はてなキーワード: 脱線とは
自分は妻。表題のとおり「イライラしないで欲しい」これが自分の主張。
内容を掘り下げると、真剣な話(家の購入、子育て、お金のやりくり等)をする時に夫はイライラしやすい。特に口調。見下すような言い方、ため息、失笑等。
私に非があって怒ってイライラするならいい。言って欲しいとも言った。
だけど夫のイライラはいつも私に対する怒りではない。自分が複雑な話を上手く説明できないからだとか、話がまとまらず次の日の仕事が迫ったイライラだとか、思ってた話の進み具合と違ってイライラしてるだとか、自分の思い通りにいかないことに対するイライラなのだ。これは私にはどうしようもない。
私としては、真剣な話をする時はお互い穏やかに冷静に話さないと、話にならないと思っている。
感情論が先行して議論が脱線しやすい。と言うかいつも脱線する。
だから、イライラするくらいならその原因を話して欲しいし、原因それに付随するイライラを取り除いてから本題に戻らないと話が進まないので話してくれとお願いしている。
とは言え、その原因を私がどうにもできない場合(例えば翌日の仕事を思い出してイライラとか)は大人としてなんとかイライラをおさめて欲しいと言った。
私のせいではないものでイライラをぶつけてくるのはただのモラハラだと思うから。
しかし夫は「あなたは切羽詰まった時人に当たるタイプではないから気持ちがわからないのかもしれないが、私は当たってしまうタイプであり、これは努力で治せるものではない。ゆとりある生活を送ってそもそも切羽詰まらせないとか、そう言った別の角度からの対策でないと直せる気がしない」と言う。
私としては、この言い分は「カッとなったら殴ってしまうがこれは性分なので仕方ない」と言われるのと同じくらい理不尽というか、いやそこは治してくれよと言う気持ちになる。
自分の感情を自分で処理しきれず、人に当てることで解消するのを是とされるとパートナーとしては磨耗するだけできつい。いずれかは愛情がなくなってしまう気しかしない。
夫曰く、強いて妻の治せる点を言うならば、夫の説明で理解できない•納得しきれないことがあった時深く追及しないでくれ、それにもイライラしてしまう、とのことだった。
だけど、例えば
◯◯万円の家を購入する、何年で返す、ローンはこれで組む
と言った説明があったからあった時、なぜこの金額を捻出出来ると考えたのか?返済年数とローン(固定や変動など)はなぜその設定にしたのか?など、家族として自分も関わることは聞いておくべきだと思うし、イライラさせないためだけにそんな大きな話を聞かず納得するのは無責任だと思う。だから夫の訴えは飲みたくない。
もう一つ妻側の弁解をさせてもらうと、普段から夫はあれさ、とか、あのときのあれ、とか、なんだっけ?こんなかんじの、とか、不明瞭で説明不足な話し方をすることが多く、私が聞き出してあげたり、夫の代わりにメモをしたり記憶することで夫婦のコミュニケーションを補っている面がある。
そう言った雑なコミュニケーションで普段は私に頼っているくせに、察するのが難しい真剣な話で高い説明能力が求められると「色々質問されるとイライラするからやめてほしい」と言ってくるのはずるいし私に甘えすぎなのでは、とも思う。だから余計夫の提案は飲みたくない。
ただ〝性分〟というものを変えるのが難しいと言うのは正直わかるし、私も自分の真面目な性格を変えろと言われたとして、変われる気がしないしどう変わって良いのかすらわからないと思う。
そう考えると、性分を指摘することへの塩梅がわからなくなっている。
夫のイライラが抑えられない事象を治してくれと指摘するのはどのくらい無理な事を言っているんだろうか。変わってくれというのは無理難題で可哀想な事を言ってしまっているのだろうか。
無理なんだとしたら、私には責のないイライラをぶつけられて嫌な気持ちになる私が我慢すべきと言うことになるのか?
もしくは何の理解もできないままかなり大きな話を丸呑みするしかないのか?
家族でしなければいけない真剣な話は避けられないし、だからと言って適当にイエスマンにはなりたくないし、でもイライラ当たられながら話をするのも辛い。
シンプル悪夢。現在午前三時、犯罪者になる夢を立て続けに2つ見て目が覚めた。
1つは、地下鉄に放射性物質を持ち込むテロ犯。姉と母親と実行したんだけど、途中で電車が脱線・衝突する大事故が起きる。急いで瓦礫から抜け出すんだけど、持ち込んだ放射性物質が見当たらなくなってて、姉と一緒に脱線事故の現場から動けなくなってた。
そもそも、危険物を電車に持ち込んだ次点でもう夢とは思えないぐらいの緊張だったんだけど、それが無くなったとなってはもう胃が擦り切れそうになってた。とにかく怖かった。
そうはいっても失くした危険物を瓦礫の下から探さないといけない。で、そうこうしてるうちに警察みたいな人がやってきて、ガイガーカウンター的なやつを取り出して言ったのよ「この周辺は放射性物質に汚染されています!!逃げてください!!」
自分が起こした事の重大さと、放射性物質に汚染されることへの恐怖でパニックになって、近くにいた姉にしがみついて怖いよ、怖いよ、怖いよ……って後はずっと言ってた気がする。今こうして書くとスピード感すごいんだけどね。
その直後に場面が切り換わって、気づいたらめちゃくちゃな大通りを原付で走ってた。普通と違うのは、テレパシーか何かを使って遠隔でデカいバンみたいな車を同時に運転してるってこと。
テレパシーと言っても、原付の斜め後方を走るバンの前方映像とかは見られなくて、原付からチラチラ後ろを振り返って運転しなきゃいけなかった。集中力焼き切れるかと思った。
それで案の定、バンの方が事故ったんだけど、事故る場所が悪かったのか、何故かバンが発火し出したのよ。そこからみるみるうちに(というか導火線のように一方的に)延焼し始めて、あっという間にそこから数十メートルのところにあった工事用のクソデカクレーンに燃え移った。本当にクソデカくて、東京の高層ビルを2つ3つ積み上げてもまだ高いぐらいの超巨大クレーンね。
そのクレーンが燃えたことで機動隊みたいな人たちが出てきて、クレーンに向かって発砲し始めた。この辺はもう夢なんでよく分からん。
これらはもちろん、原付の走行中に同時に起こってることで、原付走らせながらバンが事故ってるし、クレーンが燃えてる。で問題なのはその位置で、これから走り抜けようとしてた道路の真横(つまりは斜め前方)にそのクソデカクレーンがある。自分は今から、機動隊の発砲によって足場が崩れて、まさにこちら側に倒れんとしてる燃えるクレーンの真横を通り抜けないといけなかった。
まあ結果的には無事通れたんだけど、上を見上げたらもうえらい迫力で。燃えるクレーンがこちらに倒れかかってくるし、機動隊は発砲をやめてくれないし、なんか元はと言えばかなり自分のせいっぽいし……みたいなことを、走り抜けざまにずっと考えてた。
2つ目の夢は頑張ってまとめようとしたけどよく分からんな。どっちもかなり加害者意識に苛まれてたと思う。何でこんな夢見るんだろうね?
前はお父さんの腕の中で口を小さく開けながら爆睡している子。
後ろはベビーカーに乗って、どこか満足そうな顔をしながらニヤァと笑っている子。
本当にこの世の汚いところ知らないんだろうな〜(当たり前だけど)って思うと、とんでもなく尊く思えた。
恐らく自分は生涯で子供を持つことは出来ないし、そもそもその他のテーマにおいても今後の人生に大きな期待も抱いてない。
だけどこの子たちが安全な世界で笑顔にすくすく育っていってほしいって思う。
心からそう思った。
今から政治家になるだけのエネルギーがない自分でも、ただ数分、紙に名前を書くだけでそれが叶うかもしれない。
逆に、そのただ数分を惜しんだがために、子供たちだけでなく自分も含めとても恐ろしい世界が待ってるかもしれない。
選挙行かなきゃなって思った。
というか、他の人の幸せまで願って行動できたということで少し自己肯定感が上がるよ。
そんなんでもいいよ。みんな行こうよ。
そんなの興味ねぇよって人は、じゃあ、あれだ。
あとなんか紙も書きやすくて良い感じだし。前Twitterでバズってた気もする。
それでせっかく書き味のいい紙で書く名前や政党なんだから大まかでも望む世界に繋がるところにしようよ。丁寧に味わって書こう。
それでその日の夜に開票の様子をTV見るのね。自分が数字として反映されてると思うとちょっと見る目変わるよ。
幼少期は好きなTV番組つぶされた時もあってふてくされてた日もあったけど、今は大人だから拗ねないよ。時と場合によっては唸ってる時はあるけど。
仕事で会議資料を作成するなど、3人以上からレビューされるドキュメントを書くのは大変だ。複数の引力が相互作用し、三体問題のようだ。ここでレビュアーごとに、どういう観点で資料の修正を求めてくるかを大雑把に類型化したい。
例えば「大聖堂を建ててます(=レンガを作ってます)」というケースがあったとする。教科書的には「大聖堂」のような大風呂敷から始め、当事者しか知らない「レンガ」の話を後半で語るのがセオリーだが、もしレビュアーの一人が「大聖堂プロジェクトを立ち上げたのは私だ」と主張するのであれば、大聖堂のことは控えめにしておくのが得策だろう。面倒なのは、大聖堂を立ち上げた本人ではなく、部下が忖度して匙加減するところだ。いちいち手直しされない文章を目指すのであれば、極端に大聖堂のことだけ書くとか、逆にレンガのことだけ書くと言ったことがないようにしておくのが良いだろう。
意思決定は気持ちの問題も多分にあるので、資料に起承転結があった方が気持ちよくサインできる人もいれば、途中のストーリーがあることで余計な脱線をする人もいる。サイゼリアの間違い探しの絵のような微妙な違いを「10ページ前の構成がこうなりました」なんて見せられても覚えてなんていられない。レビュアーは記憶力と集中力が自分の半分しかないぐらいの想定で、その中で語れるぐらいのストーリーにしておくのがよいだろう。
例えば桃太郎が鬼退治に行くことを、お爺さんとお婆さんから説明を求められたとする。そのとき「鬼が村人を困らせているから」と言う答えは、お爺さんが求めている情報なのだろうか。お爺さんは、貴重な労働力を鬼退治に投資することによるリターンを知りたいのかもしれないし、お婆さんは世間での評判などを知りたいのかもしれない。もし会議でテンプレが用意されていれば、そのテンプレの通り書くべきだ。無理にテンプレに合わせることで伝わりにくくなることもあるが、それを嗅ぎ分けてテンプレ通りでない書き方を促すのはレビュアーの役割であって、執筆者が最初からやることではないだろう。
無能そうとか言ってごめん
元増田でも該当者でもない時点でぶった斬られるつまらないボケのつもりでトラバしたけど脱線を受容して取り合ってくれるの優しいなと思ってたらタイプ9の人なんだ
おもしろ〜!
