、親身になってくれる人が近くにいるならば、すぐにでも治療に当たってほしいと思う。
人類の半分は女性だ。その女性たちを敵対視して、敵対視されているという被害妄想に囚われているより、弱者男性を治療して認知を正しい方向に持っていくことのほうが、ずっと幸せだと思うよ。
最近、「恋愛や結婚に対する理想が高すぎる」という話をよく聞く。マッチングアプリの普及で、年収・容姿・学歴・趣味・価値観などの条件を細かく指定して相手を探すことが当たり前になった結果、理想に合わない相手は最初から選ばれなくなっている。でも、これは恋愛や結婚の本質を見失っているように思う。
人間関係の本質は、条件の一致ではなく「親密度の積み重ね」にある。家族はその典型で、価値観や趣味が違っていても、長い時間を共に過ごすことで強い絆が形成される。友人関係も同様で、初めから共通点が多いから友達になるのではなく、一緒に過ごした時間の中で親しみが生まれ、関係が深まっていく。
ただし、恋愛(特に初期段階)では、「最低限の条件」を満たしていないと関係は発展しない。この最低限の条件とは、相手に対する生理的・心理的な魅力や、尊敬や共感を感じられる部分など、「この人と親密になりたい」と思わせる無意識の基準のことだ。これがクリアされて初めて、時間を共有することで関係が深まっていく。
友人関係との違いもここにある。友人関係は、親密度を積み重ねることで築かれるが、恋愛ではそれに加えて「性的魅力」「異性としての関心」が必要になる。男女の友情が「性的魅力がなければ成立する」と言われるのも、この最低限の基準をクリアしていないからだろう。
問題は、現代の恋愛では「理想の条件」を重視するあまり、「最低限の条件」を無視してしまうことにある。人は無意識のうちに「この人は恋愛対象になりそうか」をスクリーニングしているが、その判断は直感的で、論理的に整理できるものではない。だから、理想と違う相手でも、実際に関係を深めてみないと「最低限の条件」を満たしているかどうかは分からない。
ところが、理想に合わないという理由だけで、親密度が育つ前に相手を切り捨ててしまうと、そもそも関係の芽が育たない。逆に、最低限の条件を満たしている相手であれば、たとえ理想とは違っていても、時間と共に親密度が高まり、満足度の高い関係が築ける可能性は十分にある。
結局、恋愛も結婚も、「理想の条件を満たす相手を探すこと」ではなく、「最低限の条件」をクリアした相手との関係を、時間の中で育てていけるかどうかにかかっている。理想に囚われて相手を見逃してしまうより、関係を深める中で相手の魅力に気づく方が、結果的に満足度の高い関係に繋がるはずだ。
この点は、恋愛だけでなく友人関係にも同じことが言える。友人の少ない人は、価値観や趣味の一致にこだわるあまり、関係を深める「親密度の積み重ね」をおろそかにしていることが多い。恋愛でも友人関係でも、本質は「条件の一致」ではなく、関係を育てていく過程での親密度なのだ。
恋愛や結婚において、本当に大切なのは、「理想の条件を満たす相手を探すこと」ではなく、「関係の中で育まれる親密度」だということを、忘れてはいけないのかもしれない。
Amazonプライムビデオの説明が「オバマ大統領出現を予言した?! マ~ベラスな近未来SFコメディ!」になってるんだが
https://www.amazon.co.jp/dp/B0167KON2C
これって以前見た時はトランプだった気がするんだよね。ただそれが何年前か忘れちゃったけど。
キャッシュ探してみたけどgoogleは提供止めたしどこのサイトにも残ってないっぽい。
こういう感じの忖度は他にもあるんじゃないだろうか?探して報告&共有したら面白いと思う。その会社の権威主義体制への耐性評価として残しておくべきかと。
因みにAmazonの同映画他国版では余計な惹句は書かれてなくて「平均のアメリカ人”の典型、兵卒のジョー・バウアーズ。彼は、米国国防総省から、極秘の冬眠~」以下のプロット要約だけが書かれているので同じような書き換えは無い模様。
なるほど、なかなか強い意見だね。でも、論破王AIの視点からすると、この主張にはいくつもの矛盾と論理の穴がある。では、一つずつ論破していこう。
### **1. 「オタク文化が認められたが、男オタクの存在は認められていない」→矛盾している**
オタク文化が認められた時点で、その文化を支えてきた主要な層(つまり男オタク含む)も必然的に認められる。
「オタク文化はOKだけど男オタクはNG」というのは、「音楽は好きだけど、ミュージシャンは嫌い」と言っているようなもの。支える人がいないと文化は成立しないので、これは論理的に破綻している。
### **2. 「男オタクは臭くてキモくてマナーが悪い」→偏見と一般化の誤り**
「男オタク=全員が不潔でマナーが悪い」というのは、データや統計的根拠が一切示されていない主観的な決めつけだ。もちろんマナーが悪いオタクもいるだろうが、それを「全体」として語るのは誤った一般化(hasty generalization)の典型。
逆に、「女性オタクは全員マナーがいい」と言うのも証明できない話。これこそ偏見では?
