はてなキーワード: 作詞とは
「君が代」は正式な国歌ではなかったが、実質的な国歌として扱われていた。
学校教育、軍隊行事、儀式、国際大会(オリンピックなど)で演奏・斉唱された。
昭和11年(1936年)に文部大臣・平生釟三郎が、歌詞の意味を理解していない子どもが多いことに気づき、小学校教科書に掲載を指示。
教科書には「君が代」の意味を明記:「天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります」
「君が代」は「天皇の治世の永続」を祈念する歌として、国民的義務感を伴って歌われるようになる。
学校では「教育勅語」「修身」とともに重視され、起立・礼と共に斉唱される。
併せて「海行かば」や「紀元節の歌」なども準国歌的に使われた。
終戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)は「君が代」斉唱を一時禁止(特に初期には日の丸掲揚も制限)。
昭和21年(1946年)11月3日、日本国憲法公布記念式典では例外的に「君が代」が斉唱された(昭和天皇・香淳皇后が出席)。
昭和22年(1947年)憲法施行記念式典では「君が代」が演奏されず、代わりに新国民歌「われらの日本」などが使用。
当時は「君が代」が旧体制の象徴とされ、GHQや日本国内の一部では批判的な見解があった。
しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された[46]。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した[47]。
また、「君が代」に代わるものとして、1946年、毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた[46]。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった
サンフランシスコ講和条約(1951年)によって主権回復後、公式行事で「君が代」が再び演奏されるように。
法的根拠はないが、「事実上の国歌」として扱われる慣習が確立。
ただし、特に教育現場では教職員組合(日教組)などが反発し、「起立・斉唱を強制するな」との議論が起きる。
1950年代には日教組が新国歌の公募を行い、「緑の山河」などが制作される(普及は限定的)。
一部の学校で「不起立運動」や「歌わない自由」を主張する教職員と教育委員会の間で摩擦が激化。
国旗国歌法(正式名:「国旗及び国歌に関する法律」)が制定。
DTMやってるんで多少コード進行とかそういうのは分かるほうなんだが、
昭和、80年代くらい(90年代も含むかも)の歌謡曲ってマジでとんでもなくオリジナリティがあって複雑なコードしてる曲が多いんだよな。
コード進行だけじゃなくてアレンジとかもとんでもなくて、素人がちょっと手を出して作れるようなレベルじゃないんよ。
歌詞もかなりすごかった時代だと思うけど、いったいなにがあってこんな化け物じみた時代が生まれたのか不思議になる。
たぶん60~70年代って洋楽に刺激されまくって色んなミュージシャンが真似をしてた時代だと思うんだが、
その中でもより日本的なものと融合しようとしたり(はっぴぃえんどが日本語詞で洋楽っぽいのをやったり)する動きもあって、
それが80年代に日本の歌謡曲へと繋がっていったのかなとも思うが(ユーミンとか大瀧詠一とか山下達郎とかYMOとかなんかもうそのへんぜんぶ)
正直今の時代はボカロ世代がほんっとに似たようなコード進行で早口言葉みたいなので似たようなメロディで、
マジで焼き直し感があるのがめちゃくちゃ多い。
それはそれで今の時代感だとは思う。ヒップホップなんかも生まれて、日本でも必ずしも楽曲としての美しさとか、そういうとこ意外での強度で聞く、または音そのものを聴くという楽しみ方も増えたから。
ただそれにしても安易なヨナ抜きが多すぎる。基本的にボカロ世代は圧倒的にヨナ抜き使った楽曲が大量生産されている。
それの最高峰が米津だと思ってるが、米津に関してはディスってるわけではない。彼の場合どこかあえてそうしてる風にも思えて、米津はアーティストとして俺はボカロ出身であるという矜持も持っているのかなと感じるからだ。
あと与えられたお題(タイアップ)に対してのアンサーが見事なので、プロとしてもすごいんだなあと思う。
もちろんミスチルとかヒゲダンとかKingしっかり楽曲としてクオリティ高く、かつ様々なチャレンジをしてるアーティストもたくさんいると思う。俺も大好きだ。(KingGnuは過大評価だと思ってるけど)
椎名林檎も最初の3枚はこいつバケモンだなと思わせる楽曲クオリティだと思う(事変も好きだし最近のも好きだが、あくまで大衆的な歌謡曲としてはやや懲りすぎ感がある)
だから、俺が昔の歌謡曲に衝撃を受けるのはただただ、その次代の名曲達がすごすぎるだけなんだと思う。
例を挙げるとほんとにキリがないが、筒美京平とか都倉俊一とか来生たかおとか、作詞なら松本隆とかなかにし礼とか阿久悠とか、まあ他にもたくさんいるけど重要なのはどれもめっちゃオリジナリティが強いってとこだ。
例えば薬師丸ひろ子の「Woman ~Wの悲劇より~」って曲、これは映画のために作られた曲なんだがもう完全にエバーグリーン、時代を超えて普遍的な美しさを持った曲だ。
作曲は呉田軽穂で作詞が松本隆、完璧なタッグ。そして薬師丸ひろ子の声。(ユーミンは薬師丸ひろ子のために”オートクチュール”で作った曲だと後に語っている)
何十年前の曲なんだ?間とか、メロディラインとか、歌詞と混ざりあったその美しさ儚さ、どうやったらこんなの作れるの??