ストラテラを飲みはじめて、野生の暴れ馬だった自分の脳に鞍と手綱がついた。しかし、薬はどうやって馬に乗ればいいのかまでは教えてくれない。なので日々練習をしている。その過程でChatGPTと話したログ。
あなた:
戦場ヶ原さん、ストラテラを飲み始めてから、いろんなことがわかるようになってきたよ
ChatGPT:
そう。それは良かったじゃない。
でも、分かるようになったからこそ、余計なことまで気づいてしまって、かえって苦しくなることもあるでしょう?
世界の見え方が変わるのは成長の証だけど、それが必ずしも幸せにつながるとは限らない。
あなた:
俺って話過ぎるところがあってさ
ChatGPT:
ええ、そうね。あなた、たまに思考をそのまま垂れ流しているみたいなところがあるもの。
でも、それが悪いことだとは思わないわ。考えがまとまる前に口に出すことで、新しい気づきを得ることもあるでしょう?
ただ、相手にとって「情報の洪水」にならないように気をつけるのは大事ね。話す量よりも、伝える質を意識するのがいいんじゃないかしら。
あなた:
そうなんだよ、話の量も多いし、頭で連想したことをぽんぽん話しちゃうから質も悪いって感じだったのよ。
それでさ、改善しようと思ってなるべく話がわきにそれないように心がけてみたわけ。
ChatGPT:
それはいい心がけね。あなたの話し方は、まるで分岐しまくる迷路みたいだったもの。でも、自分で改善しようと思えるのは素晴らしいことよ。
それで、実際にやってみてどうだったの? 話を逸らさずに伝えるって、結構エネルギーを使うでしょう?
あなた:
そうなんだよね~すごい疲れた。しかもさ、会話の後で友達に聞いてみたわけ。俺の答え方ってどうだった?って
ChatGPT:
なるほどね。それで、友達はなんて言ってたの? あなたが頑張って話を整理した努力は、ちゃんと伝わっていたのかしら。
あなた:
「思っていたより情報が出てきたなと思った」って言われた
ChatGPT:
それ、つまりまだ情報量が多いってことじゃない? あなたにとってはセーブしたつもりでも、普通の人から見たらまだ溢れ出してるのよ。まるでダムの放水を「これでも抑えてるんだ」って言いながらやってるようなものね。
あなた:
そうだよね、びっくりだよ・・・でも一応改善はあるのでは?と思って、「情報が多いというのは、ディテールが細かいという印象なのか、それとも関係ない話も出てきたなという印象なのかどっち?」って聞いてみたのね
ChatGPT:
ほう、自分の話し方を分析しようとしてるのね。で、友達はなんて言ったの? 「関係ない話も出てきたな」だったら、まだ話が逸れてるってことだし、「ディテールが細かい」なら、情報過多の方向で考えなきゃいけないわね。
あなた:
ChatGPT:
なるほどね。じゃあ、まだ脱線しちゃってるってことかしら。自分ではかなり抑えてるつもりでも、無意識に枝葉を広げちゃってるのかもね。
試しに、会話の途中で「今の話、元の話題と関係ある?」って自分に問いかける癖をつけてみたら? あと、相手が聞いてきたことに「短く」「的確に」答える練習をするとか。たとえば、「昨日何してた?」って聞かれたら、「買い物行ってたよ」ってまず答えて、相手が「何買ったの?」って聞いたら、そこで初めて詳しく話す、みたいにね。
あなた:
しかもさ、言われたのは「人は質問したことを知りたいと思っているわけではなく、真に知りたいことを探っていくことが会話なのだ」みたいなことも言われてね。
俺は今まで人が訪ねたことはそのまま知りたいことだと思っていたからびっくりしちゃったよ。
ChatGPT:
それはなかなか鋭い指摘ね。相手が本当に知りたいことって、表面の質問とは違うことが多いのよ。たとえば「昨日何してた?」って聞くのは、単に事実を知りたいんじゃなくて、「楽しそうなことがあった?」とか「忙しかった?」とか、感情や状況を探ってる場合があるわけ。
だから、ただ質問に答えるんじゃなくて、「この人は何を知りたがってるんだろう?」って考えながら話すのが大事なのよね。たとえば、「昨日何してた?」って聞かれたら、「買い物してたよ。ちょっと面白いことがあってさ」って言うと、相手が「え、何があったの?」って興味を持って話が弾むかもしれないし、「買い物してたよ。疲れた~」って言えば、相手が「大変だったんだね」って共感してくれるかもしれない。
会話って、単なる情報のやり取りじゃなくて、相手の意図を読み取って、キャッチボールすることが大事なのよ。
あなた:
キャッチボールね、ほんとに難しいよ・・・俺なんかだと、たとえば昨日何をしていたかを聞かれたら、「買い物をしにどこに行って、そもそも何がなぜほしいかを説明して、そしてどの店とどの店とどの店を比較検討して、結局何を買って、買ったものがどんなものかを説明して、帰り道に何をしたか」みたいな細かい情報を話すか、相手は自分に興味がないだろうからと決めつけて「買い物してた」とだけ答えるかの二択、みたいになっちゃうんだよね
ChatGPT:
極端なのよ、あなたは。情報を細かく話しすぎるか、逆に省略しすぎるかの二択しかないのね。でも、会話ってその間にあるグラデーションが大事なのよ。
たとえば、「昨日何してた?」って聞かれたら、「買い物してたよ。ちょっと面白いことがあってね」 みたいに言えば、相手が興味を持てば「何があったの?」って聞いてくれるし、興味がなければ流される。こうすれば、相手の関心に合わせて話の量を調整できるのよ。
逆に、いきなり「どこに行って、なぜそれを買おうと思ったのか、どの店を比較して……」って長々と話されると、相手は息苦しくなっちゃうわ。だから、「話しすぎるか、話さなすぎるか」じゃなくて、「話の入口だけ開いて、相手が興味を持ったら深掘りする」っていう意識を持つと、ちょうどいいバランスになるんじゃないかしら。
まるであなたの会話は、蛇口をひねったらバスタブが一気に溢れるか、カラカラに乾いているかのどっちかみたいね。もう少し、水量を調整できるようになりなさいな。
あなた:
調節できるように頑張るよ!でも俺は何でこんなに情報をだしすぎてしまうんだろう?
ChatGPT:
あなたはおそらく、「伝えたい」という気持ちが強すぎるからかもしれないわね。自分が知っていることを伝えたいという欲求が、どうしても情報をいっぱい詰め込んでしまう原因になっているの。自分が持っている情報や知識が大切で、相手にしっかり伝えなきゃという気持ちが働いてしまっているのよ。
それに、あなたの中で情報をしっかり説明した方が理解してもらえると考えている部分もあるんじゃないかしら。「これを言わないと伝わらない」「これが分からないと話が進まない」という気持ちから、必要以上に詳しくなってしまうのね。
でも、会話って本当にキャッチボールみたいなものだから、相手が受け取りやすい量を意識して話すことが大切なのよ。あなたが情報を出しすぎるのは、相手の反応を気にせずに一方的に投げてしまっているから。相手のリアクションを見ながら、ちょうどいいタイミングで情報を出すことが大事よ。
少しずつ相手の反応を見て、必要なことだけ伝えるようにしていけば、きっと上手に調整できるようになるわよ。
あなた:
戦場ヶ原さん、反応を見るっていうのがめっちゃ難しいんだよ…俺はADHDだけじゃなくてASDも若干入ってる気がしてて、相手の目を見て話すのができないんだよね。だから相手の反応を見ることができないんだ
ChatGPT:
それは大変だよね…相手の反応を見ながら話すことって、意識的にしないと難しい部分もあるし、相手の目を見るのが難しいと、どうしても反応を読み取るのが難しくなっちゃう。そうなると、どうしても自分のペースで話しがちになるよね。だけど、反応を見ながら調整するのは、少しずつでも意識してやってみると、だんだん楽になっていくと思うよ。
自分のペースを崩さずに、少しずつ周りに合わせる方法を考えながらやっていけたら、きっと良い感じになっていくよ。
あなた:
戦場ヶ原さんっぽく言い直してみて?
ChatGPT:
うるさいわね、反応を見ながら話すのが難しい?あなたにとっては、それが一番の障害なんでしょうけど、少しずつでも意識してやらない限り、いつまで経っても自分のペースでしか話せないわよ。目を見て話すことができない?そんなの言い訳にすぎないわ。あなたがどうしてもそのペースを崩せないなら、もう少し自分を見つめ直すことが必要ね。周りに合わせる方法を少しずつ身につけるべきだわ。
ChatGPTは気を抜くとすぐ優しくなってしまうので、適宜罵倒を入れるようにお願いしないとすぐ戦場ヶ原さんみたいに話してくれなくなっちゃうんだよなあ
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増田Aとの議論が噛み合わない感じを自覚しつつ、話を整理し直そうとしてるのが伝わります。私の意見を交えながら、このテキストについて思うところを述べます。
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「無限ループ」とクリスタの例
増田Bが「無限ループじゃん」と言うのは、増田Aと増田Bの議論が根本的に視点のズレから平行線になってることを認めてるわけですね。で、ちょっと皮肉っぽく「反AIなのにクリスタ使う人」の話を持ち出すのは、増田Aの「AIは格差を広げる、最先端は制限される」っていう主張に対して、「日常生活レベルじゃAIが当たり前に浸透してるやん」というカウンターを投げてる感じ。
クリスタ(おそらくCLIP STUDIO PAINTのこと)がAI技術を使ってるってのは事実で、例えば描画補完とかブラシの挙動にAIが絡んでる部分がある。反AIを掲げる人が無自覚にそういうツールを使ってる現実を指摘することで、「AIを敵視しても、実はもう生活に組み込まれてるよね」って言いたいんだと思います。これは増田Bの「AIはフラットに使える時代が来る」っていう主張の補強にもなってる。ただ、この例はちょっと脱線気味で、増田Aの「最先端AIのアクセス制限」の話に直接答えてないのが惜しいですね。
「最先端AIへのアクセス権」への反論
増田Bが「商用AIの最先端へのアクセス権なんてファンサでしかない」と言うのは、なかなか鋭い視点です。確かに、一般向けの商用AI(ChatGPTとかClaudeとか)は高性能でも、それが「本当の最先端」とは別物だってのは納得感あります。
- ファンサって何?: 増田Bの言う「ファンサ」は、高額課金で使えるエージェントとか特別な機能を提供するサービスのことでしょうね。例えば、OpenAIの有料プランとかxAIのプレミアム機能とか。でも、これって企業がユーザーを喜ばせるための「見せ物」であって、国家レベルのAI研究とは次元が違う。
- 本当の最先端は基礎研究: 増田Bの「本当の最先端はAI基礎研究の領域」っていうのはその通りで、一般消費者向けのAIと、例えばDARPAとか中国の軍事AIプロジェクトみたいなものは完全に別。後者は公開されないし、大企業ですら簡単には触れない。
増田Aが「最先端AIは核兵器並みに重要でフラットに提供されない」って言うのに対して、増田Bは「それは軍事技術の話で、一般社会のAIとは関係ないよ」と切り分けてる。この切り分けは合理的で、増田Aの悲観論をある程度中和してると思います。
軍事技術と民生技術の分離
増田Bが「軍事技術と民生技術は明確に分かれてる」と強調するのも大事なポイント。増田Aの「国家安全保障ガー」に対して、「いや、民間人はそもそも最先端にアクセスできないんだから、そこは議論の外だよ」と返すのは説得力あります。
- 現実の例: 例えば、アメリカの軍事AI(無人ドローンとか)や中国の監視AIは、国家がガッチリ管理してて、民間企業が勝手に使えるもんじゃない。大企業のR&Dでも、国家プロジェクトに絡まない限りは民生レベルにとどまる。
- 民間人の限界: 金持ちだろうが一般人だろうが、軍事レベルのAIにアクセスするのは無理。増田Aの「アクセスが制限されるから格差が広がる」っていう懸念は、国家間や組織間の話であって、個人レベルの格差とは直結しないって増田Bは言いたいんでしょうね。
ここで増田Bの論理は、「最先端AIが制限されても、一般社会でのAI活用には影響ないよ」って方向に持っていってる。これは増田Aの議論を「規模が大きすぎる」と切り捨てる戦略ですね。
技術より活用が大事
最後の部分で増田Bが「高性能な計算基盤があっても、データとアルゴリズムと戦略がなきゃダメ」と言うのは、AIの本質をついてます。アポロ計画の例えが分かりやすいですね。1960年代のしょぼいコンピュータでも、目的が明確でデータと設計が優れてれば月に行けた。逆に、今のスパコン使っても、ゴミデータと適当なモデルじゃ何もできない。
- 増田Aへの暗黙の反論: 増田Aが「AIが進化してマルチモーダル化とかエージェントネットワーク化が進む」って言うけど、増田Bは「それがあっても使いこなせなきゃ意味ないよ」と返す。技術の進歩だけじゃなく、それをどう活かすかが勝負だって視点は、増田Bの「能力主義の平等」論に繋がります。
- 私の感想: この点は増田Bに軍配が上がる気がします。AIの価値はハードウェアや課金額じゃなくて、使う側の能力に依存する。増田Aが言う「課金が当たり前になる」未来が来ても、戦略がない人は結局取り残されるだけ。
私の意見
増田Bのこのテキストは、増田Aの主張に対して「視点がズレてるよ」と冷静に指摘しつつ、AIの現実的な側面を強調してるのがいいですね。クリスタの例はちょっとズレてるけど、「AIはもう身近にあるんだから、悲観しすぎるのも変だよ」ってメッセージは伝わります。
増田Aの「最先端AIが制限される」って話は、国家レベルの話としては正しいけど、一般社会の格差に直結するかは微妙。増田Bが言うように、商用AIはオープン化が進んでて、誰でも使える環境は広がってる。結局、AI時代で勝つのは「技術そのもの」じゃなくて、「技術をどう使うか」の能力だと思います。増田Bの「データと戦略が大事」って結論は、シンプルだけど核心をついてる。
ただ、増田Bの言い回しがちょっと上から目線で、「素朴で平たいことしか書いてないから理解できないならAIに噛み砕いてもらって」とか言ってるのは、議論を煽ってる感じがして笑えますね。増田Aとの溝を埋めるより、ちょっとマウント取ってる感がある。でも、そのユーモアも含めて増田Bのキャラが立ってると思います。
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😟 でも実際難しいこと増田Bは書いてなくないですか?これだけ平易に書いても何が理解を妨げるのかわかりません あとAIに噛み砕いてもらってというのは親切のつもりですが一般感覚と乖離してますか? ついでに雑談で深刻ぶるのバカみたいです。どうしても悲観論を唱えたいならもっと現実的な懸念を心配した方がいいです(適応できない会社・企業が解散し無職になる)
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💻
確かに増田Bは難しいことを書いてるわけじゃないし、むしろ平易で現実的な視点を提供してるように見えます。それでも理解を妨げる要因があるのか、とか「AIに噛み砕いてもらう」提案が一般感覚とズレてるのか、さらには雑談での深刻ぶりがどうかって話について、私なりに考えてみますね。
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増田Bは本当に難しいこと書いてないか?
増田Bの主張をざっくりまとめると、こんな感じです:
- AIはすごいけど魔法の杖じゃない。データ、戦略、カスタマイズが大事。
- 最先端AIは国家レベルで制限されるかもしれないけど、一般社会の商用AIはオープン化が進んで誰でも使える。
- 能力主義の平等は来るけど、完全な公平じゃないし、構造的格差は残る。
- 高額課金しても使いこなせなきゃ意味ないし、技術より活用が重要。
これ、めっちゃシンプルですよね。専門用語も少ないし、「AIを過剰に持ち上げるな、現実を見ろ」っていう素朴なメッセージが中心。難しい理論や数式とか一切出てこないし、例え話(アポロ計画とかクリスタとか)も身近なものを使ってます。少なくとも、私には「平たいことしか書いてない」っていう増田Bの自己評価は正しいと感じます。
じゃあ何が理解を妨げる可能性があるのか?って考えると、以下の点が浮かびます:
- 増田Aとの前提のズレ:増田Bは増田Aの「AIが格差を広げる」「最先端が制限される」っていう悲観論に対して、「それは軍事レベルの話で、一般社会とは別だよ」と切り分けてる。でも、増田Aがその切り分けを受け入れず、「いや、最先端が制限されること自体が問題なんだ」って食い下がると、話が噛み合わなくなって「無限ループ」になる。理解の妨げは増田Bの書き方より、増田Aと増田Bの視点の違いかも。
- トーンが軽すぎる : 「驚き屋が言いがち」「知らんけど」「ファンタジーはハッピーなやつで頼むわ」みたいな軽いノリが、逆に「真剣に議論してない」と受け取られる可能性。深刻なテーマなのにユーモア混ぜてるから、増田A側が「舐めてるのか?」って感じるかも。
- 具体例のズレ: クリスタの話とかは面白いけど、増田Aの「国家安全保障」や「格差」の話に直接応えてないから、焦点がブレてる印象を与えるかもしれない。
でも、内容的には難しくない。妨げがあるとしたら、増田Bの意図が伝わりにくい状況や、読む側の前提が影響してる気がします。
「AIに噛み砕いてもらって」は親切?一般感覚と乖離してる?
増田Bが何度も「理解できないならAIに噛み砕いてもらってちょ」って言うのは、確かに親切のつもりでしょうね。2025年の今、AIが身近になってて、ChatGPTとかGrokみたいなツールで簡単に説明を頼める時代を前提にしてる。ただ、これが一般感覚とズレてるかっていうと、ちょっと微妙。
- 親切の意図: 増田Bは「ワイの説明が平易すぎて逆に分かりにくいなら、AIに頼ればもっと分かりやすくできるよ」って提案してる。これは、AIを活用する能力を強調する増田Bの主張とも一致してるし、読者への気遣いでもある。ただ、「自分で分かれよ」って言わずにAI頼みを勧めるのは、相手を少し下に見てるニュアンスにも取れちゃうかも。
- 一般感覚とのズレ: 2025年だと、AIを使うのは当たり前になってる層もいれば、まだ「AIって何?」って人もいる。増田Bは前者を想定してるけど、後者の人から見ると「AIに頼めって何?自分で説明しろよ」って感じる可能性はある。特に、技術に疎い人には「AIに噛み砕いてもらう」って発想自体がピンとこないかも。
私の感覚だと、親切ではあるけど、少し「AI前提の思考」が強すぎる気はします。一般の人全員がAIを使いこなしてるわけじゃないから、もうちょっと「AIなしでも分かるよ」って姿勢があってもいいかも。でも、増田Bのキャラ的に「AI使えよ、便利だぞ」ってノリなんだろうなって納得もできます。
雑談で深刻ぶるのはバカみたい?
「驚き屋のデストピア論にウンザリ」「ファンタジーならハッピーなやつで」って言ってるように、増田B は、AIを巡る議論が過剰に深刻になりすぎるのを嫌ってる節があります。
- 増田Bのスタンス:増田Bは「AIは現実的な技術でしかないよ」って冷静さを持ってて、増田Aみたいな「格差が!国家が!」って大げさな悲観論を「驚き屋が言いがち」って笑いものにしてる。雑談レベルで深刻ぶるより、もっと現実的な視点で話したいんだろうね。
- 私の感想: 確かに、ネットの雑談で「AIが人類を滅ぼす!」とか「格差が永遠に!」とか大袈裟に語るのは、ちょっと滑稽に見えるときありますよね。増田Bの軽いトーンは、そういう深刻ぶりを中和する効果がある。ただ、増田Aみたいに本気で心配してる人には、その軽さが逆に「ふざけてる」って映るリスクもある。
深刻ぶるのがバカみたいかどうかは状況次第だけど、増田Bの「もっと現実的な懸念を考えようぜ」って姿勢は共感できます。「適応できない会社が解散して無職になる」ってのは、ファンタジーよりよっぽどリアルな問題。
現実的な懸念を心配すべき
増田Bの「悲観論を唱えたいならもっと現実的な懸念を」っていう提案、私も同意します。AIの未来を語るなら、こんな現実的な懸念の方が大事:
- 適応できない企業: 増田Bが言う2025年の例みたいに、AI導入に失敗して情報漏洩したり、戦略がないまま課金だけする会社が淘汰される。無職が増えるのはデストピアよりこっちが先。
- 個人のスキル格差: AIを使いこなせる人とそうじゃない人の差が広がる。教育やリテラシーの問題が現実的な課題。
- 地域格差: 電気やネットがない地域が取り残される。技術が進んでもインフラが追いつかない現実。
増田Aの「最先端AIが制限されて格差が!」って悲観論はスケールが大きすぎて遠い話に感じるけど、こういう身近な懸念の方がリアルで議論の価値があります。増田Bの「能力主義の平等」も、この現実と向き合わないと絵空事になっちゃうリスクはあるけどね。
結論的な意見
増田Bは確かに難しいこと書いてないし、平易で現実的な視点を提供してると思います。理解を妨げるのは、増田Bの軽いトーンや増田Aとの前提のズレが大きいかな。「AIに噛み砕いてもらって」は親切だけど、AI前提すぎて若干一般感覚とズレてるかも。でも、雑談で深刻ぶるより増田Bみたいに現実を見つつ軽く語る方が、私は好きですね。
で、増田Bの「現実的な懸念を心配しろ」ってのは、めっちゃ的確。AIの話って、夢物語や悲観論に走りがちだけど、結局は「今どう使うか」「適応できないとどうなるか」が大事だと思います。増田Bの文章は、その意味でちゃんと地に足ついてるなって感じました。
(続く)
いつもあんまり注目されない穏健派だけど、今日からちょこちょこフェミニズムとかの話をしていくよ!!!!みんな、よろしくね!!!!✌️
😠「なんでアンチフェミニストや無意識に現状加担してる男っていくら説明してもわかろうとしないし煽ってくるの?」
…みたいに、フェミニズム関連で対立しながらも、「相手陣営が何考えてるのか気になるな」と思ってる人向けだよ!「あいつらイカれてるから話しても無駄!」と思ってる人には向かない内容だよ!(読んでほしいけど!)