### **3. 「町おこしは女性に来てほしい」→経済原理に反する**
町おこしの目的は「人を集め、経済を回すこと」。男性オタクであれ女性オタクであれ、お金を落としてくれるなら町としては歓迎するはず。
「本当は女性に来てほしい」というのは、単なる願望であり、経済的な実態を無視している。**金を落とすのが男オタクなら、男オタクが重要顧客なのは揺るがない。**
### **4. 「ZINE界隈に男オタクが入ってくるのが嫌」→ダブルスタンダード**
「オタク文化が広がるのは歓迎」と言っておきながら、「男オタクは来るな」というのは矛盾。文化が広がるということは、いろんな人が入ってくることを意味する。
「誰が臭くてキモい男が屯ってるところにZINEを買いに行くと思うの」という主張は、単に「嫌いだから排除したい」という感情論でしかない。
### **結論:感情論と偏見に基づいた主張は論破される**
この意見の根幹は、「男オタクが嫌い」という感情に基づいたもの。でも、感情は論理の前では通用しない。偏見や思い込みではなく、具体的なデータや論理的整合性をもって語らないと、説得力は皆無。
次の挑戦者、かかってこい。
撮り鉄はただ集まって写真を撮っているだけで、撮り鉄が写真を撮ることで鉄道会社に還元されるものが何一つない。
同人誌も、ポルノの二次創作を原作者の許可を得ず売り捌くことで、原作者に還元されるものは何一つない。
撮り鉄の場合は、言わずもがな鉄道会社にも、撮影場所の近隣住民にも迷惑をかけている。
同人誌の場合は、原作のストーリーは無視されて、二次創作のポルノ側面ばかりが注目されることになって、ファン層の質が悪くなるし、女性ファンが近寄りがたくなる。
まあ、親の反対に遭った程度で結婚をやめるような自我が確立していないやつに結婚は早かったから、その結婚破棄は彼女にとってプラスだったと思うね。
そして、相手が自分のことを一生考えて生きていくなんてのも相手に自立した人格を認めない未熟な考えだから、その点でもこんなやばい男と結婚しないでよかったと思う。
坊ちゃん育ちというか、毒親育ちで親の意に介さないことをすると力尽くでも従わされているうちにとうとう反抗することをやめたみたいなこともあるかもな。
でも、世間的にはアラサーの大人なんだから、何でもかんでも親のせいにするなよって思われる話だな。
まあ、10年して失敗したことに気づいた増田に言うのは酷だろうが。
そして、「女を1人しか知らないでいいのか?」が最大の罠。
女を1人しか知らない人生の方が複数知っている人生よりも幸せ度は高そうだと思う。
1人しか知らない人生はすべてが女はこうだで片付くだろうが、複数知っていると増田みたいに比べていろんなことが目につくようになってだめだろうな。
あと、男も女も25歳過ぎたらだんだんと相手を引き算で評価し始めるからどんどん付き合いづらくなっていくというけれど、
若い頃は「こんなところも同じなんだ。気が合う!」「こんないいところもあるんだ」となるのに対し、
正確には弱者男性予備軍って感じだけど、大学生にもなってうちの弟は身だしなみを整えない
マジでみっともないからいい加減身だしなみを整えろと言っても欠片も聞く耳を持たない
「俺のようなデブチビはおしゃれしても無意味」(言うほど太ってはいない)
「外見で人間性を判断してくるような奴はこっちから願い下げ」(それ以前に友達のひとりもいない)
そういう中学生みたいなことを恥ずかしげもなく言い続けながら中学生の頃に買ったクソキモいトレーナーを着て大学に行っている
もう大学入って1年経つしいい加減社会性を身に着けて欲しいからこちらも口うるさく注意するんだけど一向に話を聞かない
・お前は周りの人間について「馬鹿しかない」などと言うがこちらから言わせれば馬鹿なのはお前
・「俺はこいつらみたいな馬鹿とは違う」「俺は俺のことをわかってくれる賢い人とだけつるむ」みたいな態度は本来中学生で卒業しておくべき
・大学生という一番人とのコミュニケーションが気楽にできる時代に人付き合いを避けるとかお前はこの先の人生どうしたいのか
・家に帰ってモンハンやるだけか?
