はてなキーワード: 神父とは
そこから「そういや動画系のコンテンツあんま楽しんでないな—」と思いABEMAで映画4本見ました。
たまに漫画。
原作漫画の単行本をスキャンしてそのまま原稿に貼るというとんでもないことをやってのけた漫画が遂にアニメ化。アニメの中でもばっちり原作漫画をそのまま使ってます。異常だろ。知らないオッサンがワンピースの単行本を手に持って開いてる映像が挟まれるワンピース公式二次創作アニメってなんなんだよ。
アニメ版ワンピースのBGMやOPもふんだんに使われていて公式だからこそ出来る豪華さ。凄いよ公式二次創作。非公式の二次創作では絶対に出来ないクオリティで、なんでこれが公式でやって許されているのかわからないことをひたすらやってて凄い。
・恋するワンピース(50話)
・変態仮面
『チ。』最終回を見た。アルベルトの懺悔を聞く司祭はレフ。CVが同じ。告白も符合。この告白はその昔、アントニ司祭の謀略からヨレンタを逃したシモンを見殺しにしたときのことだろう。
ちいさいときのアルベルトは少女時代のヨレンタさんにそっくりだった。外見だけでなく真理を求める強い意志、その代償としての過酷な運命までもが似ている。
アルベルトの入学を受け付けるクラクフ大学職員は晩年のノヴァクに似ている。
ラファウが真理探究に取り憑かれるあまり魂がどこかにいってしまっている。現代の科学倫理の喪失を想起させる。
『チ。』は四部構成で、第一部から第三部まではつながっていた。第四部は前部とつながっているようにも見えるが、明示されることはない。繋がりをしめすものは細部に隠されてしまっている。フベルト、ラファウ、オクジー、バデーニ、ヨレンタ、ドゥラカ、死んでいったみんなの思いは引き継がれたのかどうかは明示されない。幾多の命と引き換えに伝えられたオクジーさんの著作は出版にこぎつけそうな気配になっている。だがほんとうに出版されたかどうかは明示されない。すべてが失われたのか、何かが伝わったのか、具体的なことは何も明示されない。それでも真理をもとめること、考え続ける行為は絶えない。絶えそうになっても息を吹き返す。結論に込められたメッセージは予想ほど明示的で目立つものではなかった。ただ、静かに、しかし確かに、火は消えずに灯り続けているようにも感じられる。
『チ。』の第四部が過去の登場人物たちとのつながりをあえて細部に隠した構成になっているのは、真理の探究が「誰のものか」ではなく、「時代を超えて続く行為そのもの」だからかもしれない。第一部から第三部までは明確にバトンが受け渡されてきたが、第四部ではその継承が曖昧になり、読者に問いを残す形で終わっている。オクジーの著作の出版についても、最後に明示されない。それはおそらく書物という形で世に出るかどうかよりも、その思想や問いかけがどこかの誰かに届き、受け継がれることが重要だという示唆なかもしれない。すべてが失われたかどうかは明言されないけれど「考え続けること」は決して絶えない。明確な結論や劇的なメッセージではなく、静かに問いを残して終わる。それはまさに、作品全体を通して描かれてきた「知の探究」と同じに見える。決して終わることのない、けれど消えることもない営みとしてのフィロソフィア。
いま私たちはデジタルアーカイヴの時代を生きているが、過去の事象を自由に検索し辿れるようになったのはせいぜい10数年のこと。それより昔の記録は意識的に探さないかぎり見つからないし、失われているものも多い。記録が増え始めたのはせいぜい20世紀以降のこと。それ以前の記録は遡るほど失われたものが多くなり、数百年前の史実を復元することは困難だろう。ようするに過去のほとんどは失われている。そのなかを奇跡のように伝わったアーカイヴが細い糸のように時空をつなぐ。ただその背後にあるものは偶然だけではない。記録を後世に伝えよう、記録を共有しあらたな文化を切り拓こうとする人々のときには命懸けの意思が働いている。『チ。』を見終えて感じたのは、伝えることの意味、それ以上に、考え続けることの価値、かもしれない。考え続ければたとえ失われても真理をふたたび見つけ出すことができる。タウマゼイン、アポリア、エウレカ、怪獣、そして蛇。巨人の肩の上に立つと言われる科学がよって立つその巨人の姿は多彩で全貌はほぼ失われてはいるがまちがいなく巨大だと。
ヴァイツゼッカーの言葉は、過去を忘れるものは現代において盲目となる、だったか。
科学も思想も文化も、過去を忘れない。だがその過去は遡れば遡るほどじつはほとんどがすでに失われている。それを掘り返す作業は重要だがそれは真理の探究のすべてではない。なぜなら過去は宗教やイデオローグではなく、ましてや真理ではないからだ。真理は過去にあるわけではない。真理は時空を超えて厳然とある。今のこの時代に、今持てるものを動員し、今と未来を考えろ。『チ。』はそういうふうに私たちを励ましているのかもしれない。
フベルトもラファウもオクジーさんもアルベルトも肉眼で星を見た。だがガリレオは望遠鏡をつかった。現代のわれわれはネットワーク化された電波望遠鏡、ジェームス・ウェッブ望遠鏡も持っている。われわれの次の世代はもっとすごい望遠鏡を持つだろう。そして考え続けるだろう。思い返せばフベルトさんの地動説はラファウ少年が修正する必要があった。ポトツキさんからみればラファウの計算も修正すべきものだった。バデーニさんはそれをさらに修正する必要を認め、ついに石箱の記録の限界を看破した。バデーニさんは惑星の楕円軌道を発見する。ただしそれは現代天文学が導いた楕円軌道と比べると、誤っている。
ようするに知見は更新される。そしてそれこそが科学のほんとうの姿でる。そこにあるのは記録の継承と同時に、考える行為、探究する行為の継承なのかもしれない。『チ。』はけっきょくそのことをわたしたちに伝えているのかもしれない。
ところで、オクジーさんの著作はけっきょくどうなったのだろう。
バデーニさんの傍で、ヨレンタさんから文字の力を伝えられたオクジーさんが著した『地球の運動について』。バデーニさんとクラボフスキさん、名もなき貧民たちが命がけで複製し、のちのヨレンタさんが出版を試み、ドゥラカがその意思を継ぐ。最終話で、かつてのポトツキさんの家にとどいた手紙はドゥラカからのものである可能性が高い。しかし原稿の所在は明かされないまま物語は終わる。ドゥラカはもう死んでいる。結局この本は出版されたのだろうか?
