はてなキーワード: 天職とは
あんたは理想のアイドルを演じながら生きていて、限界が近づいてきているわけやな。そろそろ置き去りにした『本当の自分』を救済せなあかんよ。
あんたの言う心安らげる人の前ではアイドルにならなくてええんやで。『本当の自分』をしっかり肯定してもらうことが大切や。どうでもいい誰かじゃなくて、心安らげる人に負の自分もしっかり受け止めてもらわんと駄目なんや。
裏でブチギレてるアイドルなんか仰山おるやろ。あいつらは『演じたアイドル』のストレスを歪な形で放出してるにすぎんのや。中には、『本当の自分がアイドル』みたいな天職のヒトもおるわけやけどな。
そんで、あんたは今自分の存在を認めてもらいたくて、セックス、アルコール、まあその辺の"簡単な何か"に依存しているはずや。辞めろとは言わんけど、もっと健全な依存先を探した方がええで。その依存先まあ新たな趣味というわけなんやが、それはきっとあんたの人生に役立つと思うよ。
たとえ「アイドルを辞める!」ってなっても、それはあんたにとっての第一歩やでー!決断は全部前進!人生楽しく過ごすんやでー!
学生時代から鬱のケがあり、大学在学中にメンタルクリニックに通い始める。鬱の診断と共にADHD、ASDの診断済み。
持ち前の運とギリギリを見極める力により、単位も足りず卒制も中途半端だったのに何故か大学を卒業。
大学在学中から付き合っていた彼氏の家に転がり込み、毒実家との関わりを断つ。
鬱病で就活がまともに出来ず会社員にはなれなかったため、現在は夜職(の類い)に就いている。あまり人に言えない仕事ではあるが、体力も無く過眠がちな私には週3、1日3時間程度で月に60~80万稼げる今の仕事は天職である。
学生の頃は将来について憂いていた。
もし就職できなかったら、もし実家を出ることが出来なかったら、もしお金を稼ぐことが出来なかったら…
そういった将来の不透明さへの不安が解消された今、学生の時よりは毎日が楽になった。働けばお金が貰えるし、綺麗な家も、結婚を約束した彼氏もいる。
でも、でも、やっぱり、耐えられない
働いても働いても、生きるためにお金は減る
生き続けるためには、働き続けなければならない
働き続けなければならない、ということへの恐怖
そこまでして生きたくない、と思う 思ってしまう
今は彼氏が悲しむのでギリギリ死を選ばないでいるが、どうにも、どうにも生きるというのは辛すぎる。
早く終わらせたい、終わらせるための行動も取りたくない、今すぐ何か、外的要因で、後悔する間もなく終わらせて欲しい。
皆さんはどうして、どうして生き続けていますか
天職が見つかってよかったな
その定義ができないんよ。
何をもって勤労かは本当に難しい。
例であげたように、娯楽と思われていたゲームも、ストリーマーやプロゲーマの登場で、勤労になった。
赤字ならダメとしても、企業当初は赤字だろうし、投資家だって赤字になることもある。(投資家にとっての勤労は恐怖に耐えて投資することだろうし)
したがって、何をもって勤労かを定義することはとても難しい。
マルクスやウェーバーの労働観を追加すると説をより補強できるらしい。
マルクスは、労働を「人間が自然を変形させ、自分自身を表現する行為」と捉えた。
したがって、「雲を数えることが勤労か?」という問いに対し、「本人がそれに意味を見いだし、自己実現につながるなら労働と言える」と主張できると。
ウェーバーの視点を使うと、「勤労とは本人が義務や意味を感じるもの」と定義できる余地がある。雲を数える行為が「私の天職だ」と本人が信じるなら、それは勤労と呼べるかもしれない。
勤労とは何か?を定めるのは本当に難しい。
金儲けに正当性が与えられない社会では、金儲けは当然抑制され、近代資本主義社会へと発展することはないはずである。
しかし、最初から利潤の追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、
その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという「隣人愛」の実践の結果であり、
その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証である。
このようにして、皮肉なことに、最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したのである。
人々は、「結果として」の利潤の追求に励むことになる。
利潤の多寡は、「隣人愛」の実践の証であり、救済を確信させる証である。
そのため、多ければ多いほど望ましいとされた。
そして、より多くの利潤を得るためには、寸暇を惜しんで勤勉に労働しなければならない。
そのため、人々は時計を用い、自己の労働を時間で管理するエートスが成立した。
このことを端的に示す諺が「時は金なり」である。
厳格な時間管理の意識は、「近代」的な価値観の特徴のひとつである。
そして、スイスなどのプロテスタント圏で時計産業が発達したのも、決して偶然ではない。
それまでの人類の労働のあり方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、
日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、
昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、
つまり、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低いものであったのである。
しかし、プロテスタンティズムは、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる、
「ブンとフン」という昭和中期にかかれた井上ひさしの小説があって、
みんな働くの苦しくても万引きとかして無敵の人になれば刑務所でおいしいご飯を3食たべさせてもらえる!っていうあらすじ(いや結末か。途中はたしか超能力怪盗もの)なのさ
まあそれを書いた井上ひさしは家庭内暴力で離婚された上に今も妻さんが講演会してるけど
話がそれたけど、今はそういう昭和くらいの貧しさに日本全体がもどっていこうとしてるわけ
効率も根性もいらないよ、見栄もいらない、ただ職場に居るだけ話すだけで飯くわせて。
ってなってるわけだし、
実際職場で一番頑張ってるのは発電機とコンピューターとサーバーとAIなんだからおおまかにいって昭和の職業観がほぼ正しいわけ
おのおのが、守りたい資産とか肩書きとかプライドとかあるからだとおもうわけよ。
家族?そんなのもってれば余計にさっさと転職するべきだ。産休とれないなんて嘘だろ。
転職できないやめられない、てのは無駄なこだわりかもしれないとおもうわけ
特に少子高齢化じゃん?独身「貴族」だった男性が「弱者」名乗るような世の中じゃん?
因習モノもそうだけど、老人の知恵ばかりじゃ社会はまわらないんで、優秀な若者がいれば適度に席をゆずってあげることがだいじだし
若者もその村(企業)で使い潰されて終わるより居場所をさがしていろいろ経験してまわりなよ、とおもうわけよ、増田は
まあ歯車向きの人がその天職としての歯車になりたいというなら止めないけど、クソガキよばわりしだすようならやめれば。
ここんとこ2年くらい、わいはうつ病無職生活保護のゲーム友達をはげましたわけ
うつ病無職生活保護のお友達は、残業が無理で「管理職はなりたくないです」「管理職でなくても残業させられたらやめます」といってるのに「どうしてもやって」っていわれて
一度だけ無理な残業をうけてそのあと言葉通りやめたしそのあと生活保護と失業保険をうけて、
通院で合うメンタルクリニックを生活保護の範囲内で探すのにものすごく苦労してた
最初のころは通話してもすごくつまらなかったし、言うことも他責や自責がからまりあってゴチャゴチャであまり面白くもないわけ
ただ、それでもあのときの友達に必要だったのは第一に休息だったといわざるをえない
友達は今、障害者雇用にいったり、アルバイトをしたり、もっと望みの職に近づくため免許をとろうとしてたりめちゃがんばってる
すごく安定してきたんだけど、お互いに話があわない気もしている(ぶちゃけ、プレイするゲームがくい違ってきただけ。ゲーマーてそういうとこあるw)
たぶんまた次のピンとくるともだちがみつかったらまた遠距離恋愛か親子みたいに親密にしゃべるとおもうけどそれがみつかるのは増田ではないだろうなともおもってる
昭和の職業観がわかる漫画について2年位前にも増田で長い記事を書いたかな。ちょっと探してみよう。
そろばんの話だったかな。ああこれだ。https://anond.hatelabo.jp/20230405125251
合理的禁欲とは、マックス・ウェーバーの著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に登場する概念で、キリスト教的禁欲の精神に基づいた合理的生活態度を指します。
ウェーバーは、近代資本主義の職業理念はキリスト教的禁欲の精神から生まれ、労働は禁欲の手段であり、神の定めたもうた生活一般の自己目的であると主張しています。また、プロテスタント社会では、カルヴァン主義の倫理である「beruf(天職/義務/仕事)」への慎ましい専念による「神々しさ」という倫理が、高い生産性をもたらしたと述べています。
ウェーバーのいう「合理的禁欲」は、あらゆる他のことがらへの欲望をすべて抑えて、そのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む行動様式を指します。
職業や労働は神様に与えられらたミッションでもあるし、我々はそのミッションのために禁欲してるのであって、単なるケチやマゾであってはならない
もうすぐ30歳なので、なんとなく転職も視野に入れようかと思ってるけど、転職の仕方がわからない。
コミュ障すぎて新卒の就活は早々にリタイアして、卒業後に派遣→正社員→上司の起業に付いていくって流れでまともに就職・転職活動したことない。
スタートアップでガツガツやるのも悪くないんだけど、ほぼ一人で現場を回してて心理的負担が大きく、鬱と付き合いながらなんとかやってる感じ。業務内容的には天職なのと、在宅フレックスなのと、今自分が辞めたら会社が停滞するってことだけが続けるモチベーションになっている。
働くことは嫌いじゃないが、なんせ就職活動が苦手すぎる。自分の事を売り込むのに罪悪感がある。壮大な理想があるわけでもなく、なんとなく安定した会社でやってみたいなー、給料もっとほしいなーくらいにしか思ってないんだが、転職「活動」くらいはしてみたい。
どこから始めたらいい?
