はてなキーワード: 外食とは
157cm47kgの普通体型だった。
妊娠出産を経て53kgになったところ、産後うつにやられ抗うつ薬を飲み始めたらみるみる太って一年たたない内に73kgになった、デブになった。
持ってる服が一つも入らない。そして世の中に売ってる服もどれも着こなせない。すごいな、あんなに行ったショッピングモールが縁の無い空間になった。だって、アローズもシップスも何もかも入らない。
しまむらなんかの大きいサイズの服はどれもなんでかフェミニンフェミニンしてて、カジュアルな服装してた自分の髪型や丸メガネには全然無理。年齢的にも似合わない。
当然だが体重いし、三段腹だし、二の腕なんか足みたいだし。肩足立ちすると贅肉を支え切れなくてふらふらする、風呂なんか入ると手が体に回りきらない気がする。ひでぇ。
デブがいっぱい食ってると思われたく無いから、外食も行きたくなくなった。
というか外に行きたくなくなった。
お腹いっぱいで限界、になるとひと口とかの単位ももう入らない。あとちょっとだなって自分でも思うけど無理。食後にその場で15分くらい休んでいいなら多少無理できるけど、そんな訳にいかないし。
残すのは申し訳ないので量を減らせない店は行きづらい。
デスクワークの女性の1日の所要カロリーって1800kcalぐらい。
でも、ファミレスのメニューなんか見たらわかるけど外食するとすぐ1000kcal越える。
朝食もしっかり食べたら500kcalぐらいいくから、ここで1500kcal。
成長期の高校生ならもうちょっとカロリー許容できるけど、どうせ放課後になんか甘いもの食べるじゃん?女の子はおやつが主食だろ?
結局、逆算するとランチ分のカロリーは300kcalだから計算合うんだよ。
たしかに夜にボリュームあるの食べると身体に悪いとは言うけど、現実問題、デートとか飲み会とかでトータル600kcalに抑えるなんて無理なんだから、ランチで調整するしかない。
純粋な疑問なんだけど、女子の皆さんって外食で残すのって割と頻繁にあることなんだろうか。
会社の昼休みによく近所のイタリアンに行くんだけど、あと数口くらいで完食、というレベルでパスタやご飯を残して帰る人が結構多い。
男の感覚だとそれくらいの量だったら食べきっちゃわない?となってしまうくらいの量。
もちろん体調とか腹のキャパとかで残すことは全然あると思うんだけど、もしかして「完食するのは恥ずかしい」みたいな概念持ってる人って割といたりしますか?
男が食事残す時ってよっぽどまずいかデカ盛り食べきれない時くらいなので、大盛りでもないものが残ってしまう条件が思いつかない。
うちの奥さんがなんでも完食派なのもあって興味と後学のためにお伺いしたいです。よろしくお願いいたします。
■追記
・満腹感が急に来る
調子よく食べてたけど急にウッとくるというなら食べるペースは予測しにくい。
無理して食べると具合悪くなりそう、というので手が止まるのも納得。
・加齢で量が食べられなくなった
多分これも前述のウッに近いものかも。どうしても「前は食べれたぐらい」の感覚で注文しがちだろうし、頭の感覚と実際の腹具合に齟齬が出ればそうなる。
聞いたことはあった。最近はSGDs的な意識で中国は変わってきたっぽい?韓国は美容目的でそもそも少食の傾向がありそう。
韓国の挨拶の常套句として「飯食べてるか?」ってのがあるらしいけど、若い人からしたら隔世の感あるかもしれん。
・体型維持や健康
食事に対するシビアさとかストイックさが必要な人もいるよね。糖質の「摂りすぎ」のキャパもみんな違うし。
増田は少し親の年が離れていてギリ昭和の地方生まれ、どちらかというと家や小学校は「残さす食べよう」教育の世代。
なので食べれないものはそもそも頼まない、食べれるものを食べきるって意識がベースにあったので今回いろんな考え方が見えて勉強になりました。
確かに今の学生さん前後くらいの人とたまに飯行ってもそんなに量食べる人あまり見ないんだよね。こっちが払ってるから遠慮はあるとは思うけど、自分たちの同じ頃と比べると1-2品は少ない感じ。
昔はよくインターネットオタクで「◯◯食べに行こうずwwwww」ってオフ会して色々食べてきたから外食って楽しいものの意識あったんだけど、自分が思ってるほどそんなに食事に執着してなかったり、制限かかってる人がいるかもというのは覚えておこうと思います。
誕生日を迎えた。
が、おっさんなのでそんなにめでたくなく
けど家族にだけは祝って欲しいなーと思ってたり。
ところが妻は誕生日を忘れていた。ぎゃふん。(2年ぶり3回目)
あんだけもうすぐ46歳になっちゃうね〜おっさん〜、とか言うてたのに、当日忘れるか?
