はてなキーワード: 肥大とは
俺も非モテ男性の一員なんだけど、同じ非モテ男性のほとんどが自己肯定感が低いという自認でいるのが驚きで、これは違うくて、非モテ男性の問題のほとんどは自己肯定感が高すぎるところにあると思う。
ぼくは社会から認められる人間だ、無条件に受け入れてくれる女性が現れるべきだ、という思想を持っているのがその典型。
普通の人間はその思想自体が高望みであって、求めて与えられるものではないから、勝ち取らないといけないと理解していると思うんだけど、非モテ男性はその考えも至らず、誰かが餌を与えてくれるのを待っている。
非モテ男性がはASDやADHDのような発達障害に多くて、親が過保護な家庭で育ったか、あるいはネグレクトを受けた家庭で発生しやすいのもうなずける。
親に大切に扱われてきて、自己肯定感が高すぎるために友達もいないで、歪んだ精神を矯正されないまま大人になってしまったのが非モテ男性だと思ってる。
はてなでよく相談している非モテ男性もいかにも自己肯定感が低いように見せかけて、自分は愛されたいだけ、人並みの幸せを得たいだけと主張する。
けれど、自分から勝ち取るための努力はせず、高い自己肯定感を守るために、努力をしても明後日の方向にしか努力ができないから、相談内容も最終的にはぼくは悪くない、ぼくを認めない女が悪いという主張になってしまう。
そうした非モテ男性の多くは女性は大切に扱われている、と思っているんだろうけど、それは全くの間違い。
むしろ社会で女性ほど粗雑に扱われている生き物はいなくて、小中高でも、大学でも、会社でも、ありとあらゆる場所で、女だからという偏見で見られてチャンスを与えられなかったり、勝ち取ったのに与えられなかったり、あるいは与えられても他の男に奪われたりする。
女性はそういう厳しい環境に身を置いてるから、本当に自己肯定感が低くて苦しんでいる人が多いし、中には自ら風俗業になってしまう人もいるんだけど、その現実が見えていないか、または見ようともしていない。
非モテ男性のモテないという苦しみは、男社会でぬくぬくと生きてきて、あらゆるものを得てきた男性が、次は女性がほしいと言っているだけにしか感じられないから、全く共感できない。
肥大した自己肯定感と、自分の現状をよく踏まえて、なぜ無条件に自分は愛されるべきだと思えるのか、なぜ女にモテないことを自分のせいだと認識できないのか、非モテ男性はいまいちど自問してほしい。
Curvesって知ってる?
女の人が行くジムね。
うちの母親がそれで動画サービス契約してて、安くない金支払ってんのね。
トレーニング効果がキッチリあるならいいんだけど、端から見てるとストレッチを筋トレと言い張っているような感じなのね。
うちの母親は定年近くで高齢ではあるが、働いているし高齢者の健康体操やるようなレベルではないから、筋肥大や筋力増強を目指すならもうちょい効果的な手法があると思っている。
動画流すだけならYoutubeに腐るほどあるし、金もかからないからそっちを勧めてるんだけどネットに詳しくないから分からんって言うのよ。
それで相談なんだが、高齢女性が軽い筋トレをするのに丁度いいチャンネルや配信者知ってたら教えて欲しい。
俺は男でちょっと筋トレしてた時期があるから「筋トレするならBIG3と懸垂だよデュフフフ」って言っちゃうんだけど、そこまでじゃなくて自重である程度鍛えれるレベルのものがいい。
頼んます。
ドラゴン桜のパロディビデオのようなタイトルをつけてしまった。
しかし、決してふざけているわけではなく、私は、お金を持て余している独身男性は、須くソープランドに向かうべきであると考える。
前提として、この提言は、あくまでソープランドがひしめき合っている都市圏に住む独身の社会人の男性に対して推奨するものである。
結婚している男性や、地方在住で買淫しようにも生活圏では難しいという方。耽読する値打ちはないので、すぐにタブを閉じてもらいたい。
当方、都内で暮らす二十代の会社員で、成人する前から池袋や大塚のピンクサロンや、歌舞伎町のソープランドに通い詰めてきた。
この手の水商売狂いは、たいていの場合、女性に相手にされない何かしらの人間的な問題を抱えていることが多い。
しかし、手前味噌にはなるが、私は、イケメンとまでは言わないが、決して女性にありつけないような醜悪な容姿をしているわけではない。
大学時代には長く付き合った彼女もあり、よくある話だが、女性と飲んで、そのままホテルで一夜を過ごした経験もある。
しかし、私はそういった娑婆の女性達では得られない体験が、ソープランドにこそあると信じている。
私は、なぜ一生懸命にソープランドに通うのか?なぜ独身男性は、ソープランドに行くべきなのか?