物語の流れを見るかぎり『地球の運動について』が完全に世に出たとは断定できない。しかし知の火は確実に受け継がれていることが示唆されている。ドゥラカがその意志を継いでいる以上、原稿を守る手立ては設定済みで、どこかで誰かが出版の機会を待っている可能性はある。また、現実の歴史においても、抑圧された知識や思想はすぐには広まらなくても、時間をかけて受け継がれ、いずれ世に出ることが多い。『チ。』もその流れを踏襲しており、「たとえ今すぐに形にならなくても、知は未来へとつながる」というメッセージを込めているのかもしれない。仮に、もし本が出版されなかったとしても、アルベルトが名門クラクフ大学の門を敲き、後にコペルニクスが弟子となる。その事実は揺るがない。
最終回はその解釈をめぐり賛否が入り乱れているらしい。わたしにとってはどうでもいいことで、この物語から自分が何を得るか、だけが大切だと考えている。
アルベルトの風貌は、かつて少女ヨレンタを救い逃したシモンにそっくりだし、その少年時代の風貌は少女ヨレンタにそっくりだった。懺悔室でアルベルトの告悔を聞く神父は、ヨレンタを逃した罪で殺されたシモンの同僚、レフに間違いない。レフはかつてシモンを見殺しにした。そうしなければ自分が殺されただろう。その葛藤をかかえながらレフは四半世紀を生きてきた。レフはシモンを彷彿とさせるアルベルトに巡り合ったことで、その葛藤に正面から向き合おうとしはじめる。アルベルトはレフに巡り合ったことで知的好奇心に対する極端な二元論を止揚し、知の世界へふたたび足を踏み入れる。
この物語の賛否をわける大きな要素がラファウの再登場と、最後に見せる殺人という行為らしい。
ラファウとはたぶんこの物語のなかで唯一、人間でないものだと思う。それはおそらく『チ。』そのもの。探究心と好奇心、真理への道のりの象徴なのだろう。ラファウはポーランド語表記に従えば、Rafał。この名はポーランドではありふれたもので、その由来が大天使ラファエルの名であることにそれほどの意味はないかもしれない。ただし大天使ラファエルの役割は「導く者」、ヘブライ語の原義は「神の癒し」。ラファウがこの物語の導き手であることは間違いない。もっともラファウの振る舞いは癒しの語義からはかけはなれている。その存在はむしろ知への渇望と狂気を導くようにすら見える。
たとえばフォン・ブラウンはV2がロンドンに到達した報告を受け満足した。かれはただロケットが好きで、自分のロケットを飛ばせるならナチとでも平気で手を組んだ。弾頭に何が詰まっていようが知ったことではなかった。彼はのちにNASAでアポロ計画を立ち上げるが両者に矛盾はなかった。彼はただ純粋に優れたロケットを開発したかったのであり、彼にとってはICBMも月探査も同じだった。弾頭に何が詰まっていようが知ったことではなかった。彼の目的はロケットであり、ロケットの目的には何の興味もなかった。
『チ。』の登場人物たちもまた真理の探究のためにつぎつぎと命を落としていったが、彼らの行動は必ずしも正義や倫理と結びつくわけではなく、むしろ多くの悲劇を生んでいる。自己目的化した真理の探究はしばしば倫理を超越し人道に背き世界を破壊する。ラファウが導く地平は単純な希望ではない。
結局出版はどうなったのか。
『地球の運動について』は、出版された。それは大きな反響を呼び増刷をかさね総発行部数は数百万部に達した。
ただしその出版は漢の蔡倫が発明した紙とグーテンベルクの印刷機によるものではなく、パルプ紙とDTPオペレーションと高速輪転印刷機によって、15世紀ではなく21世紀になされた。反響は日に日に増幅されついにアニメ化された。四部構成全25話。オクジーさんが著しバデーニさんが複製しヨレンタさんが出版を使命としドゥラカが引き継いだその原稿はついに形をあらわし公開された。このアニメが、そしてその原作こそが、オクジーさんの、フベルトさんの、みんなの思いそのものだ。だいたい、『チ。』の副題が『地球の運動について』。はじめからそう明記してある。
この本はきっと私がしらないいつかの時代にも、連綿と出版され継承されているのかもしれない。過去にも未来にも。それが考える、探究する人間の本質だから。
悪鬼のウイルス。
いやまじで。このタイトルでこんなつまんないことあるんだ? と思うなどしました。
予告とかなにも見ずに気になったタイトル、時間帯の合う映画を映画館にこもって一日中観るということをしていた昨日、最初に観たものが上記タイトルのものとなります。
ちなみに絶対に観ようと思っていたのがセブンIMAX上映で、こちらも色々考えさせられるものだったし、実際のものを見たわけではないのに納得してしまうあの演技、そう、そうあったのならあなたはきっとそうやって取り乱すだろうという懇切丁寧に築かれた信頼を浴びれて最高でした。いやセブンの話をしたいわけじゃない。閑話休題。
