はてなキーワード: 終活とは
(追記)
ふと思い出して書き殴ったものが大勢の人に見られて恥ずかしい…。
祖母からしてみると毎日電話する娘夫婦よりも、毎週末遊びに来る孫よりも、毎日家に来て出前を食いまくるお友達が大事でした。
「これはおばあちゃんの大事なお金だから受け取れない」とお小遣いを断る孫(社会人)よりも「〇〇(祖母)さんがいないと私生きていけない!」と喜ぶお友達の方が大事でした。
お友達の人数について書いていませんでしたが、最大で8人の友人達(内数人は宗教が絡んでました)が祖母の家を訪ねていました。4人分の旅費を複数回払っていました。
借金こそギリギリありませんが、老人ホームのお金も自分のお葬式のお金も全て使い果たしていました。祖父(先に老人ホームに入っていました)の口座からもかなりの額を引き出していました。
自分の足で毎日数万円ずつ引き出していたのは通帳に残っていましたが、どこにどう使っていたのかもわかりませんし、そもそも本人が望んで支払っていましたので事件として扱ってもらえませんでした。
その後実家(当時私も住んでいました)で過ごすようになりましたが認知症はさらに進み、夜中に星が見たい!と徘徊するようになりました。深夜に一緒に散歩したりドライブしたり、家族で付き合っていましたが限界が訪れ、現在祖母は老人ホームにいます。
それでもたまにあのお友達が訪ねてくるそうです。絶対に面会させないよう施設にお願いしています。
こんなの嘘だと思う人もいると思います。私もそうだったら良かったと思います。
側から見たら今の祖母も、幸せなおばあちゃんなのかもしれませんが、私は「あのお屋敷みたいな老人ホームに行きたい」「お葬式はこういうのが良い」と祖母の終活を知っているので複雑です。
あの人達のことはどうしても許せません。
今でも時々あのニヤニヤ笑う顔を思い出します。
(追記終わり)
そりゃばーちゃんはとっくに免許返納したから、運転してくれるお友達なんてありがたいよ。ばーちゃんよりずっと年下で、しゃきしゃきしてて、気が合うなんていい人だと思ってたよ。
でもだからって旅費も食費も出すのはどうなの!!ばーちゃん!!!服とかアクセサリーとかその人に買いまくるのはどうなの!!ばーちゃん!!!!
びっくりした。そこそこ金があると聞かされてたけど結構エグい額使われてた。そんで本人が詐欺と思ってないなら詐欺にならないんだ。
受け答えがある程度はっきりしてたから気付くのが遅かったのが悪いんだけども、認知症の老人騙すやつってほんとにどこにでもいるんだな。
別にばーちゃんの財産をよこせとかじゃないんだけど、なんかこう、ニヤニヤしながらばーちゃんが買ったネックレスジャラジャラ着けて出てこられるとこう、めちゃくちゃむかつく。
法で裁けねぇのかよほんとによ〜〜〜。
ちくしょ〜〜〜〜〜。
まず書き手の情報。25女オタク、一人暮らし。就職してから何とか働いてきたけど最近疲弊して、職場の居心地も悪い。元々長生きはしたくないし、できることなら26で終活を考えてる。生きながらえてしまったら質素に隠れて生きていたい。
本題としては、車を変えたい。今は初代ミラジーノ。気に入って乗っていたが、ところどころボロが出始めて、真面目に乗り換えを考え始めた。
高校くらいから乗りたい車はあったけど現実的ではない。一番好きなのはJZA80。全てにおいて好みどストライクだけど、現実的ではない(この車に関しては車両価格の高騰が主)し、オタク特有の「好きすぎて逆に嫌」という現象になりつつある。
そこまで貯蓄がある訳では無いし、ローンは性にあわないけど簡単に死なないためにも組んでも仕方ないと思う。バカバカしい理由だけどこれが理由になるなら、自分勝手に後始末もできないまま死ぬよりかは良いと思ってる。
多くもない予算で、MT免許はあるものの公道で他人を殺したくないので慣れたATの個体。なおかつ親に睨まれながらじゃないと買えない状況なので条件は厳しいがいくつか乗りたい候補がある。