私は、ソープランドとは、男のあらゆる欲望を満たす装置として機能していると考える。
性欲は言わずもがなである。当然だ。そのために安くないお金を支払うのだから。
しかし、ソープランドの魅力とは、素敵な女性と性行為できることにとどまらない。
一度でも遊んだことがある人であればご存じだろうが、ソープランドで女性を選ぶ際には、パネルを見て選ぶシステムがある。
パネルには手やモザイクで、顔の一部を隠した写真、あるいは加工が施された写真が立ち並んでいる。いわゆるパネルマジックだ。
このシステムが秀逸で、我々は、数万円を支払い、部分的な情報から、自身の好みに近い女性を引き当てる必要がある。
私の経験上、こういったパネルは高級店に行けば行くほど、実物と齟齬がなくなっていく。
故に、失敗せずに美人と寝たいブルジョワにはあつらえ向きだが、私としては面白みに欠ける。
私が推奨したいのは、総額25,000~35,000円のレイヤーの大衆店である。
大衆店は、「A:国民的アイドル」「B:標準的な女性」「C:人を選ぶ女性」の割合が絶妙だ。
お店に行ったことがない方からすれば、国民的アイドルがいるのなら、流石にパネマジを突破してくるのでは?と思う方もいるだろう。
しかし、AとCはパネル上は本当に判断がつかない。西野七瀬だと確信を持って指名し、向かった階段の先にシュレックがいたら笑ってしまう。
それに価格設定もベストだと思う。90分で6,7万円以上するような高級店で、理想と程遠い女性が来たら、ショックなんてものではない。
憎悪が肥大し、日常生活に支障をきたすことは枚挙に暇がないだろう。
また、6,000円〜8,000円のピンクサロンでは、失敗した時のダメージが少なすぎる。これでは勝負をしている手応えは感じられない。
30,000円という金額は、失えば涙が滲むくらい痛烈なものだが、生活に致命傷を及ぼすものではなく、また行ってもいいかなとギリギリ思えるアッパーの価格だ。
稀に、こいつで射精をするぐらいなら、泉ピン子でシコった方がマシだ、と思わせるような女性と出会うこともあるだろう。
しかし、こういった要素が、ソープランドを、単なるエロいことができる場所以上のものにしていると、私は声を大にして言いたい。
また、いわゆる「ハズレ」と言われてしまうような女性も、本来はハズレではないのだ。
女性に対して大変無礼な話ではあるのだが、男子の間では風俗で失敗をした話は非常に盛り上がる。
男が風俗で失敗をした話というのは、仲間達に安堵感を与えながら、尚且つウケやすい傾向にある。
例えばこれが、ワンナイトで起きた失敗の話だったとしよう。
どれだけその失敗の話が面白くても、「でもこいつワンナイトまで漕ぎ着けているんだよな・・・」という事実のため、鼻持ちならなさを拭いきれない。
一方で、ソープランドで30,000円払ったのに、釣り合わない女が来た!という話は、落語と言っても過言ではないくらいの食傷気味エピソードだが、必ずウケる。
身内で、面白いヤツというポジションを得られることによる承認欲求の充足感は、計り知れないものだ。
もちろん、創作で話すことも可能だが、フィジカルでない話には必ず瑕疵があり、それがバレた時、あなたはつまらない人間と虚言癖のレッテルを同時に背負うことになる。
今のあなたがコミュニティで、おもしろい人間から距離があればあるほど、この手段は有効である。その限りでソープランドには「ハズレ」はないのだ。
といった具合で、ソープランドでは、性行為と博打とエピソード作りを同時に行える点で画期的だ。
あなたが貧窮していない、かつ取り立てて趣味のない人生を送っているのなら、ソープランドは、千葉のネズミの国を凌駕する夢の国になり得るだろう。
ぼーっとしている
少量の牛乳をいれて飲むようになった
かつて好きだった味わい
尿路結石を過去にやらかしてからはびくびくと怯えるようになってしまった
なんでもそうだ
俺の体はもう若くないんだ
若くない
現実なんだよこれが
お前らに何がわかるとか言い返す活力すらもはやない
なぜなら先行きはもうわかっているからだ
スーパーファミコンのFF6を初見プレイでシャドウを見捨ててしまい再加入させられないと知った時の事を思い馳せる
いわばもう取り返しはつかない
懐古厨と言われる輩だろう
確かにそうだ
昔は無修正のエロをみるためにパソコンで必死になっていたのにスマートフォンではやる気がおきない
夜に尿を出したくなって起きるしな
現実を受け入れてるだけだ
悲観的じゃない
現実はここにある
女子高生のパンチラとかみてもワカメちゃんじゃないんだからと言う視線になってしまう
疲れてる
だが何か書こうと思った
失敗したことを残すのは無様だし恥だろう
何かやってみろと言われることがある
俺にできることはなかったのか?