わたしは結構本屋を意味もなくウロウロするのが好きで、よく彷徨っている本屋は映像化作品を並べている棚があって、そこでタイトルを見ていた記憶があります。新装版の方ではなく真っ黒な表紙に赤文字でタイトルが書かれているほう。
気になるなあと思っていたから、朝イチ公開で時間が丁度よかったにのもあって観ました。
あの。あのですね。正直な感想は「なにを観たんだ?」です。こんな感想抱くの初めてかもしれない。なにを観たんだわたしは。
途中までは面白かったんですよね。特に撮影した動画様の映像が没入感あって好きでした。画像映えを求めて撮られたものじゃなく、乱雑にあるものを取り敢えず画として残そうとする感じ、生々しささえ覚えました。ああいうものが編集されて、切り取られて、整えられてわたしたちの目に届くんだなあと思うと、へえ、すごい、と思いました。
わたしは画面酔いするタイプの人間ではないので楽しかったのかもしれない。
で、鬼とは? みたいな話のくだりくらいまでは好きでした。大人とは? のあたりとか。
あの環境下でなにもしらないひとたちがそういう行為に勤しむのはまあ、理解できるよなあ、みたいな。
大人と子どもの認識があれだったので、わたしはあの環境は飼育するための箱庭かと思ったんですよね。
性欲を知ってはならない。なぜならそれを知ると他者に腕を伸ばすので。性を捉えられない間、子どもたちは誰からもそういう搾取を受けないけれど、性を知ったらいつかそれは子どもに向くものだと思う。あんな閉鎖された環境なら。だって男性は若い女の子が好きでしょう。
わたしは女であるし、もうとっくのとうに若い女の子でなくなっているからふわっとした認知だけれども。それはほとんど、獣性に近いと思う。まあ本能的には正しいんじゃないかな。わたしたち生物は種の繁栄を望む。そういう本能を持ってる。どれだけ理性的に御そうとしても、無理な時は無理。ああいう閉鎖された空間、声を出しても黙殺できる場所では特に。子どもと大人。制するのは簡単だね。捩じ伏せてしまえる。
だからそういう暗喩なのかなと思った。途中そうかもなって思ってからしか確認してないけど、管理されてる大人側の人間は大半が男性だったようにも見えたし、子どもたちには女の子が多いようにも見えた。男の子もいたようだけど。姿は見えたかな。声は男の子っぽかったね。
だからまあ、そういうものなのかなって。鬼。子どもを害するもの。もしかするとそう至るかもしれない未来。そういう話なのかなと思った。
自分の身を守るために子どもたちが身を寄せ合って、大人を隔離している。新月云々はなんだろうなあと思いつつ、この映画に蔓延ってるものはそういう概念なのかなと思った。子どもたちが反旗を翻す話。大人の魔の手から逃れようとする話。
違った。なんだったんだあれ。途中までは面白かった。まじで。緊張感もまああったし、納得もできた。途中から全部意味わからんくなった。あの神父なに。てか誰。
このタイトルとあの表紙でこんなことある? となった。映画観たあと面白かった! 原作読みたい! じゃない意味で本屋に走ったのは初めてだった。原作を買った。こんなもんじゃないはずだった。絶対に違う。
こんな面白そうなタイトルで、あんなに面白そうな表紙で、こんな、こんなはずない。
ちなみにその日二本目に観る予定の映画はガンダムだった。大体1時間後に上映だった。初代を観たことないのに。TLが楽しそうだったからわたしも話をしてみたかった。ちなみにこれと同じ理由で観たトワイライト・ウォリアーズははちゃめちゃに面白かったです。チケットも買ってある。本屋に行くより昼食をとった方がいい。わかっている。
でもあんなはずないから、あんなものなはずがないから、本屋に行った。映像化コーナーに本はあった。700円程度だった。大体映画代の半分くらいだった。うそ。ハッピーマンデーだったので1100円で観た。でも正直先にこっち読んでたら良かったと思った。気になってたのに。どうして先に読まなかったんだろう、わたし。
積読が多いからです。映画で観て、好きなら読めばいいと思っていました。好きじゃないのに読みました。このタイトルを、この表紙を、こんなに雑に消化して消化した気になってはならないと思ったし、なんらかの改変があってああなったのだと思いたかった。読んだ。積読がいっぱいあるのに、何よりも早くに読んだ。全然違った。わたしが観たかったものがそこにあった。
鬼の存在に納得することができた。そうだよな、と思った。かつて子どもだったわたしは納得したし、今は大人であるわたしも納得した。たった一度、嘘を吐いただけで人生が崩れ落ちる話。その嘘が、保身的なものだったか自己犠牲的なものだったか、大体想像できる気がするけど黙っておくことにする。
ところでわたしはオタクである。しかも文字を書くタイプのオタクで、普通に二次創作をしている。公式さんが甘やかしてくれるのをいいことに、様々な妄想を形にしている。そういうオタクは、わたしの周りにも沢山いるけれど、オタクには様々な種類があると思っている。光のオタクとか闇のオタクとか。よくそういう分別をしているのを見るけれど、わたしはもっと根本的な部分で隔たれていると思っている。
二本目の映画はガンダムだった。重ねて言うが、わたしは初代を知らない。だからシャアがどうのと言われても、アムロがどうと言われても、はて? となる。なんとなく父親が好きだったなあ、とかその程度だ。でも、ガンダムの映画を観て初代も観ようと思った。そういう熱量を浴びた。きっと初代を観たあとにもう一度観たら楽しいんだろう、と思った。
リスペクトがあるってそういうことではないだろうか。ガンダムの映画は壮大なifで、二次創作みたいなものだよ、と聞いた。普通に面白かったし、見ようと思った。きっとこれを作ったひとたちは、この作品が好きなのだろうと思ったし、だからこうして形にしたのだろうと思ったし、好きだと思ったからいつかのわたしはガンダムを観るだろう。
ところがこっちはどうだ。使いたい設定だけを借りてきて、それっぽい形をつくって、名乗るだけ名乗って。リスペクトを感じられなかったのはわたしだけだろか。
わたしがオタクなので、表紙を見たことがあったので、わたしは本屋に救いを求めたが、なんというか、品もなければリスペクトもない二次創作に1100円支払っただけのような心地がして悲しい。
でも原作小説は面白かったです。積読を放置して良かった。本屋に走って良かった。この作品を表面だけ撫でて、知った気になって、嫌わないで良かった。
わたしはなんの話をしているのか。
二次創作にリスペクトは必要不可欠で、作品の良し悪しに関わらずその有無はなんとなくわかるかもしれない、という話だったのかもしれない。
悪鬼のウイルス。
いやまじで。このタイトルでこんなつまんないことあるんだ? と思うなどしました。
予告とかなにも見ずに気になったタイトル、時間帯の合う映画を映画館にこもって一日中観るということをしていた昨日、最初に観たものが上記タイトルのものとなります。
ちなみに絶対に観ようと思っていたのがセブンIMAX上映で、こちらも色々考えさせられるものだったし、実際のものを見たわけではないのに納得してしまうあの演技、そう、そうあったのならあなたはきっとそうやって取り乱すだろうという懇切丁寧に築かれた信頼を浴びれて最高でした。いやセブンの話をしたいわけじゃない。閑話休題。
わたしは結構本屋を意味もなくウロウロするのが好きで、よく彷徨っている本屋は映像化作品を並べている棚があって、そこでタイトルを見ていた記憶があります。新装版の方ではなく真っ黒な表紙に赤文字でタイトルが書かれているほう。
気になるなあと思っていたから、朝イチ公開で時間が丁度よかったにのもあって観ました。
あの。あのですね。正直な感想は「なにを観たんだ?」です。こんな感想抱くの初めてかもしれない。なにを観たんだわたしは。
途中までは面白かったんですよね。特に撮影した動画様の映像が没入感あって好きでした。画像映えを求めて撮られたものじゃなく、乱雑にあるものを取り敢えず画として残そうとする感じ、生々しささえ覚えました。ああいうものが編集されて、切り取られて、整えられてわたしたちの目に届くんだなあと思うと、へえ、すごい、と思いました。
わたしは画面酔いするタイプの人間ではないので楽しかったのかもしれない。
で、鬼とは? みたいな話のくだりくらいまでは好きでした。大人とは? のあたりとか。
あの環境下でなにもしらないひとたちがそういう行為に勤しむのはまあ、理解できるよなあ、みたいな。
大人と子どもの認識があれだったので、わたしはあの環境は飼育するための箱庭かと思ったんですよね。
性欲を知ってはならない。なぜならそれを知ると他者に腕を伸ばすので。性を捉えられない間、子どもたちは誰からもそういう搾取を受けないけれど、性を知ったらいつかそれは子どもに向くものだと思う。あんな閉鎖された環境なら。だって男性は若い女の子が好きでしょう。
わたしは女であるし、もうとっくのとうに若い女の子でなくなっているからふわっとした認知だけれども。それはほとんど、獣性に近いと思う。まあ本能的には正しいんじゃないかな。わたしたち生物は種の繁栄を望む。そういう本能を持ってる。どれだけ理性的に御そうとしても、無理な時は無理。ああいう閉鎖された空間、声を出しても黙殺できる場所では特に。子どもと大人。制するのは簡単だね。捩じ伏せてしまえる。
だからそういう暗喩なのかなと思った。途中そうかもなって思ってからしか確認してないけど、管理されてる大人側の人間は大半が男性だったようにも見えたし、子どもたちには女の子が多いようにも見えた。男の子もいたようだけど。姿は見えたかな。声は男の子っぽかったね。
だからまあ、そういうものなのかなって。鬼。子どもを害するもの。もしかするとそう至るかもしれない未来。そういう話なのかなと思った。
自分の身を守るために子どもたちが身を寄せ合って、大人を隔離している。新月云々はなんだろうなあと思いつつ、この映画に蔓延ってるものはそういう概念なのかなと思った。子どもたちが反旗を翻す話。大人の魔の手から逃れようとする話。
違った。なんだったんだあれ。途中までは面白かった。まじで。緊張感もまああったし、納得もできた。途中から全部意味わからんくなった。あの神父なに。てか誰。
このタイトルとあの表紙でこんなことある? となった。映画観たあと面白かった! 原作読みたい! じゃない意味で本屋に走ったのは初めてだった。原作を買った。こんなもんじゃないはずだった。絶対に違う。
こんな面白そうなタイトルで、あんなに面白そうな表紙で、こんな、こんなはずない。
ちなみにその日二本目に観る予定の映画はガンダムだった。大体1時間後に上映だった。初代を観たことないのに。TLが楽しそうだったからわたしも話をしてみたかった。ちなみにこれと同じ理由で観たトワイライト・ウォリアーズははちゃめちゃに面白かったです。チケットも買ってある。本屋に行くより昼食をとった方がいい。わかっている。
でもあんなはずないから、あんなものなはずがないから、本屋に行った。映像化コーナーに本はあった。700円程度だった。大体映画代の半分くらいだった。うそ。ハッピーマンデーだったので1100円で観た。でも正直先にこっち読んでたら良かったと思った。気になってたのに。どうして先に読まなかったんだろう、わたし。
積読が多いからです。映画で観て、好きなら読めばいいと思っていました。好きじゃないのに読みました。このタイトルを、この表紙を、こんなに雑に消化して消化した気になってはならないと思ったし、なんらかの改変があってああなったのだと思いたかった。読んだ。積読がいっぱいあるのに、何よりも早くに読んだ。全然違った。わたしが観たかったものがそこにあった。
鬼の存在に納得することができた。そうだよな、と思った。かつて子どもだったわたしは納得したし、今は大人であるわたしも納得した。たった一度、嘘を吐いただけで人生が崩れ落ちる話。その嘘が、保身的なものだったか自己犠牲的なものだったか、大体想像できる気がするけど黙っておくことにする。
ところでわたしはオタクである。しかも文字を書くタイプのオタクで、普通に二次創作をしている。公式さんが甘やかしてくれるのをいいことに、様々な妄想を形にしている。そういうオタクは、わたしの周りにも沢山いるけれど、オタクには様々な種類があると思っている。光のオタクとか闇のオタクとか。よくそういう分別をしているのを見るけれど、わたしはもっと根本的な部分で隔たれていると思っている。
二本目の映画はガンダムだった。重ねて言うが、わたしは初代を知らない。だからシャアがどうのと言われても、アムロがどうと言われても、はて? となる。なんとなく父親が好きだったなあ、とかその程度だ。でも、ガンダムの映画を観て初代も観ようと思った。そういう熱量を浴びた。きっと初代を観たあとにもう一度観たら楽しいんだろう、と思った。
リスペクトがあるってそういうことではないだろうか。ガンダムの映画は壮大なifで、二次創作みたいなものだよ、と聞いた。普通に面白かったし、見ようと思った。きっとこれを作ったひとたちは、この作品が好きなのだろうと思ったし、だからこうして形にしたのだろうと思ったし、好きだと思ったからいつかのわたしはガンダムを観るだろう。
ところがこっちはどうだ。使いたい設定だけを借りてきて、それっぽい形をつくって、名乗るだけ名乗って。リスペクトを感じられなかったのはわたしだけだろか。
わたしがオタクなので、表紙を見たことがあったので、わたしは本屋に救いを求めたが、なんというか、品もなければリスペクトもない二次創作に1100円支払っただけのような心地がして悲しい。
でも原作小説は面白かったです。積読を放置して良かった。本屋に走って良かった。この作品を表面だけ撫でて、知った気になって、嫌わないで良かった。
わたしはなんの話をしているのか。
二次創作にリスペクトは必要不可欠で、作品の良し悪しに関わらずその有無はなんとなくわかるかもしれない、という話だったのかもしれない。
記憶で書いてるので抜け誤り多いです
アトランティス戦。キン肉マンといえばこれというぐら仲間内で盛り上がった
ネタや弄りとしてミームになたりオマージュパロディされてるものは他にも多いがこれはほんとの名シーン名演出
あと28個は?
初は初代グレートとの共演だから出来て当然なのか。物理に反しさえすれば
あと27個は?
あと26個は?
ネタになっているが、当時はもちろん検算なんてしていない(100*2*2*3は合ってる)
ただただ熱かった
あと25個は?
違う怪獣だったかもしれないが、ウルトラマンとかのしんみり回みたいなやつ
記憶力が悪く名シーン思い出せないので、初めのほうから辿りだした
あと24個は?
あと23個は?
あと1秒で爆発するミートに角投げて助けたところ
ほんとにもうだめかとおもった。
今思いなおせばその前になんとか他の誰か頑張れとも思ったが
誰も動けないとか(パワーが足りない?)だっけ?
あと22個は?
五重のリングをうまく使った珍しく筋の通ったギミックで、ブロッケンジュニア大勝利(合ってる?)
あと21個は?
どうしても選に入れたかった
多分6騎士だからこっちは7人ぐらい バファ、マウン、ステカセ、カーメン、アトラ、スニゲ、スプリ?
あっちは、阿修羅、ジャンク、ニンジャ、プラネ、スニゲ(スニゲこっちだ)、サンシャインと誰だっけ?
7人にBHで、
あと20個は?
終盤のも溢れたらだめなので思い出ししだい入れておく
おこちゃま参戦は他作品でも(るろ剣とか)あるが、だいたい微妙な結果に終わる
これは真っ向から読者をねじ伏せて説得力も(作内の他の設定に比べたら)ある素晴らしいバトル
あと19個は?
感動シーンも。命を賭してバトルは沢山あるが、バトル以外での描写は少ない。
テリーの腕を手術した回? だった気がする。角で
あと18個は?
始めからあったシーンか、回想でしか出てこなかったシーンだったかは忘れた
なんかすごくほんとにありそうっぽかった(多分あるのだろう)
あと17個は?
モンゴルマンなので。
改めて考えるとよくわからないし、汗かいたぐらいで雨でさびるのもよくわからないがモンゴルマンなので
あと16個は?
ローリングクレイドルだったか、なんせ空へと駆け上っていく表現は痺れた
あと15個は?
仔牛の焼き印押し? テリーは技が地味でこっちはテキサス知識ないから盛り上がるのが難しい。
(自分がプロレス見だしたのがキン肉マンの連載終了5~10年後なのもあるが)
その中でまあまあカッコいい演出の技。
グレートマスク脱ぎ捨てた時ぐらいに出したと思う(それか、バレてもいいやと思ったか素なのか、ブロンコ魂が燃えた時)
あと14個は?
追いつめられると集中力が発揮されるという真実に基づいた素晴らしい演出。
丸太で滝でやってたとき。ちょうど木が切りつくされて……など、ギリギリのタイミング。
ブリッジしてるところ。スパークは壁画にこだわりすぎて機序がわからん技が多い。
アタル版でもこれやるんだっけ?
あと13個は?
ゼブラの? サーフィンみたいにツッコむやつ。こっちのツッコミも捗った。
あと12個は?
黒いペンキ
あと11個は?
それでも一回はおやっと思わなかったり軽く違和感覚えるぐらいで納得させる勢いがすごい
あと10個は?
勢いで言えば、ネプチューンチームのこれも
あと腕が突然鍵になって古墳が鍵穴というのも選には入れなかったがよくわからないが勢いで乗り切った名シーン
あと9個は?
あと8個は?
ソルジャーの華麗な変身(神父)はよく見るが、個人的にはこっちのほうが好き
あと7個は?
逆転さえできればなんでもよいという。
その後腕が多ければより強いという、真理にも到達しかけるがなんだかんだ破ったり破られたりする
あと6個は?
プロレス見てなかったから実況とかの語彙が全然わからなかったが、とにかくすごいことが起きたと感じた
残り少なくなってきたのでちょっと真面目に考えている
あと5個は?
途中休載挟んだりギャグはずっとやってるのに、涙が止まらない回が多かった
あと4個は?
なにより聖衣みたいなの装着し出して、嵐みたいにでっかいコントローラーで操作しだして
適当なコマンドでもないような何かの操作で裏技使うとか、適当がすぎるバトルだった
折り鶴折ったり、地形変えれるシートがあったり
(アイテムを使ってはいるが)能力バトルとしての可能性が凄くあった気がする
基本的に超人は己の肉体(と地形などの環境)で戦うのでこの方向性を多用するわけにはいかないのだろうが
そういえば各超人(そんなにいないか)の改心シーンも名シーンだらけだなぁ
あと3個は?
初期すぎてストーリーとかバトルいい加減だけど、ギャグやってるのにこの残酷さもってくるバランスがすごい
あと2個は?
やっぱりこれ以上のシーンは無い。
あの時のスクリュードライバーがバッファローマンの心臓をとらえていたら
あとひとつは?
かっこいい。なんかマフィアとかが言ってそう。一度でいいから言ってみたいセリフランキングに載ってそう。なんか復讐の時とかに使いそう。
トルーマン・カポーティの『冷血』を意識して執筆されており、西口彰事件を題材にしたノンフィクション物。タイトルの『復讐するは我にあり』は新約聖書に出てくる言葉の一部で「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」から引用されている。
神様が後で報復するんだから、信者達はたとえ憎い相手だとしても善い事してあげなよ〜。それができた時点でお前は善い事をして悪に打ち勝てる奴になるんだぞ〜。の意
『復讐するは我にあり!俺が貴様を絶対にぶっ⚪︎してやる!!』
単語としての意味なら合ってる。でもお前は主ではない。主が怒ってるならいい。
怒りに身を任せた奴は怒りによって身を滅ぼすって話をしてる。悪に構わず善行をし、善行の乗り物で悪を乗り越えててください。
『復讐するは我にあり、っていうもんなぁ…俺も悪かったよな…反省しなきゃ』
自己反省の言葉じゃないです。主も『神の怒りってあんま奮いすぎても良くないよなぁ…もう!このダメ神!』とか思ってません。主がちゃんと『いや、悪人を裁くのは俺の担当だから』って言ってくださってるだけです。
お前は主ではない。
反省するべきことを反省するのは大事だが、やり過ぎも良くないです。善行しましょう。
『昨日の夜やってた“復讐するは我にあり”って映画見た?アレ、実際にあった事件なんだって!』
元々が作品名の流行から知ったものなのならば、やはり作品として扱う方が安直です。
下手にタイトルの言葉を表面だけ読み取って使うのは恥を掻く可能性がある。これはどの作品にも言えること。
作品の内容的にはキリスト教信者の詐欺などもやってきた大量殺人犯が日本全国を逃亡した挙句にキリスト教の神父を騙そうとして近付いた時にその娘に正体がバレて捕まり死刑になるという話。現実の事件のことでもあり、その奇妙な事件の顛末が話題にもなった。
『ローマ人への手紙でも言われております、主は言いました。復讐するのは私が行う、私が報復します。と、我々は慎み深く善行を行なっていき、それを以て悪意に打ち勝つのです。』
『でも俺、アイツのことぶっ飛ばしてえよ!』
『あなたは信徒ではないのですか?主の言葉が聞けないのはとても悲しいことですよ』
『あなたは善行で彼等を超越なさい。大丈夫です、今踏み止まれたあなたならきっと乗り越えられるから』
世の中の物事的に報復にはちゃんと報復で返されるし、だからこそしっかりと報復されない形にしなければいけない。
だがそれが別のどうしようもないものなら…?土砂崩れが起きて住んでる家ごと飲み込まれるとか、火つけが好きな人間がたまたまそいつの家の周りで火を付けたのなら?
そいつの愚かな行動が原因でそいつが勝手に堕ちていったのなら?
とはいえ、復讐というのは生き物が考える自分勝手な行動、現代では『そんなに解消したきゃ、解消すりゃいい』の精神が根付いてはいる。
善人ばかりの日本人なら勝手に自己反省してくれるが、遠くアメリカの大地では今でも流行りのヒップホップのビートに乗せて報復の連鎖の連鎖が起きて、若い黒人達が死んでいる。
だからこそ、主が言った『それ俺の担当だから、後でちゃんとやっとくから』には意味がある。後でちゃんとやってくれるから今日も苦しくても悲しくても笑って愛して喜びを分かち合いながら善行を積んでいく。
悪人は勝手にどこかで堕ちる。その哀れな光景を支援の立場で憐れみながら眺めたいというのならば、やはり善行は積むべきなのだ。
その後に主が裁いてくださるというのだから。
まずは完結おつかれさまでした。
今回はロールが広く、指導者が本当のリーダーシップを発揮しないといけない構造なのが面白さでもあり難しさでもありました。
偽王rnojajaには3人のブレインがついていたため、本人のカリスマがあったため良かったのですが、
真の王Limeは初動落ちでスタートダッシュに失敗した不運を含めて、周囲の協力が得られずに決戦の場で動員に失敗したのが厳しかったように見えました。
反逆の王ウマヅラハギに関しては、過去にDr.ヴェノムが「ウマは頭が悪い」と言っていた悪い部分が存分に出てしまったのかなという感じでした。
リーダーシップ、主体性、物事の進行と何もかもうまく進められて無いようで、何より陣営としての取れ高がほとんど取れていないようでした。
蛮族の王GOD_koutanは途中迷走もしましたが、太陽教から王冠を授けられたシーンは極めて良かったです。
太陽教はなっしー神父が教会を中心に活躍して良かったと思います。
冒険者はゲーム目的を達成して上手い立ち回りを見せていました。
遊牧民は残念ながら導入から結末まで物語に上手く絡めず、見せ場もなかったのが残念です。
個人的名場面は乞食の親友dendenが偽王の盗聴に成功し「えらいこっちゃ」と叫んでいたシーンでした。編集も上手かった。
参加勢同士で尊重されない人(ウマヅラ、Lime、かっちゃん)が重要な役職に配置されたとき、50人クラフトは上手く機能しなさそうな気配があるからです。
そこら辺の加減ができないと、また焼き直しになりそうな気がしました。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
名古屋のライブ会場の少なさや、愛知県と名古屋市の関係性がイベントに与える影響が話題に。
京都や岐阜羽島を通過する様子、ライブでのペンライトの楽しさやファン交流について語られた。
名古屋の「ちゃん系」ラーメンや海鮮丼についての話が続き、美味しい食事の体験が共有された。
港町の寒さや防寒具の準備、高齢者の入浴時のヒートショックの危険性が議論に。
ルーブル美術館やヴェルサイユ宮殿の訪問計画についても意見が交わされた。
東京での物価上昇や食料品の高騰について議論。特にトマトの価格に言及。
韓国の戒厳令や大統領の話題、米軍基地問題、技能実習生制度の課題についての議論が活発。
賃貸物件の内見や新居の引っ越し費用、収納やリフォームのアイデアが話題に。
プラスチックストローやレジ袋の有料化と環境問題への対策が議論された。
米津玄師の主題歌や教会の讃美歌、神父の話に関する文化的な感想が交わされた。
全体として、参加者は食べ物、旅行、ライブ、政治、日常生活、健康、投資など多岐にわたるテーマについて活発に意見交換を行いました。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
間違った読み方であろうことは認める。
でもさあ
自分はさあ
頑張った順に報われるのが見たいわけ。ある程度は。フィクションの中では。
似たような手段の篭絡にしたって色欲の魔王の方がよっぽどわが身を掛けて飛び込んで勝負したじゃん。
(まあ魔王達も完全にやられても地獄に戻って再生するだけのクソなんだけどさ)
ろくな積極性もなく、恐怖に耐えて勝負したこともなく、何かを賭けて打って出たこともなく、
肝心な場面でも”待ち”を選んだ結果ポッと出の色欲の魔王に出し抜かれたイムリが
なにこの漁夫の利?