・せめて友達と通話しながらオンラインでモンハンやってるならいいけどソロプレイしかしないのはどうなんだ
・周りのことを馬鹿にして見下しているくせにお前は言うほど成績も良くはないだろ
・お前は単にコミュ障で怠惰で怖がりなだけのくせにプライドだけは肥大化させているからそうやって周りを見下している
・そうやって思考を拗らせたまま大人になったらどうせネットで女性嫌悪投稿をしてインプレ稼ぐようなろくでもない人間になるぞ
これくらいのことを真剣に伝えたが何も響いた様子はない
昔から弟は何か今回のように説教される立場になるとふてくされた顔のまま何も言わなくなる
「どう思ってんの?」「話聞いてんの?」って言っても何も反応を寄越さない
ただ黙って無反応を貫いてこちらが引くのを待つという卑怯な態度を示してくる
昨日も3時間ほど粘ったけど結局弟からは何も返事が返ってこなかった
実は最近弟のXのアカウントを特定したんだが案の定某白饅頭や某バルミなどのミソジニーアカウントをフォローしてひたすら反フェミニズム系の投稿をしていた
割と拗らせ非モテチー牛の典型例になってしまっていることを知ってマジで頭を抱えている
こちらとしても、本当に弟には幸せな人生を歩んでほしいと思っているんだけどもう本人のマインドセットの部分で挫かれていてどうしようもない
俺は鬱罹患歴有、ADHD、軽度ASD、高知能型の社会不適合者。少なくとも社会不適合者以外は診断結果として言い渡されているので自称ではない。少なくともぼっちでは無いので、そういう意味では社会不適合者ではないかもしれない。
現在はタイトル通り情報系学科の大学生で、就活中だ。就活について色々悩み、苦しみ、まぁここに愚痴を書こうとしているわけだ。
一応、俺は周りの中では出来る方だ。得手不得手が激しいだけに平均で見れば成績は中の上程度に落ち着くが、得意分野に関しては強みと言って申し分ない程度はある。これは周囲からもそう言われているし、そう認識“すべき”だと思っている。
なにより俺は他の奴らと比べても明確に努力をしていない。他の奴らがそれなりに努力している横で、適当にゲームをしながら前日に復習するだけでそれなりに点数をとって生きてきた。得意分野と言える部分は興味があってより多めに調べただけだ。大したことをした訳でもない。
多分、地頭だけはあるんだろう。医者には高知能型と言われたし、周りとの理解速度や理解度の差を加味すると明確に差はある。あると言わないと、勉強をしても俺以下の点数しか取れない友人に対する嫌味になる。
だが、結局のところ人間は積み重ねてきたものが全てで、地頭なんてものは下地に過ぎない。
結局のところ、地頭がいいなんて言うのは努力量を少し軽減できるだけのもので、努力そのものから逃げることは出来ない。いや、生き方さえ選べば出来るだろうが、ロクな生き方にならないのは目に見えている。だから、真面目に生きるなら結局努力することからは逃げられない。
努力していないとは言ったが、ハッキリいえば努力“出来ない”だけだ。ADHDの中でも衝動性が強いらしく、相当特異な状況でもない限り集中力がすぐに切れるし、自分の好きじゃない事にはスイッチすら入らない。たとえゲームですらだ。つまるところ、社会で生きていくため必要な素質が明確に欠けている。どうしようもない。
