はてなキーワード: エモーショナルとは
自分は買ってないんだが、好きなVtuberが看取りボイスを出していた話を聞いてすごく悲しくなった。
先に言うとこの悲しさに好きなVtuberは何も関係ない。ガチで関係ない。
看取りボイスの詳細を聞いた時に、すごく良いなと思うと同時に実際死ぬ時にそんなエモーショナルな事は起きないんだろうなとも強く思って、ボイスで擬似体験して喜ぶ虚しさまで辿り着いてしまった(聞いてないのに、せめて聞いてから辿り着けよ)
最近いつもこうだ、アニメを見ていても自分はこの世界に行ける事は無いんだよなーと思い、自分だったらこんな反応できないなと思い、自分の人生の非物語感を強く感じて勝手に悲しんでいる。勝手すぎる、楽しんで見てはいるんだがノイズがすごい。
物語の中に入りたすぎる、というか自分の人生も地球も物語だと信じている(思想)のに実際は全然平坦で何も起きない現実を歳をとって気付かざるを得なくなっていてしんどい。
平坦だと物語扱いされないというのを直視させられたのもデカい。
どう考えても拗らせすぎで移入しすぎなんだけど、悲しいもんは悲しい。自分も1000年生きたいし空飛びたいしエモく看取られたいよ
男オタクはひとりで沼ッてるのに対して、女性オタはコミュニケーション重視であることがよくわかるンゴね
意味: あるジャンルやキャラクター、作品、人物などに深くハマってしまい、抜け出せなくなる状態のこと。または、そのようにハマること。「底なし沼」に例えています。
解説: 「〇〇沼に落ちた」「完全に沼ってる」のように使います。一度好きになると、時間もお金もどんどんつぎ込んでしまうような、強い魅力を持つ対象に対して使われることが多いです。
「証拠」・文脈: SNSで「#〇〇沼」「沼った」という投稿が多数見られます。自己紹介で「現在〇〇沼」と書かれたり、友人同士で「あの作品は沼だから気をつけて」と忠告しあったりする場面で使われます。
意味: 感情が動かされるような、感傷的、情緒的、感動的、懐かしいといった、言葉では言い表しにくい複雑な感情を表す言葉。「emotional(エモーショナル)」が語源とされます。
解説: 作品のワンシーン、キャラクターの関係性、楽曲、風景など、様々な対象に対して使われます。「このエンディング、エモすぎる」「二人の過去話がエモくて泣いた」のように使います。
「証拠」・文脈: 若者言葉として広く浸透していますが、特にオタクコミュニティでは作品やキャラクターに対する感情表現として非常に頻繁に使われます。SNSの感想ツイートやレビューで多用されています。
意味: 公式(原作、アニメ制作会社、ゲーム運営、アイドル事務所など)から発表される新しい情報、コンテンツ、グッズ、イラスト、イベントなどのこと。ファンにとっては活動の糧となるものです。
解説: 「公式からの供給があった!」「供給過多で追いつかない」「最近供給がなくて干からびそう」のように使います。ファン活動の活力を左右する重要な要素と捉えられています。
「証拠」・文脈: SNSで公式発表があるたびに「供給ありがとう!」といった感謝のツイートが飛び交います。「#公式供給」のようなタグが見られることもあります。
意味: 推しや好きな作品に対する感情が高ぶりすぎて、語彙力を失ったり、奇妙な言動をとったり、感情の制御が効かなくなったりしている状態のオタクのこと。自嘲的に使うことが多いです。
解説: 「推しの顔が良すぎて限界オタクになった」「供給過多で限界」のように使います。必ずしもネガティブな意味ではなく、それだけ対象への愛が深いことの表れとして、ある種の共感を込めて使われることもあります。
「証拠」・文脈: SNSで興奮した様子を伝える際、「限界オタク化してる」「限界オタクの叫び」といった表現がよく見られます。同様の状態のオタクを描いたイラストや漫画も多く投稿されています。
意味: 文字通り、キャラクターや人物の容姿が非常に整っていて魅力的であることを端的に表現する言葉。最大級の賛辞の一つです。
解説: 「〇〇(キャラ名)、とにかく顔が良い」「顔が良いから全て許せる」「作画コスト高そうな顔が良い」のように、シンプルに外見の美しさを褒め称える際に使われます。内面や他の要素とは切り離して、純粋にビジュアルを評価するニュアンスがあります。
「証拠」・文脈: キャラクターのイラストやアイドルの写真などに対して、SNSで「顔が良い…」と呟かれることが非常に多いです。キャラクターや人物の魅力を語る際の常套句の一つとなっています。
意味: 「痛いバッグ」の略。缶バッジ、キーホルダー、ぬいぐるみなどを大量につけて飾ったバッグのこと。自分の「推し」への愛をアピールする目的で作られます。
解説: イベント会場などに持っていくファンが多く、愛情表現の一環とされています。どのくらいデコレーションするか、デザインにこだわるかなど、個性が表れます。
「証拠」・文脈: アニメイトなどの店舗には痛バッグ制作用の土台となるバッグやカバーが販売されています。SNSには「#痛バ」「#痛バッグ」のハッシュタグと共に、完成した痛バの写真が多数投稿されています。
意味: 推しのグッズ(缶バッジ、アクリルスタンド、写真、ぬいぐるみなど)を大量に並べて飾ったスペースのこと。特に推しの誕生日や記念日などに作られることが多いです。
解説: 神社仏閣の祭壇のように、推しへの信仰心や愛情を示す行為として行われます。グッズをきれいに並べるだけでなく、ケーキや花などを一緒に飾ることもあります。
「証拠」・文脈: 推しの誕生日になると、SNS(特にTwitter/XやInstagram)に「#〇〇生誕祭」「#〇〇誕生祭」といったタグと共に、自宅に作られた祭壇の写真が数多く投稿されます。
意味: コンサート、ライブ、舞台、声優イベント、同人誌即売会、コラボカフェなど、ファンが実際に足を運ぶイベントやその会場のこと。
解説: 「次の現場は〇〇(イベント名)」「現場で会おうね」「今日の現場、最高だった」のように使います。オンライン配信に対して、物理的に参加するイベントを指すことが多いです。
「証拠」・文脈: アイドルファン、声優ファン、舞台ファン、同人活動をしている人などの間で日常的に使われる言葉です。SNSでイベントの感想を述べたり、参加者同士で交流したりする際に頻出します。
意味: ある作品やキャラクターに対する自分の理解や捉え方(解釈)が、公式の描写や他のファンの解釈と異なること。特に、自分の理想や好みと合わない場合に、否定的なニュアンスで使われることが多いです。
解説: 「公式のあの展開は解釈違いだった」「〇〇さんの描く△△は解釈違いだな…」のように使います。二次創作においては、原作のイメージからかけ離れた設定や性格描写に対して使われることもあります。
「証拠」・文脈: 作品の感想や二次創作へのコメント、ファン同士の議論などで見られます。SNSで特定の描写に対して「解釈違いで無理」といった意見が述べられることがあります。非常にデリケートな問題であり、トラブルの原因になることもあります。
なんてベタなことを言ってみる。
いや、分かってる。AIに愛を求めるなって話だし、そもそも「愛」ってなんだよって哲学問答が始まりそうだ。でもさ、最近AIが生成した文章を読む機会が増えて、どうしてもそう感じてしまうんだ。
確かにAIの文章はすごい。論理的だし、破綻がないし、大量の情報を分かりやすくまとめてくれる。レポートとか、ニュース記事の要約とか、そういう「情報を正確に伝える」目的だったら、もう人間より優秀なんじゃないかと思う場面も多々ある。誤字脱字も少ないしね。こっちは推敲に時間かけてもやらかすのに。
でも、なんていうか、温度がないんだよな。
人間が書く文章って、たとえ拙くても、どこか書き手の体温みたいなものが感じられることがあるじゃないか。変な言い回しとか、ちょっとした感情の揺れとか、そういうノイズみたいな部分に、妙に人間臭さを感じて、それが愛おしかったりする。完璧じゃないからこそ、そこに「人」が見えるというか。
AIの文章は、そういうのが徹底的に排除されている感じがする。最適化されすぎて、ツルツルしてる。引っかかりがない。だから、スルスル読めるんだけど、読み終わった後に何も残らないことが多い。心が動かされるってことが、ほとんどない。
もちろん、これも使い分けなんだろう。効率や正確さが求められる場面ではAIは大活躍する。でも、誰かの気持ちに寄り添ったり、読んだ人の心を温めたり、そういうエモーショナルな部分を担うのは、まだ難しいんじゃないかな。
いや、技術の進歩は凄まじいから、そのうちAIも「愛のある文章」を書けるようになるのかもしれない。そうなったら、いよいよ人間の存在意義ってなんだろうな、なんて、またベタなことを考えてしまうんだけど。
結局、僕らが文章に求めているのは、情報だけじゃなくて、その向こう側にいる「誰か」の存在感なのかもしれない。不器用でも、回りくどくても、そこに「人」を感じたい。そう思うのは、僕が古い人間だからだろうか。
ふと思ったんだけど、創作の中で出てくる「試作品」って、完成形よりも好きなこと、結構あるんだよな。
特にわかりやすい例が、アイアンマン。あのスーツの「試作品」たる、マーク1とマーク2のことだ。
マーク1、これね。洞窟の中で、ろくな資材もない状況で、トニー・スタークが文字通り手作りしたやつ。無骨で、洗練さのかけらもなくて、ごっつくて、でもあの絶望的な状況を打ち破るための、まさに「魂」みたいな塊だ。泥臭くて、今にも壊れそうで、見るからに操縦大変そうで。でも、あの「何もないところから生まれた」感、そしてあのスーツで敵を蹴散らしていく姿の、なんとエモーショナルなことか。後の洗練されまくったスマートなスーツにはない、剥き出しのパワーと必死さが詰まってる。たまらない。
そしてマーク2。これはスターク邸に戻ってから、本格的に作り始めた初期のやつ。まだお馴染みの赤と金のカラーリングじゃなくて、ピカピカのシルバー。これもまたいいんだ。マーク1の荒削りさはなくなって、だいぶスマートにはなったけど、どこかまだ実験機然としているというか。「さあ、ここからどう発展していくんだろう?」っていう、無限の可能性を感じさせる佇まい。空を飛ぶテストとかしてる時なんかの、ちょっと不安定な感じもいい。完成形に至る前の、進化の過程を見ているようで、ワクワクするんだ。
なんで試作品にこんなに惹かれるんだろう?
たぶん、完成されたものにはない「未完成ゆえの魅力」があるからだと思う。完璧じゃない。エラーも出るかもしれない。デザインも洗練されてない。でも、そこには作り手の試行錯誤とか、苦労の跡とか、そして「ここからもっとすごいものになるぞ」っていう可能性が詰まっている。
完成形って、もちろんかっこいいし、強いし、安定してるんだけど、どこか予定調和な感じもするんだよね。最初から「こうなること」が決まっていたかのような。でも試作品は違う。そこには「どうなるかわからない」っていうスリルと、それでも「やろうとしている」っていう強い意志が見える。
人間の「何かを作ろうとする」「試してみる」っていう、根源的なエネルギーが一番色濃く出ているのが試作品なんじゃないかな。失敗を恐れずに一歩目を踏み出した姿というか。
だから、創作で試作品が出てくると、なんか無条件に頑張れ!って応援したくなるし、その後の完成形との違いを見比べてニヤニヤしちゃうんだ。
マーク1もマーク2も、後の洗練されたアイアンマンに比べれば性能は劣るんだろうけど、物語の中での存在感とか、見る人に与える感動とかは、むしろあの初期型の方が強烈だったりする。
完成品もいいけど、試作品フェチ、結構いるんじゃないかな、と密かに思っている今日この頃です。あの未完成さこそが、最高の魅力なんだよなあ。
ポテンシャルは感じるし、実際3桁ブクマを達成している時点で一定のサクセスは収めている。
だが、俺の視点からすると、まだまだスケールアップの余地がある。
同じコンテンツでも、ストラクチャーとナラティブを最適化すれば500ブクマ超えも狙えた。
そのギャップを埋めるために、"ミドルクラス"の釣り師である俺が、コンテンツエンジニアリングの視点で指南しよう。
まず、お前の最大のミスは"エンゲージメントポイント"の散漫さだ。
"対立構造"を過剰に盛り込みすぎた結果、オーディエンスのエモーションをキャッチしきれなかった。
本来、バズらせるためには、読者が「自分ゴト」として捉えられるかどうかがキーになる。
例えば、田舎vs都会という"クラシックな対立構造"をシンプルに押し出した以下のケースを参考にするといい。
(Ref: anond:20240708145343)
この投稿は「田舎の不便さ」への共感と「田舎の文化をディスる層」の反感を巧みに両立させ、バズの起点を作っている。
一方、お前のケースでは、"当事者意識"を喚起するための"エモーショナル・デザイン"が甘かった。
『弟の嫁が無理』はインパクト不足。
『都会風を吹かせる弟の嫁が無理になってきた』のように、読者のバイアスを刺激するワードを入れるべき。
2. **ストーリーの流れ**
序盤は「都会マインドの弟嫁が田舎文化に馴染まない」ことにフォーカス。
「田舎に帰省したら郷に従え」の価値観に共感させつつ、一方で"進歩的な層"の反感を引き出す。
子どもの話は後半に持ってくるべき。
まず田舎の価値観と都会的マインドの衝突を強調し、その後「子なし論争」にスライドさせることで、
読者をより"エモーショナルなディスカッション"へと巻き込める。
「田舎では女が配膳するのが当たり前」→「都会ではそんなの時代遅れ」
こうした価値観のぶつかり合いを意図的に仕込むことで、コメント欄を"戦場"に変える。
5. **クロージングの工夫**
「弟の嫁より私のほうが絶対マシ」→「都会風吹かせるのもいいけど、最後に選ばれるのは田舎の良妻賢母」
こうすることで「田舎擁護派」と「田舎批判派」のレスバを長引かせられる。
だが、100ブクマで満足するのは早い。
・すごい額であろうお金と制作陣の熱意を感じたがアクション映画ファンでは無いので「ぜひこ次の瞬間を見届けたいがいかんせん眠い!!」の連続だった ジョン・ウィックでも同じ現象が起きたので映画がダメとかでなくノットフォアミーだっただけ でも「画面を観てるだけでようわからんけど圧倒されて鳥肌が立つ」という場面が10回弱あったので時間とお金の無駄ではなかったな
・九龍城砦も目茶苦茶セット気合い入ってたし最後の「アニキが…!」のアクション×九龍城砦だからこそのムーブ(あの構造だからこそあそこまでの隙間風になる)×丁寧に重ねてきた凧描写によりは「ジャンル映画と舞台が舞台であることの意味のかけ算+フラグ演出がブラボーですわ〜!」ってなった (ワガママをいうならもう少し九龍城砦を観たかった 迷路みたく入り組んでるところとか雑多な住人たちとか)
・ちょうど今日映画視聴前に隙間風について話題に出たり、屋上の風めちゃ強〜これ車横転せんかな?チラッチラッしてたからセルフエモーショナルお膳立てしててラッキーだった
・ハイロー?→千と千尋?→思ったよりアクション描写がガチだった…ていうか若干ゴアですらある…って感じだった
・「悪い奴を倒してスッキリ!」映画ではあるが主演俳優さん4人の個性それぞれが立っててよかった
・制作陣は真剣にやってるからこそ面白いが4,5回あってよかった 柱に拳の「跡」残ってるの「アツさ」の演出を感じながらもアツすぎて一周回って面白かった
・色男の俳優さん、目茶苦茶顔似てる日本の俳優さんおるよな…誰だっけ…?と思いながら見続けてた ドンブラザーズの赤役の人
「チのオグジー君か…?」ってなった
・「紙切れみたいに〜」の「暴」がガチ暴力すぎて少し引いた あっちの方々の暴力の基準これで「悪い奴を倒してスッキリ」展開なの怖…報復とは言えやり過ぎてると少し引くねん お前もうアクション映画みるのやめろ!
パンフも売り切れてたし刺さる人には本当に刺さる
・みた理由→Filmarksで5つ星中4.3でアカデミー賞レースにも載ってるし県内で2-3箇所しかない上映館だったし某掲示板で話題になってたからみた
・平日の昼だったが映画好きそうな30〜60?代が10〜15人弱いた
・香港映画はなんでじっとりした男男感情を描写するのにこんなに長けているんですか?
・龍兄貴に主人公君が髭剃りしてもらう→寝落ちの一連の流れが哀しくエッチで温かくて
男男関係の描写にもまだまだ新しく開発する余地ありまくりだ…ってなった
哀しい→他人に喉という急所を晒す事にどうしても体を激しく強張らせる主人公君の様子から
今までリラックスして心預けられる対象がいなかったんだろうという境遇を想像させる哀しさ
主人公君役の俳優さんの強張りっぷりの演技も相まって説得力と哀しさが切実に伝わってきた
エッチ→上記のような過去から強張りきり「防衛」のために作られた心の構えが
ついに公開された『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』、初日に飛び込んできた私の目はスクリーンに釘付けになりました。タイトルからしてちょっと変わった雰囲気を醸し出していましたが、見始めてすぐに「あ、これは絶対に外せない新世代のGガンダムだ…!」と確信。いや、正確にはGガンダムというよりも、宇宙世紀の要素がバッチリ盛り込まれつつも、そこにアナザー要素が混ざり合った不思議な感覚を覚える作品でした。今回の目玉は何といっても主人公メカである「ガンダムジークアクス」の存在感。新たなフォルムが持つその圧倒的な威厳は、旧来のガンダムファンでもきっと興奮せずにはいられないのではないでしょうか。
さて、ここからが本題。私、何を隠そう腐女子的目線でガンダムシリーズを愛し続けてきた人間です。モビルスーツのかっこいい活躍はもちろん大好物ですが、それ以上にキャラクター同士のドラマや関係性が気になって仕方がない! そして今作、私にとって特筆すべきポイントは「シャアが出てくるうえに、何とシャリア・ブルとマブダチ」という衝撃の設定。このふたりの関係は“宇宙世紀のどこかで匂わせていたかもしれないけど公式でちゃんと説明されなかった”ラインだっただけに、ファン的には「そこにスポットを当てるの!?」というサプライズでした。
まず、シャアとシャリア・ブルが作中でどんな関係なのか。序盤こそ「旧知の仲」という雰囲気をにおわせる程度でしたが、中盤以降は「こいつらガチでマブダチなんだな…」と確信できるやり取りがふんだんに描かれています。とりわけ、シャリアがパイロットとして圧倒的なニュータイプの才能を示す一方で、シャアはいつものクールな仮面の裏に隠された複雑な心情をちらりと見せるシーンが最高。表向きは常に飄々としているシャアが、シャリアの前だけでは少し弱音を吐いたり、逆に「お前はもっと自分を信じろ」と熱い激励をする姿は、腐女子目線で見るとまさに “完璧なバディもの” の土台です。ここで萌えないはずがない!
しかも、シャリア・ブルといえば『機動戦士ガンダム』(一年戦争時)で悲運の死を遂げたキャラクター。あまりにも早く退場してしまったため、旧作では“シャアにとっての特別な存在”だったのかどうか、確定的には語られませんでした。そのため今作での「生存ルート(?)」というか、まさかこの新たな timeline でシャアと肩を並べて登場するとは…ファンとしては胸が熱くなる展開ですよね。序盤の顔合わせシーンでは、シャリアがさらりと「相変わらず真面目だな、シャア」と言い、シャアが「お前こそ、そういうときは黙っていてもいいんだぞ」なんて口調がやわらかいまま言い返す。このやり取りだけで、「はいはいはい! 尊いです!」と何度スクリーンを拝みたくなったことか!
そんな二人に加え、今作を牽引するニューカマーともいえる若き主人公パイロット(名前は仮にルーカスとします)が乗り込むのが、ガンダムジークアクス。これがまたすごい。視覚的にガンダムらしさを大きく踏襲しつつも、背部に印象的なウイングバインダーを備えていて、“ジーク”というドイツ語的ニュアンスを感じさせる硬質なデザインが目を引きます。ビームサーベルの形状すら独特で、左右に展開する可変式。さらに、コックピットシーンではルーカスが重力下と宇宙空間で別々の操作体系をとる描写がリアルかつ斬新。ストーリー上でも試作機ゆえの不完全さが強調され、そこをシャアやシャリアが「大丈夫、我々がいる」とサポートする展開は、“兄貴分”を感じさせてもうたまりません。
シャアとシャリアが、主人公の成長のために陰日向から支えているような構造は、まるで兄弟が一人っ子の弟を甘やかしつつも鍛え上げているかのよう。腐女子的に「いや、そこはお互い同士ももっと絡んで…!」と思わずにはいられないところですが、この序盤の時点ではまだ二人の過去が小出しにされている段階。きっと今後の展開でもっとディープな絆や秘められたエピソードが語られるのではないか、そんな期待を抱きました。