完全に選択を間違えて消極策を選んだことにすらなんのペナルティも無くて
色欲がズタボロになりながら作った成果を自分は無傷でもらっちゃってるわけ。
唐突にチート能力に目覚めて魔王と対等以上にわたり合いだしたり
もう見ていてひたすら不快になるしどうしてもイムリのことが好きになれない。
ていうかなんなのこいつ?
一つしかない命を懸けてズタボロになって死んでいく人間の戦士たち、
一つしかない命を懸けて得体のしれない何かに身を投じている元人間の魔女たち、
何回でも復活できるズルだけど一応真剣勝負をしに来てる魔王たち、
ゼロ年代のインターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語版ウィキペディアで、ウクライナに関する有益な記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。
しかし、Alex Kさんはウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナの歴史上の人物や、都市や、教会についての記事を執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事を修正しようとした。それが問題のはじまりだった。
話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由にキリスト教を布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師を日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書が必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自の日本語版聖書を作った。正教会の宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめしい文体の日本語訳聖書を作った。カトリックやプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会の聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会の聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。
正教会 | カトリック |
---|---|
主教 | 司教 |
顕栄 | 変容 |
生神女 | 聖母 |
至聖三者 | 三位一体 |
イイスス・ハリストス | イエス・キリスト |
これがいいか悪いかは、その人の価値観によるだろう。他の教会と共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自の伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利は日本人の正教徒にしかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。
このようにキリスト教各派が使っている用語がバラバラなので、日本語版ウィキペディアでは、「各派の独自用語を尊重する」というデファクトスタンダードが確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自の呼称である「教皇」が採用された。カトリックの教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。
ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別は存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自の用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。
このような反論にAlex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ、投票に参加しなかったにもかかわらず勝手に記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさんは日本語版ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。
Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会の立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会はロシア正教会の一部なのである。
それの何が問題なのだろうか。日本のカトリック教会は、全世界の信徒を統べるカトリック教会の地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会がロシア正教会の支部であって何か問題があるのか? カトリックと正教会の組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界の組織がピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだ(コンスタンティノポリスの全地総主教はあくまで同輩中の首席にすぎない)。
正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会やブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自の組織が存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的に日本人の信徒や神品(聖職者)で決めているが、教会トップはモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省の統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会はロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジアに独立教会がない。中国正教会もロシア正教会の傘下だし、韓国や香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。
つまり、ウクライナ民族主義者であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会を尊重せよ」というのは、「ロシア正教会を尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会とカトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリックと差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会が存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたことから、ウクライナ民族主義の核になっている)。
しかしAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会は日本人によって運営されている教会だ、という点である。確かに教会の設立はロシア人によるものだし、ある時期まではトップがロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒は自分たちで教会組織を運営するようになり、ここ半世紀は教会のトップも日本人が務めている。しかも、日露戦争やロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話である。ロシア正教会が気に食わないというウクライナ人の気持ちは理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。
ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人のあいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロ・コロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会の用語法を意図的に無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会の管轄地である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイートを公然としている。まあ、こういうツイートでウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教の精神的双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。
(そもそも、ウクライナ正教会が日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒は基本的に日本正教会の聖堂に通うべきだからだ。とはいえ、移民が移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本に支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会が独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワの許可が必要なんだ?」と嘯いたそうだ)
さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本の総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教は日本正教会の自治権を認めておらず、韓国に派遣したギリシャ人の神品を日本の正教会のトップに任命しているのだ。彼は韓国の正教会のトップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情は理解できる。だがそこでも、日本正教会が日本人の運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人の神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人が日本の正教会のトップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?
ロシアのウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンとプーチンを盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教は腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本の教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人、特にウクライナ正教会の関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会の信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統は尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。
ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。
На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].
この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナルの記述である。
Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».
Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的な解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに「第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者の勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界の言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法はモスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<