お義母さんはなぜかきっちり覚えてくれていて
お義母さんからプレゼント渡しといてーと受け取った時に思い出したんだろな。
うちでは誕プレはもう無しで(欲しいものがない)ケーキだけ食う形だが
「帰りにケーキ買ってきて」と。
自分を祝うために自分でケーキを買うということでちょいモヤモヤ。
百貨店にいくと暖房がきいていて暑く、とても気分が悪くなりケーキが気持ち悪く見える。
なにしてんだろほんま。
無理矢理選び電車に乗り、今これを書いている。
子なしならって前提で書くけど、
二日休みがあるんだったら翌日が休みの日は夜更かししてもいいだろ。世間の人がなぜ金曜日に飲み行ったり夕飯を外食にしたりするか考えてみてほしい。
それから、夜更かししてなくても、休日に7時〜8時起きはきついよ。30代でフルタイムで働いてたら休日に午後まで寝るのは普通。
ただ次の日予定があるのに寝不足で出かけるのは体調的に心配なので、それはやめてほしいって話はありだと思う。
そんで家事が負担で不満なら、家事分担話し合って嫁の分の家事は嫁がやるまでやらないようにする。絶対手を出さない。
増田が勝手にやって内心不満を溜めてても、嫁は気づかないしやらない。人間ってそういうもの。
実際に家事をやってないっていう結果のデータが目に見えてわかるようにしないと、家事が疎かになってるからゲームを制限してほしいって提案がしにくいってのもある。
https://x.com/FedPoasting/status/1908020393404764408
勤めていたのは、かつて「アメリカを偉大にしてきた」と言われたような、Whirlpool(ワールプール)の製造工場だった。
金融危機の余波の中、経営陣はメキシコへの生産移転、つまり海外アウトソーシングを決断したのだった。
閉鎖されたその工場は、延べ面積およそ112,000平方メートル――巨大な製造施設だった。
そして一夜にして、1,000人もの人々が職を失った。
その多くは、何十年もそこで真面目に働いてきた人たちだった。
同じ工場で30年以上、黙々と働いてきた――
それが、パチン、と指を鳴らしたような一瞬で、すべて消えたのだ
私がまだ幼い少女だった頃――物心ついた頃からずっと、祖父は毎朝3時半に起きて、人口1,200人ほどの田舎町から、車で40分かけて工場に通っていた。
それを毎日、30年間続けた。
10〜12時間の長いシフト勤務も多かったけれど、文句ひとつ言わなかった。
私は「ネイビー・ブラット(軍人家庭の子)」として育ったから、祖父母と一緒に過ごせるのは夏の数ヶ月だけだった。
でも、覚えている。祖父は、わずかに残った体力をすべて使って、私たちと過ごしてくれた。
小川に遊びに行ったり、ツリーハウスを作ってくれたり、馬に乗ったり、「カウボーイとインディアンごっこ」をして遊んだりした。
小学校に入った頃から、毎晩、私は祖父と一緒にリビングのソファに座って、ヒストリーチャンネルやアニマルプラネット、ビル・オライリーの番組を観ていた。
それから、民主党が何をしてるかって話題で笑い合ってた――8歳の子なりに。
18歳そこそこで結婚し、1年も経たないうちに私のママを、そのすぐ後に叔母を授かった。
彼らは小さな自宅農場を営み、持ち物の多くをローンなしで所有していた。
貧しかったけど、土地を耕せるというのは、そういう状況に意味を与えるものだった。
祖母は地元の学校で事務員として働き、祖父は製造業の仕事で良い福利厚生を得ていた。
マクドナルドに行けるのは、誕生日だけの特別なイベントだった。
夏の終わりには果物や野菜を瓶詰めにして保存し、刻んだオクラやブルーベリー、野生のイノシシや鹿の肉は、作業小屋の古い冷凍庫に詰めて凍らせていた。
飛行機に乗ったこともない、アーカンソー州の外に出たことすらほとんどない二人だったけれど、私のママと叔母を、大学、そして大学院まで通わせた。
借金を一銭も背負わせることなく――1990年代のことだった。
それなのに、57歳になった祖父は、1,000人の同僚とともに、まるでゴミのように捨てられた。
何十年もその会社に尽くしてきたというのに。
そして、彼らが与えられた「次の一手」は?