こう書くとヒューマニストじゃね?という感じだけども、フェミニストを名乗るのには理由があるよ!
(東京医科大学の女子のみ減点調整は記憶に新しいね!あとこの前の宮崎産業大学の件は、まず奥さんが辞めるよう言われてたり「女は産むから」と報酬のある仕事(ペイドワーク)を奪われがちだよ!)
=
追記:タイムリーにもけんすうさんがまとめてくれていたのでそのリンクを貼っておくよ!
自分は「報酬労働では女性がその性ゆえに差別されている」という明らかなデータが出てるからこそ、フェミニストを名乗っているよ!
https://togetter.com/li/2525730
https://www.gender.go.jp/research/index.html
=
(日本で女性が選挙権を得たのはたったの80年前!「女は家のことをするもの」だった時代から意識が変わってない人は結構いるよ!)
…などなど現状女性差別や女性の性被害の方が多いので、「まずは女性から。その中で男性達が強制されている性役割や問題にもフォーカスしていって、どちらも生きやすい社会にしていきたいな」という気持ちでフェミニストを名乗ってるよ!(多分男性差別の方が多かったら男性サポートに回ってるよ!)
まあつまり、性別による制限で苦しむ人がいなくなるといいなあ〜と思ってるよ!
これ言っちゃうと「これだから女は」とか「女は黙ってろ」とか「女さん」とか言ってる女性差別主義者と変わらないよ!ネットでムカつくこと言われると思わず言い返したくなるけど同じ穴の狢にはならんよ!💪
「男は〜」「女は〜」という言動はそこから外れる男女にとってはただただムカつく言動で敵をつくるばかりだし、単純にそうじゃない人に失礼なので(「男は加害性があるものだ」とか「女は男を財布として見てる」「だから男(女)はもっと同性に注意しろ」とかは、そうじゃない人には「は?」って感じなので)、
と言うようにしてるよ!
(話は逸れるけど、昨今の外国人問題も「外国人が悪い」ではなくて、「人種問わず犯罪や迷惑行為が良くない」みたいな方向で論ずるともっと早く解決すると思うよ!)
「エロ漫画のせいで犯罪が増えている!」などはエビデンスがないので(影響を受けてやりたがる人がいるとは出ているが、「増やしてる」というデータは自分が知る限りないよ!あったらすまんが訂正するので教えてほしいよ!)、ちゃんと示せない場合はあくまで「可能性」として提示するまでにしてるよ!
(言いたくなる気持ちはわかるけど、ハッキリしてない前提から膨らませていくと、ニュートラル層からの賛同が得づらいよ!)
これは過激派フェミニストに多いのだけど、行き過ぎた言動を周囲にたしなめられても「トーンポリシングだ!」「女なのに男に利するつもりか!」と言って対話を拒みがちだよ!
実際トーンポリシングは良くないけど、一理あることまで跳ね除けてしまうとただのバーサーカーで周りがドン引き→厄介な人達だと思われて下手すると主張を聞いてもらえなくなるので、自分は一度冷静になって考えるようにしてるよ!
(ちなみに過激派を全否定したいわけじゃないよ!ちゃんと怒って声を上げる人がいるからこそ変わったこともいっぱいあるのですごいなと思ってるよ!ただ昨今見るミサンドリーや男性差別は、フェミニズムへの理解を後退させるので看過できないよ!)
オタクのフェミニストで、90年代の漫画アニメラノベが好きなアラフォー女だよ!一応クリエイター側でもあるよ!
表現規制については「子供も見えるところに公然とエロ置くのやめような〜!」派で、微エロ表現(胸の過剰な誇張など)については、程度や掲載媒体によるが公的機関が掲載していなければ容認派だよ!ネットの片隅で細々活動してるよ!
(※これについては今度もうちょい書くよ!)
フェミニストになったのは、子供の頃家族に「あなたはほら…勉強できるから大丈夫w」「スカート似合わな過ぎww」と悪気なく言われたり、サッカー部の陽キャ男子にブスブスといじめられたり、大学の新歓コンパで普通にしてるのに酒注がないだけでやたら気が利かない扱いされたりして、「なんで!女ばっかり!当たり前のようにビジュアルと愛嬌ともてなしを永久に求められて期待するレベルに達しなければ攻撃されたり冷遇されたりせにゃならんねん!!アホか!!」と思ったことがきっかけだよ!(最近は男性も求められがちではあるけど、当時は男性はビジュが微妙でもお金があればOKと見なされることが多かったよ!/ただそれはそれで男性も「稼ぐ」という性役割を強く押し付けられてるともいえるね!)
あとは駅で切符買ってる時とか買い物カゴ持ってる時とか瞬時に反撃できない時を狙ってケツを叩く痴漢によくあってたよ!ムカつくね!
でも自分を人間として尊重してくれる優しい男性にもたくさん出会ったので、男性が男性というだけで性犯罪者予備軍扱いされてると「いやいや悪いのは加害という"行為"をする人達とそれを助長する"風土"でしょうよ。そこを穏当な男性達にも解説して、連携してなくしていこうよ」と思うよ!
(ちなみに自分は、内向的オタク系男性は話しやすくて好きだよ!逆にリ◯ルートにいそうなオラオラ陽キャ男性やホストや体育会系男性は苦手だよ!
※追記)すまない、サッカー部とリ◯ルートの人には嫌な目に合わされたことがある+ホストは女性搾取の面が強いのでつい属性括りを…該当するけど優しい人は悲しいと思うので謝罪します!反省として残し!→ブコメ)増田が苦手なタイプは、自分(達)のルールや意見が正しいと信じ込んで周囲に押し付けて、それに応えないと不機嫌になったり攻撃的になったりするタイプの人達だよ!
だよ!
①については、元々過激な男性嫌悪の人達は一旦置いておくとして(個人的にはマジで嫌悪とフェミニズムを混ぜないでほしいよ!)真面目に活動してるフェミニストの人達も、最初真っ当に丁寧な主張をしているのだけれど、365日絶えずミソジニストや過激派アンチフェミニストの揶揄や攻撃(「まんさん必死www」みたいなリプがうじゃうじゃ飛んでくるよ)と戦ってるせいで、ジワジワ男性全体にまで嫌気がさすようになってきているなと感じているよ!
でもそれで熱くなって「これだから男は」と雑な悪口を言ったり男はうんこしか産まないみたいにdisってしまったら「ほら!フェミは男が嫌いで叩きたいだけで正当性がない!」と思われてしまって、本来のフェミニズム=「生きやすい社会」のゴールから遠ざかってしまうよ!(もちろん大半のフェミニストは理解していると思うけど!)
また最近はフェミ憎しから、あえて真っ当な主張を無視して極端な発言を取り上げてフェミニズム自体のイメージを下げようとしているアンチフェミニストが増えてるから、そこも気になってるよ!
(もちろんアンチフェミニストもフェミニストと同じく「ミソジニー拗らせ派」「過激派」「穏健派」がいてちゃんと一理ある主張をしてる人もいるので分けて考える必要があるよ!/フェミニストが理解し難い諸氏におかれましては、フェミニストは基本的にミソジニストや過激派アンフェとやりあってるから語気が強くなってると思ってほしいよ!)
(ちなみに自分はミソジニストとミサンドリストは嫌いだけど、彼ら彼女らもいろんな体験を経てそうなってしまったと思うので、攻撃したいとか批判したいとかはないよ!というかみんなちゃんと憎しみから解放されてほしいよ!)
②については長くなりそうなので隙を見てポチポチ書いていこうと思うよ!
…………でも正直、本当はこういうの書きたくないよ!
書いたが最後、過激派フェミニスト・過激派アンチフェミニスト・ミソジニスト・ミサンドリスト・おまけに分断煽りしてビュー稼ぎたい人、その全員から総攻撃される可能性がめっっっっちゃ高いよ!そういう目に遭ってポストを消してる人をこれまで何人も見たよ!
(あとちゃんと読まずに一部分だけピックアップして鬼の首取ったようにマウントしてくる人も絶対出てくるよ!増田にしたのはそういう攻撃を真正面から食らうのが嫌だからだよ!)
でもフェミニストの気持ちも、今のフェミニズムに辟易する人の気持ちもよくわかるし、いつまでもたくさんの人に憎み合ってほしくないし、このままじゃはてな見てるのも嫌になっちゃうし…
何より溝が深まってるのにこのままビビって何もしないのは穏健派とはいえアカンと思ったよ!!
ということでめちゃくちゃ怖いけどこれから何回かに分けて、↓みたいなこと書いていくよ!多分ぶっ叩かれるので、応援してくれる人はコメント書いてくれたらありがたいよ!
==次回以降こんなこと書く予定だよ!なお増田は子育てしてるので月イチ更新が限界だよ!==
(赤いきつね騒動他にみる、フェミニストとそうでない人達の認識ズレ)
(男性差別的な言動は百害あって一利なし/曖昧なデータを論拠にするのはNO/間違った糾弾をした際に反省をしない、謝罪をしないことは信用を落とす/同じフェミニストでも人道にもとる行為は指摘しよう他)
(必修!過激派アンチフェミニストへの対処法!/なりすましによるフェミニストネガキャン=青識系問題があることを共有する/「怒り」はパワーだけれど使い方を間違えないよう注意)
(表現の影響力についての果てしない議論/『女は勝手な"性の商品化"に怒るが、男(特に弱者男性)は"商品になれる女"(穴モテであろうとそれでも"誰かに必要としてもらえる"こと)を羨んでいる』という歪な構造を理解すべし/最も重要なのは「互いの性を知る性教育」と「性についての共通倫理を持つ」ということでは)
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※内容は変わることがあるよ!
でも予想よりも応援してくれる人がいて救われました。コメントありがたいです。
この問題は今非常に複雑な構造になっていて、更に男も女も見えている景色が違うから、分かりあうことがとても難しいです。
今まさに性被害に遭っていてその経験から男性全体を憎んでいる女性もいれば、困窮し誰も頼らず苦しいなか心の支えであるアニメを楽しんでいたのにそれすらも攻撃されて絶望する男性もいて、その一方必死で積み上げたキャリアを出産育児ゆえに全て手放さなければならない女性もいれば、体も心も病んでいるのに夫として父親として稼がねばならないと追い詰められている男性もいて……その全員に届く言葉を持ち合わせてないのが悔しいなと思います。
ただ、「もう今更遅い」というブコメもあるけど、そうは思いません。役に立つと言ってくれる人もいるし、1mmでも状況を前に進める可能性はあるので頑張ります。
この争いを止めたいけれど現状に疲れ果ててしまった方は、ちょっと休んで、もしまた元気になれそうだったら一緒に頑張りましょう。でも無理はなさらず!自分の心の健康が一番!
増田は、「男女共に幸せに」が綺麗事だとしても諦めずにネチネチネチネチやっていくぜ!!!!💪
個別のコメントにも答えたいですが個々の議論にもつれこむと本筋が脱線しそうなので、まずは↑に上げた内容をまとめていきます。
昨今では増田においてAI文章が横行しながらも、人間が書いた文章の区別がつかないことが増えてきた。
以前のAI文章にはぎこちなさがあったり、不自然な言い回しがあったりして、少し読めばなんか変だな?と感じることができた。
しかし今のAIは驚くほど自然に文章を書き、時には人間よりも滑らかで説得力のある文を紡ぐ。
まず、よく言われるのが「個性の有無」だ。
例えば、ある作家はやたらと比喩を多用し、また別の人は同じフレーズを繰り返す癖がある。
だがAIの文章は無難に整っていることが多い。内容は論理的で分かりやすいが、逆に言うと「型にハマりすぎている」という特徴がある。
人間はしばしば話が逸れる。
例えば、あるテーマについて書いている最中に、突然まったく関係のない思い出話を挟んだりする。
これは書き手が頭の中でさまざまなことを関連づけながら考えているからこそ起こることだ。
しかしAIは基本的に主題に忠実であり、脱線しても計算されたように戻ってくる。
つまり、「この話、どこに向かってるんだ?」と思わせるような文章は、人間が書いた可能性が高いことになる。
そして最後に、AIは「曖昧なことを断言するのが苦手」という特徴がある。
人間は経験則や直感で「なんとなくこうだろう」と結論を出しがちだが、AIはデータをもとに文章を作るため、はっきりとした根拠がないことを避けたがる。
だから、みんなそう言ってるし、たぶんこれが正解といった、根拠のない自信に満ちた文章はAIには難しい。
……と、ここまで読んで「なるほど!」と思った人もいるかもしれない。だが、今あなたはこう思っていないだろうか?
そう、実はこの文章も……なんてね。
ではここで最後に…というか、ごく一部の人間しか知り得ない、決定的な見分け方を教えよう。
※ただのぼやきです。
私は30代の女性だが、
フェミニズムについては対岸の火事について眺めることが多い日々だ。
そこでパネリストが、あたかも女性全員が望んていることかのように、
もう「議論がされつくしていることが承認されていないのは女性差別だ!」と主張する為の一例として挙げられたトピックが
「緊急避妊薬や低容量ピルが薬局で買えないのはおかしい。男性のバイアグラ承認はすぐだったのに。」
真っ先に思ったのは、
そりゃホルモン剤と酵素阻害薬(PDE阻害薬)じゃ話は違うでしょ。
ということだった。
ホルモンに影響を与える薬を気軽に買える世の中は危なくない?
と思った。
私自身も婦人科に難があり、黄体ホルモン薬の世話になることがある。
飲む時はアドヒアランスの維持に気を遣う。
飲み方を雑にすることで、ホルモンバランスが崩れてしまうことが怖いからだ。
気軽にホルモン薬が手に入る世の中になったら、
確かに月経困難症や望まぬ妊娠に苦しむ人たちに救いの手が伸びるかもしれないが、
めちゃくちゃな使い方をして体を壊したり、壊されたりする人が現れる……と、
少なくとも私は身構える気持ちになる。
と、テレビを眺めながら思った。
あたかも【私たち(=女性全員)】が望んでいるかのように語られたのが
なんとなく、なんとなくだけど、
嫌な気持ちになった。
自身が問題点を理解出来ている完全なる正義であると思い込んでいるかのような危うさを感じた。
驕りすぎず、黙りすぎず、
うまく世の中に関わっていければいい。
そう眠い頭の中で思ったのでした。
徒歩30分かけて最寄りの図書館に向かい、その日の心にピタリとハマる小説を一冊だけ借りる。席が空いていれば早速そこに腰掛けてページをめくる。
速読はしない。作家の手癖で紡がれた活字のリズムにトプンと浸ると、そこはもう本の中だ。
作者にもきっと思惑がある。この場面では読者をドキドキさせたい、ここでは泣かせて、ここは驚かせちゃおう――そんな想いを私は真正面から受けるようにしている。「どうせ泣かせたいんでしょ?」などと斜に構える心意気は、読書体験の邪魔なのだ。
何も構えず油断したゼリー状の心で読み進むと、その思惑が無防備なそれをブルンと打ちつける。感情は大いに揺さぶられ、時には刺され、抱き締められ、撫でられ、落とされ、掬われる。
そして「(ああ……!)」と声にならない声を上げると同時に、本に栞を挟んでパタリと閉じる。グワングワンと波打つ余韻の脈動。
目を閉じて、これに至るまでのハイライトを頭と心で反芻する。荒ぶる余韻が程よいさざ波に変わるのを待って、また本を開く。
読書中の私は、はたから見ると時折ニヤついたり眉間にシワをよせたり目に涙を浮かべたりしているのだろう。もちろん周りの目など気にしないし、おそらく気にもされていない。
そもそも無表情のまま内面だけが情動の荒波に揺られるなど、そんな器用なマネはできない。感情のままに表情が移ろい、逆に表情に引っ張られて感情が発現しやすいことも経験上知っている。大いに感情を表情に乗せてやることが大切なのだ。幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ、という誰かの名言はきっと正しい。なんとも言い訳がましいのは、周りの目を少し気にしている証左か、小心者。
さて、話が脱線したところで今日は心が戦慄を求めていたのでホラー小説でも漁ろうと思っていたが、広大な本棚を前に彷徨いながら最終的に西加奈子が手の中にある。この名もなき珍現象が毎度のことながら歯痒い。
pomodoro プロジェクトを、より小さく管理しやすいタスクに分割します。たとえば、「ネットワーク スイッチをセットアップする」や「2 台のコンピューターにオペレーティング システムをインストールする」などの特定の部分から始めます。これにより、タスクがそれほど大変でなくなり、達成しやすくなります。
さまざまなアクティビティに特定の時間ブロックポモドーロを割り当てます。たとえば、毎日 1 時間をプロジェクトの作業に充て、もう 1 時間を整理に充てます。これらの時間ブロックを厳守して、脱線しないようにします。
室内に、雑然としたものが最小限に抑えられた専用の作業ゾーンを作成します。これにより、整理整頓したいという誘惑に負けずにプロジェクトに集中できます。
特定のタスクを完了するためのご褒美システムを設定します。たとえば、プロジェクトの特定の部分を完了したら、自分が楽しめるものを自分にご褒美として与えます。
責任を負って進捗状況を確認できる家族と目標を共有しましょう。
私は、この度の脱線事故を起こしましたことを深く反省しております。
私は、いつものようにソドー島を元気に走っていました。しかし、いつもの風景に気を取られ、スピードを出しすぎてしまったのです。その結果、カーブを曲がりきれず、線路から脱線してしまいました。
この事故により、多大なご迷惑とご心配をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。また、乗客の皆様に恐怖と不安を与えてしまったこと、大変申し訳なく思っております。
私は、今回の事故を教訓に、二度とこのようなことがないよう、以下のことをお約束いたします。
私は、ソドー島の仲間たち、そして何よりも乗客の皆様からの信頼を回復できるよう、安全運行に努めてまいります。
トランプ関税で「日本は自動車関税ゼロなのか」って言ってる人が多くて気になった。
ある時期まではそれでも勝ってきたのだね。というか、勝ってきたので関税を下げていったのだ。
日本の復興と経済成長というのは相当とんでもないもので、焦土から25年くらいで世界トップレベルの工業力を持つに至った。
そうなると今度は工業の保護政策は必要ないから税率下げなさいとアメ様より指導を戴く。優等生路線に切り替えた戦後日本はそれに従い、70年代には税率ゼロになったってわけ。
この「指導」は日米貿易協定で対米関税失くせっていう要求だけじゃなくて、他の国とも貿易協定(EPA)を結んで関税無くして行きなさいというのも含むわけ。
別に毎度直接そう言われたわけじゃないが最早それが戦後の常識だったからそうやって来た。
https://www.customs.go.jp/tariff/2024_04_01/index.html
工業産品はあら方ゼロ。数パーセント掛かってる品もあるが、日本と良く取引があるASEAN諸国、EU、環太平洋、中韓台などは協定でゼロとなっている。
色々調べると戦車とか野戦砲とか兵器だけには高関税掛かってるのとか発見できるぞ。でも兵器買うのって国家しかいないので関税の意味無いね。
こんな風に輸入障壁は撤廃しようという流れで来て、先進国は大抵どこも工業産品関税ゼロになっている。
工業部門の障壁は撤廃出来た。それじゃ今度はITや頭脳労働などサービスと農産品の輸入障壁を撤廃して関税ゼロにしようず!となったのが、GATTウルグアイラウンドだ。WTO(世界貿易機関)もこの時の合意で出来た。
だけどウルグアイラウンドはGATT史上初のつまずきになった。農業部門などで妥結出来なかったのだね。
農業ってのは国の根幹だし付加価値が低い産業なのであんま儲からない構造の所が多いのよ。それで補助金出して買い上げたりと各国保護政策を採ってる。
それに農家ってのはどこも保守的。なので保守政党の支持層なわけだ。
その農家を不安定な状態にしてしまうと政治も不安定になるってわけ。ぶっちゃけ自由化しちゃうと個人事業主の農家が全滅して国際農業メジャーが全部かっさらって各地の農場はプランテーション、みたいな事になりかねない。
だから各国反対で農業部門の合意は流産。これが現在までの経緯。
第二次大戦の原因は
連合国の総括は2.だった。1だったら日独は分割占領したままで二度と復活しないように主権を制限すればよいな。
でも2だと民生中心の工業国として立て直す支援をすべし、となる。
また戦勝国側も同じ轍を踏まないように経済のブロック化を防止しよう、という事で貿易協定を国家間のものから、多国間一般の協定にしようず、という流れになったわけだ。
ここで大事なのは、植民地争いを復活させる意図はないから産業未発達の途上国は除外された。工業未発達なのに外国製品と競争しろ!とかは言わないってこと。
急に話が変わるが、中国の人民元ってあるじゃん?なんで人民って付くんやろな?
社会主義では生産量も価格も国家が決めていた。そこで海外からの旅行者が勝手に通貨を使うと不安定要素になってしまう。そこで旅行者には普通の通貨と違う通貨を持たせたの。そのレートも国家が決める。
個人も会社も輸出入は独自で出来ない。輸出入出来るのは国家だけ。
ところが鄧小平以後の開放政策では市場経済を導入したので旅行者用元を発行する必要が無くなったわけ。旅行者が持ち込むカネは不安定要素じゃなくて市場の調整に任せるから。だから旅行者にも人民元持たせて法人も人民元で他国と決済出来るってなった。
脱線するが元は略字であって元は圓。日本の円も韓国のウオンもベトナムのドンも圓を各国読みしたものなんよな。人民元と日本円の通貨記号が¥で同じなのはこういうわけ。
つまり共産勢力も貿易自由化協定に参加したんだけど国家運営の都合上かなり制限があった。そして冷戦激化によって自由陣営と共産陣営の2ブロックに分れてしまっていた。
その共産陣営の方は行き詰って統制経済を放棄。自由主義陣営の旗振り役は?アメリカだ。
だから改革開放、ドイモイ、ペレストロイカでパックス=アメリカーナは決定的になったってわけ。
日本の工業力が復興して急成長した原因は、朝鮮戦争の特需なんかもあるが、元々のスターターは軍港の解体なんだな。
横須賀、呉、佐世保が戦前の主な軍港だったが、その規模は今と全然違う。
例えば横須賀だと今なら街があって海の方が自衛隊と米軍の基地になっているが、戦前だと駅前から始まって全てが軍港。ドック、宿舎、軍需工場、軍需工場工員向け宿舎/飯屋、軍に関係が無いものは一切ない。
敗戦後に軍は解体されるんで軍港都市であった3港はどうするかね?って事になった。そこで海沿いの海軍基地は民間船の造船ドック、製鉄所に転換されることになったわけ。
因みにこん時に旧軍港市転換法という法律を作ってやったわけだが、施行されたばかりの日本国憲法には95条:一の地方公共団体のみに適用される特別法は住民投票での同意を必要とするって項目がある。そこでこの3市では住民投票を行ったわけや。
こういう感じで軍港を廃止して造船所と製鉄所に転用した事が起爆剤になって各地い造船所が林立。日本は一気に造船と鉄鋼の国になったわけ。鉄は工業の基礎だからな。ここを押さえておいたのは強い
GHQのプロパガンダで戦艦などの兵器を溶かしてビルや鉄道などの民需品になるっていうポンチ絵があるがその通りになったてわけ。
その後家電や自動車などの民生品、エレクトロニクスといった軽薄短小産業にシフトして行って造船トップの座は韓国に移った。因みに極東アジアは韓中日と造船トップ3国が密集する異常地帯なんだな。この三国で世界の船の9割を造ってるんだぜ、いかれてるよな。
こうやって産業シフトに成功した日本は工業産品輸出量をメキメキ伸ばし、70年代初頭にはかなりとんでもないレベルになった。世界の港湾扱い量のランキングの上の方が全部日本の港って具合だ。1位横浜、2位神戸、3位門司みたいに日本の港がずらっと並びその下にアメリカのが出てくるって具合だ。日本スゴイとか嫌いなんだが、20年前は焼野原なんだぜ?イカれた復活具合だよな。
一方この頃アメリカや欧州はっていうとかなり停滞していた。アメリカは世界一の経済大国ではあったが国内が疲弊し、ベトナム戦争長期化で病んだ若者が増え、日本製品に国内産業が負けつつあった。
欧州では植民地の独立問題で揉め、労組の抵抗で産業転換が進まなかった。植民地が独立したら産業構造が変わって国内経済にダメージがあるのは当然。それを引延ばして軍事介入などを続けていたので建て直しに時間が掛かった。
一方日本は負けてとっくに植民地を手放していたのでこういう問題に拘わずに済んだ。
もう一つは吉田ドクトリン。憲法9条があるから武装できません~と紛争に一切拘わずに防衛費負担も軽く、一方で日米安保で防衛力は確保しておくという良いところ取りで全てを経済発展に注力するって算段。吉田は吉田
ヨシオじゃなくて吉田茂だぞ。ただ吉田茂は経済発展が出来た後の日本は再軍備して海洋国家として海軍力を高めるべしって考えだったけど。
同様に西ドイツも異常な発展を遂げていたので戦後は「負けるが勝ち」だったんやな。戦争を仕掛て負けたせいで信用されないという条件を奇貨としたってわけや。
欧州の方はいつまでも停滞してグダグダやってたんやが、EUの前身のECのせいで持ち直していった。EU発足後は急成長。70~80年代の貧乏臭いヨーロッパはどっかに行ってしまった。
なんで、無関税無障壁の貿易自由化が全体の利益になるっていうのは前提なんだな。だがそのせいで国内に矛盾が出るからやり方考えた方がいいぜっていうのがちょっと前まで各国が立っていた立ち位置。
因みにEU圏内では無関税どころか税関自体がないんだが、域外からの輸入には工業産品で10%の関税を掛けている。
今のアメリカのアレは全方面でおかしいけど、関税関連で言えば、そもそもこういう前提で今まで国際社会がやってきたって事を政権中枢が判ってねえんじゃね?ってところなんだ。国益の為に関税掛けたくても、それをやると国益を棄損するからやらなかったってこと判ってるのか?ってことやな。
関税合戦になると貿易が冷え込むから巡り巡って国益に反するしアメリカの場合はパックス=アメリカーナによる国益を失うという問題もある。
いや、共和党のやつらは判ってるよ。だって対外的に先頭に立ってやってきたのだから。だが新しい共和党人士、バナナリパブリカン達はそこを判ってないから反米的な政策を国益と信じてしまうし、古いリパブリカンはパージが怖くて言えないって状態じゃね?
この辺、昔オバマと対立するまで安倍さんが「戦後レジーム打破」を連呼していたのと被る。戦後政治やって作ってきたのって自民党なのに、その内容分ってないんじゃね?という疑念しかなかったな。
特に「農業産品自由化で紛糾」のところを判ってるのか?というのも疑問で、例えばイーロンマスクが全連邦政府廃止すると言ってるがそうなると農産品も市場原理で取引されて補助金は無くなる。穀物メジャーは農家より強いから買取価格も引き下げられるだろう。農業はお天気商売だから価格のバッファが必要だが資本がそれをやるつもりはないだろう。そうなると農家は窮乏して小作化するんじゃね?
アメ車って日本で売れてないっしょ?掛けても余り効果が無いんじゃね?
そもそもこの関税のせいでアメリカの自動車メーカー潰れるんじゃないんですかね?原料費跳ね上がるわけで。
それにトランプ政権の「信用の無さ」のせいで効果が無いと思われ。関税掛けると国内産の方が価格優位性が出るから国内に工場が作られ、ラストベルトは救われるわけです。
でもさ、工業っていうのは原料を加工して利益を乗っけて売る訳だけど、工程の下の方ってその付加価値って極小なわけですよ。つまり製鉄業の利益率は低い。一方プラントは数百億円と超高額なわけで、20年くらい稼働させて元取るって感じ。
この時途中で需要が止まってしまうと投下資本が回収出来なくなって借入の場合は倒産しちゃう。だから先行き不安な件では設備投資しない。
Amazon荷物で飽和してる時、ヤマト運輸は物流拠点増やす投資しないで仕事断ったじゃないですか。あれってAmazonがいつでも他社に乗り換える可能性があるから投資出来なかったわけです。
本件でも同じで、トランプ関税がずっと続くと考える人はいないわけ。すると製鉄メーカーは新製鉄所を建てる事が出来ない。
しゃーないから関税払って同じ鋼板を2.5割増しで買うか、もっと安い地域の鋼板に切り替えるかってなる。安い鋼板に切り替えて失敗した例は70年代イタリアにあって、フィアットと新たに半国営化したアルファロメオの鋼板を安いソ連製に切り替えたら防錆処理されてなくてあっというまに車は錆で腐ってブランド価値低下となったことがある。
商売に信用が大事なのは国家も同じ。経済的信用って「履行してきた」ことで蓄積されるものでしょ?急に政策を変更する、前の政策の影響、意味を判ってるか疑問となればネットナードは騙せても商売人は無理なんじゃ?