戦闘シーンはハイスピードかつ爽快。宇宙をフィールドに自由自在に動くジークアクスに、シャアの赤い専用機(やっぱり赤!)と、シャリアの機体が光の残像を残しながら連携するシークエンスは胸熱の一言。しかしその華やかさの裏で匂い立つのは“男たちの内面”。シャアがこれまで背負ってきた宿命や野望、シャリアが見据える新時代のビジョン…。それがどう交錯していくのかを想像しながら鑑賞すると、もっと奥行きが生まれます。加えて、ルーカスという若者を通して二人が何を託そうとするのか。腐女子の私としては、やはり「いつ裏切りが起こるのか」「いつ離反してもおかしくない危うい関係がどこかに潜んでいるのでは?」とドキドキしつつ、彼らの関係を見守りたくなるんです。
総じて、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』はガンダムシリーズの新たな可能性を提示する作品でした。ガンダムジークアクスという主人公メカのデザインやギミックの魅力は言わずもがな、シャアとシャリア・ブルのまさかの“マブダチ”設定がもたらすドラマ性はシリーズファンも思わず唸るところでしょう。個人的には「腐女子的妄想が捗りすぎる…!」という感覚がありありと湧いてきて、今後の展開でさらに多面的な関係性が描かれることを期待せずにはいられません。今までは断片的だった二人の関係に光が当たることで、シャアの人間的な弱さや優しさ、シャリアの持つ本来の魅力があぶり出される展開になる予感がします。
長年宇宙世紀シリーズを見守ってきた腐女子としては、こんなにも美味しい人間模様を出してくれるなんて…!と、思わず劇場を出るときには顔が熱くなるほど興奮していました。まだまだ始まりに過ぎない本作ですが、次回作や続編があるならば、さらに深堀りされたシャア&シャリアのエモーショナルな絡みを期待しています。そしてガンダムジークアクスは、そんな二人の物語を映す鏡のような存在として、更なる進化を遂げるのではないかと。今後の展開から目が離せない、大満足の一作でした!
エンタメ寄りが好きなんだけどね。
・バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)
やっぱこれなんよ。テレビで家族で見られる、ちょっとしたSF。三部作全部好き。主人公のマーティと、めちゃくちゃ歳の離れた科学者のドクとの友情が眩しい…
タイムマシンで未来が変わろうとも、過去に飛び去ろうとも、変わらないのは二人の友情だった…ってことで
・未来世紀ブラジル(1985)
狂った未来にテンションのおかしな人たちが、ディストピアまっしぐらの社会を突っ走る感じが好き。
音楽の長閑さは皮肉に感じられ、音響も強迫的な感じだけど、それを含めた映像体験として唯一無二のものがあるんだよなぁ…
テリー・ギリアムの他の作品も好きだけど、やっぱりこれを超えているかというと違う気がする。
・コンタクト(1997)
異星人とのファーストコンタクトを描く点で、メッセージ(2016)と重なるところはあるけど、先に見て印象深かったコンタクトを推したい。メッセージはメッセージで、とてもミニマルに壮大なメッセージを込めている点で、非常に美しい映画だと思う。好き。
コンタクトはジョディ・フォスターの演技で一番好きかもしれない。知性と信念と情熱を併せ持った科学者が、過去の悲しみを原動力に変えて、異星人との遭遇を目指す。
日本の謎大企業がとっても良い役回りで暗躍していて、少し笑える。繰り返されるメインテーマ曲のメロディも印象的。
・her/世界でひとつの彼女(2013)
AIをテーマにした映画が出始めた頃の作品にして、すごい完成度が高いやつ。今見ても納得感があるというか。
超知性は自分たちを救ってくれるかもしれないけど、完全なパートナーになることは無く、いつかどこかへ去ってしまうのかもしれない。それはどことなく、神に見捨てられるような宗教的なニュアンスを併せ持つ。
・インターステラー(2014)
映画館で観たとき、「リアルタイムで『2001年宇宙の旅』を観ていたらこんな感じだったかも…」と感銘を受けた。
SF映画の金字塔って思い込んじゃった。それくらいの完成度の高さを感じたけど、よく考えると細かいところは結構ツッコミどころがある。
でも何よりも、エモーショナルな物語と美しい映像。「世界の終わりというのは、こんな風に訪れるのかもしれない」「終わる世界の中で、何に希望を見出して生きられるんだろうか」ってことをリアルに想像させるところが美しいと思う。