慰めの言葉は?
「コードを学べ」
その頃、彼らの生まれ育った土地は、文字どおり“ワイルド・ウェスト”――開拓時代の名残がまだ色濃く残る地域だった。
井戸から水を汲み、火で沸かしたお湯をブリキの浴槽に入れて身体を洗い、トイレは外にある便所を使っていた。
一つの教室しかない学校で学び、家族はみな、自分たちの農場で育てた家畜を頼りに生きていた。
私の祖父母のような人々こそが、この国を築いたのだ。
子どもたちのために、この国を築いてきた。
けれど彼らが築こうとしたものは、株式ポートフォリオでもなければ、不動産投資の資産でもなかったから――
彼らの家、彼らの地域社会を守るということは、ウォール街にとってもワシントンにとっても、壊しても痛みを感じるほどの「価値」はないと見なされていた。
彼らが築いていたのは、「コミュニティ」だった。
誰もが、できる限りの手を尽くして、他の誰かを助けようとするような場所――
国際貿易政策やCDO(債務担保証券)なんて、遥か遠くの話でしかなかった。
だが、今のこの世界のありようでは、
過疎地の小さな町や、人口の少ない州にある100年の歴史あるコミュニティは、
ほんの数ベーシスポイント(bips)の経済的利得のために、あっさりと犠牲にされるのだ。
それが「支配者たち」のやり方。
けれど、祖父はまだ諦めていなかった。
飼っていたブランガス牛の群れを増やそうとした。
だが――残念なことに、牛の飼育はもう何十年も前から、収支マイナスの商売だった。
Whirlpoolだけではない。すべての製造工場がそうだった。
2008年以降、閉鎖された工場で働いていた何千人という人々に、もう仕事は残されていなかった。
正直に、誠実に働いて生きる道は、風に吹かれるようにメキシコや東アジアへと消え去っていた。
残されていたのは、ガソリンスタンド、ダラー・ジェネラル、ウォルマートのレジ打ちだけ。
人口1,200人のあの町の周辺には、ガソリンスタンドはたったの2軒しかない。
そのうちの1軒は最近潰れ、もう1軒はパキスタン人の家族が経営している。
その結果、その町の世帯収入の平均は、今では年間3万ドルほど。
残っている家庭のほとんどが州の援助に頼っている。
そして、オピオイドとメタンフェタミンの乱用は、かつてないレベルにまで達している。
それでもなお、あの人たちは言うのだ――
軽蔑に満ちた顔で、嘲るように。
その一方で、喜々として、ろくにスキルもない安価な移民を大量に受け入れ、
血と汗と涙をもって、この国を築き上げてきた。
何もない荒れ地から、土を起こし、何もないところから一つひとつ積み上げてきた。
病に、命を奪うような天候に、部族との争いに、裏切りに、そして無法の地という本質的な危険と向き合いながら。
この国は――一つひとつの煉瓦が、この地球上で最も勇敢で、最も屈強で、最も忍耐強い人間たちによって積み上げられてきたのだ。
それなのに、ここ60年の間に起きたことは何だ?
