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はてなキーワード: 作詞とは

2025-04-18

anond:20250418003243

Adoの曲って本人が作詞作曲してると最近までずっと思ってた

時代時代に現れる天才なんだなって思ったら違かった(´゚д゚`)

2025-04-17

「君がYO!」が正式な「国歌」になったのは平成11年1999年

【1】昭和初期(1926〜1930年代

君が代」は正式国歌ではなかったが、実質的国歌として扱われていた。

学校教育軍隊行事儀式国際大会オリンピックなど)で演奏斉唱された。

昭和11年(1936年)に文部大臣・平生釟三郎が、歌詞意味理解していない子どもが多いことに気づき小学校教科書掲載を指示。

教科書には「君が代」の意味を明記:「天皇陛下万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります

【2】戦中期(1937〜1945年日中戦争太平洋戦争期)

君が代天皇制国家象徴としての色彩を強めた。

君が代」は「天皇の治世の永続」を祈念する歌として、国民義務感を伴って歌われるようになる。

学校では「教育勅語」「修身」とともに重視され、起立・礼と共に斉唱される。

併せて「海行かば」や「紀元節の歌」なども準国歌的に使われた。

【3】占領期(1945〜1952)

終戦後、GHQ連合国軍最高司令部)は「君が代斉唱を一時禁止特に初期には日の丸掲揚も制限)。

昭和21年(1946年11月3日日本国憲法公布記念式典では例外的に「君が代」が斉唱された(昭和天皇香淳皇后が出席)。

昭和22年(1947年憲法施行記念式典では「君が代」が演奏されず、代わりに新国民歌「われらの日本」などが使用

当時は「君が代」が旧体制象徴とされ、GHQ日本国内の一部では批判的な見解があった。

しかし、半年後の1947年昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞土岐善麿作曲信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗永遠なれ」が演奏された[46]。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞1948年昭和23年)1月25日社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した[47]。

また、「君が代」に代わるものとして、1946年毎日新聞社文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年昭和23年)には朝日新聞社民主政治教育連盟日本放送協会の後援を受けて募集制作した国民愛唱の歌「こゝろ青空」(阿部作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた[46]。1951年1月日本教職員組合日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞小杉誠治作曲もつくられた。しかし、1951年昭和26年)9月サンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった


【4】独立回復後〜高度経済成長期(1952〜1970年代

サンフランシスコ講和条約1951年)によって主権回復後、公式行事で「君が代」が再び演奏されるように。

法的根拠はないが、「事実上国歌」として扱われる慣習が確立

ただし、特に教育現場では教職員組合日教組)などが反発し、「起立・斉唱強制するな」との議論が起きる。

1950年代には日教組が新国歌公募を行い、「緑の山河」などが制作される(普及は限定的)。

【5】昭和末期(1980年代後半)

校歌卒業式入学式での「君が代問題顕在化。

一部の学校で「不起立運動」や「歌わない自由」を主張する教職員教育委員会の間で摩擦が激化。

世論でも賛否両論が大きく分かれた。

【補足】正式な「国歌」になったのは平成11年1999年

国旗国歌法正式名:「国旗及び国歌に関する法律」)が制定。

これにより、「君が代」は初めて法的に“日本国歌”として明記された。

2025-04-16

庵野秀明って作詞はしないのかな

とんでもない歌詞書きそうだけど

2025-04-06

原作者作詞作曲編曲演奏全部やれば米津が入り込む好きはない

島本和彦が惜しいところまでいった。

今はDTMがあるからワンチャンあると思う。

もしかして麻枝准が絵と歌を覚えるのが一番早いか

なんで日本音楽界って歌手以外は誤差扱いなんだ?

一番影響があるのは演奏者じゃない?

結局ココがヘボだと曲としてはゴミだし、歌が下手でも曲が良ければ聞けるっしょ。

んでまあ次に重要なのが編曲だわな。

その次が作曲

んで歌手ブービー

歌詞は誤差中の誤差。

でもJ-POP世界では作歌手が最重要次点作詞作曲編曲が一応名前だけは載せるレベル

んでもって演奏してる奴らは名前さえ出てこない裏方。

おかしくえねか?

演奏ってラーメンで言えばスープだろ。

歌手が誰かなんてチャーシュー煮卵みたいなもんじゃん?

