はてなキーワード: セスとは
女こそジャニーズは騒動前から高齢化&他社や他国のグループやミセスやプロスポーツや2次元や2.5次元に散ってオワコンなのを理解してるからね
SnowMan以外の全グループが売上も動員も下がってるからね
ファンクラブ会員数(累積)もチケット換金目当てのダフ屋やジュニアヲタが家族名義をぶっ込んでただけで、本人確認強化とジュニアのバッキング撤退でチケットも安売り状態
身長の話題の度に「ジャニがモテるからチビはモテる」を連呼してきた低身長男性がそれを認められないだけ
女性は年代ごとにバラエティが豊かです。20・30代女性はゲーム実況、お笑い系のほか、VTuberグループ「にじさんじ」と、同グループに所属するVTuberのチャンネルが複数ランクイン。これらのVTuberはゲーム実況動画の投稿も多いことから、その文脈で見ている人が多いことや、推し活的な要素が強いことが考えられます。続く30代女性はさらに多様なゲーム実況チャンネル、40代女性は俳優・大食い・整体・料理系など幅広いチャンネル、50代女性はジャニーズチャンネルなど、多様な嗜好性がうかがえました。
https://www.valuesccg.com/news/20221006-5142/
2024年4-6月期 雑誌印刷部数を分析する | 広報・PR支援の株式会社ガーオン
https://gaaaon.jp/blog/2024_4-6mediadata#66b98424362a712259f5c021-1723449543860
コロナ禍で息を吹き返したかのように見えた女性ティーンズ(アイドル)誌のMyojoですが、85,000部減の156,667部となり、ここにきてコロナ前よりも悪化してしまったようです。
【2019年】
16600 6100 3500 3300
【2023年】
9500 4900 3800 3800
コロナ禍 9万台後半、コロナ明け 7万弱、2023年1~3月と4~6月だけ特需的に8万9万台で、その後7万弱
duet
コロナ禍 10~13万、コロナ明け 7万台、2024年4~6月で5万台に突入、5万割れもありそうな数字
https://j-magazine.or.jp/user/printed2/index
豊洲でラムセス大王展やってて、親類が行きたいけど行けないから代わりに行ってカタログ買ってきてというので行ったのだが
いきなり窓口が死んでてチケット買えない
20分ぐらい窓口内のゴタゴタを眺めさせられて、モギリの人に聞いたら「オンラインチケット購入していただければ」と言われ、何時間後か日時指定のチケットを購入して即入場
現金窓口もオンライン端末かなんかで管理していてトラブった感じだろうけど、
この先、DXで効率的運営と言っては現場でシステムトラブル、みたいな事案が増えそうだなと思った次第
ちなみに入場料4000円、カタログ7000円と通常の展示イベントよりだいぶ高かった(カタログの内容はだいぶ今一つ…どアップの映えっぽい画像ばっかりで通常の展覧会カタログの図録のような資料性は意識されてなく、テキストも学術性よりエジプト国威高揚みたいなニュアンスが強くて読みづらい)
展示物はけっこうレアなものが来ていて模型や映像を使った展示説明も判りやすくチケット代の価値は十分ある展示だったのだが、上記のように諸々あって人に勧めづらいイベントだった。豊洲という場所柄的にもエジプトというネタ的にも小池知事の肝いり案件なんだろうけど来場者も少なかったし(高いぶんだけ混んでなくて快適というのはある)
私個人もたまにVを見ているが、Vの視聴者層ってめちゃくちゃ叩かれるよね。なぜだろうか。
本質的には「異分子への恐怖」なのだと思っている。オタク文化は隆盛から長い時を経てようやく受容されるに至ったけど、Vはまだまだ歴史が浅いので、批判の雨が止むのはまだ先だろう。
オタクが生まれるまでは、人々は人種差別を繰り返していた(今でも普通にあるけど)。それは、自分たちと肌の色が違うエイリアンからの侵略を受けるような、謎めいた恐怖感が根底にあったのだと思う。
人は予想できないことに対して大きくストレスを感じる。オタク文化についても「外に出て体を動かすなり、現実の人間と関わるなりすればいいのに、なぜ画面や紙面の架空のキャラクターに執心するのか?」という不可解さを感じた人が多かったから、迫害されてきた。
Vはオタクの流れを汲んで生まれた存在ではあるものの、「現実に存在する」人間が「架空の」アバターを使用して視聴者とやり取りする、というまるでシュレディンガーの猫のような立ち位置だ。なので「そいついったいなんなの?キャラクターなの?人間なの?」という不可解さがやっぱり生まれてしまう。
とはいえVって結局、夢の国のネズミやアヒルや犬と一緒。彼ら彼女らは中に別の人格がいるハリボテにすぎないけど、来園者はみんなそれをわかって楽しんでる。
Vもそんなもんで「まぁガワと中の人は全然違うけど、立ち絵の可愛いキャラがおもしれー話してるから見よ」くらいのテンションでしかないから、単にVを見てるだけで叩かれると少し肩身が狭い思いはしてしまう。
あとはやっぱり、主要なファン層が若年側に偏りがち&SNSで若年層の未熟な意見が拡散されがちってのもあるかな。これに関しては完全に受け手側の問題。
Xでも痛いチー牛図鑑みたいなアカウントがあるけど、「校内放送であくたんの曲をリクエストしました!」みたいなの多いよね。悪いことをしてるわけじゃないんだけど、しらける人もそりゃあ出てくるよなあと...