象牙の塔にこもる学者気取りの詭弁家ども、ワシントンの豚ども、銀行業界のクズども――
そういった連中が、自分たちの口から出る唾で、我々の先人の名誉に、犠牲に、共同体に、人種に、信仰に――ありとあらゆるものに唾を吐きかけてきた。
それだけではない。彼らは、先人たちが築いた遺産そのものにも、
その子どもたちにも、孫たちにも――
そして、本来受け継がれるべき権利にすら、平然と唾を吐きかけているのだ。
アメリカ政府と、その利害をともにする者たちがこの国の本来の継承者に対して行ってきた――組織的な裏切りという悪行に対して、
英語の語彙には、その凶悪さを正確に表現できる言葉すら存在しない。
この国を、神に見放された未開の地から掘り起こすために流された血は、確かにそこにあった――実在する、物質としての血だ。
血は、人と同じように「物質」だ。
「理念」には血は流せない。
本当に血を流し、命を捧げ、その結果として我々が今享受している「快適さ」や「贅沢さ」を築いた、
すべての者たちへの裏切りだ。
この60年間、あらゆる旧来の制度、学術機関、政府機関、NGOは、過去10年の間ずっと、この国を築き上げてきた人々に対し、様々な言い回しで「本質的に」「根源的に」「存在そのものが悪である」と言い放ってきた。
我々を「人種差別主義者」「強姦魔」「ジェノサイド加害者」「奴隷商人」「抑圧者」「山奥の未開人」「近親交配の成れの果て」「救いようのない堕落者」「クソ白人」――そう罵りながら、裏では密かに「余剰な生体資源」としての我々をどう始末するか、その計画を着々と練っていた。
代償を払ってもらう時が来たのだ。
国家予算でぬくぬくと生きる、悪意に満ちたミュータントどもは一人残らずクビにしろ。
そして、ドルを「世界基軸通貨」という地位から引きずり下ろせ。
我々、特に自らを“民族的な”ヘリテージ・アメリカンだと考える者たちは、短期的にどれほどの犠牲が伴おうが構わない。
それによって、自分たちが正当に受け継ぐはずだった遺産が焼き尽くされる様を、ただ黙って見ている必要がなくなるのなら――我々はその代価を喜んで支払う。
我々は、罪を犯した者たちがその報いを受けることを望んでいる。
首が飛ぶのを見たいのだ。
Bugman Hegel
@FedPoasting
In 2011, my papa was laid off from a Whirlpool manufacturing plant, the kind that had for so long made America great. In the wake of the financial crisis, the C-suite had decided to offshore operations to Mexico.
The plant they shuttered was a 1.2 million sq ft manufacturing plant, and overnight, 1,000 people lost their jobs. Many of whom had been working there for decades.
My papa was 57 years old when he got laid off. He had worked at that very same plant for over 30 years, and snap just like that, it was all gone.
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2011年、私の父は、長年アメリカを偉大にしてきたワールプール社の製造工場から解雇されました。金融危機を受けて、経営陣はメキシコへの事業移転を決定しました。
閉鎖された工場は120万平方フィートの製造工場で、一夜にして1,000人が職を失った。その多くは数十年にわたってそこで働いていた人たちだった。
父は57歳のときに解雇されました。父は30年以上同じ工場で働いていたのですが、突然すべてが消えてしまったのです。
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When I was a little girl, from as far back as I could remember, my papa woke up at 3:30 am and drove the 40 minutes to the plant from the rural 1,200-person town every single day. And for 30 years, he worked what were often 10-12 hour shifts with no complaints.
I grew up a Navy brat, so I didn’t get to see my grandparents except for a few months during the summer, but I remember my papa exerting the last drop of his energy so he could spend time with us going to the creek, building us a tree house, riding horses, and playing cowboys and Indians.
Every evening, starting from when I was in grade school, my papa and I would sit in the living room and watch the History Channel, Animal Planet, and Bill O’Reilly and hee-haw together about what the Democrats were doing, as much as an eight-year-old can.
My papa and my nana had been together since they graduated high school; they got married at barely 18 and had my mom less than a year later and my aunt soon after that.
They had a small homestead, owned most of what they had outright, and they were poor, but poor doesn’t have to mean that much when you can work the land.
My nana worked as the local school’s secretary, and my papa had good benefits with his manufacturing job. They only ever went out to eat on special occasions. McDonald’s was a birthday-only type of affair. They had a one-acre garden, a few head of cattle, would can fruits and vegetables at the end of every summer, and freeze chopped okra, blueberries, meat from wild hogs and venison in an old chest freezer in the workshop.