それを前面に押し出してくるとかもうテレビ映りだけしか考えてないハリボテラーメンだろ。

2025-03-30

昭和歌謡曲名曲多すぎないか

DTMやってるんで多少コード進行とかそういうのは分かるほうなんだが、

昭和80年代くらい(90年代も含むかも)の歌謡曲ってマジでとんでもなくオリジナリティがあって複雑なコードしてる曲が多いんだよな。

コード進行だけじゃなくてアレンジとかもとんでもなくて、素人ちょっと手を出して作れるようなレベルじゃないんよ。

歌詞もかなりすごかった時代だと思うけど、いったいなにがあってこんな化け物じみた時代が生まれたのか不思議になる。

たぶん60~70年代って洋楽に刺激されまくって色んなミュージシャンが真似をしてた時代だと思うんだが、

その中でもより日本的ものと融合しようとしたり(はっぴぃえんどが日本語詞で洋楽っぽいのをやったり)する動きもあって、

それが80年代日本歌謡曲へと繋がっていったのかなとも思うが(ユーミンとか大瀧詠一とか山下達郎とかYMOとかなんかもうそのへんぜんぶ)

とにかく楽曲クオリティ半端ない

正直今の時代ボカロ世代がほんっとに似たようなコード進行早口言葉みたいなので似たようなメロディで、

マジで焼き直し感があるのがめちゃくちゃ多い。

それはそれで今の時代感だとは思う。ヒップホップなんかも生まれて、日本でも必ずしも楽曲としての美しさとか、そういうとこ意外での強度で聞く、または音そのもの聴くという楽しみ方も増えたから。

ただそれにしても安易ヨナ抜きが多すぎる。基本的ボカロ世代は圧倒的にヨナ抜き使った楽曲大量生産されている。

それの最高峰が米津だと思ってるが、米津に関してはディスってるわけではない。彼の場合どこかあえてそうしてる風にも思えて、米津はアーティストとして俺はボカロ出身であるという矜持も持っているのかなと感じるからだ。

あと与えられたお題(タイアップ)に対してのアンサーが見事なので、プロとしてもすごいんだなあと思う。

もちろんミスチルとかヒゲダンとかKingしっかり楽曲としてクオリティ高く、かつ様々なチャレンジをしてるアーティストもたくさんいると思う。俺も大好きだ。(KingGnuは過大評価だと思ってるけど)

椎名林檎最初の3枚はこいつバケモンだなと思わせる楽曲クオリティだと思う(事変も好きだし最近のも好きだが、あくま大衆的な歌謡曲としてはやや懲りすぎ感がある)

から、俺が昔の歌謡曲に衝撃を受けるのはただただ、その次代の名曲達がすごすぎるだけなんだと思う。

例を挙げるとほんとにキリがないが、筒美京平とか都倉俊一とか来生たかおとか、作詞なら松本隆とかなかにし礼とか阿久悠とか、まあ他にもたくさんいるけど重要なのはどれもめっちゃオリジナリティが強いってとこだ。

例えば薬師丸ひろ子の「Woman ~Wの悲劇より~」って曲、これは映画のために作られた曲なんだがもう完全にエバーグリーン時代を超えて普遍的な美しさを持った曲だ。

作曲呉田軽穂作詞松本隆完璧なタッグ。そして薬師丸ひろ子の声。(ユーミン薬師丸ひろ子のために”オートクチュール”で作った曲だと後に語っている)

何十年前の曲なんだ?間とか、メロディラインとか、歌詞と混ざりあったその美しさ儚さ、どうやったらこんなの作れるの??

最後の部分、サビの繰り返しと思いきや非常にテクニカル収束のさせかたをしてる(自然すぎて気づきにくいがものすごいアレンジだと思う)のとか震えたね。

考えてみると、80年代日本歌謡曲が凄まじいのはアイドル存在があったからというのも大きな要因なんだろう。

松田聖子中森明菜小泉今日子、他にもたくさんいるけど個性的ソロアイドル国民的に死ぬほど人気があった時代だ。

男性アイドルももちろんいたわけだがたぶんほぼジャニーズ系なのでちょっとそこはまた違った話になってしまうので無視する)

彼女たちにこんな曲を歌ってほしい、曲が湧いてくる、プロ作曲家達の中ではそういった化学反応もあったのかもしれない。

特にユーミン中島みゆきなんかはそういう傾向は強そう)

逆に今の時代は曲を作る人間が、自分でやればいいんだというのが気楽にできるようになった時代だ。

昔は良かったではなく、昔は昔でなんか謎の修行期間とかそういうのもあったのかもしれないし、様々な面倒を抱えながら仕事をしていた人も多かっただろう。

なんならえらくなってしまったら若い人の曲を平気でパクったりとか、そういうのも起こっていたかもしれない。

なのでそういう話がしたいんじゃない。

昭和歌謡曲、ヤバくない?ってことを伝えたかっただけだ。

マジで名曲だらけ、みんな聴いてみて。

あと俺の知らんの教えて!

2025-03-20

anond:20250320102412

24時間働けますか?の時代価値観出てきておじさん笑っちゃったよ

あんなのAdoちゃんとかしらんやろ

作詞絶対おじさんだよね

2025-03-11

AI作詞作曲演奏歌唱まで全部できそうな気がするけど、まだAIでの歌の大量生産とか話題になってないね

難しいのかな。

2025-03-10

戦後昭和テーマソング

若い力と感激に 燃えよ若人胸を張れ」

作詞作曲者比奈誠は横浜在住しかからない

日本政府ユダヤ人迫害を断ったことと、東京大空襲や様々な空襲を受けたことの因果関係不明だ(ドイツドレスデン英軍空爆されている)

続き

anond:20250310105822

警察ユニフォームも薬物兵器の帆の中じゃ危険いっぱいだな

2025-02-27

2004年10月2日 - テレビアニメToHeart Remember my memories放送開始

オープニングテーマ「大好きだよ(Into Your Heart)」

作詞作曲編曲 - ジョー・リノイエ / 歌 - 谷咲ナオミ

↑これの谷咲ナオミって人、何してるの?ググっても出てこない。もう20年以上前アニメだけど

2025-02-14

バレンタイン・キッス歌詞って、秋元康作詞曲の中でも有数のキモさな気がするけどなんか許されてるよね

2025-02-09

サクラ大戦史上最も重要檄!帝国華撃団 10

作詞広井王子 作曲田中公平

1996年檄!帝国華撃団

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1998年檄!帝国華撃団(改)』

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1999年檄!帝国華撃団(改II)』

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2000年ゲキテイ檄!帝国華撃団)』

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2000年ゲキテイ音頭

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2001年 『檄帝国華撃団III』

サクラ大戦3 〜巴里燃えいるか〜』の主題歌

2001年 『ユーロゲキテイ

2006年 『檄!帝〜最終章(フィナーレ)〜』

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2006年 『檄!帝国華撃団セガサミー野球部 得点歌)』

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2019年 『檄!帝国華撃団<新章>』

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『新サクラ大戦』および『新サクラ大戦 the Animation』のオープニングテーマ

余談

斎藤P:

「これは、1996年セガゲームから2000年アニメになったということで、有名な広井王子さんの作品で、主人公横山智佐さんが演じていらっしゃる。」

田中公平

「これね、ゲームを具体化することになりましてね、広井王子さんから『こんなゲームを作りたい』という企画書が来たんですよ。

じゃあ、ちょっと主題歌を作ろうっていう話になったんですけど、今度はセガが、具体化をなかなかしてくれなくなってきたんですよ。」

斎藤P:

「なるほど。」

田中公平

「なんか『え、大正時代って何?』みたいな、『女の子ロボットで戦う、これで売れるの?』みたいな話で。」

斎藤P:

「あー、なるほどね。」

田中公平

「ということで、じゃあ広井さんと先に主題歌エンディングを作っちまおうってことで、それで主題歌エンディングを作ったんですよ。」

斎藤P:

ゲームより先に、曲が先にできたということですね。」

田中公平

「そうそう。サクラ大戦それからずっと、そういう流儀になっていくんですけどもね。」

斎藤P:

「なるほど。」

田中公平

「それで出来た2曲「花咲乙女」という曲と「ゲキテイ」ですけど、

それをセガ幹部に聴かせたら、全員それで『あーなるほど!』って納得して、きっちり接着剤になった」

斎藤P:

「『企画書』じゃなくて、『音楽』で企画を通したみたいな」

田中公平

「そう。だから、『百聞は一見しかず』じゃなくて、『一見は百聞にしかず』と私はいつも言ってるんですけど、そういう力が『ゲキテイ』にあったようですね。」

【参考リンク

TM NETWORK史上最も重要なGet Wild 10選

2025-01-28

BOW AND ARROWはイントロだけ最高

調べたら作曲編曲も米津だった。

凄いな。

作詞は他の人に頼めばよかったのに。

なんだよインパルス加速って。

ガンダムか?