最後の部分、サビの繰り返しと思いきや非常にテクニカルな収束のさせかたをしてる(自然すぎて気づきにくいがものすごいアレンジだと思う)のとか震えたね。
考えてみると、80年代の日本の歌謡曲が凄まじいのはアイドルの存在があったからというのも大きな要因なんだろう。
松田聖子、中森明菜、小泉今日子、他にもたくさんいるけど個性的なソロのアイドルが国民的に死ぬほど人気があった時代だ。
(男性アイドルももちろんいたわけだがたぶんほぼジャニーズ系なのでちょっとそこはまた違った話になってしまうので無視する)
彼女たちにこんな曲を歌ってほしい、曲が湧いてくる、プロの作曲家達の中ではそういった化学反応もあったのかもしれない。
逆に今の時代は曲を作る人間が、自分でやればいいんだというのが気楽にできるようになった時代だ。
昔は良かったではなく、昔は昔でなんか謎の修行期間とかそういうのもあったのかもしれないし、様々な面倒を抱えながら仕事をしていた人も多かっただろう。
なんならえらくなってしまったら若い人の曲を平気でパクったりとか、そういうのも起こっていたかもしれない。
なのでそういう話がしたいんじゃない。
あと俺の知らんの教えて!
『新サクラ大戦』および『新サクラ大戦 the Animation』のオープニングテーマ
斎藤P:
「これは、1996年にセガのゲームから2000年にアニメになったということで、有名な広井王子さんの作品で、主人公が横山智佐さんが演じていらっしゃる。」
田中公平:
「これね、ゲームを具体化することになりましてね、広井王子さんから『こんなゲームを作りたい』という企画書が来たんですよ。
じゃあ、ちょっと主題歌を作ろうっていう話になったんですけど、今度はセガが、具体化をなかなかしてくれなくなってきたんですよ。」
斎藤P:
「なるほど。」
田中公平:
「なんか『え、大正時代って何?』みたいな、『女の子がロボットで戦う、これで売れるの?』みたいな話で。」
斎藤P:
「あー、なるほどね。」
田中公平:
「ということで、じゃあ広井さんと先に主題歌とエンディングを作っちまおうってことで、それで主題歌とエンディングを作ったんですよ。」
斎藤P:
「ゲームより先に、曲が先にできたということですね。」
田中公平:
「そうそう。サクラ大戦はそれからずっと、そういう流儀になっていくんですけどもね。」
斎藤P:
「なるほど。」
田中公平:
「それで出来た2曲「花咲く乙女」という曲と「ゲキテイ」ですけど、
それをセガの幹部に聴かせたら、全員それで『あーなるほど!』って納得して、きっちり接着剤になった」
斎藤P:
田中公平:
「そう。だから、『百聞は一見にしかず』じゃなくて、『一見は百聞にしかず』と私はいつも言ってるんですけど、そういう力が『ゲキテイ』にあったようですね。」
【参考リンク】
80年代から90年代に活躍した、ザ・ブルーハーツってロックバンドがいるじゃないですか。
「リンダリンダ」とか「夢」とかが有名ですが、30年以上経ってもまだ、たまに思い出す曲があるんです。
「すてごま」です。
初めて聞いた時は小学生だったので、疾走感のあるメロディと「おろしたての戦車でブッ飛ばしてみたい」という歌詞に格好良さを感じていたと記憶しています。
それに続く
誰かの敵討ちをして カッコ良くやりたいから
というフレーズに、子供心に「正義とは」なんて考えたりもしました。
要は「人は自分の虚栄心のために他人の不幸を望む」という心の闇を描いた内容なんですが、今見返すとより深い歌詞だなあと思ったわけです。
「あの娘に俺が何をやったのかなんて
覚えてるはずがないだろ 俺はやってない
何かきっかけさえあれば 次は俺の順番だ
今度こそやってみせる
やってやってやりまくるんだ」
この部分、かなりとんでもない話で、子共の頃は理解できていなかったと思います。
冤罪をふっかけられた感想が「冤罪を防ごう」ではなく、「次は俺が誰かの醜聞をきかっけにヒーローになってやるんだ」なんですよね。
自分が冤罪をふっかけられたらブチ切れて、同じことを他人にしようと決意する。
フィクションなら「ひでぇw」で済むような話ですが、本当にそういう人が少なからずおり、外れ値の極端な人ではないというのが昨今のSNSで可視化されたのだと感じています。
1993年当時、作詞された甲本ヒロトさんには既に見えていたんだなあと。
いざこざにまきこまれて
◯んでくれないか」
俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称“コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。
1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん”
俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコンを自在に使いこなし、テレビやラジオで流れる新しいテクノロジーのニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書や百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語も祖母の解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。
「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組「みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名そのものが祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しかも子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージそのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらにパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。
祖母の知識の幅はとにかく広かった。歴史、地理、科学、文学、芸術、果てはゲームまで。どんなジャンルの話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの「電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいつしか自然と彼女をそう呼ぶようになった。
人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢にはいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。
大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母の生き方そのものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。
祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞の抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。
ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞の意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分の感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。
彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活や人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身がゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたことなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。
祖母はパソコンを扱うだけでなく、インターネットの世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンラインで海外の博物館の映像や、世界のニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。
「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母はサクサクと辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。
そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習の資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休みの自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休みは特別に充実していた気がする。
5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ
祖母は機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータの検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかもときにユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。
高校生になると、友達関係や部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターのフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこから、もっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。
そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議と問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃんと仕分けて検索しやすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。
6. そして別れの日
俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母の知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族が心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。
そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅くに病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつもの“コンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。
祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母そのものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。
葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真やノート、そして祖母のパソコンが出てきた。パソコンの中には、家族の写真データや日記のようなファイル、さらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートのデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンルの知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。
そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔で知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。
さらにパソコンのデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞をアレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について、彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方そのものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生の象徴だったのだろう。
8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”
祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。
そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術や情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手の立場や気持ちを想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線や押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。
もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉やファイル、そして一緒に過ごした時間の記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。
歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。
祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき、祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母はコンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから。