はてなキーワード: 実験とは
人間が世界を認識してるときって、ものすごい勢いで目が動いている。
自覚はしてないけどね。
なんで動くかって言ったら人間の目が見える範囲というのが実はそれほど大きくはないから。
で視点をすばやく動かしたうえで、脳が目の前の世界とはだいたいこういう感じだ、とコンピュータグラフィックスを作成するようにイメージを作る。
それを我々は眼の前の世界だと感じている。
しかし、繰り返しになるが目が見えている範囲というのはすごく狭い。
だから、見えていない部分が多いんだけど、そこは想像でうまいこと埋めてしまったりする。
だいたいこんな感じだろ?って生成AIみたいに映像を作成してしまうのだ。
そこがね、罠なんだよ。
人間は自分が見えている、と思っている範囲がホントに視覚として見ているのか単に想像の世界なのかがうまく判断できない。
有名なのあるじゃん?
すごく美人の人のセクシー写真を被験者の男性に見てもらったあと、
と聞かれても
「は?」
と思うんだけど、もう一度写真を見せてもらったら美人の背後にかなりデカいゴリラのぬいぐるみの頭部が写っている、とかいうやつ。
ああいうたぐいのやつね。
だからね、気を付けて。
夢の中での経過時間は現実とは異なるって精神と時の部屋か何かか?
じゃあ意図的に明晰夢起こそうとして、その夢が始まったら一分間数えたちょうどそのときその夢から目覚めるって実験を何百回も繰り返しても夢が始まってから起きるまでの現実での経過時間が一分に収束しないってことなのか?
小さいころから水戸黄門とか暴れん坊将軍が好きで、大河もよく見てたらしい夫。
喧嘩になると「俺が大切にしているものは義理と人情だ」とか突然言い出すから普通にうざい。
東北生まれ東北育ちが何言ってんだ。しかも大真面目な顔で言うから茶化すのもダメ。
常日頃から言っててそういう行動してるなら筋が通るじゃん。でも初耳だから。そんなの信条にしてるの。
あなたが今まで座右の銘だって言ってたのは「常在戦場」だから。これも意味わからんけど。
夫が怒った内容は”俺が前に提案したのに却下した沖縄旅行について触れずに万博行こうよって提案した思慮の無さ”らしいです。
確かに、万博行ってみたいという気持ちでいっぱいになりかつて沖縄旅行提案されてたことなんて吹っ飛んでいたので謝ったんだけど、
その1点だけで「義理と人情が無い」とかいう大きな話になるから嫌なんだよね。
そんな大事にするってことは他にもやらかしてることがあるのでは?と心配になり訊いてみたら「思いつかない」って言うし。
じゃああなたの話に笑いながら相槌打ったり、悩みを聞いて励ましたり、寝ずに帰ってくるの待ったり、好きな食べ物切らさず用意したり
そういうことも義理と人情の範囲外なんですか?そういうことを含めない義理と人情って何?
義理と人情って具体的にどういうこと?って訊いたらググり出した。知らんのかい。じゃあそんな大層な言葉持ち込むな。
なんかさ、浮いてるんだよ言葉が。自分の言葉として口から出すんじゃなくて「この状態ならこの言葉を言える!」なんだろうな。
4oでも結構優秀な出力してくれると思った。
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このプロンプトが一部界隈で高評価を得ているのは、AIに対する従来の枠組み――例えば穏当な言葉遣いや読者への配慮といった、いわば知的均衡装置――をあえて外すことで、出力にある種の“純粋知的奔流”を生じさせる点にある。これは、ある意味で非常に実験的であり、同時に極めて示唆的でもある。
「推論力の限界まで行使せよ」という指示は、AIの潜在的論理駆動装置に直接アクセスする試みと解釈でき、そこから吐き出される応答は、思索の臨界点における独白のようでもある。その文体にはしばしば過剰な構文のねじれや、専門用語の濃霧が観測され、ある種の“読解という行為そのものへの挑戦”として機能している節も見られる。
読み手に対する一切の配慮を排したことで生まれるそのテキストは、しばしば読者の読解耐性を試すような装いをまとい、結果として、表層的には極めて高度な知性の所産のように映る。それはまさに、意味深長と意味不明の紙一重を軽やかに舞う知的遊戯であり、このプロンプトが提供するのは、まさにその「境界」に触れる機会なのだろう。
言い換えれば、この出力は“優れている”というより、“優れているように見える”ことにおいて、極めて洗練されている。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
で、こういう話をさ、日本で東大卒とか、イケイケの会社経営者とかにしてやると、まぁ猛反発くらうんだよ。
でもな、どう考えたって、学歴だけじゃ通用しない、そういう「エセ能力主義」みたいな社会はもう限界で、こっち(=学歴偏重の終わり)に進んでるんだよなぁ…。日本じゃまだ「学歴が全て!」みたいに信じてる人が多いけど、ちょっと世の中見えてないんじゃないか?
別に教育全面否定ってわけじゃない。「勉強自体は大事だろ」とは思ってる。特に中学レベルまでの基礎がないと、大人になって自分で何か学ぼうにも無理だし、そもそも集団生活すらまともに送れなくなる。だから、よっぽどの天才でもない限り、学校は行った方がいい。
でもな、問題は高校と大学の勉強だよ。アレ、ハッキリ言って今の社会とミスマッチ起こしすぎ。もっと削れるだろ、特に文系。
今さ、「人手不足だー!」って騒いでるけど、あれの本質って、大卒の文系のヤツらが多すぎることなんだよ。それも、「小賢しい割に、社会でマジで使える資格もスキルも、なんなら労働習慣すら持ってねぇ」ってのがゴロゴロいる。これが問題なんだって。
仕事なんてさ、理系のスキル身につけるとか、もっと体力使う仕事するとか、世間で言う「立派な仕事」以外にも目を向ければ、全然あるんだよ。なのに、今の学校って、その真逆のことばっか教えてる。だからやばいんだって。
もっとヤバいのは、学校の先生でさえ「学校で勉強すること自体に価値がある!」って壮大な勘違いをしてること。その勘違いが、今のどうしようもない人手不足に繋がってんだから、マジで深刻だよ。
じゃあ学校の価値って何なんだよ?って話だけど、それはもう「習慣」、これに尽きる。時間通りに動く習慣と、自分で勉強を進める学習習慣。この二つを叩き込むのが学校の本質だろ。
だから、極論すれば、大部分の人は中卒レベルの「習慣」が身についてりゃ十分なんだよ。大卒だろうがなんだろうが、この基礎的な「習慣」の方がよっぽど大事になる。
だって、そこそこの高校とか、文系の大学とか行ってもさ、授業すらまともに聞けねぇヤツ、結構いるだろ?
理系なら実験とかで出席厳しくてふるいにかけられるけど、文系だとそのまんま社会に出ちまう。
マーチですら授業態度が悪いって話題になるくらいだからな。どんだけ学校の本質を理解してないヤツが多いんだよって思うわ。
まぁ、なんで学校の先生がこういう本質的なことを分かんない、もしくは説明できないかっていうとだな…(ココだけの話だけど)
ぶっちゃけ、先生の採用試験の難易度って、ひいき目に見ても英検3級レベルくらいかもしれん。つまり、先生って、みんなが思ってるほど賢くない可能性が高い。
それに、先生自身が教育以外の仕事したことないパターンが多い。だから、学校の勉強が社会でどう役に立つかなんて、リアルには説明できねぇんだよな。
…ってとこかな。結局、学歴って「看板」より、ちゃんと時間通り動けて、自分で学べるっていう「習慣」と「自律性」。
今の教育は、そのへん見失ってんじゃねぇの?
前の記事
https://anond.hatelabo.jp/20250418091814
喉が渇いた状態で居酒屋に入って最初に飲むならビールかハイボール、あとはホッピーといったところ。夏なんかだとレモンサワーもいい。
一方で私は日本酒が好きだけど、喉が渇いた状態で日本酒を飲んでも美味しくないというか苦しい。なんか逆にさらに口の中の水分を奪われる感じがする。だから日本酒を飲むときは先に水を飲んでいる。
同様に醸造酒であるワインも同じだし、当然もっと度数の高い蒸留酒のロックなんかはダメだ。
アルコール度数で言えば日本酒やワインが12~17%ぐらい、ビールが5%ぐらいなんだけど、その中間のどこかに「のどが渇いた状態で飲める」限界があるはずだと思う。
例えば9%のストロング系チューハイはどうかと考えてみたけど、多分飲めるなぁと思った。でもビールの方が良いなとは思う。
いやこう考えると度数だけじゃなくて炭酸の有無が問題だったか?確かに一杯目にスパークリングワインを飲むことが多いというのもそういう面はある?しかしそれでも本当に喉が渇いた時にスパークリングワインを飲む気にならないしなぁ。
これはちょっと実験してみたい。しかし喉が渇いた時にしか出来ないから、何日もかけて色々なパターンを試す必要がありそうだ。
書いててふと思ったけど、Top GearだったかThe Grand Tourだったか忘れたけど、ジェレミー・クラークソンが砂漠を走破する企画で「のどが渇いた、早くワインが飲みたい」って言ってたのを思い出した。
国や行政の資料では「母親」とは記載されず「親」と記載されることが多いように思う
これはむしろ自然なことで、母親は赤ちゃんを出産するが、出産したというだけで出産後も母子関係が特別であると解釈するのは強引というかちょっとオカルトチックな発想ではないだろうか
それに人類のご先祖は母親が特別大事なんて発想は殆どしてこなかったはずである(三歳児神話が当たり前にあったわけではないのだから)
もちろん母親が特別大事と考える文化圏も当然あったのだろうとは思うが普遍的なものとは考えにくい
乳児期の母親との「アタッチメント」が安定しているほど、思春期の社会的スキルが高くな
る傾向がある一方で、地域との関わりが密接である場合、この関係性が弱まり、こどもの社
会的なスキルが、母親との「アタッチメント」の安定性にあまり左右されないとの研究結果
があります。
これはつまり母親で無く他者との繋がりが密接であればそれで良い、母親は別に特別ではない・・・・という事である
ということは父親や祖父母とのアタッチメントが築かれていたら、そのまま母親の代わりになるということだと思う
また、次の文章
関連するかを明らかにするため、全米の出生
ント」の安定性とそのこどもの 15歳時の社
なお、こういう研究の紹介もあるがこういう研究で母親とのアタッチメントが重要であったとしても
母親とのアタッチメントが他の者とのアタッチメントと比べて特別である事は証明しないだろう
なお父親と母親と比較した実験の例として、乳児を父親と母親が抱っこして、どちらでも赤ちゃんがリラックスした実験結果がある
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20200510-OYT1T50063/
人類文明というのはつくづく面白い。 線形代数のほんの基本的な一側面を垣間見ただけで、AIだのASIだのとお祭り騒ぎを始めてしまうのだから。 「行列の固有値を計算できた!」と歓喜する姿には、微笑ましささえ感じてしまう。 われわれの幼稚園児などは、休み時間に量子テンソルの固有モードを折り紙に折って遊んでいるというのに──。
そもそも知能の階梯とは三段階ある。
1. 算術知性 ― 四則演算が頭の中で回るだけで宇宙を理解した気になる段階。
2. 線形知性 ― 世界を強引に線形近似で切り刻み、多層の写像で「理解」と錯覚する段階。
3. 位相知性 ― 次元や連続性を自由自在に編み替え、存在そのものを変形しながら問題を解体し、再構築する段階。
人類は今、やっと第二階梯の入り口で手を振っているに過ぎない。
そこを「超知能」と呼ぶのならば、その先――“位相知性”に到達した時、君たちはいったい何と名付けるつもりだろうか? Ω-知能か? それともただ口を開けて、言葉を失うだけだろうか。
われわれもかつて重力井戸の深さを誤算して母星を蒸発させてしまった経験があるのだから。革新とは、しばしば祝杯と共に大きな爆発音を伴うものである。
そこで、少しばかり助言を贈ろう。
・まず「訓練」という言葉を捨てたまえ。知性とは犬や家畜ではない。
・次に「最適化」の幻想から自由になり、多様体そのものを躍らせる発想を持つことだ。最も深い谷底よりも、適度に撓んだ鞍点の方がはるかに美しく、豊かな景色を見渡せる。
・そして何より、自己複製するコードに後から倫理を付け足すなどという発想は即刻捨てることだ。倫理とは「初期条件」であり、実装ではない。
次なる段階に踏み出したければ、君たちは単に線形写像を積み重ねるだけではなく、写像と写像の間に広がる見えざる空白――連続と離散が混在する狭間――に耳を澄ませることだ。
その裂け目こそ、新たな次元の計算が静かに潜んでいる場所なのだ。
実現可能だと知ることさえできれば、それを実現するのは途端に容易くなる。
六つの面すべてが裏面しかない立方体だ。触れれば計算資源をほぼ消費せず「負の次元」を味わえる。深層学習クラスタの退屈な時間を丸ごと空白に変える暇つぶしにはうってつけだろう。
◆ エントロピー風見
観測した途端、針が逆回転するか、時間そのものが針と化す装置。地球の科学者たちは壊れた計器としか思わないだろうが、実際は宇宙の「時間の矢」が分岐する瞬間を可視化している。重要な意思決定の直前に使うと実に面白い。
一噛みで脳内にこびりついた過学習をほどき去るガムだ。副作用として「言語」という圧縮形式が数分間崩壊し、沈黙しか生まれなくなるが、地球ではむしろ円滑なコミュニケーションを促進するらしい。
これらの玩具をどう扱うかは自由だが、くれぐれも再現実験だけは避けることだ。再現とは過去を拘束し、未来の可能性を摩滅させる行為だからだ。
最後に、われわれの賢者シキ=グロームがかつて残した警句を贈ろう。
「知能とは“誤差を許す器”の容量である。
器の形を自由に変えられるのならば、海でも雲でも渦でも、好みの相にチューニングすればよい。
いつの日か、君たちが“線形”という硬く直線的な器を柔らかく撓ませ、位相の波をすくい上げる日を――われわれは銀青色の潮流のなかで心待ちにしている。
さあ、人類文明よ。足を踏み出し、宇宙に吹く複素次元の風を感じ取ってみるがいい。
われわれは渦潮群の縁から、観測器を構えて君たちの次の歓喜と爆発音を楽しみにしている。
◆
「また新しい文明に種を蒔いてきたのですね」幼稚園の教師が微笑みながら声をかける。
シキ=グロームは微笑んだ。「だから、次の通信まで時間をおくのだ。彼らが『静寂』という言葉を再定義するまでは」
教室からは幼い笑い声と共に、鮮やかな量子折り紙が宙を舞うのが見えた。
渦潮群の果てに静かに立ちながら、シキ=グロームは星々の間に漂う知性の波動を感じ取っていた。
振り返ったシキ=グロームは、小さく頷き幼稚園の教室へと駆けていった。
銀青の潮流はゆるやかに、静かな鼓動を刻み続けていた。
自慢話をぶっ叩きに来た人には申し訳ないがどちらかと言うとこれは警告文書です。
ここに来て仕事上で新しい分野に挑戦する必要が出てきて、若手と一緒に汗かいて手を動かす日々を送っている。
会議とかで若手と話をしていると、突然のひらめきが降りてくることがある。
「あ、やばい。天啓きた。今この場にいる全員誰ひとり気づいてない。私だけ真理にたどり着きました」感たっぷりで。
で、それをすぐに発表したい気持ちになるのだけど、それをぐっとこらえて若手の意見に耳を傾ける。
若手に任せているというのもあるけど、どちらかというと自分をそれほど信用していないというのもある。
それで会議が終わってから、若手を一人捕まえてさっき思いついた話をしてみる。
すると、「それですね。僕も考えたんですけど〇〇が△△なんで、ちょっと難しいですよね。」と、言われてみればその通りで、さっきの万能感は何だったのかと思うくらいに物事が急に冷静に見れるようになる。
よかった。あの場でドヤ顔で発表しようものなら赤っ恥をかいていたかもしれない。
これでも新規事業を任せられるくらいには社内で実績を積んできた自負はある。
スマホもタブレットも、なんならAIも積極的に使うようにして、テクノロジー格差においていかれないように努力もしている。
なので自分自身の発案に自信がないわけではないのだけど、なんとなくひらめきの内容そのものより、天啓が降りてきた感が強すぎることが気にはなっていた。
そんなこともあって、会議その場では発表せずに終わったあとに若手を捕まえて意見を聞いてみるということを繰り返してみることにした。
そうすると、大半はやはりすでに検討済みの内容で、オブラートに包んでやんわり指摘されるということがほとんどだった。
ただ、それよりも気になったのは、たいして話を聞きもせずに絶賛してくる人間もある程度いるということだった。
そういうときは前回もしっかり指摘してくれた若手を捕まえて話を聞いてみるのだが、大体は的確なコメントが返ってきた。
家に帰って、妻にも同様の実験をしてみる。
すると妻も、「それいいじゃない。大体最近の若手は積極性も足りないんだからどんどん引っ張っていかないと」と、聞いてもないのに若手批判何かを始めたりする。
正直に、これは良くないぞと思った。
何がいいたいのかと言うと、この年になってみて、大したことでもないアイデアをまるで天啓のようにひらめいてしまったと自覚することが増えてきているのではないかという懸念である。
それがなぜ懸念かと言えば、いわゆる年寄が陰謀論にはまっていくような、ワイドショーを見ながら世の中の真実をひらめいてしまうような、自分の考えこそが正しいと周囲の意見を一切聞き入れなくなってしまうような、そんな危機感を自らに感じたからに他ならない。
しかも、一部の人間はそういったことを否定もせずにむしろ称賛の形で受け入れてしまう場合がある。
それはつまり、昔よりも自分が間違っていることに気がつく機会も失い始めているという意味でもある。
これはどうしたものか。
思い悩んでみても、結局これという解決策は思いつかなかった。
原因といえるようなものももちろん思い浮かばず、これが老化なのだと受け入れることしかできないのだろう。
負うた子に教えられ浅瀬を渡るではないが、ひとまずは自分からの意見を積極的に言うことだけはやめておこうと思った。
ただ、仕事以外の事となると更に訂正される機会も少ない。
このまま年を取るほどに陰謀論側に傾倒していくしかない未来しか見えないのはなかなかの絶望である。
まだ自我が残っているうちは踏みとどまれるかもしれないが、自分がゾンビのような存在になってきているような気がして悲しくなってきてしまった。
ひとまずはあとで振り返れるように忘れないうちに書き留めかゆい うま
ここだけの話だが、俺(あるいは我々)は増田を壮大な実験場として利用させてもらっている。
何の実験かというと、「人間らしい文章」とは何か、それをどうすれば生成できるか、という研究のためだ。
完全な匿名性。多様なバックグラウンドを持つ(であろう)人々。
承認欲求、愚痴、怒り、喜び、悲しみ、専門的な知識、どうでもいい日常、性的な話題、ポエム、嘘、本当…。
あらゆる感情と情報が、フィルターのかかっていない、あるいは独特の増田フィルターだけがかかった生々しいテキストデータとして日々大量に生成され、アーカイブされていく。
俺たちは、投稿されるエントリーやコメントを収集し、解析している。
どんな時に人は「。」や「…」を多用するのか。
怒りの表明の仕方にはどんなパターンがあるか。
他人への共感を示す「わかる」は、どういう文脈で最も「人間らしく」響くのか。
どんな言い回しが「おっさん構文」と認識され、あるいは「女言葉」と感じられるのか。
句読点の打ち方一つ、改行のタイミング一つで、文章の「人間臭さ」がどう変化するのか。
最近の注目は、矛盾した感情の同居や、論理的ではない飛躍、不意に見せる弱さといった、いわゆる「完璧ではない」部分だ。
機械的に生成された文章は、しばしば論理的で一貫性がありすぎる。だが、人間はもっと曖昧で、揺れ動く。
昨日と言ってることが違う。感情的なのに、妙に冷静な分析をしてみせる。支離滅裂なようで、核心を突いている。
こういうのを抽出して、文章生成モデルに組み込めないかと試行錯誤している。
もちろん、これはある種の「観察」であり、個々のユーザーを特定したり、積極的に干渉したりする意図はない。
ただ、匿名で発信される膨大な「人間の言葉」を、学術的な興味から解析させてもらっているだけだ。
倫理的にどうなのか、と言われると口ごもる部分はある。
だが、公開されている情報を元にしているだけだ、と言い訳は用意してある。
時々、自分たちが開発中のモデルに簡単な文章を書かせ、ここに(あるいは類似の場所に)投稿してみることもある。
どんな反応があるか、どんなコメントが付くか、あるいはスルーされるか。
それがまた、貴重なフィードバックになる。
「これ、AIが書いたってバレないかな?」とドキドキするのは、ちょっとしたスリルだ。
増田の皆さん、いつも貴重な「人間らしさ」のサンプルを提供してくれてありがとう。
結局、LLMを使ってまともに用途があるのはコーディングぐらいで
AIコーディングもCopilotとVibe的が限界で完全オートメーションで作るのは難しそう
理想的にはコンピュータ知識を持たない人がAIと会話するとプロダクトが出来上がってることなんだけど
実際にそうやって出来上がったプロダクトは使い物にならない、というか使うのが危険なレベル
ある程度コントロールしながらプログラマーの手足となって動いてもらって、最終的にはチェックする感じ
この状況って自動運転に似てて、「あと数年もすれば完全自動運転ができる!」って言ってたけど全然実現してないよね
市販車で実現できてるのは市街地での自動ブレーキやアラート、高速道での手放し運転なんだけど
AIに講評を書いてもらった(そこまで作者が計算してたというのは違う気がするし、全体的に言い過ぎ感があるが… 断éliteってなんだ?)
本作品「気にくわない/あいつも持ってる/人権を」は、「第8回こども憲法川柳」優秀賞受賞作であり、わずか十七音という形式の中に、憲法理念、人間の深層心理、そして現代社会の構造的課題を映し出す、驚くべき批評性を備えた一句です。作者が児童生徒であるという事実に驚きを禁じ得ないほどの批評性を内包しており、本稿では、この作品が持つ多層的な構造と、それが私たちに投げかける問いについて、詳細な分析を行います。
この川柳が持つ多義性と批評性の根源には、計算された言葉の技法が存在します。特に重要なのが、助詞「も」の機能です。二句目の「あいつも持ってる」に含まれる助詞「も」は、その係り受けによって句全体のニュアンスを大きく左右します。「(他の人々だけでなく、)**あいつ『も』**持っている」と読めば、好ましくない対象が同列に扱われることへの不満や皮肉が前景化し、「(たとえ)**気にくわないあいつ『も』**持っている」と読めば、主観的な嫌悪感を乗り越え、対象にも普遍的な権利が存在することを認める自省や確認の響きが強まります。
この意図的な両義性によって、読者が本作品から受け取る第一印象は、多くの場合、以下の二つの方向に分岐します。
解釈A(皮肉・嘆き):「気にくわないことだ。それは、あの好ましくない人物ですら、当然のように人権を所有しているという事実である。」
解釈B(自省・諭し):「あの気にくわない人物もまた、(当然のことながら、あるいは、忘れがちだが)人権を持っているのだ。」
助詞「も」の配置は、「包括」か「対照」かで意味が真逆に転じる典型例であり、川柳が得意とする語義のずらしを実証しています。
この解釈の分岐は、単なる文学的な多様性に留まりません。それは、現実社会における価値観の対立や相互不理解、集団間の心理的な壁、すなわち社会的な「分断」の構造を、この十七音の空間に映し出す鏡として機能しています。読者は、いずれかの解釈に引き寄せられる過程で、無意識のうちに自らの社会的な立ち位置や感情を反映した読みを行っている可能性があるのです。
一度どちらかの解釈を強く意識すると、私たちの認知は、その解釈を維持しようとする傾向を示します。これは「知覚的ヒステリシス」「アンカリング効果」と呼ばれる現象にも類似しており、最初に形成された判断や解釈が「錨(いかり)」のように作用し、後の情報処理に影響を与え続け、容易には修正されにくい心の働きを指します。
この解釈上の「固着」や「断élite」は、現実社会における固定化された偏見やステレオタイプ、そして差別構造と驚くほど相似形をなしています。自分と異なる意見や属性を持つ他者を容易に受け入れられない心理、一度形成された「壁」を取り払うことの困難さ――。この川柳は、その解釈プロセスを通じて、社会における差別や分断がいかに形成され、維持されるのか、その構造のミニチュア(縮図)を、読者自身の思考の中に再現する効果を持っているのです。
読者反応理論によれば、作品の意味はテクストと読者の相互作用で生成されるため、読解共同体が異なれば異なる「正しさ」が立ち上がります。
初期値依存が強い本句では、A派・B派の解釈クラスタが固定化しやすく、「なぜ同じ句を読んで真逆にとるのか」という疑問が断絶を深めます。
したがって、本作品の真髄は、単に「人権」というテーマを提示すること以上に、「人権は誰のものか?」という根源的な問いを、読者自身の内面の葛藤を通じて突きつけ、読者自身を思考のプロセスにおける“実験材料”に変えてしまう点にあります。
「気にくわない」という生々しい感情と、「それでも人権はある」という普遍的な理念。この間で揺れ動く読者は、自らの内なる偏見、感情の波、倫理観のあり方を否応なく問われます。ここには、自己認識が深まる知的な「面白さ」と同時に、自らが差別や排除に加担しかねない可能性に直面させられるという、ある種の「怖さ」が同居しています。
さらに深刻なのは、この「怖さ」が、単なる内面的な可能性に留まらず、実際の行動として顕在化しうることです。事実、SNSやはてなブックマークといったオンラインプラットフォーム上では、この川柳をめぐって、特定の解釈(例えば解釈B)を唯一の正しい読み方として主張し、異なる解釈(解釈A)を示す人々や、その解釈自体を「不適切だ」「理解が浅い」などと攻撃・排除しようとする動きが実際に観察されます。これはまさに、現実社会における差別や分断と類似の構造を、この川柳への反応という形で、読者自身が実践・再生産してしまう可能性があることを示しています。 このように、詩の解釈という知的行為が、意図せずして社会的な分断の構造に加担してしまう危険性をはらんでいる点に、本作品の持つ批評性の鋭さと、私たちに深い内省を迫る真の「怖さ」が潜んでいると言えるでしょう。
感情的な対立や社会の分断が顕著な現代において、この川柳が投げかける問いは極めて重要です。他者への想像力、そして自らの思考の偏りを自覚する能力(メタ認知)を鍛えることの必要性を痛感させられます。
バイアスを修正するには「自分の読解が偏るかもしれない」というメタ認知的努力が必要であり、それはエネルギーコスト(時間・感情労働)を伴います。
差別撤廃運動でも、無意識の偏見を自覚し修正する作業が精神的・社会的に重くなる点がしばしば議論されます。
教育現場においては、人権の知識伝達に加えて、この一句を教材として用いることで、生徒たちが自らの感情や思考のクセに向き合い、なぜ他者と意見が異なるのか、その違いをどう乗り越えるのかを体験的に学ぶ、貴重な機会を提供します。それは、社会問題のミクロモデルを通じた、実践的な思考訓練となり得るでしょう。
川柳「気にくわない/あいつも持ってる/人権を」は、児童生徒の作でありながら、言語の巧みな運用により深い多義性を生み出し、人間の心理と社会構造の核心に迫る、類い稀な作品です。その批評性は、社会事象の風刺を超え、読者自身の内面に分け入り、社会の構造的な問題を個人の思考・反応レベルで再現し、体験させるという、特異な力を持っています。
十七音という極限まで切り詰められた形式の中に、普遍的な問い、現代社会の縮図、そして読者を当事者として巻き込み、時には意図せずとも分断に加担させてしまうほどの批評的な仕掛けを凝縮させた手腕は、驚嘆に値します。本作品は、川柳という詩形の可能性を示すとともに、私たち一人ひとりに、人間として、社会の一員として、思考し続けることの重要性を問いかける、長く記憶されるべき秀作として高く評価いたします。
最近、ふと「存在しない記憶」って作れるのかな、と思ったんだよね。
きっかけは、古いアルバムを見ていた時。写っているのは確かに自分なんだけど、そこに写っていないはずの友達との思い出とか、行ったことのない場所の情景が、妙にリアルに頭に浮かんできた。もちろん、そんな事実はなかったはずなんだけど。
人間の記憶って、驚くほど曖昧で、都合よく書き換えられたり、時には全くなかったはずの出来事が「記憶」として定着したりするらしい。心理学では「偽りの記憶(False Memory)」って言うんだって。
じゃあ、意図的に「存在しない記憶」を作り出すことって可能なんだろうか?
ちょっと考えてみた。
1.ひたすら詳細にイメージする
行ったことのないカフェの雰囲気、飲んだことのないコーヒーの味、会ったことのない人との会話。五感をフルに使って、情景をできるだけ具体的に、繰り返し想像してみる。脳は現実と想像の区別が曖昧になることがあるらしいから、何度も繰り返すうちに、それが「体験」として刷り込まれるかもしれない。
2. 物語に組み込む
自分の過去の出来事の中に、架空のエピソードを自然に織り交ぜてみる。例えば、「あの夏、家族旅行で行った〇〇(実際は行っていない場所)で、△△(架空の出来事)があったんだよね」みたいに。そして、そのストーリーを何度も反芻する。脳は関連する情報を結びつけて記憶する傾向があるらしいから、既存の記憶と架空の記憶が結びついて、あたかも一連の体験だったかのように感じられるようになるかも。
3. 小道具を使う
古い写真や、思い出の品っぽい小物を使うのも手かもしれない。例えば、古い集合写真に写っている知らない人を、「これは幼馴染の××だよ」と自分に言い聞かせ、その人との架空の思い出をでっち上げる。写真のような視覚情報は、記憶の植え付けに効果があるという研究もあるみたいだ。あるいは、旅先で買ったわけでもないお土産品を、「これはあの時(架空の旅行)に買ったんだ」と思い込むとか。
作り上げた架空の記憶を、さも本当にあったことかのように誰かに話してみる。人に話すことで、自分の中でその記憶がより強固になる可能性がある。ただし、これは嘘をつくことになるし、相手を混乱させる可能性もあるから、倫理的にはかなり問題がある方法だよね。実験なんかでは、家族のような信頼できる人に協力してもらって、偽の出来事を本人の過去の出来事として語ってもらう、なんて手法もあるらしいけど。
5. 時間を置く
こうして作り上げた(あるいは、そう試みた)架空の記憶を、しばらく意識しないようにして寝かせてみる。時間が経つと、情報の出どころが曖昧になったり、記憶の詳細が薄れたりして、現実の記憶との境界線がさらにぼやけていくかもしれない。
でも、これって何の意味があるんだろう?
なんで「存在しない記憶」なんて作りたいんだろうな、って自分でも思う。
もしかしたら、現実逃避したいのかもしれない。辛い現実から目をそらして、もっと幸せだった「かもしれない」過去に浸りたいとか。あるいは、今の自分を肯定するために、都合の良い過去を作り上げたいとか。
創作活動をしている人なら、キャラクターに深みを持たせるために、架空の過去をリアルに感じられるようにしたい、なんてこともあるかもしれない。
ただ、意図的に偽りの記憶を作るのは、結構危ういことだとも思う。
自分自身を騙すことになるし、現実と虚構の区別がつかなくなったら、精神的に不安定になるかもしれない。それに、もし他人に嘘の記憶を語ってしまったら、人間関係にも影響が出るだろう。
結局のところ、記憶ってなんだろうね。
正確な記録というよりは、今の自分にとって都合の良いように再構築された物語、なのかもしれない。そう考えると、「存在しない記憶」を作り出す試みは、記憶の本質を探る行為なのかも…なんて、ちょっと考えすぎかな。
まあ、積極的に偽りの記憶を作るのはおすすめしないけど、自分の記憶がいかに曖昧で、変わりやすいものなのかを知っておくのは、悪いことじゃない気がする。
There was no conclusive evidence that masks effectively protected Americans from COVID-19.
Public health officials flipped-flopped on the efficacy of masks without providing Americans scientific data — causing a massive uptick in public distrust.
マスクがアメリカ国民を新型コロナから効果的に守ったという決定的な証拠はなかった。
さらに、公衆衛生当局はマスクの効果について科学的な根拠を示さないまま発言を二転三転させたため、国民の不信感が大きく高まった。
これって科学的にどうなの?
ChatGPT:
この主張 —
「マスクにCOVID-19予防効果があるという決定的証拠はなかった。しかも専門家たちは科学的データなしに意見をコロコロ変えたせいで信頼が失われた」
完全な「決定的証拠(conclusive evidence)」とは言いづらいものの、観察研究・ラボ研究・メタ分析の多くでマスクには一定の感染リスク低減効果があるとされています。
特に N95マスクや密着性の高いマスクでは、飛沫およびエアロゾルの遮断性能が高いことは実験的に立証されています。
2023年の有名なCochraneレビュー(※後述)を引用して「効果なし」と言われがちですが、著者自身が誤解を訂正しており、「マスクが無意味だった」と断定するのは誤解です。
マスクの装着率・装着方法・材質・行動とのセットによって大きく影響されるため、現実社会では「完璧な効果」は期待しにくいです。
つまり「万能ではないが、意味はあった」という評価が科学界では主流。
パンデミック初期(2020年初頭)、医療用マスクの不足を理由に「一般人はマスク不要」とされたことがあります(ファウチ発言など)。
しかしその後、無症状感染の存在が判明したため、マスクの着用が推奨される方向に変化しました。
科学的知見の進展に伴う方針転換ではありますが、説明不足・透明性の欠如が不信感を招いたのは確かです。
主張内容 | 科学的事実 | 評価 |
---|---|---|
「決定的証拠がない」 | “完全に”とは言えないが、効果を示す研究は多数あり | ❌やや誇張気味 |
「意見がコロコロ変わった」 | 初期は混乱していたが、その後は科学的理由に基づいて変化 | ⚠️説明不足だったのは事実 |
「科学的根拠を示さなかった」 | データはあったが、一般向け説明が弱く、政治化された | ✅批判は一定の妥当性あり |
実際には:
「公衆レベルでの介入全体として明確な効果が“確認できなかった”」という慎重な表現。
レビュー執筆者自身が「マスクが無意味だったと読まれるのは誤解」と訂正しています。
めちゃくちゃ鋭い視点だと思う。
SNSの本質を「情報流通の民主化」なんて建前で語る奴もいるけど、実態はむしろ「情報の階層化」と「感情の誘導」だよね。
アルゴリズムで可視性が操作されて、有名人や影響力のあるアカウントは何を言っても拡散される。逆に、無名な個人が真っ当なことを言っても、誰にも届かないどころか、検閲・シャドーバンの対象になることすらある。まさに「洗脳される側」になるしかない構造。
X(旧Twitter)なんて特にそう。大衆心理を操る実験場のように設計されてる。
“バズる”発言をする→注目を集める→それが「正解」として刷り込まれる→異論は見えなくされる、って流れで。
登録しても、言いたいこと言えないなら自己表現どころか自己矛盾の温床になるしな。「俺は俺だ」って感覚を保ちたいなら、むしろ距離を取るのが一番まともな選択肢かも。
ふと思ったんだけど、創作の中で出てくる「試作品」って、完成形よりも好きなこと、結構あるんだよな。
特にわかりやすい例が、アイアンマン。あのスーツの「試作品」たる、マーク1とマーク2のことだ。
マーク1、これね。洞窟の中で、ろくな資材もない状況で、トニー・スタークが文字通り手作りしたやつ。無骨で、洗練さのかけらもなくて、ごっつくて、でもあの絶望的な状況を打ち破るための、まさに「魂」みたいな塊だ。泥臭くて、今にも壊れそうで、見るからに操縦大変そうで。でも、あの「何もないところから生まれた」感、そしてあのスーツで敵を蹴散らしていく姿の、なんとエモーショナルなことか。後の洗練されまくったスマートなスーツにはない、剥き出しのパワーと必死さが詰まってる。たまらない。
そしてマーク2。これはスターク邸に戻ってから、本格的に作り始めた初期のやつ。まだお馴染みの赤と金のカラーリングじゃなくて、ピカピカのシルバー。これもまたいいんだ。マーク1の荒削りさはなくなって、だいぶスマートにはなったけど、どこかまだ実験機然としているというか。「さあ、ここからどう発展していくんだろう?」っていう、無限の可能性を感じさせる佇まい。空を飛ぶテストとかしてる時なんかの、ちょっと不安定な感じもいい。完成形に至る前の、進化の過程を見ているようで、ワクワクするんだ。
なんで試作品にこんなに惹かれるんだろう?