私がまだ子供だった頃、物心ついたころから、父は毎日午前 3 時半に起きて、人口 1,200 人の田舎町から工場まで 40 分かけて車で通っていました。そして 30 年間、父は不満を言うことなく、10 時間から 12 時間のシフト勤務をこなしました。
私は海軍の子供として育ったので、夏の数か月を除いて祖父母に会う機会はありませんでしたが、父が最後の力を振り絞って私たちと一緒に小川に行ったり、ツリーハウスを作ったり、馬に乗ったり、カウボーイやインディアンごっこをしたりして時間を過ごしていたことを覚えています。
小学生の頃から、毎晩、私とパパはリビングルームに座って、ヒストリーチャンネルやアニマルプラネット、ビル・オライリーを見て、8歳の子どもができる限り民主党が何をしているのか一緒に大笑いしていました。
私の父と祖母は高校を卒業して以来ずっと一緒にいました。彼らは18歳になるかならないかで結婚し、1年も経たないうちに母が生まれ、その後すぐに叔母が生まれました。
彼らは小さな農場を所有し、所有物のほとんどを完全に所有していましたが、貧しかったです。しかし、土地を耕作できるなら、貧しいということはそれほど大きな意味を持つ必要はありません。
私の祖母は地元の学校の事務員として働いており、父は製造業で良い福利厚生を受けていました。外食するのは特別なときだけで、マクドナルドは誕生日にしか行かなかったのです。彼らは 1 エーカーの菜園と数頭の牛を飼っていて、毎年夏の終わりには果物や野菜を缶詰にし、作業場の古いチェスト型冷凍庫で刻んだオクラ、ブルーベリー、野生のイノシシの肉、鹿肉を冷凍していました。
Despite never having been on a plane and seldom ever having been outside of Arkansas, they managed to put both my mom and aunt through college and graduate school without requiring them to incur even a dime of debt. This was the 1990s.
Then at the age of 57, my papa and 1,000 of his coworkers were thrown away like a piece of trash after giving that company decades of their lives. And what were they told to do? What was their consolation prize?
Learn. To. Code.
My papa and nana were born in the 1950s in a place that was quite literally the Wild West just mere decades before their birth.
Growing up, neither of them had running water—they drew water from a well, washed up in a tin tub heated over a fire, and went to the restroom in an outhouse. They were both educated in a one-room schoolhouse and both came from families that relied on their farm’s livestock to feed themselves. People like my grandparents built this nation. They built this nation for their children.
But because the thing they sought to build wasn’t a stock portfolio or real estate portfolio, the preservation of their homes and communities was not something that Wall Street nor Washington saw as having enough value to be anything more than apathetic about blowing up.
飛行機に乗ったことも、アーカンソー州から外に出たことがほとんどなかったにもかかわらず、両親は母と叔母を一銭も借金せずに大学と大学院に通わせることができました。1990年代のことでした。
そして、父と1,000人の同僚は、57歳で会社に何十年も捧げた後、ゴミのように捨てられました。そして、彼らに何をするように言われたのでしょうか? 慰めの賞品は何だったのでしょうか?