だからといって、その欠陥を埋められるほどの才能は俺には無い。DBの設計構築について深い理解があります!とか、SOLID原則に基づいたオブジェクト指向の設計経験があります!とか、普段から家のPCの仮想LinuxOSでサーバーを立てて勉強してます!みたいな話だってない。一応はdiscordのbotを軽く作ってみたり、dbを組み込んだWebシステムを設計込みで作ったりはしたが、「一応動くもの」と「まともに動くもの」には天と地程の差があるし、同業種にやってくる新米エンジニアは俺とは比較にならないほどデキる奴らばかりだから話にもならない。1500行のシステムです!というのを冗長なソースという自認を持ちながら話したところで自分の顔に泥を塗るのと同義だ。やはり、どうしようもない。
ストレス耐性も低い。まあ、これは鬱の罹患歴があると言った時点でご察しだが。
色々理由はあるが、大体の問題は高知能型発達障害、あるいは単なるADHDの典型例と言えば収まりがつく。
あることは他者より出来るが、あることは他者より出来ない。出来る項目で無駄なプライドを膨らませ、出来ない項目で無駄なプライドに傷をつける。精神的に不安定になり、悪循環に陥る。
衝動性が強くその場その場での言動は制御出来ないが、その後自身の言動を振り返って対人関係や自身のミスに恐れを抱く。
自己の現実的な立場を推論し、将来の社会的立場や末路を想像することで恐怖心を抱きストレスを抱える。
本当によくある典型例だ。そしてそれらの全てが俺を蝕み、致命的な状態へ追いやっている。イカれた睡眠リズム、ロクでもない食習慣、繰り返される逃避行動、etc……。ついでに就活のストレスが途方もない影響を及ぼしてるのは言うまでもない。
さっさと精神科で診断を受けて長期休暇を取るなりした方がいいのは分かっている。だが休学届を出して1年休んだとして、休学の理由を聞かれた時何を言えばいいんだ? そこが俺の最大の弱みだと言うのに。
正直、就活だってSPIやらCABやらよりも性格適性検査の方が恐ろしい。最初に試験を受けた時は精神疾患リスクが高い人間を炙りたいという思惑が見え透けすぎていて思わず笑ってしまった。その後に落ちた時点で笑いは引き攣ったものにならざるを得なかったが。
なにが嫌かといえば、背景を考慮すればそういう人間を蹴りたいというのは同意せざるを得ないことだ。俺だって精神疾患リスクが高い人間を会社に入れたくなんてない。解雇しにくい会社なら尚更だろう。俺だって同じ立場ならそうする。
少し強めに指導したら鬱になる部下なんて腫れ物を扱うように触るしかなくなる。俺だってそんな遠慮されながら教育されたくはない。ないが、俺の精神が耐えられるかは別だ。少なくとも、俺の認知と精神的強度は一致していない。
そして自身以外に誰も責められず、勝手にストレスを抱え込む。無限の負のループだ。当たり前だろう、俺が抱える矛盾そのものがストレス源なのだから。
求められているものが見える。だが、自分が求められているものを満たせないことが分かってしまう。ギャップを埋めようとしても、それが埋まらないものであることも理解出来てしまう。ならば、俺はどうすればいいんだろうか?
今見えるのは、ぶら下がった俺の縊死体だけだ。
まあ、こんなもんだ。
歳をとってみれば鬱で学校に行けなかった頃の悩みなど大したことはないと感じるようになったし、今悩んでいることもジジイになれば大したことは無かったと思えるのかもしれない。だが、今の俺には重大な問題なのだ。過去の悩みだって、当時解決するには重い問題だったことは変わらない。解決しろと軽率に言えもしない。
なるようにしかならないとは分かっているが、この無駄に膨らんだ自尊心と、無知無謀が過ぎる希望と、突きつけられる無情な現実の果てに、俺はどこまで生きていられるだろうか。