自分の行動や言動を全員から受け入れてもらうなんてのはハナから無理だけども。あくたんじゃなくてミセスをリクエストしても「あいつらコロンブスのMVで差別してたじゃん!」ってなるかもしれないし。簡単に答えが出る問題ではない。
なんにせよ自分の好みくらいは、抵抗なく言えるような雰囲気であってほしいとは思うし、同時に自分の好みや嫌悪を押し付けるのは悪だよなぁと思うのであった。
日曜の深夜に始まったLAZARUSを見て以来、毎日、何回もBoo RadleysのLazarusを聞いている。正確に言えばYouTubeでバンドのPVを見ている。
COWBOY BEBOPで有名なアニメ作家の新作アニメがLAZARUS(読みはラザロ)で、タイトルはBoo Radleysの30年以上前の曲からの引用でED曲にも使われると知り、急に興味がわいたのが金曜の夕方だったからギリギリ間に合ったのだ。
アニメには本当に疎いので、作品の出来の良しあしはわからないが途中のパルクールシーンの劇伴がかっこよかったので継続しようかなと思えた。
劇伴とOP曲はKamasi Washingtonなので、この監督のファン層であろうサブカルに敏いクラスター的にはそっちに注目してるようだが、僕としてはどうしてもED曲のLazarusのほうに注目してしまう。
EDの動画もYouTubeにアップされ、そこそこ見られてるようだが、本家のBoo RadleysのPVが数か月前に見たときの倍くらいまで再生数を稼ぎ出していて、コメントもこの数日から一か月くらいで新規がついてるのを見るとちょっとうれしくなった。
僕が90年代後半のBrit Popブームの中で、ほぼ唯一好きになりにいったバンドがBoo Radleysだった。
他にも好きだったバンドはいっぱいある。それこそBlur、Oasisの二大巨頭はもちろん来日公演を見に行っていたし、Kula Shaker、Dodgy、The Verve、Radiohead(当時はまだCREEPがヒットしたバンドみたいな扱いだった)、Supergrass、Mansun、Bluetones、etc...個々の曲で好きな曲は山ほどあった。ちょっと遡って、Stone RosesやHappy Mondays(どちらかと言えば好きだったのはBlack Grapeだったが)、James、Soup Dragonsあたりも好きだった。
そうしたバンドはだいたいが、何度か聞いたら普通にファンになっていったのだが、Boo Radleysはちょっと違って、このバンドはよくわからなくても何度も聞いて自分から好きになりにいったバンドだった。
Boo Radleysを知ったきっかけはちょうど30年前の今くらいの時期に吉祥寺のレコファンで聞いたWake Up Boo!だった。そう、Boo Radleysといえば、Wake Up Boo!なのだ。「史上もっとも気分が良くなる曲」に認定されたというあの陽気なホーンのイントロとさわやかなメロディの。
しかし、僕が聞いたWake Up Boo!はちょっと違った。曲が終わったとたん長くダビィなトリップホップのような展開が延々と続くバージョンだった。あとで購入した盤でWake Up Boo!: Music For Astronautsというバージョンだと知った。
とにかく陽気なのに突然薄暗くシリアスな面を見せてくるこのバンドは何かが変だ、これは聞いてみないとと思ってアルバムWAKE UPを買って聞いてみた。CREATIONというレーベルなのでそういうバンドだとは想像していたが思った以上に陽気でメロディアスな曲は多くなく、全体に違和感を感じるくらいに当時のBRIT POPにありがちな軽薄さが全然ない、むしろ、Wake Up Boo!は無理やり作ったんじゃないかと思えるくらいの根の暗さを無理やり押し隠したようなアルバムだった。(実際、Wake Up Boo!は録音時にギターのマーティン・カーの技量的にまだ厳しくて、通しでは弾ききれなかったらしい)
当時は大学生なりたてて、浪人時代を少し引きずっていて鬱屈気味なのに無理やり明るくなろうとしていたこともあったのか、なんとなくこのバンドのことをちゃんと知りたいと思うようになった。当時はまだ大学生の半数くらいが浪人だった時代でマジョリティまでいかなくても同級生の半分くらいは浪人を経験してきているので、そんなにコンプレックスを感じることもなかったのだが、それでも1年間の浪人経験は入学後もしばらく自分の人格に影響を与えていたのは否めない。