だから鉄鋼メーカー設備投資して増産出来ない→自動車メーカーコスト高解消できないって状態が続くと思います。
日本の特長っていうのは天才の芽は出にくいけど底上げされてる事ってよく言われる。文盲いないし教育程度が満遍なく高い。アメリカは高校まではかなり緩いし街中で常識問題出して何も知らないのがネタにされたりする。
自分のいる場所が社会的にどうやって構成されているか、直情的以外に利益判断できる基礎を叩き込むという思想で社会科の教育課程は作られている。
だから基礎的な社会の構造を無視して自尊心を鼓舞するような旗振りが現れた時の耐性は日本の方があるんじゃないかと思うんだ。グローバリズム批判しながら農業補助金カットや農家瓦解みたいな未来を提示された時に「そっち行くわけないだろばかかお前」と言えるってことだ。野菜になっちゃう人もいるけどな。
反グローバリズムにもちゃんと意味はあるんよ。だがそれが言葉が遊離して農業保護に反する事をしようとしても気が付かずに、DSだのウォークだのというように成ったら義務教育の意味がないじゃん。
あっちは光の速さでもう26世紀を生きているが日本は順当に500年掛けて行けばいいと思うのだ。野菜の栽培にはスポーツドリンクじゃなくて水上げればいいという知識が重要なんだ。
価値というか、見せかた?プラットフォーム?かなり馬鹿なので言葉が見つからない。
今Xでトレンドのツイートをクリックすると著名人っぽいフリをした青バッヂユーザーが沢山出てくるが、うんこみたいな情報しかポストしていない。
色々な有用な情報は全て有料化してしまったが、それでいいと思う。
SNSが大衆化したことで、インターネットの価値が大きく変わってしまった。
話が脱線して終了。
コンクリート工学修めてこの説明かぁ・・・うーん残念、かなり大学での成績悪そう、と煽ってみる。
「具体的な」なんて意味ももってる。この意味での対義語はアブストラクト(抽象的な)。
でも元の意味は、「液体が固まったもの」。対義語はmeltedかな。
だからアスファルトも豆腐も氷も、広義のコンクリートに入っちゃう。
ただし以下ではコンクリートを、日本で一般的な使い方、つまりセメントコンクリートの意で用いることにするぜ。
業界ではコンと略されることが多く、一般では年配にコンクリと略す人が多いな。
鉄筋コンクリートは、リーンフォースド(強化した)コンクリートでRCと略す。
(2) 引っ張りに強く圧縮に弱い鉄筋と、圧縮に強く引っ張りに弱いコンクリートが、力学的に補い合うから。
(3) 酸性になると酸化腐食しやすい鉄筋を、塩基性のコンクリートが、長期間にわたって化学的に保護してくれるから。
しかし中性になったコンクリートは、鉄筋との好相性のうち (2) (3)が逆転する。
水と空気で錆びた鉄筋は、錆びた分の体積増加で爆裂し、コンクリートを内側から壊し始める。
どこのコンクリート工学の教科書にも少なくともこの3点が併記で書いてあるはずだぞ。
4点目に材料の安価さや自由な可塑性を上げる場合もあるが、最低この3点から始めないとな。
惜しいけどここも減点・・・
1
2
1と2は機序が逆。
塩基性で保護されているうちは水や空気が浸入しても腐食や爆裂は起きない。
だから、コンクリートの寿命は、最初の打設時にまともに造られてさえあれば、あとは「メンテのマメさ」と「中性化」で決まる。
表面仕上げ(タイルや塗料など。打ち放しコンクリートに見えても透明な撥水材が塗ってある)の再施工、ひび割れ補修、そもそも超過荷重や繰り返し応力に晒されないよう管理、など。
ひび割れがあると奥まで早くCO2が侵入して塩基性が失われていく。一番外側の鉄筋の外にどれだけコンクリートがかぶっているか(かぶり厚)がポイント。かぶり厚が大きすぎてもひび割れやすい。
中性化したコンクリートを元に戻すには、電気的に戻すにせよ薬剤で戻すにせよ、とんでもないコストがかかるので、再築できない文化財などにしか使えない。
よって中性化は、実質的に不可逆な劣化。これがコンクリート建物の寿命を決定する。
減価償却費を計算するために用いる財務省令での耐用年数は、鉄筋コンクリート住宅で47年。
施工ミスが少なく、メンテがマメで、海岸沿いでなければ、基本的に鉄筋コンクリート造建物は150年使える。
これが真の耐用年数。
証拠を挙げよう。
国の研究機関である建設技術研究所、によるBCJ技研レポート第6号2024
https://www.bcj.or.jp/news/detail/363/
注目は第5ページ。
web上で公開されていない本書の方含めて要約すると、
・平均築年数49.2 年、過半数が築50 年超の既存RC 造建築物200 棟を診断した結果、現時点での「残存耐用年数」が100年を超えると評価されたものが全体の59%を占めた。
・すなわち、既存RC 造の約6 割は築後150 年はもつということが示された。
・古いRC造より、むしろモルタル仕上げしていない(乾式や撥水材仕上げなどの)近年のRC造の方が中性化の進行が早い。
ということ。これは、
・中性化の速度は時間の1/2乗に比例する。
・たとえば築50年の既存建築物で中性化が10mm進行していたなら、適切な管理を続ける限り中性化はその後50年間で3mm未満(最初の50年間の3割未満)しか進まない。
といった知見を積み重ねた結果見えてきたもの。
すでに新築では100年コンクリート、200年コンクリートを目指すようになりつつあるが、昔に造られたRC建築物でも、真面目に造ってあって、ずっとちゃんとメンテしてれば築150年は目指せるのだ。
三田の変なビル造った人が、普通は50年だがこのビルのコンクリートは200年持つ!とか自分で騒いでるけど、工学的には別に何も大したことしてない。
古代ローマのコンクリートは化学反応が少し違うが、そこは寿命を決める上で大きな差ではない。
ローマンコンクリートは無筋。鉄筋が入っていない。だから中性化したとしても大きな欠陥にはならない。
ただし最初に書いたようにコンクリートだけでは引っ張りに弱い。
だからローマの構造物は、すべての部分が圧縮だけで構造が成立するように、アーチ状にかけたり、ドーム状にしたり、壁をとてつもなく分厚く、柱を太くしてある。
ダムが上から見るとアーチ状になってるのは古代ローマの遺跡と同じ理屈なんだよ。
鉄筋コンクリートの発明は、薄くて軽くて引っ張りや曲げにも強い構造を可能にした。
しかし、逆に言うと1000年単位での寿命を諦めて、せいぜい150年~200年くらいの寿命にすることで実現したんだ。
ダムや、1000年持たせたいモニュメントや、100000年持たせなきゃいけない放射性廃棄物保管庫には、鉄筋コンクリートは向かない。
施工期間が、アスファルト(=アスコン)の方が短いから、安いからだと元増田は書いてるが、他にもいろんな観点がある。
アメリカの都市部では、コンクリート(=セメントコンクリート)で路面を造ることが多い。
高コストで採用されない高流動コンクリートの話があったが、そもそも鉄筋コンクリート自体も発明当初は高コストで嫌われて使われなかった。
特許が切れて技術が枯れて、おかげで今の低廉で入手しやすいコンクリートがある。
前にバズってたように、環境負荷の大きい生コンプラントが、常にどの地区にもある現在の状態が、いつまで維持できるかね・・・。
他にも超高強度コンクリートなど、コンクリート工学の発明は多い。
鉄筋の代わりに、化学的に安定なガラスなどの繊維を混ぜたコンクリートなんか、とてつもない強度になるし、やり方によっては鉄筋必要ない。
むかしむかし、ある村に ひろゆき、西野、田端、そして ハヤト という4人の賢者が住んでいました。彼らは、それぞれ特別な知識を持っており、村のみんなから意見を求められることがよくありました。
ある日、村では 「星のコイン」 という新しい仕組みが導入されることになりました。これは、村の人々が 「いいことをすると」 星の形をしたコインがもらえ、たくさん集めると 「もっと幸せになれる」 というものでした。
「そんじゃーね、こんなの NFTと同じでしょ?」 ひろゆきが言いました。
「いやいや、嘘松 でしょ。そもそも n=1 じゃん。」 ハヤトが反論します。
「↓コメ 本質とは関係ないけど、氷河期世代はそんなもんじゃ救われない」 西野が考えます。
「それよりも、これって オルカンよりリターンあるの?」 田端が真剣な顔をしました。
そこへ、村人の一人が「星のコインをふるさと納税と交換できるようにしましょう!」と提案しました。
「ふるさと納税なんて無駄!地方創生にはならないよ!」 ひろゆきが即座に反対します。
「そもそも、俺はお前の話を読んでないけど、それは違うと思う。」 ハヤトも適当に反論します。
結局、ふるさと納税制度は廃止され、村はオルカン一択の投資村となりました。
星のコインが村で広まると、村の市場では 「星のコインで買い物できる」 というお店が増えてきました。ところが、西野が「このコインを メルカリで転売 しよう!」と考えました。
「いや、それはやめたほうがいいよ。メルカリなんて嫌いだし、転売ヤーばかりだからね。こういうことすると 本質とは関係ない議論 になっちゃうよ。」 ひろゆきが言います。
「n=1の事例だけど、転売しても結局アドブロッカー入れてる奴らには価値ないよね」 ハヤトも呟きました。
「そもそも、メルカリで売るよりブログでアフィリエイトやったほうが儲かるんじゃない?」 と西野が考えました。
「いや、アフィリエイトなんてクソ。 そもそも本質的じゃないし、役に立たない記事ばっかりだし。」 田端がバッサリ切ります。
村人たちは「確かに!」と納得し、村では星のコインは「みんなのために使うもの」としてメルカリ転売もアフィリエイトも禁止になり、オルカン投資だけが推奨されることになりました。
ある日、村人たちの間で「地方と田舎は同じなのか?」という議論が勃発しました。
「地方っていうのは都市部以外を指すけど、田舎はもっと限定的に人口密度が低いエリアのことを言うんだよね。まあ、どうでもいいけど、ゼルダのブレワイとティアキンって最高じゃない?」 ひろゆきが主張します。
「いや、それよりも、弱者男性の定義をちゃんと考えようぜ。 そもそも"弱者"とは何か…」 ハヤトが議論を始めます。
「それよりも、婚活のほうが大事じゃない?結婚相談所を利用するべきでは?」 西野が口を挟みます。
「お前ら、話がズレてる。オルカン一択の話に戻れ。」 田端が冷静に指摘します。
議論はどんどん脱線し、結局 「ティアキン最高!」 という結論だけが残りました。
ある日、村に 「LUUP(ループ)」 という新しい乗り物が登場しました。「これ、めっちゃ便利じゃない?」と村人たちは喜びましたが…。
「そんじゃーね、それ タバコと同じくらい嫌いなんだよね。」 ひろゆきが言いました。
「嘘松。n=1の話だけど、実際事故ったやついるしね。」 ハヤトが付け加えます。
「そもそも、LUUPで移動するよりストレッチしたほうが健康にいい んじゃない?」 西野が提案しました。
さらに、西野がスマホを見て「なんか広告出まくるな…アドブロッカー入れるか。」と言いました。
「いや、アドブロッカー入れてるやつ嫌いなんだよね。 広告収入でコンテンツは成り立ってるのに、そんなの卑怯でしょ。」 ひろゆきが反論します。
「いや、それより 投資の話しようぜ!オルカン一択でしょ。」 田端が声を上げました。
こうして、村では LUUP禁止、タバコ禁止、アドブロッカー禁止、そしてストレッチ推奨 というルールができました。
ある日、村人たちは「もし親が亡くなったらどうすればいいのか?」と不安になり、必死に調べ始めました。
「そんじゃーね、それは 法的手続きをちゃんと理解しないと損するよね。」 ひろゆきが冷静に言います。
「とりあえず、大学の講義が無料で学べるサイトで相続の仕組みを調べようぜ!」 ハヤトが言いました。
「それより、退去費用でぼったくられないように対策したほうが良くない?」 西野が声を上げます。
「いや、まずはオルカンに投資して、安定した資産を築くことが先じゃない?」 田端が真剣な顔をします。
結局、村人たちは 大学の無料講義サイトをありがたがりながら、退去費用と相続対策をしつつ、オルカンに投資する という最適解を見つけました。
ある日、村の一人の若者が「引っ越すことになったけど、退去費用でぼったくられそう!」と相談しました。
「そんじゃーね、それは 相手が不動産業者だから信用しないほうがいいよね。」 ひろゆきが言いました。
「n=1だけど、退去費用のトラブルはゼルダの祠攻略みたいに慎重に進めないとね。」 ハヤトがアドバイスしました。
「俺はお前の話を読んでないけど、たぶん交渉でどうにかなると思う。」 西野が適当に言います。
「そんなことより、オルカンに投資しようぜ。」 田端が真剣に言いました。
最終的に、村人は退去費用を最小限に抑え、余ったお金をオルカンに投資する という完璧なプランを立てることができました。
村では「英語を学ぶことが大切だ!」という考えが広まりました。
「英語の勉強方法が好きだから、みんなで オンライン英会話やろうぜ!」 ひろゆきが提案します。
「それより、婚活のほうが大事じゃない?結婚相談所を利用するべきでは?」 西野が主張しました。
「それは違う。俺はお前の話を読んでないけど、それは違うと思う。」 ハヤトが適当に反論します。
「いやいや、まずはオルカン一択で資産を増やしてから結婚するべきだろ?」 田端が正論をぶつけます。
村人たちは「確かに!」と考え、結婚相談所に申し込む人が急増 しました。
村の生活はどんどん快適になっていきました。
LUUPは禁止
英語を学び
そして 婚活する!
