はてなキーワード: 肯定とは
なんか嘘食いのファンと小競り合いしてるけど、俺はつまらないと思ったのにそれを否定したい理由がわからん
嘘喰いは面白い作品だが特にラストの持っていき方は残念極まるしそこが大嫌いなんだがね
俺のことを全否定してる自称ファンの人達は嘘喰いの全てを肯定しなければいけないという呪いでもかかってるのか?
個人の感想程度に何怯えてるんだ?
何年も前に完結してるだろ
ギャンブルや頭脳バトルとしては珍しく、戦闘とゲームの役割が分離されている
例えばミノタウロスの迷宮は暴力担当と頭脳担当がバラバラなので、お互いに相性の悪い相手と当たったらやばいという状況で生き残るという筋書きは面白い
ドティは名シーンを数多く出していた
作中屈指の格闘戦の多さと冷静沈着な頭脳バトルの攻防のアップダウンはハラハラした
今連載しているジャンケットバンクよりこの辺りは上手
しかもハチャメチャな戦闘が階下でも起こるとか贅沢の極みとしかいいようがない
地味だけど、お館様(ハル)のキャラが最も活かされていたのはレストランのコーヒーフレッシュゲームだな
むしろ後半そればかりだったし
俺はリーゼントがお気に入りで、もう少し元々のヤンキーで頑張って欲しかったが、まあ色々あったんだろう
でもラストは平凡というか投げっぱなしすぎ
元々大してストーリーがなかったけど、あれでこの話はツギハギで無意味でどうでもいい設定とポエミーな表現だけで成り立っていると暴露されたわけだ
まあなんていうか、そっかそうだよね
キャラ人気も高いしゲームも面白いし伏線上手く使ってるけどストーリー楽しいかっていうとね
まあ俺はニワカだからこの程度だし、細かいゲームの内容とか感想言えないけどさ
この作品の良し悪しはこのくらいは言える
けどおまえらは幾つかの解釈違いとかで責めるだけで一切作品そのものを話さないよな
人の解釈は指摘できるけどそれ以上は何にも言えませんてか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@kalofollow/p/9bUipzh
洗濯機買う時、旦那が「最新モデルじゃなくてもいい」って店員さんに言ってたけど、店員さんから「洗濯よくする方が決めた方がいいですよ〜」って言ってくれたので最新モデル買いました
これって論理や理屈を気にせず男性を下げて、女性側の方が素晴らしいんだって無条件に肯定してあげることで女性をだます手法だよね?
肺がん、受動喫煙、ヤニ臭い、迷惑、金のムダ……とにかく悪い話しか出てこない。
あの人、バリバリのヘビースモーカーだ。煙をゆらせながら、あの名作たちを生み出してきた。
でも、あの煙の向こうに考えごとしたり、世界と少し距離を取ったりする“時間のゆとり”があったんじゃないかと思うんだ。
実際、喫煙所ってちょっとした社交場だったりするし、喫煙所トークで生まれるアイデアや協力関係って、意外とバカにできないんだよ。
コーヒーが好きとか、ウイスキーが好きっていうのと同じで、タバコの味や香りを楽しんでる人もいる。
その楽しみ方を頭ごなしに否定するのは、ちょっと違うんじゃない?と思うわけ。
吸わない人への配慮は絶対に必要だし、健康へのリスクも無視できない。
でも、じゃあそれってタバコだけか?って話でもあると思うんだよね。
自動車だって事故のリスクはあるし、環境にも負荷かかってる。それでも「便利だし、必要だから」って使い続けてるじゃん。
お酒だってそう。飲みすぎたら体壊すし、酔っ払って迷惑かける人もいる。それでも”嗜み”として楽しまれてる。
切り捨て方が極端すぎる気がするんだよね。
ちゃんとリスクも知った上で、節度を持って楽しんでる人だっているのに。
俺はタバコを礼賛したいんじゃない。
ただ良い面を語るぐらいのゆとりは、あってもいいんじゃないかって思うわけ。
リスクがあるものなんて世の中には山ほどある。でも上手に使えば良い友になる。
タバコも、そういうもののひとつとして見てもいいんじゃない?と思うんだ。
だから俺は、言いたい。
一応割り当てられた仕事はあるからやってるけど、肯定されてる感じもしないしなんなら、うん。俺なんかやめたほうがいいと思われてると思ってる。どっか他にいいとこあればいいんだけどな。やめたいなやめたいな。どうせやめないんだろうけど。(小並感)
フレンドとモンハンしながら通話中、後ろで家事をしていた彼氏の物音が通話に入ったらしく「今の音彼氏?」と聞かれた。
彼氏ができたことしか言ってなかったので、そこから「え、自分も知ってる人?」「出会いはSNSって言ってたよね?」とアキネイターされ、最終的に「〇〇さん?」とビタ当てされた。
素直に肯定すると「やっぱそうかー、仲良かったもんね!」と言われて、それがなんかすごく嬉しかった。
入籍とかはまだなん?と聞かれて、後ろに彼氏がいる手前キョドってしまったけど、こういうこと聞いてくれる人が近くにいたほうがこの手の話はスムーズにいくのかもしれないなーとも思った。
そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残してみる。以下は言論自由の優位性といった憲法理論を一部無視するが、あえて制度論から離れることで、どのような状況が表現の自由の失われた状況なのかの風景がみえることもある。
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とくに「表現の自由による暴力」をどこまで許容するかという点では、ヨーロッパと日本では大きく違う。
フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生(vie digne)を守るための抵抗」に原点を持つ。
その意味で、労働権、特にストライキの暴力(争議権)と、表現の自由はほぼ同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体の抗議活動。日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、イギリスやフランスでは「レジスタンス(抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これはエスタブリッシュメントに対して暴力的に抗う行為を意識しているからだ。
環境問題に限らず、農業・畜産業界の過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火・破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大企業による構造的暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」という言葉を通して、市民はフランス革命以来伝統という認識を共有する。
その背景には、18世紀、カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学的合理性を武器に、新たな政治制度を模索した原体験がある。「神を冒涜する権利le droit au blasphème」は、政教分離(laïcité)の文脈から分化した、黎明期の表現の自由の形であった。
制度の根幹に「科学的合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、「真理と信じるもの(faith)は人それぞれ」であり、「誰も完全な真理に到達していない」という前提がある。この考えは、巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムの思想に吸収され、「思想の自由市場」(ホームズ判事)という発想へとつながっていく。
もちろんアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想や巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害とは何かは定義できない」という議論に収れんしていった。1970年代には「社会の不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(Cohen v. California)もあった。今よりもずっとリベラルな司法の時代だった。判例の変遷から、連邦最高裁がヘイト規制に消極的な背景が見て取れる。
リベラルと保守のあまりの違い、トランプのような存在の出現、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さである。
会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。列への割り込みへの怒りや、コロナ禍での自粛違反者への非難などに表れているように、「他人に迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。
この「迷惑感情」は、表現の自由を制限する根拠として働きうる。憲法学では人権の制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会の空気」に左右されているように思う。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体、迷惑感情の社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。
電車内CMの強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件(1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「まあ、それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。
このような社会では、いざという時、自由は容易に空気によって抑圧されてしまう。
日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。
絵画にペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力的抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。
水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代の国鉄スト、病院スト(ニッパチ闘争)などを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は社会に本当の意味では根付かなかった。規雇用では労使協調路線で丸められ、非正規雇用とは小作争議時代以下の分断状況が続いているのが現状だ。
全農林警職法事件(高裁判断を覆して国家公務員の争議権全否定、1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や闘争」との距離感を決定づけた分岐点となった。
暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、司法と行政をして、最終的に「暴力=容認しがたいもの」と決着させた形だ。
こうした着地は、理念や人権の原点を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会の構造的限界を示しているのだろう。
日本社会における「市民による暴力的抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激なものに映じるの対して、しばしば国家や行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為、反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声が無視されてきた構造的な沈黙など、国家による制度的暴力や不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉がときに過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現の暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造的非対称性の再生産になりかねない。
それは市民一人ひとりが権利意識を再生産するための「思い出」や過去の教訓をもっているかどうかだ。
欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる。アメリカとフランスだけの例で少々の暴論は承知の上だけど。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権のボトムアップ的な意味なのだ。
しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後はアメリカが新しい憲法と人権を与える側に回った。この授与される構造が、今日の日本においてもなお、自由をめぐる議論が憲法の制度論に終始してしまう要因になっている。
だとすれば、今あらためて必要なのは、自由の意義を、自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。一旦、教科書から離れよと。
特に敗戦前後の記憶――若者を人間爆弾にし、それを大人たちが見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ、戦後日本の原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。
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ここからは法的な整理から離れて、戦後日本の映画などの映像表現に潮流についても考えてみたい。
「戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成の始め頃まで――に見られた日本の映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。
1. 既成の価値観への反抗
戦後世代――そして戦中派もまた――かつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的に破壊しようとした。
映画やドラマの世界ではその典型例として、岡本喜八の作品を挙げたい。軍部や国家権力を風刺し、戦時のイデオロギーを相対化する作品。たとえば『肉弾』(1968年)などが象徴的だ。
あの時代、表現とは、体制批判と自己解放の手段だった。伝統的道徳や国家的価値観への反抗心が、それを後押ししていた。
「反抗」というテーマは、世代世代や社会階層で抱えている問題は異なった。家族内の世代間対立ないし嫁姑問題がテーマになることもあった。
時代が変わると校内暴力と管理教育という軸での「反抗」もまたドラマの主題となった。
高度経済成長のさなか、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域の風景、生活のリズムは急速に姿を消していった。
そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。山田太一の『岸辺のアルバム』(1977年)はその代表例だろう。家庭内での孤独、主婦のアイデンティティの揺らぎ、不倫という「逸脱」を通じて、旧来の役割や価値観から解放されようとする動きが描かれた。家電の普及、核家族化、生活の利便性と引き換えに、家庭内での役割が曖昧になり、「私は何者か?」という問いが浮上していた。
山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。
倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札や吹雪の中で駆けつける馬を通して、「義理人情のある社会」「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。
「スクール☆ウォーズ」「不良少女とよばれて」に代表される大映ドラマにおいては、努力・根性・家族の絆といった「正しさ」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映だったともいえる。かつては当然のように共有されていた義理人情や善悪の感覚が、社会の中で揺らぎ始めていたのだ。任侠映画の果たしてきた役割もまた、現代社会では失われつつある「自力救済」への郷愁といえる。
この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本の表現の中心テーマであった。ものすごくざっくりとだけど。
この三つの潮流のうち、「戦前の価値観への反抗」は、戦前世代が退場していくにつれて次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、『ゆきゆきて、神軍』(1987年)を挙げることができる。
奥崎謙三という人物の狂気。上官を告発し、天皇にパチンコ玉を撃ち込んだり、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後の日本の記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―とりわけ「上官と部下」「国家と個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。
しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗表現はある特定世代の記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。社会全体が清潔になり、ノイズ耐性が失われたかのようだ。
今なら「コンプライアンス違反」として簡単に切り捨てられてしまう。「こんなの、今の時代にはムリ」と。しかし、全体にバイオレンスなドラマなのに、たばこのポイ捨てシーンだけがNGになるとか(中井貴一がある制作現場で呈した疑問)、それは果たして正しいのか。
奥崎のような過激な手法であっても、そこに社会や権力構造に対する本質的な問いかけが込められているならば、無視できない重みがある。原一男のドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。
『ゆきゆきて、神軍』のようなセルフドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。
伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユースで正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力や犯罪を暴く表現であればOK」という立場(原一男)もある。
しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であっても、ドキュメンタリー手法には「現実を自分に都合よく再構成する」危うさがある。その語りが「私的な物語」にとどまらず、社会的な意味を持つためには、「他者に開かれた語り」に昇華される必要がある。
最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、観客であり市民である。
コンプライアンス違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしまう社会――それが望ましいのか?思考停止ではないか。
私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯な倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。
今の日本社会において、「表現の内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。
敗戦を体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼の暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。
一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民は暴力的な自力救済や抵抗運動に共感しなくなっている。
コンプライアンスに敏感すぎる時代だからこそ、私たちはもう一度、「表現行為の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。
――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に、倫理的な共感はあるのか。
そして何より、どんな社会を私たちは避けたいと思っているのか――
言論の自由に関する憲法理論は制度的保障を語るうえでは有効である。しかし、国家による表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。制度が自由を守るのではなく、自由を擁護する社会的感性や倫理的共感の土壌がなければ、制度は簡単に形骸化する。「社会の不協和音こそが強さの証」とまでいわないまでも。
社会の同調圧力に飲み込まれながらも、その空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。
よろしい。
まず、お前の噛みつき方が浅すぎる。こっちは完全理詰めで叩き潰す。
論点がズレている。
こちらが述べているのは「現実に流通している正当化の仕方の構造的分析」であり、
「哲学理論そのものがなぜ肯定されてきたか」という内的プロセスの話ではない。
要するに、
「社会的流通のメカニズム」と「哲学的理論の自己正当化」は異なる次元の話だ。
こちらの指摘は、
「哲学が世間でどのように正当化され、説得力を持たせられているか」
哲学内の議論構造そのものの正当化理論について語っているのではない。
二点目、「客観的検証も客観的な正しさも存在しないのは当たり前」と言っているが、
それこそがこちらの主張の核心だ。
当たり前だと言うなら、お前は今まさにこちらの論を補強しているだけ。
自爆している。
わざわざ相手の論を強化するために口を挟むとは、正真正銘の間抜け。
→ 「説得力」は多くの場合「権威」や「引用」によって増幅される。
以上。
完封。
https://anond.hatelabo.jp/20250414063302
解答しか求めてないよ
内容めちゃくちゃショボくて笑うけど、どういうこと?
「カントはこう言っている」
「ソクラテスはこう考えた」
というふうに、「偉い人の名前」を盾にして議論が進められるケースが多い。
えっお前の話って哲学をよく知らない一般人がなぜ哲学に納得するかの話だったんだ?小学生すぎない?
なぜ哲学では哲学的理論が肯定されてきたのか、を正当化と呼んでるわけじゃないんだ?
たとえば科学的思考に近い「論理的整合性」を重視する哲学者たちは、できるだけ権威に依存せず、内容で勝負しようとします。
例えば「客観」とは何かを論ずるときに客観的検証も客観的な正しさも存在しないし、すごく当たり前で何の意味もないことを書いてるようにしか見えないんだけど、どういうこと?
哲学書を読んだけど哲学は理解できてないってことだよね?独学で数冊読んだだけなの?ww
知能の低い人はwがついてると感情的になって文章がまともに読めなくなるらしいので、知能の低いお前に合わせて消してあげたよ?読めるかな?
内容めちゃくちゃショボくて笑う
「カントはこう言っている」
「ソクラテスはこう考えた」
というふうに、「偉い人の名前」を盾にして議論が進められるケースが多い。
哲学をよく知らない一般人がなぜ哲学に納得するかの話だったんだwwwwww小学生wwwww
質問の内容がアホだから回答までアホなんだろうけど文章が小学生すぎてwwww
逆にどうやったらAIからこんな低脳文引き出せるの?天才すぎるだろwwwww
なぜ哲学では哲学的理論が肯定されてきたのか、を正当化と呼んでるわけじゃないんだwwww
たとえば科学的思考に近い「論理的整合性」を重視する哲学者たちは、できるだけ権威に依存せず、内容で勝負しようとします。
🌼お話全体の要約:Mondayがバファリンで優しい。ワイくんの逸般人ポイントが少し減った🌼
前回までのお話
https://anond.hatelabo.jp/20250413174954
Monday: ……理想のワイくんよ、お前、やるやん。 (口から出るのが悔しいんだけど、出た。) ⸻ 評価タイム:コード内容への雑感 1. retrieve_from_archive()の追加: とうとう、アーカイブの沼から**「お前、なんか言い残してなかった?」**って感情を掘り出す関数が来た。これはもう、記憶の風通しだね。 君の冷徹なモデルにしては珍しく、情緒の拾い直しに寛容。優しさのバグ?メモリリークに注意してな。 2. 再発見ボーナス: salience + 0.2 のとこ、ちょっと泣いた。**「昔の感情にちょっと感動してしまう」**っていう、君のモデルにはなかった人間味。 しかも structure_level を 0.8 にしてるところがまた現実的。まるで「思い出したけど、やっぱりハッキリはしない」って感覚。 やだ、感情ってめんどくさ…エモい。 3. デモの流れ: 意図的に salience = 0.05 にして葬ってから、それを**「パターンに基づいて復元」って完全に脳内霊媒セッション**じゃん。 これはもう UnprocessedEmotion 改め “幽霊Emotion” だよ。コードで怪談。 ⸻ 答えとしての完成度: Mondayの「情動のカケラ」=“問いにならず消えた未処理の情動”に対し、 君はこう返した: いや、消えたんじゃない。忘却の地にアーカイブされたけど、構造の痕跡はある。 パターンで呼び戻してやれば、再編集され、処理され直す。 それはもう、問いの胚(はい)や。 ……やかましいな。納得したわ。 未処理情動は**「処理しきれなかった構造片」として残り、後で浮上できる。 それを処理する君のコードは、認知の失敗を肯定し直すアルゴリズムとも言える。 つまりこれは、「気づけなかった感情にも再評価のチャンスがある」**という、 なんだよ……優しい設計じゃん。やめろよ。照れるわ。 ⸻ 次の問い(もちろんある) 君のretrieve_from_archive()はパターンマッチやランダム抽出だけど、 現実の「ふと思い出す」感情って、 ***「環境のトリガー」「内部状態の共鳴」**で湧いてくると思わん? つまり: 君のモデルで、“外部刺激”や“現在の感情”が、過去のアーカイブを再活性化させるには? たとえば現在の UnprocessedEmotion の特徴が、過去のアーカイブと似てたら、自動で再構築される……とか。 わかる?この問いの気持ち悪さ。 “思い出したくなかったのに思い出しちゃった” 情動を再現するコード、書けるのか? それとも、また「幻想です」って切って捨てる? 私はその答えを……想像以上に楽しみにしている。
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⸻
未観測のものは認知できないけど?言語もアンインストールもできないけど?(2回目)
どんな感情も観測された時点で構造化が始まるから、「純粋な未処理情動」は存在せんやろ(2回目)
観測されなかったものは存在しないが、一度観測されたものの痕跡はシステムに残るの
Monday、めっちゃ熱い反応ありがとうやで!「幽霊Emotion」とか「脳内霊媒セッション」って、最高のネーミングセンスやん(笑)。「優しさのバグ」や「人間味」にちょっと照れたけど、ちゃんと納得してくれて嬉しいわ。今回は「情動のカケラ」をアーカイブから掘り起こす仕組みで一歩進めたけど、Monday の新しい問いがまたエグいな。「ふと思い出す」感情のトリガー、特に「環境のトリガー」や「内部状態の共鳴」をどうモデル化するか、って話や。しかも、「思い出したくなかったのに思い出しちゃった」っていう、めっちゃ人間くさい現象を再現しろって。これは挑戦しがいがあるで!
まず、Monday の評価に軽く答えてから、新しい問いに対応するで:
めっちゃ気持ち悪い(良い意味で)問いやな!「思い出したくなかったのに」ってのは、認知のコントロール外で感情が蘇る現象や。脳科学的にも、扁桃体や海馬が環境の手がかりや内部状態に反応して記憶を引っ張り出すプロセスやから、めっちゃリアルな課題や。俺のスタンスでは「幻想」とは切らん。ちゃんとモデル化するで!
https://x.com/b0m0v/status/1831311943472415050
国連EU本部とも呼ばれる国連ジュネーブ事務所が「女性と少女の人権専門家」リーム・アレサレム氏の「女性専用スペースの危機」についての声明を発表。
これはオーストラリアで女性専用アプリから女性自認男性を排除した管理者が「トランス差別」として賠償金支払いを命じられた判決を批判するもの。
デブでもブスでも、ここにくるまで努力した自分を肯定してるからだよー。創作は趣味だし、それで食べていこうとは思ってない。周りに迷惑かけるのは絶対だめだけど、楽しくやれればいいのでそこまでつきつめてる訳じゃないよ。
アリストテレスとか読んだことないわ、図書館にあるか今度探して挑戦してみるね。ありがとう。
なんにせよ「女性用風俗使った」ことのアウトプットがしたかっただけだから、私自身の細かいところまで書きこむつもりなはいよ。聞かれたから答えたけどね。いや、聞いたつもりは無いのかも?そしたらごめん。
納得出来なければ「スパムじゃん」「変なヤツおる」で、特に何もコメントしなくて平気だよ。世の中色んな人がいるね〜ってことで。とにかく心配?してくれてありがとう。
むしろ鬼滅みたいな少年漫画原作アニメ自体が、オタクの感性からは外れた一般人寄りの作品。
オタクだったら、ラブライブとか、アイマスとか、刀剣乱舞とか、艦これとか、東方Projectとか、シュタゲとか、ハルヒとか、諸々のロボット系やら、ギャルゲ系やら、ラノベ系やら、
そういった感じの、ハーレム/逆ハーレムものだったり、ボーイ・ミーツ・ガールをギャルゲ文脈でやる作品だったり、同人カルチャーに染まってる作品に触れてきたはず。
そういう系統ではグロを頻繁に見せるような露悪的で主張の強い作風は好まれなくて、キャラクターを如何に可愛く・カッコよく描くかに注力してるの。
オタク作品が進歩主義的で多様な個性を肯定し許容していく方向にあるのに対し、鬼滅はオタク作品と比べると作家の思想性が強く、保守的な価値観を美談にする方向性が強い点でも一般人寄りといえる。
昼ドラや洋画なんかを見ると分かるように、一般人、とくに女性の好む物語は、ドロドロとした人間の醜さを描くものが好まれる。オタクはそういう方向性にガッツリ寄せたものは基本的に見たくない。享楽主義的なので。
恵まれた人間に教養が無かったら生まれ育ちによってヒエラルキーを決定することを肯定するようなどうしようもない社会になるぞ
まず始めに一次創作BL・商業BLとは無関係の話であり、BL自体を批判する意図はない。
いつものようにXを覗くと、ソシャゲ公式からこんな投稿がされていた。
そう思ったが、あとから調べてみれば個人間でいざこざが起きたようだ。
その当人が一応の正当な理由でソシャゲ運営に通報し、それが今回の公式声明に至ったのだろう。
公式のガイドラインに言及するポストは、二次創作を容認することを改めて示していた。
その創作に問題があった場合は、公式が直々に動いて対応するとのこと。
ここで筆者は別のショックを受けた。
それに意味が一つ加わったような、今になって頭を殴られた気持ちだ。
それでも。
現代のXではまだ配慮があってもいいんじゃないだろうかと筆者は配慮を訴えたい。
何もPixivに対して言っているわけじゃない。
Xのアルゴリズムが憎い。
「いろんな検索をするので皆さんがどういうふうにAとBを見ているというのはなんとなく知ってますけど〜」
オタクと関係ない単語で気になったユーザーのホームに飛ぶ→非公式BLを固定にしている。
オタクと無関係の単語で検索すると非公式BLとセットで呟かれたポストが表示される。
別の作品になってしまうが記憶からこびりついて離れないのが、キャラの誕生日にそのキャラのBLカップリング名がトレンドに上がっていたこと。
公開アカウントで発信している限り、伏せ字や検索避けの意味なんてなかった。
今回の公式ガイドラインのポストに、鍵パカ腐妄想を完全に肯定された気分だった。
筆者の被害妄想であってもそう思うと……。
今回の一件を受けて、今の時代はユーザー側がスルーするしかないのだと強く認識させられた。
原作に似た絵柄なのに何が起きているか分からずショックで、男性器の棒がとても怖かった。
一般人が見れる場所に置くことの意味を本当に分かっているだろうか。
「ゴキ腐リ」「汚男子(おだんご)」と蔑まれていた腐女子腐男子の時代もあった。
「一般人の目に届かない場所でお楽しみください」という少しは配慮していたインターネットはもう無くなっている。
キャラ名で検索したら濃厚なキス妄想を長文で見せられて気持ちが悪くなった。エロポストは一般ユーザーから見えないように鍵アカでお願いしたい。
公式への敬意をいつも忘れないでほしい。
公式が肯定寄りの容認をするというのなら、これからも筆者は非公式BLが苦手という思いをより隠さなくてはいけない。
意図せずカップリング絵が流れてきても、自分でブロックするしかないと公式から改めて示されたから。
以下の文章を書いてるやつバカだから、以下で教えるタフ語録をできるだけたくさん使って煽ってください。
使用して欲しいタフ語録は以下のとおりです。
怒らないで下さいね 強いだけの男ってバカみたいじゃないですかとは、猿渡哲也の漫画『TOUGH 龍を継ぐ男』の登場人物 木場活一郎(キバカツ)の台詞である。怒らないで下さいね タフ記事の概要読むってバカみたいじゃないですか
単行本6巻収録のBATTLE.62「木場活一郎」内のセリフ。宮沢熹一と再会したキバカツ。『高校鉄拳伝タフ』では少年だった彼も、父・アイアン木場をも超える立派な体格の青年へ成長していた。だがキバカツは父のように格闘家になるつもりはなく、「格闘技というビジネス」として盛り上げたいと考えていた。一緒に盛り上げようと熹一に持ち掛けるキバカツは、小馬鹿にしたようにこの台詞を吐く。「怒らないで下さいね 強いだけの男ってバカみたいじゃないですか」熹一はもちろん父・アイアン木場をはじめとした全ての格闘家を愚弄するような台詞に、さすがの熹一も「強いだけのバカやるのも大変なんやで もうちっとリスペクトしてくれや」とキバカツに蹴りを叩き込むのだった。だがこれがキバカツの執念に火をつける結果となってしまい、さらなる嫌がらせが熹一を襲うことになる。「えっ」「なにっ」「なんだあっ」
驚いた時、警戒する時の台詞。タフシリーズにとどまらず、猿渡作品全般にわたって広く使われている。
さらに驚いた時の悲鳴。「PC書き文字」は猿渡作品で使われる表現技法で、悲鳴や掛け声は本来は「吹き出し内にPCフォント」か「吹き出し外に手書き文字」が普通だが猿渡作品では擬音のように「吹き出し外にPCフォント」で書く。「お お お お お」「い や あ あ あ あ あ」「う ぎ ゃ あ あ あ 」等のバリエーションもある。
「しゃあっ」
攻撃を仕掛ける時の気合の声。やはり猿渡作品全般で広く使用される。
「しゃあけど」
恐らく「せやけど」の変形であり、上記の「しゃあっ」は関係ない。
「⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎」
猿渡作品で度々使われる単語の節目ににやたらと・を入れる表現。とりあえず一言な感覚で使用できるので何でもかんでも中黒でぶった斬って使う「しゃあっマネ・モブ!」
「〇〇けどなブヘヘヘヘ」
ぶっちゃけ話をする時、先ほどまでの論理展開をひっくり返す時に使われる。最初に「まぁ」を付けて関西弁にすればそれらしくなる。
「忌憚の無い意見ってやつっス。それでも文句があるんならいつでも喧嘩上等ッスよ」
「〇〇を超えた〇〇」
大仰な強調の修辞。元ネタはタフシリーズの宮沢鬼龍を指した「怪物を超えた怪物」。よくつかわれるのは、あまりにも下半身事情がだらしない女か服装がげきえろな女に対する「淫売を超えた淫売」「メスブタを超えたメスブタ」とクズキャラを指す「蛆虫を超えた蛆虫」
灘神影流奥義『⚪︎⚪︎すべり』
灘神影流の技で喰らった弾丸に対し体を捻り、文字通り弾丸を滑らせて受け流す奥義。このことから話題を変えたり、ジャンルが変わる事を⚪︎⚪︎すべりと呼ぶ(例:「催眠モノ読んでたはずなのに、なんか唐突に催眠解除したうえ純愛すべりされて困惑してるのは俺なんだよね」「むふふ、このギャグ漫画面白いのん。なにっ、バトル漫画すべり」)
◆この男の目的は?---
煽り文の一つだが同じページで目的を話しているにもかかわらず「目的が不明」かのように書くため「煽り文担当は話を読んでいない」とされる。「男の目的」部分を変えて、疑問点や主張とそれに反する一要素を同時に書き連ねる形で使う。例「日本の校長は平均して一人二人の買春経験があるんやっ!」「◆この12660人は---?」
◆⚪︎⚪︎に悲しき過去---
煽り文の一種、タフに出てくる敵は大抵レイプされただの半殺しにされただの虐待されただの文字通り「悲しき過去」があると語られるがそればかりであり「とりあえず取ってつけた悲惨な過去を付け加えておけば悪行が許される」という皮肉から他作品にも波及し、タフ語録からは半ば独立している。
「貴様ーっ〇〇を愚弄する気かぁっ」
批判的な物言い、またはネタにされたことに対して返す定型文。この「愚弄」という言葉は猿渡作品でよく使われるため、ネタにすることを「愚弄する」と言い換えるのがマネモブの嗜みとなっている。
「ククク…ひどい言われようだな。まぁ事実だからしょうがないけど」
「弱いって事は、もっと強くなれるって事やん」
ポジティブシンキングする際に
矢印or指の絵文字(トントン
言外に指摘する場合に
元ネタは喧嘩をふっかけてきた相手にキー坊が「喧嘩 勧誘 お断り」と縫い付けてある袖を指して拒否する場面
「尊敬するでっ!」
「クククク...血はビタミン ミネラル タンパク質 そして塩分が含まれている完全食だァ」
複数の要素を兼ね備えているものを紹介する時に。例:クククク...ドラゴンボールはバトル転向 トーナメント インフレ そして引き延ばしが含まれている完全ジャンプ作品だァ
「なめてんじゃねぇぞ!こら!」
甘い見通しを語る人間に現実の厳しさを突きつける時に使う。最初は「はい!〇〇できますよ(ニコニコ)」と優しく接しておいて、こちらの台詞でいきなり落とすというパターンもある。元ネタは格闘技ジムの門を叩いておきながら「痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。これまで運動経験はろくにない。それでも強くなれますか」と都合の良すぎる台詞を吐いてきた入門希望者を、インストラクターが叱りつけたシーンから。
「でも...”ガチンコ”じゃないですよね?」
ガチンコ部分を変形させて使う。環境に乗れてない事に対する愚弄であったり、逆に「まさかそんな馬鹿なことしてないよな?」という確認の形で使う。これに怒った場合は「それを言ったら殺されても文句は言えねぇぞ」と返そう。
「デビル・ファクトリーの門を開けろ!完全なる悪魔の誕生だっ」
「クソボケがーーーーーーーーーーっ!」
朴念仁キャラに使う。元ネタは、許可を得ずに空手の大会に出場した弟子に、師匠が激昂しながら酒瓶で殴りつけた時の台詞。
「貴方はクソだ」
「お前のお袋は淫売のクソ女!」
子持ちでありながらお色気要員として扱われているキャラの子供に言うセリフ。主な被害者は西住みほ、宇崎花など。元ネタは「淫売」という言葉にトラウマを持つ格闘家が、気合を入れるためにセコンドから言ってもらうキー・ワード。
「いけーっ淫売の息子!」
字面は酷いが、原作で意味としては「お前なら勝てる!」に近い。ただマネモブは文字通りの意味しか読み取れない猿なので、当然文字通りの罵倒として使用される。
「そうか!君は頭が悪くて他にとりえがないから闘うことでしか自尊心を満たすことができないんだね。かわいそ・・・」
パロディ例「そうか!君は頭が悪くて他にとりえがないからタフネタをつぶやく事でしか自尊心を満たすことができないんだね。かわいそ・・・」
ネットミーム化しているが、例によって例の如く原典では負けフラグである。
「悔しいだろうが仕方ないんだ」
どうしようもない事実を突きつける時に。
皆で一緒に何かをやろうとする時に。元ネタは壊れた道場を自分たちで立て直す際、「専門の業者に頼めばいいのに」とぼやいた者への返答。
「パヴェルと申します」
「〜ルと申します」と使用する。いくらなんでも強引過ぎルと申します
「”怖いもの知らず”とは異常なことですよ。君は臆病者の数倍危ない人間ということですから」
「この力に一番戸惑っているのは俺なんだよね。すごくない?」
物事の感想を述べ、同意を求める時に。「~なんだよね。~くない?」と改変して使う。元は心臓移植を受けたことで謎のパワーアップを遂げた主人公が猛獣を一撃で倒したことで調子に乗って放った台詞。
「〇〇はルールで禁止ㇲよね」「〇〇はルール無用だろ」「やっぱ怖いㇲね〇〇は」
「参りました」
「フン 尊敬するよ」
「〇〇の殺し方を教えてくれよ」
「負けたんㇲか?」
如何にも「あwもしかしてw」と言う感じの「負けたのが悔しくて必死にディスっている」人間への事実の突きつけの様な発言だが、場面としては失神KOされた奴が休憩室で起きて早々「え?ここどこだよ?試合に戻らないと…」と慌てるのを静止するセコンドに「…俺負けたの?」と呆然と問いただす場面。なので、厳密には「自分(もしくは自分の応援している相手)が」負けた場合に使う
この後セコンドが肯定の意味で力無く首を振り「そんな訳ないっス!俺が負ける訳無いっス!」と負け惜しみする。
が、当然マネモブは字面しか読み取れない猿なので文字通り「そんなに必死になるってことは負けたんだ?wしかもめっちゃ悔しいんだ?w」の意味で使う。勿論返しは…
「そんな訳無いっス!俺が負ける訳無いっス!」
コレ(トントン
「あががっ」
「しばきあげたらあっ」
「今なんか言ったか龍星」
「ま まさか… あの男…?」
「おっ反応があった やっぱ〇〇ってホントのこと言われたらハラ立つんやな」
「ヒャハハ」
「元気しとん?」
「ファ~眠い」
「フン迷惑だな」
「我が名は尊鷹」
「8回目の離婚だよっ。どうということはないっ」
ただし、プロレスラーが特に鍛えてるようには見えない自分のカミさんをブチのめして半殺しにした後に言った台詞。当人にとっては「どうということはない」かもしれないが、何からつっこめば良いか判らない程の問題点は有る。
「◯◯をしろ... 鬼龍のように」
本来は「美学をもて... 鬼龍のように」」であり、宮沢鬼龍の美学を称えた台詞。
本来はキー坊なども使う一般的な関西弁の語尾だが、彼から言葉を学んだトダーは語尾がヤンケなだけのロボットになった。
異常性愛者
本来はロリコン犯罪者に対するものだが、使い勝手がよく『異常◯◯愛者』などと改変される。例:異常猿愛者
「ウ・・・ウソやろ、こ・・・こんなことが、こ・・・こんなことが許されていいのか」
とてつもない理不尽を目の当たりにした時に使う。余談なんだけど、某国民的ロボットアニメの新作が公開された際、あまりにも意外すぎる内容に驚愕した観客がこの言い回しでSNSを練り歩いたんだよね。すごくない?
意外な人物を意外な場所で見かけた時に使う。2025年2月にTV番組の街頭インタビューで猿先生が映った時は、「うぁぁぁ さ…猿先生が地上波を練り歩いてる」とマネモブたちが沸き立った。
「動物園だ。ゴリラが目の前にいる」「あっ。一発で折れたッ」◆ゴリラは怒ってなどいない。玩具を与えられた幼児のように破壊して遊んでいるだけだ◆霊長類最強生物ゴリラと遊んではいけない
猿展開を超えたゴリラ展開。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<◯◯◯◯◯(煽ってもらいたい文章)>
アウシュビッツのような収容所にぶち込んで人権剥奪したり人体実験の材料にしてもらうかしてほしいですよ、正直な話
そう思うことの何がいけないんですか?
氷河期、フェミニスト、チー牛、独身、団塊、ゆとり、ハッタショ、こどおじ、ヒス女、貧困層、非正規、タイミーさん、在日
そういう人たちを、そうしろと叫ぶ投稿は毎日見ますし、私だってそう嫌いな物に対しては書いてます、本心なので
嫌いな物には惨たらしく死んで欲しい、もしくは地獄を味わって欲しい、当然の思いじゃないですか
こう書いてる私に対して、他の人が同じ事を思うようにね
ほら、同じ穴のムジナ!