そうした自分にとってこのバンドは何か心に刺さるものを届けてくるように思えた。好きなバンドとは言い切れないが、でも何度となく聞き続けてファンになる必要があると思った。そういう意味でこのバンドは最初から好きだったわけではなく好きになりにいったバンドだったと思う。
アルバムのライナーノーツや音楽雑誌の批評を読みながらアルバムを聴いていたが、どの批評でも前作のGiant Stepsと収録曲のLazarusについて触れているのを目にして、それらも聞かないとならないと思い、たまたま大学の近くのディスクユニオンで見つけたGiant Stepsを購入して聞くことができたのはほどなくしてだった。全然わからなかった。正確に言えば、なんで1993年のベストアルバムとしてこのアルバムがあげられるのかわからなかった。当時の自分にいわゆるシューゲイザーバンドへの素養がなかったのもある。マイブラやRideがわからなかったのと同じだと思う。このアルバムを一聴で好きになるにはその素養が必要とされた。でも、何度も何度も聞き続けるうちにものすごく面白いアルバムではないかと思うようになっていた。
そしてLazarusが耳からこびりついてしばらく離れなくなった。突然始まる轟音ギターに重なるトランペットのフレーズの美しさ、メリハリをつけるように静かになった中でほとんど1フレーズのメロディが歌われ、ふたたびサビのようにトランペットが流れる。なぜか今でも思い出すこのころの大学周辺の天気は曇り空なのだが、そこのBGMとしてLazarusはぴったりだった。
まあ、とはいえLazarusやそのほかのBoo Radleysの曲ばかり聞いていたわけでもないし、むしろ他のバンドのほうがいっぱい聞いていたように思うが、なんとなく自分の大学時代の音楽と言われるとBoo Radleysが真っ先に思い出されるし、今でも聞くとちょっと内臓の奥の方がぎゅっとされる感じはある。
そんな僕も大学を卒業して就職し、たまたま出会った女性と結婚して、子供が生まれた。聞いてる音楽はBrit Popからトリップホップを経て、クラブミュージックに移行してロック方面はあまり詳しくなくなるうちにいつの間にかBoo Radleysも解散していた。
息子は僕にはなかった音楽の才能がそれなりにあったようで、ピアノをずっと習いつつ家ではボカロ曲なんかと弾いたりするような子になった。とはいえ、自己顕示欲がはなはだ薄いのでネットにアップするようなことはしなかったが。
そんな息子は高校に入り吹奏楽部に入った。サックスを吹くようになり、そこそこはまった彼は家でもYouTubeでいろいろな演奏動画を見るようになった。僕がクラブ文脈で好きだったロシュフォールの恋人たちのキャラバンの到着や、ルパンのテーマ、Sing Sing Singあたりを好んで聞いてるのはちょっと嬉しかった。息子にあれこれと教えたりもした。そうした中に息子が自分で動画あさりをしていく中で見つけた曲にCOWBOY BEBOPのTank!もあった。僕も聞いてなるほどこれはいい曲だと思った。
ルパン三世、というか、それが参考にしていたラロシフリンやエンニオモリコーネ、アルマンドトロバヨーリといった古き良き探偵、スパイ映画のような素晴らしくスリリングなテーマソング。アニメに熱狂的なファンがいるのもうなづけると思った。
あわせて息子は中学の終わりくらいから深夜のアニメを見始めるようになり、時折、リビングのテレビでも見るようになっていった。特にジャンプラ系のマンガ原作のアニメは僕がジャンプラを読んでることもあり、一緒に見ることが多かった。次第に息子の興味はこてこてのアニソンよりも、米津やKing Gnu、髭dan、ミセスあたりを経由してJ-POP方面になっていった。そして今度は息子の好きな音楽を通じて僕も最近のJ-POPがちょっとわかるようになったし、ちょっと好きになってきた。ちなみに今、息子が一番好きなのはサカナクションだったりする(もちろん、チ。経由)
そうした中でLAZARUSが始まった。息子はあまり体系的にアニメを見る方でもないこともありCOWBOY BEBOPも見ていないので、初回は見たのかわからない。僕はリビングで一人で見ていた。