ITエンジニアをしている。つい先日まで、いうてもあと5年10年は大丈夫っしょっと思っていた。
OpenAI o1 が出てくるまでは。
持ってあと2-3年なんじゃないかと思い始めた。
就職してから休みの日も平日の仕事が終わってからも全部コーディングに充てていた。
天職を見つけたと思っていた。
転職するまでは数年間昼間の仕事が終わってから働かない頭を振り絞ってコードを書いていた
個人の数年の努力をカリフォルニアの大金持ちが一夜にして無効にするような世界に住んでいるような気がして、正直バカらしくなる。
ミシンができて天職が機械に置き換わってしまった職人の嘆きをリアルタイムで聴いている感覚
といった感じで「歴史の証人になった気分がして良い」と言ったものの正直別に珍しいことではないんだけどね
人類は昔からそうやって機械化できることをどんどん機械化して楽できるようにして、それにより生まれたゆとりを新たな価値創出に費やしてきたのだから
誰かのせいで仕事をつまらなくさせられたと思っているそこのあなただって誰かの仕事をつまらなくさせた側の人なんですよ
あなたが書いたプログラムだってまともなCPUがない時代は回路設計者がえいこらえいこら論理回路を一つ一つブロックのように組み合わせて実装していた
ただの電卓作るのに死ぬほど時間をかけて回路組んで、トランジスタレベルからめちゃくちゃ設計して、それが開発だ!楽しいんだ!って言っていたのかもしれない
その人にとってはアセンブリ言語でホニャララと書くだけで計算結果が出てきてしまう世の中つまらねぇと思っていたかもしれない
更に行ってしまえばアセンブリ言語でホニャララとかける人にとってC言語もそういう存在かもしれない
それが世の中の常であり、進歩なんだよ
と書いてて途中で気付いたが、ITにだけその進歩が辛い側面はあるのかもしれない
ミシンが普及して職人が服を作らなくても良くなっても、腕の良い職人が作る服には工芸品の"味"という価値が残ったと思う
他にも自動車が生まれても趣味としての乗馬は残ったし進歩により旧世代の遺物になったとしても何かしらの価値が残ることが今までは多かったはず
一方、ITはAIが発達し品質も高く速度も出るようなコードが書けるようになったら手書きのコードに何の価値もなくなってしまう
誰かすげー奴がすげーライブラリを無償で提供しちまったら同じ機能を実装する価値がなくなってしまう
手書きのコードから生まれるプロダクトに手書き特有の"味"は生まれない
子供のころ、あるクセが抜けなくてそのせいで虫歯だらけになり、成人になった今でも虫歯が止まらなくて歯を削る治療、神経を抜く治療を年中している。
このあるクセが抜けないというのは一種の発達障害らしく本当は以後子どもの発達要観察となる現象のひとつだと知った。
当時はそのような知見が広まってなかったらしく、特段何か対処されることはなかった。発達障害なんてワードも無かった。
だから私は、今の今まで知能レベルや発達障害を自分に疑ったことがなかった。
しかし上記のことを知ってから、興味を持って色んな情報を見てみると発達障害でよくあるエピソードがまんま子どもの頃の私だったり、三親等以内に精神病を発症した人がいたり(必ず遺伝するわけではないが遺伝は要因の一つらしい)、家系的に?遺伝子レベルで精神病が発症しやすい人間だったし、おそらく今だったら発達障害と診断されてるんだろうなと思う。
ただもう中年なので「へぇ、そうなんだー」くらいにしか感じていない。でも10代の時に、「あなたは発達障害。IQはこんな程度。発達が遅れてる。社会でやっていくには努力が必要」とか言われてたら、すごいショックでがんばるのやめたかもしれない。絶望して滝つぼに突っ込んでたかもしれない。
滝つぼに突っ込むなんてそこまでしなくても…と思うかもしれない、私もそう感じたけど、でも実際いまこの自分がきっと発達障害かと分かってから、自分の身に置き換えて考えたら気持ちは分かる。私だって、若い時は何にだってなれるし自分はすごく優秀な人間だと信じてた。ひとつひとつの体験から怒ったり、落ち込んだり、開き直ったりしてゆっくり自分の弱点を受け入れてきた。
それを経て、そうか私は発達障害かって分かっても、絶望しない。だけどその過程を経ずにいきなり事実をつきつけられたら心の準備なんてできなくて絶望に直行してたと思う。
発達障害の検査を受ける人が増えているらしいけど、そんな若いうちから自分の頭には「障害あり」って断定されるのかなりきついってこと、本当に理解できてるんだろうか?