童心を思い出す
楽しかった思い出を1つ思い出してみた
友達の家にみんなで集まった
なんかみんなで撃ち合うゲーム?をやった気がす
る
その時初めてやったゲームだったのに
何十回やっても一回も負けず全員のキャラをバンバン倒して出禁になった
ゲーム名なんだったっけな
思い出せない
銃は出てきた気がする
その時はすげえよすげえよってみんな褒めてくれたあとみんなイライラし始めて出禁になった
う
急に苦しい思い出になってきたな
いいことがあっても嫌な事も思い出す
しばらくはこうやって振り返ってみようと思う
姿勢矯正した上で筋肥大のトレーニングをするといったパフォーマンスピラミッド的な考えは正確ではない。
体のバランスを整えたければ筋力トレーニングの種目選定をバランス良くする。あるいはファンクショナルトレーニング、ムーブメントトレーニングなど体の機能・可動を目的としたトレーニングを取り入れれば良い。
つまり、姿勢を矯正してから筋トレをするというような順番を考える必要はなく、筋肥大、除脂肪、姿勢矯正は一体でやれば良い。
また、ストレッチとあるが、動的ストレッチをするくらいならウォーミングアップをすればいいし、静的ストレッチにたいしたエビデンスがないことは広く知られている。つまり、ストレッチ単体をやるくらいなら動的ストレッチが含まれたムーブメントトレーニングを1種目でも多くやればいいのである。
コレ系の話、
お受験産業が恐怖訴求で「あなたのお子さん私立に行かさないと酷い目に遭いますよ」と焚き付けて小学生の親からチャリンチャリンとむしり取り、
親は親で高額の塾代を払った手前、子供を頑張らせるために「頑張らないと動物園みたいな公立に行くことになるわよ!」と鞭を入れる。
むしろ私立に抜けていく子が増えたから生徒数が減って昔より手厚いまである。
彼らは親に勉強漬けにされドブに捨てさせられた小学生時代を肯定するために、親が言ってたそのままに公立中を動物園と揶揄する。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@blackstaragent/p/TXKMbd6
ストレッチで姿勢改善をしたら痩せたと主張する漫画家「たかツキ」さんのまとめが、食べる量を減らしてカロリー収支をマイナスにしなきゃ痩せるわけないからオカルトと色々な方から突っ込まれていますね。
これについては双方に誤解があります。
ストレッチで姿勢改善しても痩せませんがストレッチが無意味なわけでもありません。
ざっくり言うと、「姿勢の悪いデブがそのまま痩せようとすると体を壊すので、姿勢の悪いデブ→姿勢のいいデブ→姿勢のいい痩せ のルートをたどったほうがいい」ということです。
皆さんがおっしゃる通り食べる量を減らしてカロリー収支をマイナスにすれば痩せますが、これには落とし穴があります。
たかツキさんは脂肪が多いですが筋肉は少なかったでしょう。そのまま脂肪を減らすと生活に必要な筋肉も痩せ衰えてしまいダイエットどころではなくなります。
「筋肥大させる→脂肪を減らす」の手順を踏まなければいけません。
さらにたかツキさんは姿勢が悪かったようです。つまり姿勢維持に必要な筋肉の一部が萎縮したり異常緊張したりしてしまっていたので、そのままでは筋肥大トレーニングも不可能な状態でした。
ですから「筋肥大の障害をストレッチで取り除く→筋肥大させる→脂肪を減らす」の長い手順が必要だったのです。
カロリー収支をマイナスにするのは正しいダイエット法ですが、たかツキさんはダイエットのスタートラインのはるか後ろにいました。
余談
「筋トレするとムキムキになっちゃう」と言う女性はよくネットで総ツッコミされていますが、これが言われるのはそれなりの理由があります。
女性は筋肉がつきにくいからこそ変なムキムキになりやすいのです。
筋肉が一つ萎縮すると、その萎縮部位をかばうために他の部位が異常に肥大します。それも女性の場合、目立つ部位(大腿四頭筋など)ほど異常肥大しやすい傾向があります。
これに気づかず自己流で筋トレすると萎縮部位は使うことができないまま異常肥大部位が酷使されて変なムキムキになるのです。実際、たかツキさんも二ヶ月の自己流筋トレで尻が後ろに突き出してしまいました。
原理がよくわからんのだが、基礎代謝向上を無視すると消費カロリー分(ー摂取カロリー)痩せるわけだよな
筋肉肥大を目的としないダイエット並みの負荷に対して、走り込みとスクワットで同じ消費カロリーなら同じ程度筋肥大するってことになるんとちがうの?