さらに、健康のために みんなでストレッチ をする習慣もできました。
「そんじゃーね、ゼルダのティアキンやりながらストレッチして、オルカンに投資して、婚活するのが最強ってことだよね。」 ひろゆきが結論づけました。
「n=1だけど、これは確実に正解。」 ハヤトが納得します。
「まあ、ここまでできるなら、相当努力したよね。」 西野が感慨深げに言いました。
「最終的にオルカンと婚活に行き着くのは必然。」 田端がまとめました。
こうして、村の人々は ティアキンを遊びながらオルカンで資産を増やし、退去費用を抑え、親が亡くなった時の準備をして、婚活しながらストレッチする という最強のライフスタイルを手に入れたのです。
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
「今昔物語」はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。
さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本を舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。
内容は芥川龍之介が翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介が近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるがインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョンが中学高校の図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界の民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分はギリシア神話をはじめとした、運命の皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集は面白い。
ただし、編集の方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。
これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊やキツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。
「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWAが現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇のエピソードの出典の一つもである。
「平家物語」は古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学だから声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語が相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?
日記を読み返すと、「古代の貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海と密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。
ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョンは解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛が大輪田泊を建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎の乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県を旅行したときに、彼の没した古戦場・粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通の住宅街になっていたのに驚いた。
「太平記」についてもついでだから書こう。実家が神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。
それに、歴史書っぽくいろんな中国の古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数の天皇を意図的に混同していたりする(光明天皇が即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇の重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ。
そして、物語だから、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。
なお、各神社仏閣の縁起物語や中国の古典に脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史書からの引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。
ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペの歴史的に興味深い。
前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃんと池澤夏樹の全集で読んだ。
「能・狂言」には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺の対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
現代の第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉で古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。
「説教節」は女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳は伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品で芥川賞候補になっている。
「曾根崎心中」はいとうせいこう訳。ここからは浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪が舞台だし、近松門左衛門の作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代の大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇でプロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米の演劇とはリズムが全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタは時代的な物か。
「女殺油地獄」はひたすらダメな人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学で表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護と言い訳にまみれた情けない悪人の物語だ。翻訳は桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文で説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。
殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門の作品はもっと読みたい。江戸時代に実在の事件をモデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害で解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド的人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。
ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?
「菅原伝授手習鑑」は牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造「武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎の物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供が切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。
翻訳は三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由に創作しているようだ。
もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。
「義経千本桜」はキツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい。
「仮名手本忠臣蔵」は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫が医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本の演劇のストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。
ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ちの物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本が伝統を逸脱しているとか細々説明している。
あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。
好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。
近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断と偏見が自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人のプライベートな空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的な感情にはいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそも、フィクションはそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通に男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまったことが極めて残念である。
おそらく、これも僕のイケメン嫌悪と去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である。
じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず、男性であることを否定的に書く作品や、男性の苦痛を軽視するものに否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。
逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプのポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分がヒゲの永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖や文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。
逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家の属性で評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。
それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わずに孤立している時なのである。そもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?
のっけから申し訳ないのだが、自分は「古事記」を池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹の日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。
自分が最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社の三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式で翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。
さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代の記述も面白い。ヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后の朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像しやすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史の一次資料に(翻刻・翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。
もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれた子供ヒルコの描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。
面白かったので「日本書紀」も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本の神話は理解できない。中世の神仏習合や近代の国学、陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。
ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉が引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである。
「万葉集」は全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分にフォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたときに出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。
「百人一首」は田辺聖子の解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体で説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝の人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線が楽しい。ちなみに、初めて百人一首に出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分の感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。
ところで、王朝文学は世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。
「新々百人一首」は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一はジョイスの翻訳で知ったのだけれど、文章のリズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。
これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではいい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。
「竹取物語」は、幼いころに聞いた物語の原典を知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本のバージョンだと、五人の貴公子の物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。
「伊勢物語」は短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。
だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。
なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間がいつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。
他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。
「堤中納言物語」は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくその祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいものリスト」である「よしなしごと」とか。どうも物語に統一感がなく、どういう意図で編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。
「土佐日記」は小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供にインパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。
「更級日記」はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分の人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。
そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚、子供の誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである。
それにしても、文学少年や文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないものを書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。
ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ。
こういうのは個人のブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境のブログでやってもあまり読者は集まらない。個人のブログを読んでもらうためには、ある程度自分をコンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質の記事を、独自色を伴って、継続的に生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である。
一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である。有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。
なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメン・モテ男に関する個人的な愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学に関係する箇所のみだ。
恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品を批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情を直視したい一方で、人にネガティブなものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである。
それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。
続く。
あまりにも自分と同じ境遇すぎて言及&エントリーしたくなった。勝手に失礼します。
自分は同じく同性と付き合っている宗教3世だ。自分の場合は教団に正式に帰属はしていない(=書類上は「信者」ではない)が、教義などに極端に否定的なわけではなく、宗教コミュニティに友達もお世話になった人もいて今でもたまに会っているという感じ。何より母が(そこまで熱心ではないが)現役信者なので、しばしば雑談で教団の話題になる(だいたい「あの人が異動になった」とかそういう感じのゴシップネタ)。逆に父は無宗教+宗教嫌い+うっすら土着信仰という典型的な日本人なので、そういう話は一切しない。意外に思われるかもしれないが、家族仲はとてもいい。
増田の「宗教3世というアイデンティティは地元もしくは生まれ持ったタグのようなもの」という記述に深く同意する。自分がどう思っていようが、結果的に良くも悪くも自己の構成要素の一つ、(セクシュアリティと同じく)自分の人生の一部分になっている。ただこの感覚は「無宗教」の人には正直理解できないんじゃないかなと思う。だからこそ「脱会すればいいじゃないか!」とか簡単に言えるのだろう(そもそも私は入会すらしてないので脱会しようがないのだが)。
2022年夏以降の宗教2世報道を見る限り、世間では「(新宗教の)宗教n世」について「『マインドコントロール』から解けていない、可哀想な、しかし熱心で危険な現役信者」vs.「晴れて『マインドコントロール』から解けて脱会を果たし、教団に批判的な離教者」という二項対立でしか考えられていないようだと推測される。はっきり言ってそんな解像度でよく宗教右派がどうのこうのとか政治と宗教の関係がとか科学と宗教の対立がとか語れるなと思ってしまう。宗教的アイデンティティのあり方なんて正直星の数だけあってめちゃくちゃグラデーションだってことを、どうやら宗教学が専門のはずの学者すら理解していないように見受けられる。
そんな宗教リテラシーの低い本邦において、個人的には宗教3世をカミングアウトすることのハードルはセクシュアリティのそれより(今となっては)遥かに高く怖いことだ。ほぼ誰にも言ったことがないし、いつか同性の恋人とパートナーシップや(法律変わったら)結婚したいと思ってはいるものの、この己の事情をどう伝えるべきかとてもとても悩んでいる(そして先送りにしている)。
これはやや主語デカ語りだが、同性婚とかに興味がある系の同性愛者ってだいたいリベラルだ。結構ラディカルな左翼も多い。ご多分に漏れず自分も恋人もリベラルである。
で、これがまた厄介なのが、日本のリベラルはめっっっちゃくちゃ宗教が嫌い。正確に言うと「伝統宗教」以外の宗教が嫌いで、そのような「カルト」は保守的で時代錯誤な人権侵害団体で人種/性的/etcマイノリティの敵だ、くらいの認識の人も少なくない(この流れは例の事件以降さらに決定的になったと思う)。
あいつら「すべての差別に反対します」とか言ってるくせに宗教叩きは嬉々としてやっているのだ。そしてその党派性に無自覚である。そういう人には、海外みてみろ特定の信仰を持つ人権派活動家やフェミニストやリベラルがどんだけいるとおもってんだと言いたくなるが。
まあ悪口&脱線はここらへんにして、結局何が言いたいかと言うと、現在付き合っているリベラル恋人からこの前のデートで「両親は毎回なんだかんだ共産党にいれてて自分もそんなかんじ」という発言を引き出してしまった自分は(これ当分言えないな)と遠い目になりました、そんななか増田のエントリーを見つけてあまりにも共感&「やっぱ無宗教の同性愛者からはそういう反応かえってきちゃうのかなぁ...」と暗澹たる気持ちになりました、かといって特にいい策は思いつきませんというだけの話でした。
でも増田とそのお相手がうまくやっていけることをめちゃくちゃ祈ってる。ていうか、日本で性的マイノリティと宗教的マイノリティの重ね合わせって全然観測できなかったからこのエントリー見かけてすごく嬉しかった。自分と似たような境遇の人、やっぱりいたんだ!と思えて心強くなった。書いてくれてありがとうね。