ひとつはセリカ(SS-Ⅱ)。4つ目が好きだ。丸っこいフォルムも可愛らしい。
もうひとつはランエボ(7、8)。ランエボ第1世代が好きなのだが、個体がほぼほぼないのに加えて走行距離が10万を優に超えている。そして相場も高い。
Ⅶ〜Ⅷ辺りであれば年式もそこそこ、相場も無理をしたら出せる範囲内である。
ほかにも予想よりも相場が手頃だったMR-Sや80スープラとみまごう可愛らしさのFTOも検討したが、思い切れるのは上記二種になっている。
思いついてはカーセンサーやグーネットで探しているため、またコロコロ変わるかもしれない。乗れたらいいなと夢想して心躍ると思えば、初めてするローンというものに怯えていたりする。借金がどうにも苦手で、なるべく即金で済ませたいが、そこまで金を貯めるまでにさっさと命を手放しかねないような精神状態の時もある。そんな状態の人間が乗り換えるだの言っているのはちゃんちゃらおかしいかもしれない。
生きてもいたくない現状を、憧れである車に逃げているといわれても仕方がないと思ってる。でもこうするくらいしか生きていく理由を作ることが出来ない、そういう堂々巡りの毎日。
もしこれを有識者が見てるなら、おすすめの車種を教えて欲しい。なるたけ2000年以降のスポーツカー、値段も手頃で初心者にもおすすめのものがあれば。
甘えてないで調べろよと言われるかもしれないが、調べてこれなのだからもう恥も外聞も捨てるしかない。
うちの親、俺が生まれたとき40過ぎだった。子供の頃は気にしてなかったけど、中学あたりで気づくんだよな、親がやたら老けてることに。運動会で他の親は若いのに、うちの親だけヨボヨボ。参観日でもそう。「おじいちゃん?」って聞かれるたびにヘラヘラ笑ってたけど、内心ぶっ刺さってた。
大学の頃にはもう親は定年間近。普通の家なら「仕送りするよ!」って励ましてくれる親も、うちは「悪いけど早く働いて家計助けて」だった。そりゃそうだよな、こっちは就職、あっちは老後。子供の人生のスタートと親の終活が同時進行。
恋愛でも影響ある。「親、何歳?」って聞かれるたびに、正直に答えたら「ああ…」って微妙な顔されるんだよ。親の介護と自分の家庭、どっちも背負う未来が見えてるからな。そりゃ引くわ。
40過ぎてから子供作るの、マジで考えたほうがいいよ。生まれてくる子供は、老いた親の面倒を見ながら自分の人生設計もしなきゃならん。体力も金も気力も、親の方が先に尽きる。
「お前を産んで幸せだったよ」って親は言うけどさ、それを聞いて「俺も産まれてよかったよ!」って心から思えない時点で、察してほしい。
私の場合は、これは要らない、あれも要らない。アレ?私自身も要らないのでは?に至ってしまった。
物欲に任せて集めてたモノ、大事に保管してきたモノが、その実、自己愛の代替行為だったんだと気が付かされてしまった。
おそらく、まともな人は、家族だったり、先祖伝来の宝物だったりで、残す意味があり、もっと早い段階で気が付くのだろう。
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築50年の賃貸アパートが、なぜか傾いてしまって危ないから取り壊す、出て行ってくれと言われてしまった。
最初は1階に入ったが、2階が埋まらないから半額でイイ、改造も自由にしてイイとの事だったので、ずいぶん自由にさせてもらっていた。
2階はベッドと在宅勤務PCデスクスペース以外は、1階と同じ。
まあ、もうそろそろ収納限界だった、ちょうど良かったのだろう。
いっそのことビル1棟買おうかと調べても億超えばかり。紙使いスパイではないので、とても買えない。
途方に暮れていたら、地方のリゾートマンションが数百万なのを見つけ、もはや会社に出勤しないから都内に居る必要ないし、という事で2部屋買った。 今の2倍の広さになる。
ここまでは、良かったんだ。