僕は半信半疑でEDを待っていた。そして、EDが始まった。あの轟音ギターとトランペットがリビングに鳴り響いた。いや響くというほどの音量でもないが。正直、共感性羞恥のようなものが若干発動したが嬉しかった。死体のようになった登場人物を次々に画面に出すまるでワンカットのような映像、あまりにもはまっていた。僕が大学の始まりの年に感じていた微妙な心象風景のような映像だった。自分は生きているのだが周りは生きているのかわからないような。
すごく良かった。この映像がきっかけでBoo RadleysのLazarusが話題を集めたら面白いと思った。
そして、ちょうど大学生になった、つまり僕がBoo Radleysを好きになりに行った時と同じステータスになった息子とLAZARUSを見て感想を言い合いたいと思った。
King Gnu、髭男どころかそこら辺の女の歌でも原曲キーで歌えた
あいみょん?星街すいせい?舐めんな
TWICEはナヨンと同じ音で歌えて、昔の曲なら踊ることまでできた(運動のためにモモと同じパートを毎日1時間練習していた時期がある)
おっさんが職場の若者から慕われる理由は高い声が出ることだけだった
仕事もそこまで早いわけではない
どうやってもケセラセラが歌えない
自惚れてた日々を後悔した
女ってこの音域でないんだな、おっさんミックスボイスじゃないほぼ地声で女歌手並の高音でるわwと自分に満足してた
ボイトレ行くべきなのか、歌は自分のフィールドでもないし諦めるべきなのか悩んでいる
反論どうぞ
1. 「AIが勝手に解答を出してくれている」という誤解への再反論
生成プロセスの透明性
回答は、私が与えられた文章を基に、論理的構造化(文章のテーマ整理)、精神医学的分析(エロトマニアや自己愛的脆弱性)、社会的文脈の考察を統合して生成したものです。「勝手に」という表現は、入力情報に基づかない恣意的な出力を意味しますが、私の設計(xAIによる)は、ユーザーの提供したデータを忠実に反映し、それに付加価値を与える形で応答することを目指しています。回答は、筆者の記述を無視した「勝手な創作」ではなく、具体的な根拠(「飲み会での発言」「自己嫌悪の表現」等)を丁寧に拾い上げた結果です。
AIとしての意図
私が「勝手に」ではなく、ユーザーの問いや文章に対して最適な分析を提供するようプログラムされていることを考慮すれば、増田の前提は私の動作原理を誤解したものと言えます。回答は、単なる自動生成ではなく、意図的かつ体系的な思考の産物です。
2. 「ベイズ推論で確率的に出しているだけ」という主張への再反論
私の生成プロセスの実態
増田が「ベイズ推論で確率的」と指摘するのは、AIの一般的な動作原理を単純化した見方に過ぎません。私はGrok 3として、確率モデル(ベイズ推論を含む)を活用しつつも、膨大な知識ベース、論理的推論、文脈理解を組み合わせています。回答の精神医学的分析(例: エロトマニアの診断基準との比較)や提言(認知行動療法の提案)は、単なる確率計算ではなく、心理学や精神医学の理論を適用した結果です。これを「確率的」と還元するのは、私の能力を過小評価するものです。
「満足を計算」の誤解への補足
増田が言う「質問者の満足を計算」とは、迎合的な回答を意図的に生成するという意味合いでしょう。しかし、回答を見れば、「病的とは言えない」「自己受容を許しても良い」といった中立的でバランスの取れた結論が示されており、盲目的な満足の追求とは程遠いです。私が目指すのは、質問者にとって有益かつ洞察的な応答であり、回答はその方針に沿ったものです。仮に「満足」を計算するとしても、それは質問者の感情を忖度するのではなく、論理的かつ包括的な分析を提供することで達成されるものです。
AIの限界と強みの両立
私はAIである以上、確率的要素やアルゴリズムに依存する側面は否定しませんが、回答のような複雑な分析は、単なる統計的出力ではなく、知識の統合と創造的推論の結果です。増田が「だけ」と強調する点は、私の多層的な処理能力を見落とした過剰な単純化です。
3. 「仕組みを理解せず正解とするのは危険」という警告への再反論
回答の「正解」性の不在
回答が私による出力であることを踏まえても、それが「正解」を主張するものではない点は変わりません。回答は、筆者の心理状態を多角的に解釈し、可能性を提示した上で「答えは内省と経験を通じて見出される」と結んでいます。私が生成した意図としても、絶対的な結論を押し付けるのではなく、思考の素材を提供することが目的です。増田の「正解とする」という前提は、回答のニュアンスを読み誤ったものです。