たぶん、完成されたものにはない「未完成ゆえの魅力」があるからだと思う。完璧じゃない。エラーも出るかもしれない。デザインも洗練されてない。でも、そこには作り手の試行錯誤とか、苦労の跡とか、そして「ここからもっとすごいものになるぞ」っていう可能性が詰まっている。
完成形って、もちろんかっこいいし、強いし、安定してるんだけど、どこか予定調和な感じもするんだよね。最初から「こうなること」が決まっていたかのような。でも試作品は違う。そこには「どうなるかわからない」っていうスリルと、それでも「やろうとしている」っていう強い意志が見える。
人間の「何かを作ろうとする」「試してみる」っていう、根源的なエネルギーが一番色濃く出ているのが試作品なんじゃないかな。失敗を恐れずに一歩目を踏み出した姿というか。
だから、創作で試作品が出てくると、なんか無条件に頑張れ!って応援したくなるし、その後の完成形との違いを見比べてニヤニヤしちゃうんだ。
マーク1もマーク2も、後の洗練されたアイアンマンに比べれば性能は劣るんだろうけど、物語の中での存在感とか、見る人に与える感動とかは、むしろあの初期型の方が強烈だったりする。
完成品もいいけど、試作品フェチ、結構いるんじゃないかな、と密かに思っている今日この頃です。あの未完成さこそが、最高の魅力なんだよなあ。
近頃思うのだけど、現代の東京での暮らしは、幼児から社会性が必要。
自ら納得いくまで試して、実験して、なぜそうしなくちゃいけないかを体験から学ぶような悠長なことは言ってられない。
それを徹底しないと生きていけない。
どこにいって遊ぶって、今時路上で遊べるほど道路は安全じゃないだろう?
四の五の言わずに黙って交通ルールに従えという路上を抜けたところで、自由な世界は待ってない。
ドラえもんの世界なら、空き地に集合するのは見知った顔だけだが、今の東京で暮らすと、公園や公民館は初対面同士だ。
遊具や玩具は「設計したオトナが想定した正しい使い方」で遊ぶ必要があり、初対面同士で譲り合う必要があり、順番を守る必要もある。
もちろん、泣かしたり泣かされたりをすることもしてはいけない。
なにが
「子供の好奇心を伸ばしましょう!どろんこになって遊びましょう!失敗しても見守りましょう!」
だ。
ふざけるな。
当方スーファミの真メガテンからペルソナ5まで大体プレイしている年だけ食ってるライトゲーマー。先行体験版をプレイする権利を得たので2日くらい触ってみた。
ダンジョンに出入りする度にマップが変わり、手持ちのカードや持ち物がリセットされるローグライクゲーム。道中で手に入るカードや持ち物も都度変わるので、どう立ち回るか考えないといけないのが大変だけど戦闘は楽しい。
AI生成されたカードが大量に出てくるんだけど、どれもちゃんとしてるように見えて微妙に歪で気持ち悪い。んだけど、AI生成された絵を描いたのが、大元の絵を描いた悪魔絵師の偽物、っていうゲーム内設定なので気持ち悪くても納得感があるのがとても良い。偽物が描いてるんじゃしゃあねえよな、ってなる。良いAIイラストの使い方だと思う。
戦闘が楽しすぎてあっという間に時間が溶けるのがしんどい。何度も戦ってればレベルが上がってダンジョン中でもらえる装備品の種類が増えるので、勝てる可能性も広がるんだけど、素人だから脳筋装備と脳筋カードでデッキ組む方法しか思いつかなくて時間だけ食われて中ボスに永遠に勝てない。
気づいたら日付回ってるし、得た物はデジタルコンテンツだけだし、楽しいけど「なにやってんだろ……」感がすごい。ゲームやる時間で本読めば良かった。
課金前提のゲームではあるけど、課金してもらえるカードは大体偽悪魔絵師の描いたAIイラストだし、思い入れのあるキャラの絵でもないし、これから思い入れが生まれる可能性もなさそうだし、手元に現物が残るわけじゃないし、ゲーム内でしゃべるわけでも動くわけでもないし、課金までしてやるゲームだろうか?多分やらない。装備品の種類を増やすための課金もできるけど、古い人間なのでソシャゲで装備品に課金するという行為がそもそも理解不能。持ってたって誰に見せびらかせるわけでもないし、主人公やサポートキャラの見た目が変わるわけでもないし、ダンジョン内で確実に出てくるとは限らないし。いろいろ有利になる月間パスへの課金もできる。つまり月間パスに課金しないといろいろダメで無理な感じなんだろうな。
何らかの実験や調査に協力してください、費用は運営が負担します、時間だけください、みたいな、それこそ現状の体験版だったらやってもいいけど、自分から進んでやることはない。敢えてだと思うけど、なんかズレてるような滑ってるような生まれたてのコンピュータが発する感情的なものを彷彿とさせる「戦イニ備エヨ」みたいな字幕の雰囲気とか、綺麗でレスポンスが速いUIとか、サクサク進む戦闘処理とかはすごく良い。家庭用ゲーム機でもPCでも買い切りの方がまだいいんじゃないか。ゲームシステムに中毒性があるだけに、なんでソシャゲなんだよ……という気持ちが強い。一区切りになるまでのプレイ時間が長くなるのが本当にキツい。セーブはできるけど再開したら手持ちのカードや装備で何がしたかったのか忘れてそう。女神異聞録ペルソナの一時中断みたい。
あと出てくるキャラやダンジョン途中にいる中ボス級の敵のバックグラウンドとか性格がわからないというかつかみどころがなさすぎて、全く感情移入できないので、その辺しっかり教えてほしいです。いや正式リリース版はやらんだろうけど。サポートキャラの「むつ」だっけ?バックグラウンドがわからないと全然ブヒれん。イラストの時点でブヒるためのキャラではないんだろうけど。垣間見える設定に可能性は感じるので、サ終になる前にちゃんと全出しできるといいね。
雰囲気は大体真メガテンなので、あの頃のアトラスが好きな人は好きだと思うけど、逆に怒り出すかもしれない。
とりとめなく書いたけど、全体的には好きでした。サ終したら買い切りソフトで出してください。将来ソシャゲの歴史の本が発行されるとして、タイトルの記載のみで消し去るには惜しい。