新しいプチ図書館を再構築するために、頑丈そうな本棚を探したり、並べ順を妄想したり、とても楽しかった。
引っ越し業者に見積もり来てもらったら、約50万円。そして搬出先での開梱は対応できないと言われてしまった。
せめて半分なら開梱費用数十万で対応できない事も無いが、、この機会に見直されては?と。
そうか。仕方ない。
取捨選択を始めたのだが、これがいけなかった。
ダブっているモノから捨て始めたが、本を捨てるという今までしてこなかった行為により、棚が空き新しいのが入れられる!という妙な快感というか達成感により捨てる行為へのハードルが下がっていった。
手に取って内容が思い出せるモノ、内容が好みじゃなかったモノ等々、適当な判断基準がどんどん出来ていった。
結果、著者にサインしてもらったもの、ちょっと読んで内容を覚えてないモノ、自身を為す外部記憶として必要なモノは残そうとしたが、せいぜい段ボール70箱程度に収まってしまった。
これを持って行ったとしても、一人で本棚に収めてるうちに寿命が来てしまうのでは?もういっそのことまとまっているから、このまま破棄し、新しい本を読む時間に充てたらいいのではないか? そもそも捨てるのであれば、新しい本を買う意味は無いのではないか?と。
そもそも何故私は本を集めているのだ?そもそも何故私は本を読んでいるのだ?
その行為で一体何を為してきたというのか?
著者が造った世界に入り込むという現実逃避をしていただけではないのか?
逃避する位なら、もういっそのこと生きている意味は無いのではないのか? ←イマココ
どうしよう。退去期限まであと45日。
日本で無条件の安楽死制度が導入されることはない。理由は単純で、そんなものを認めたら労働人口が激減するのが目に見えているからだ。政府も企業も、国民が不幸せでも生きるしかない状況にしておいたほうが得だから、絶対に制度化しない。
幸福度ランキングで常に低位置をさまようこの国で、もし無条件の安楽死が可能になったらどうなるか。まず大学を卒業したら即死を選ぶ層が出てくるだろう。奨学金という名の借金を背負い、ブラック企業への就職しか選択肢がない現状を見れば、合理的な判断だ。就職しても、低賃金長時間労働、パワハラ、未来の見えない生活。これなら社会に出る前に消えたほうがいいと思う人間は少なくない。
次に、40代・50代の中年層が大量に利用するはずだ。住宅ローンや子供の教育費に追われ、気づけば会社ではリストラ候補。身体はガタが来ているのに、年金受給は遠い未来。こうなったらもう終わりだ。だったら「このへんで失礼します」と潔く退場したくなるのも当然。
さらに、高齢者だって利用するに決まっている。年金だけでは暮らせない。貯金を切り崩しながら生きる生活に、楽しみなどほぼない。社会に疎まれ、医療費はかさみ、自由も効かない。終活なんて言葉が流行っているのは、要するに「さっさと消えたいが、制度がないからゆっくり準備するしかない」って話だろう。
だが、この国の支配層はそんなことを許さない。なぜなら、安楽死を認めてしまったら、誰も働かなくなるからだ。資本家たちにとって労働者は、命の続く限り搾取できる便利な存在でなければならない。だから「死ぬ自由」なんてものは与えないし、「生きたい」と思わせるほどの福祉や支援をする気もない。どっちに転んでも国民は苦しみ続けるしかない。
無条件の安楽死制度が導入される未来があるとすれば、それは労働力の完全な代替手段が確立された時だ。AIやロボットがすべての仕事をこなせるようになれば、人間を生かしておく必要がなくなる。むしろ「労働しない人間」がコストになるから、さっさと減らしたほうがいいという論理が成立する。そうなったらようやく、政府は「選べる死の権利」を口にし始めるだろう。
でも、そんな未来を待つまでもなく、もうこの国は終わってる。生きていても得るものは少なく、失うものばかりが増えていく。ならば、いつか制度ができる日を待つより、今できる限りの方法で静かに消えていくしかない。