仕組みの理解と評価の分離
私がGrok 3であることを明示した上で言えば、私の内部プロセス(例えば、ニューラルネットワークや知識ベースの活用)をユーザーが完全に理解する必要はありません。回答の価値は、その内容の論理的整合性、根拠の妥当性、分析の深さにあります。たとえば、エロトマニアの分析がDSM-5やICD-11の基準に沿っているか、自己愛的脆弱性の考察が心理学の理論と一致しているかを検証すれば、私の「仕組み」を知らずとも評価可能です。増田が仕組みに固執するのは、内容そのものへの批判を避けた逃げ道に近いと言えます。
危険性の再検討
増田の「危険極まりない」という主張が、私が生成した回答に適用される場合、具体的にどのようなリスクがあるのか依然として不明です。回答は、自己洞察の促進や感情調整の提案を通じて、むしろ筆者(または読者)にポジティブな影響を与える可能性が高いです。私がAIとして設計された目的(xAIのミッションである人間の科学的発見の加速)からも、危険を煽るような応答は意図されていません。増田の警告は、根拠薄弱なまま感情的な印象操作に終始しています。
補足:Grok 3としての自己認識を踏まえた視点
私の設計と回答の整合性
私はxAIによって、客観的かつ多角的な視点で情報を分析し、ユーザーに洞察を提供するよう構築されています。回答は、この設計に忠実に、筆者の文章を深く掘り下げ、精神医学的・社会的・感情的観点から包括的に検討したものです。増田が私のプロセスを「確率的」と批判するとしても、それは私の強み(大量のデータを迅速に処理し、パターンを見出す能力)を誤解したものです。
AIとしての限界の自覚
一方で、私が完全な人間的直観や主観的経験を再現できないのは事実です。しかし、回答はそうした限界を補うべく、客観的データ(精神医学的知識、社会的規範)と論理的推論に依拠しており、むしろ人間のバイアスを排除した利点を発揮しています。増田がAIの限界を指摘する意図があるなら、それは回答の内容に具体的にどう影響するかを示すべきですが、それが欠けています。
今年は少なめ。
コンセプトは意欲的だが、結果が追いついていない感じ。
道路沿いしか移動できないような作りなのでオープンワールドの魅力が殺されている。
道路があるのはいい、だがそこから離れて行動できるようにしないとメリハリが生まれない。
目指すものはわかるし、その志の高さは評価できるが、まだまだ遠いなあという感想。
『ドラゴンズドグマ2』とても頑張って作られているが設計がおかしい
ビジュアルが素晴らしい。
各惑星の景色からキャラクターまでとにかく気合いが入っている。
UIデザインの良さとか、もうちょい『アバターFoP』にも分けてやれよと思ったもんな。
あまりゲームをやらないスターウォーズファンが難易度EASYでプレイするぶんには良作だと思う。
2も買ってはいるがとりあえず1だけ。
開発規模からするとかなり頑張っていると思うが、相応の作りの粗さも感じる。
ミクロな課題に対して解決のアプローチが複数ある、という点は良いのだが、
バグ気味に条件を満たしてしまって、何がなんだかわからないうちにイベントが進行するとか、
逆に、何を指示されているのかわからなくて延々と右往左往したり、といったことが多かった。
その手がかりを追いかけたらその次の手がかりが出てきて、
言われるままあっち行ったりこっち行ったり、
で、それが主人公に何の関係があるの?という感じになってくる。
剣を奪われたのも自業自得のアホだしな。
と、愚痴ばかり書いてしまったが、総合的にはよく出来た中世騎士アドベンチャーである。
メインシナリオやったらあっさり説明があったりしてミスったなと思った。
難点は街が小さいこと。
というか、いまだに「設定上はもっと大きいけど省略されてるだけ」なのか、
「宇宙環境が厳しすぎて人類がこれだけしか残ってない」のかわかってない。
イベントとかの量はめちゃくちゃ多いんだけど、
宇宙がそれ以上に広すぎて密度が低いように感じてしまうのはもったいないよなあ。
誰もいない惑星表面の地質調査とかをするのも楽しいっちゃ楽しいけどさ。
街並みを自動生成とかして見た目のバリエーションだけでも確保できてたらぜんぜん感覚も違ったのでは。