2025-01-22

ザ・ブルーハーツの「すてごま」を再評価した話

80年代から90年代活躍した、ザ・ブルーハーツってロックバンドがいるじゃないですか。

リンダリンダ」とか「夢」とかが有名ですが、30年以上経ってもまだ、たまに思い出す曲があるんです。

「すてごま」です。

初めて聞いた時は小学生だったので、疾走感のあるメロディと「おろしたての戦車でブッ飛ばしてみたい」という歌詞に格好良さを感じていたと記憶しています

それに続く

「何か理由がなければ正義の味方にゃなれない

誰かの敵討ちをして カッコ良くやりたいか

ちょっと行ってくれないか

すてごまになってくれないか

というフレーズに、子供心に「正義とは」なんて考えたりもしました。

要は「人は自分の虚栄心のために他人の不幸を望む」という心の闇を描いた内容なんですが、今見返すとより深い歌詞だなあと思ったわけです。

「あの娘に俺が何をやったのかなんて

覚えてるはずがないだろ 俺はやってない

何かきっかけさえあれば 次は俺の順番だ

今度こそやってみせる

やってやってやりまくるんだ」

この部分、かなりとんでもない話で、子共の頃は理解できていなかったと思います

冤罪をふっかけられた感想が「冤罪を防ごう」ではなく、「次は俺が誰かの醜聞をきかっけにヒーローになってやるんだ」なんですよね。

自分冤罪をふっかけられたらブチ切れて、同じことを他人にしようと決意する。

フィクションなら「ひでぇw」で済むような話ですが、本当にそういう人が少なからずおり、外れ値の極端な人ではないというのが昨今のSNS可視化されたのだと感じています

1993年当時、作詞された甲本ヒロトさんには既に見えていたんだなあと。

歌詞最後は、このフレーズで締められています

「君 ちょっと行ってくれないか

すてごまになってくれないか

いざこざにまきこまれ

◯んでくれないか

32年前の歌詞現実が追い付いてしまって、ちょっと笑えないんですよね。

anond:20250121225602

Vtuberの歌が世間で認められないのはキャラとしてのコンテキストが足を引っ張ってどう頑張っても内輪のノリに見えてしまう所だと思ってるんだけど、作詞作曲まで行くとどうなのか気になるな。

とはいえVtuber仮面を被った上で現実世界での苦悩を歌ったりするのも変だからどう頑張ってもコンテキストの外には行けなそうな気もするが

2025-01-21

作詞作曲してるVtuberっていんの?

米津もYOASOBIもキングヌー自分で作ってるけどVは歌ってるだけだから認めてもらえないんちゃう

2025-01-18

ガンダムの曲は井荻麟(富野由悠季)作詞以外は認めない

何だったら、『Ζ・刻をこえて』のように富野センス選曲したのを編曲したりしてる位の強火なヤツだと最高!

え?今回庵野

アイツのやつなら何でもいいよ

2025-01-16

俺の祖母コンピューターおばあちゃんだった

 俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。

1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん

 俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコン自在に使いこなし、テレビラジオ流れる新しいテクノロジーニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語祖母解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。

 「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名のもの祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しか子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。

2. 図書館よりも頼りになる知恵袋

 祖母知識の幅はとにかく広かった。歴史地理科学文学芸術、果てはゲームまで。どんなジャンル話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいしか自然彼女をそう呼ぶようになった。

 人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢はいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。

 大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母生き方のものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。

3. 日常を彩る“歌”と“人生レシピ

 祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。

 ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。

 彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身ゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたこなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。

4. パソコン越しにつながる世界

 祖母パソコンを扱うだけでなく、インターネット世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンライン海外博物館映像や、世界ニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。

 「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母サクサク辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。

 そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休み自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休み特別に充実していた気がする。

5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ

 祖母機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータ検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかときユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。

 高校生になると、友達関係部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこからもっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。

 そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃん仕分け検索やすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。

6. そして別れの日

 俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。

 そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅く病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつものコンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。

 祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母のものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。

7. 祖母が残してくれたもの

 葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真ノート、そして祖母パソコンが出てきた。パソコンの中には、家族写真データ日記のようなファイルさらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンル知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。

 そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。

 さらパソコンデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞アレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方のものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生象徴だったのだろう。

8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”

 祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。

 そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手立場気持ち想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。

9. 最後

 もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉ファイル、そして一緒に過ごした時間記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。

 歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。

 祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母コンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから

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