「スクワットは足が太くならない」という主張は間違ってるし、誤解を生んでると思う。
スクワットは筋肥大・筋力増強を目的としたトレーニングである。
「太くならない」と主張する人の多くは、十分な重量で行っていない(そもそも重量を担いでない)のではないか。
「スクワットは足が太くならない」という言説を気にするような人は、おそらく目的が筋肥大・筋力増強ではなくダイエット(脂肪燃焼)なのではないかと思う。
十分な重量で行ってないなら、基礎代謝向上やトレーニング自体のカロリー消費も大して期待できない。
それなら走りこみの方が効率が遥かに良い。下半身の筋肥大も抑えられるし、短期的に効果も出やすい。
「今昔物語」はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。
さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本を舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。
内容は芥川龍之介が翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介が近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるがインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョンが中学高校の図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界の民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分はギリシア神話をはじめとした、運命の皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集は面白い。
ただし、編集の方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。
これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊やキツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。
「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWAが現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇のエピソードの出典の一つもである。
「平家物語」は古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学だから声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語が相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?
日記を読み返すと、「古代の貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海と密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。
ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョンは解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛が大輪田泊を建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎の乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県を旅行したときに、彼の没した古戦場・粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通の住宅街になっていたのに驚いた。
「太平記」についてもついでだから書こう。実家が神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。
それに、歴史書っぽくいろんな中国の古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数の天皇を意図的に混同していたりする(光明天皇が即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇の重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ。
そして、物語だから、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。
なお、各神社仏閣の縁起物語や中国の古典に脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史書からの引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。
ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペの歴史的に興味深い。
前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃんと池澤夏樹の全集で読んだ。
「能・狂言」には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺の対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
現代の第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉で古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。
「説教節」は女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳は伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品で芥川賞候補になっている。
「曾根崎心中」はいとうせいこう訳。ここからは浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪が舞台だし、近松門左衛門の作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代の大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇でプロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米の演劇とはリズムが全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタは時代的な物か。
「女殺油地獄」はひたすらダメな人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学で表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護と言い訳にまみれた情けない悪人の物語だ。翻訳は桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文で説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。
殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門の作品はもっと読みたい。江戸時代に実在の事件をモデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害で解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド的人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。
ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?
「菅原伝授手習鑑」は牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造「武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎の物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供が切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。
翻訳は三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由に創作しているようだ。
もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。
「義経千本桜」はキツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい。
「仮名手本忠臣蔵」は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫が医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本の演劇のストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。
ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ちの物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本が伝統を逸脱しているとか細々説明している。
あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。
好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。
近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断と偏見が自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人のプライベートな空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的な感情にはいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそも、フィクションはそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通に男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまったことが極めて残念である。
おそらく、これも僕のイケメン嫌悪と去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である。
じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず、男性であることを否定的に書く作品や、男性の苦痛を軽視するものに否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。
逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプのポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分がヒゲの永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖や文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。
逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家の属性で評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。
それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わずに孤立している時なのである。そもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?
43歳男
離婚歴あり
子どもなし
俺の中で。
気持ちがいい。
最高に。
いまはまだ指で刺激してるだけ。
でも本気で気持ちがいい。
世の中にこんな快楽があったのか?
と思うほど。
10年ほど前に興味本位でM性感に行ったときには全く何も感じなかった。
というと言い過ぎだが、
正直なんのこっちゃ?みたいな感じだった。
ケツの穴をほじられて何が気持ちいいの?
としか思わなかった。
しかし、月日は流れた。
あの頃のようなペーペーに毛の生えたような男ではない。
ついつい弄ってしまう。
怖いんだ、だってだって指だけでもうこんなになっっちゃうんだぜ?
でも欲しい。思う存分、アナルを責め立てたい。
でも、大丈夫なのかね?