Learn. To. Code
私のパパとおばあちゃんは、1950年代に生まれましたが、彼らが生まれるほんの数十年前までは、そこはまさに「ワイルド・ウェスト」でした。
両親ともに水道のない環境で育ったため、井戸から水を汲み、火で沸かしたブリキの桶で体を洗い、離れのトイレで用を足した。二人とも一教室の学校で教育を受け、農場の家畜に頼って食料を得ていた家庭の出身だ。祖父母のような人々がこの国を築いた。子供たちのためにこの国を築いたのだ。
しかし、彼らが構築しようとしていたのは株式ポートフォリオでも不動産ポートフォリオでもなかったため、彼らの家やコミュニティの保全は、ウォール街やワシントンにとって、破壊することに無関心以上の価値があるとは考えられなかった。
https://x.com/FedPoasting/status/1908020397842509905
ウェブブラウズ・決済・メール・メッセージ・SNS・電子書籍・地図・Uber Eatsあたりか。
最も向いてない人の性格をしている
男女どちらでもセフレは特殊な性格の人間のやることだと思ってね
友達になる か…
そもそも特定個人と話を繋げるのが苦手で… ワンチャン恋人になれる可能性にも賭けてとりあえず多くの女性と連絡取るしかないかー
それでいうとどう考えても恋人になれそうにないから諦めてる女友達はいて、よく相談してるね。
紹介なんてされる気一切ないけど
女じゃなくても、普段話さない感じの男でもなんでもいいからあんまり緊張しないで話せる人を作ってとりあえず雑談してみるといいよ
自分はいろんな人に紹介打診されるけど別に紹介してもらうために仲良くなったんでなく仲良くなる→雑談がてら彼氏がいない話をする→え!?いい子いるよ!ってなる なので、普通に人と仲良くしてればいずれそういうチャンスがあるかも〜くらいの気持ちでいい
交友関係の広い面倒見のいい人と仲良くなって上手くいかないんですよ〜とか彼女いないんですよ〜とかたまにぼやくくらいがちょうどいい
「彼女が欲しいだけで増田ちゃんを大切にしてくれるかわかんないから断っといたよ〜」
って事前に防がれてることもあるから…
てか自分がめっちゃ紹介されまくってるのは6年彼氏がいないのにマジで1ミリも焦ってなくて毎日楽しいぴょ〜んと思ってたら周りが自分より焦ってるだけなのであんまり気にしないで欲しい
いい人として暮らしてたら紹介してもらえたりするよ、交友関係は広げることを意識するといいよってだけ
あと 増田はめちゃくちゃケチなこともあって美容院怖い外食はチェーンみたいな人間なんだよね。これが本当に直らなくて自分に金かかるのが苦手すぎるんだよね。そんな小細工してもカッコよくなる気がしないし
増田は今非常に視野が狭い状態なので、そういう殻を一度無理やり破壊して視野を広げる必要があると思う
マチアプでマッチできた人をこの人しかいない!と思ってしまうのもそうだし、小細工しても…と思ってるのもそうだし
美容院もメンズカットならレディースカットより1000円以上安かったりするしカラーしなければ意外と身構えるほどでもないよ
セットのやり方もわかんないんです…どうしたらいいか教えてください…て言ったら大抵の美容師さんは快く教えてくれる
ホットペッパーの口コミ見て、悪い口コミにめちゃ反論してる美容院は大体地雷だから感じの良さそうなところを探すといいよ
プロフィールシートなんてあるのか それは頼もしいね。ただ、そうなると面接みたいに事項聞くだけで全然広げられないかもしれない………
なんか自分の行ったやつは3周くらい?したから事項聞く→話広げる→話すことがなくなって相談タイムになる みたいになったよ
向こうもノウハウがあるからちゃんとアナウンスとかしてくれるし
自分もアラサー女増田だし、年下が悩んで頑張ってたらお姉さんが聞いちゃうもんね〜ってなる人は全然いるよ
でもそれは恋愛対象ではないがゆえという部分もあるので諸刃の剣かも
まともな社会人は大学生に手を出さないからね(生活リズム、価値観のすり合わせが大変だから)
マチアプやった結果視野狭窄に陥ってるみたいだから、そんなんだったら1人とマッチできる街コン行ったほうがいいんじゃない?という感じなので、いっそマチアプも街コンも追い連絡も1回やめて美容院行ったり世界広げるほうがいいとも思うな
何人かとマッチできるってことは別に焦って自分磨きするほどやばくもないと思うんだけども、でも増田が視野が狭くなる理由って自分に自信がなくて自分のことがあんまり好きじゃないからマッチできた=自分のことを好きになってくれるかも!離しちゃダメだ!って思っちゃってるのかなって感じるのね
自分のことを愛する役割を相手に外注するとあまり健全な関係を築けないから、まずは増田に自分って結構いいじゃんと思えるようになってほしいかもな
これはただの体験談だけど、いい人なのに自信のなさそうな人って「自分ってほんとダメで…」みたいなことを言いがちで、マッチした相手がそうだと
「いい人だけど、私ずっとこの人のネガティブのケアをしなくちゃいけないのかな」
って思ってしまうのね
自分はアラサーで同じくらい〜ちょっと上の歳の人と会うから余計に「もうこの歳までこれなら一生直んないだろうな、一生これをケアする覚悟はないな」って思う