おそらく私の年齢くらいが、いま自分の子どもを発達障害の検査受けさせるくらいの年代だと思うんだが、時代的にそんなに分かってない気がする。
価値観も、それからの生き方にもかなり大きな、消えない影響を残す検査なんだが、そういうのってちゃんと説明してくれるのかな。
検査しなくたって生きていける。ただ…まぁ、すごく努力が必要だったし人生ハードモードではあった。検査して診断されると努力しなくてよくてイージーモードになれるのかはわかんないんだけど。
10代の私が発達障害って言われてたら、いまやってる仕事絶対選ばないし、なんなら大学も行かないだろうな。でも別にそれはそれで、良い人生だよね。
でもなんか、自分発達障害だし…っていうのが将来考える上で入ってきちゃうのは、残念なんじゃないかと思う。活かせはすると思うが、なんていうか、人材をフルに活用させるために自分は生きてるわけじゃない、好きに生きて本当は良いんだよね、とは思う。
難しいな、でも。私、天職があるなら知りたいって思ってたし。そういう考えなら、さっさと発達障害って言ってほしいって思うよね。いや、言ってほしくないか笑。発達障害とは言ってほしくない、良い所だけ言ってほしい。「あなたにはゴルフの才能がある」とだけ言ってほしい。えーゴルフかよ。ゴルフやりたくないな。才能あったとしても。
ワイの謎のフォロワー(風俗嬢)に言いたいこと
理解ある彼くん・パパくんの登場をお待ちいただくか、本人が変わる気になるまでどーにも出来ないが、
特別美人・かわいいワケではなくて、そこそこ接客と勤怠そこそこしっかりしてる人なら、コミュ障だらけのITで無双出来るぞ
本業ではなく副業でやってるわけわかんね〜ヤツのレベルの収入なら速攻でITが上回るようになると思うよ
未経験でも売り方間違えなきゃ400万以上狙えるし、将来的には600〜1000万全然狙えるで
セックスが好きで好きで仕方なくて天職だと思っているわけで無いなら、無駄に自尊心削られるだけだしすぐにおやめなさい
例によって例のごとくメンヘラってるみたいなのでどこまでお話本当か知らんが(メンヘラ営業だったりして)、
複雑なご家庭にお生まれ・お育ちの模様。ホンマ安全地帯って大事よなって思う
ガチャ大失敗してしまったのは気の毒だが無意味に自分自身を傷つけ続ける必要性は無い
https://anond.hatelabo.jp/20221203131142#
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
着想を紙に落さぬとも王膠鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。
この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺糸賺なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
自分の裸を晒すより、触れてきた音楽や小説を知られることに抵抗感を覚える
何を見て、何を感じ、どのような世界を構築してきたのか
かつて、真名を知られることはその者を支配する事と同義であったという
ここは一人部屋
誰も入れない
日本における死刑が行われているが、 その執行は刑務官によって行われている。
死刑囚の首に縄がかけられると、 3人の刑務官が同時にボタンを押す。 こうすると、実際に死刑囚の足元にある床が開き、死刑囚を殺す。
ここで、3つのボタンのうち2つはダミーであり、 1つだけが実際に死刑囚を殺している。 これは、刑務官の心的ダメージを減らすためとされている。
この死刑執行官だが、おれならば一人で淡々と遂行出来ると思う。
よく、おれは他人の気持ちがわからないと言われるが、 実際のところその認識は間違っている。 正確には、おれは他人の気持ちを完全に理解していながら、完全に無視している。 なぜ無視しているかというと、他人の気持ちを汲む価値がないと思っているからだ。
そもそも、おれは中学受験で「気持ちを答えなさい」という問いを何百何千と訓練されたのだ。 その結果麻布中学の難解な国語を突破出来た人間に、どうして他人の気持ちを理解出来ないことがあろうか。
これで、おれが気持ちがわからないのではなく、 わかった上で意図的に無視していることが理解されたはずだ。
ふつうの人間はこうはならない。 他人の気持ちを理解する能力がないがために、それを空気によって察しようとするから、 気持ちが空気を伝わって「感染」してしまう。 そういう人間が死刑執行人なんかしたら、 死刑囚の死にたくないという気持ちに感染してしまって、 精神が壊れるのは当然である。
どうせワクチンだって、他人のためとか本気で信じて打ったんだろう。 おれが打たないのはそもそもそれが毒であることを理解しているからというのもあるが、 もしそうでないとしても打たないだろう。 なぜならば、おれがリスクを負って守るべき他人の命はどこにもないからだ。 他人の気持ちを理解しつつもそれを無視するのと同様に、 他人の命が大事というのは理解しつつもその価値を無視するに決まってる。
だから、おれは死刑執行人をソロで遂行出来る。 なぜかというと、死刑囚の命に価値を感じないからだ。 1時間前に死刑囚と談笑してたとしても、軽くボタンを押せる自信がある。
精神の弱い人を守るために3つもボタンを用意するのは 税金の無駄遣いなので、ボタンを1つにしておれを死刑執行人に任命することを オススメする。