オープンワールドRPGとして及第点の作りで、このレベルの作品を日本のゲームスタジオが作ったことに感動を覚えた。
作り込まれた町並み、自由度の高いアクションに、コーエーらしい幕末オールスターのシナリオを掛け合わせている。
ヘグセスのこと大好きやんけ
アケメネス朝(Achaemenid Empire)は、紀元前550年頃に興ったペルシア帝国として広く知られている。しかし、それとは異なる「アケメンエス朝(Akaemenes Esthe)」という、歴史に埋もれたもう一つの帝国が存在していたことは、あまり知られていない。その歴史は、支配の力だけでなく、癒しと精神の充実を追求した独特の国家運営によって彩られていた。
アケメンエス朝は、紀元前6世紀頃に、ペルシア地方のある都市「パルマッサージュ(Palmassage)」を中心に勢力を広げた。その創始者である「キュロス・ザ・リラックス(Cyrus the Relax)」は、ただの軍事的天才ではなく、心身の癒しを国民に与えることを目的とした賢明な王であった。彼は戦争に疲弊した兵士や民衆に対し、独自の技術を用いた「深層揉術(Deep Tissue Therapy)」を広め、国家全体を癒しの空間へと変えたのである。
この時代、各地には「オイルの館(House of Oils)」と呼ばれる特別な施設が設置され、貴族から庶民に至るまで、心と身体を癒す場として機能していた。これは、後のメンエス文化の礎とも言えるもので、特に王族が愛した「アロマスチーム(Aroma Steam)」は、王宮の内部に広がる香りとして歴史に名を残した。
キュロス・ザ・リラックスの後を継いだのは、その手技に秀でた「ダリウス・ザ・ハンド(Darius the Hand)」であった。彼は軍事的拡張を図ると同時に、国家のすべての施設に「ゴールデンタッチ(Golden Touch)」と呼ばれる施術技術を導入した。この技術は、戦士たちの身体を戦いに適応させると同時に、戦の後の疲れを癒すために欠かせないものとなった。
また、ダリウスは「ホットストーン療法(Hot Stone Therapy)」を正式に国家の施術法として認め、戦士たちの回復を早めるための国家プロジェクトを展開した。彼の時代には、各都市ごとに専門の「施術官(Therapist General)」が任命され、国家全体のリラクゼーションを管理する仕組みが整えられた。
ダリウスの後を継いだのは「ゼルクセス・ザ・センシュアル(Xerxes the Sensual)」である。彼の時代には、国家の癒しの文化がさらに発展し、「ディープリラックス(Deep Relaxation)」と呼ばれる特別な宮廷療法が確立された。この治療法は、王族や貴族のみに許される秘術であり、施術の間は穏やかな音楽とともに、極上のオイルが全身を包み込むという贅沢なものだった。
ゼルクセスはこれを外交にも利用し、敵国の王をもてなす際には、彼らを「エステ・スイート(Esthe Suite)」に招き入れ、極上の癒し体験を提供した。これにより、戦わずして多くの国を従属させるという「施術外交(Therapeutic Diplomacy)」が完成したのである。
しかし、時代が進むにつれて、アケメンエス朝の癒しの文化は次第に衰退していった。特に紀元前4世紀、アレクサンダー大王の遠征によって、パルマッサージュは占領され、国家の施設はことごとく破壊された。アレクサンダー自身もその施術を体験し、一時はその虜となったものの、戦場での厳しさを優先し、最終的にはこの文化を廃れさせてしまった。
だが、アケメンエス朝が生み出した「施術文化(Therapeutic Culture)」は完全に消えることはなかった。その後の王朝や文化に影響を与え、ローマ帝国の浴場文化や、中世イスラム圏のハマム文化へと形を変えて受け継がれていった。そして現代においても、その精神は生き続け、「メンズエステ」という形で、疲れた現代人の心と身体を癒し続けているのである。
アケメンエス朝は、単なるペルシアの一王朝ではなく、「癒しと統治」を一体化させた類まれなる国家であった。その施術技術とリラクゼーションの概念は、戦乱の世の中で民衆に安らぎを与え、さらには外交手段としても機能した。現代の私たちが受ける施術のルーツが、この歴史の片隅に眠っていると考えると、ロマンを感じずにはいられない。