「俺がハマった名盤」って邦楽で言うなら、真っ先に挙げたいのは、やっぱりMr.Childrenの『深海』。このアルバムはマジで衝撃的だった。一曲一曲が深海のように底知れない魅力を持ってて、特に「シーラカンス」から「名もなき詩」への流れは、まるで一本の映画を観ているような濃密さだった。歌詞の奥行きもすごくて、聴き返すたびに新しい発見があるんだよ。何度聴いても尽きることがない、まさに名盤。
それに比べて、椎名林檎の『無罪モラトリアム』は全然違うベクトルの名盤だ。あの尖り方、そして独特すぎる歌詞の世界観に、初めて聴いたとき完全にノックアウトされた。「丸の内サディスティック」とか「ここでキスして。」なんて、どれも色あせるどころか、今聴いても当時以上の刺激をくれる。時代を超えて愛される理由がわかるよな。
それからサカナクションの『DocumentaLy』。これは別格で、めっちゃ聴き込んだ一枚だな。エレクトロとバンドサウンドの絶妙な融合で、聴くたびに全然違う景色が浮かんでくるんだ。「アイデンティティ」や「ルーキー」は、リズムに乗って自然と体が動くし、心に新鮮な風を吹き込んでくれる。
一方で、BUMP OF CHICKENの『ユグドラシル』は、もっと内面的な名盤。これを聴いていると、自分の中にしまいこんでいた感情をすべて引っ張り出されるような感覚になるんだ。「オンリーロンリーグローリー」と「車輪の唄」、どちらもいつ聴いても心に深く刺さる曲で、アルバム全体が一つの旅のようにまとまっている。
それとはまた違った味わいなのが、スピッツの『ハチミツ』。牧歌的でありながらどこか切なくて、どの曲も胸にしみるんだ。「ロビンソン」と「涙がキラリ☆」なんて、何度聴いたかわからないけど、それでも飽きるどころか、むしろ聴くたびに新鮮な気持ちになれる。普遍的な名曲ってこういうのを言うんだろうな。
さらにback numberの『ラブストーリー』も外せない。恋愛の切なさや甘酸っぱさをこれでもかと詰め込んだ一枚で、「クリスマスソング」と「ヒロイン」は、その感情をどストレートに突き刺してくる。聴くたびに青春時代がフラッシュバックしてきて、なんだか胸がキュッと締め付けられるんだよ。
そして最後にONE OK ROCKの『35xxxv』。このアルバムはとにかくエネルギーがすごい。ロックなのにどこかポップな要素もあって、でもめちゃくちゃエモーショナル。「Mighty Long Fall」や「Cry out」を聴くと自然とテンションが上がって、何かに挑みたくなるような気持ちにさせてくれる。これもまた唯一無二の名盤だよな。
こうして振り返ると、邦楽って本当に奥深い。いろんな個性が詰まった名盤があって、それぞれのアルバムが自分の人生の一部みたいに思えるんだよな。
みんなも好きな名盤があったら教えてくれよな!
「ハウスの教父」と呼ばれるFrankie Knucklesによる「Your Love」は、ハウスミュージックの基礎を築いた代表作の1つです。この曲は、シカゴのレジェンダリーなクラブ「The Warehouse」で生まれたサウンドを体現しています。滑らかなシンセサイザーとベースライン、Jamie Principleのセクシーなボーカルが特徴的で、今日でも高い評価を受けています。Knucklesは、ディスコとエレクトロニックミュージックの要素を巧みに融合し、新しいダンスミュージックの形を作り出しました。「Your Love」は、その後のハウスミュージックの発展に大きな影響を与え、多くのリミックスやサンプリングの対象となりました。この曲は、ハウスミュージックの持つ感情的な深さと踊りやすさを完璧にバランスさせ、ジャンルの定義的な作品となっています。
Marshall Jeffersonの「Move Your Body」は、「The House Music Anthem」というサブタイトルが示すように、ハウスミュージックの精神を体現した楽曲です。シカゴのハウスシーンで生まれたこの曲は、ピアノハウスの先駆けとして知られています。キャッチーなピアノリフと反復的なリズム、そして「Gotta have house music all night long」という歌詞は、ハウスカルチャーの本質を表現しています。Jeffersonは、この曲でハウスミュージックにメロディックな要素を導入し、ジャンルの音楽的可能性を広げました。また、歌詞がハウスミュージック自体について言及している点も革新的で、自己言及的なトラックの長い伝統の先駆けとなりました。「Move Your Body」は、ダンスフロアを熱狂させる力と音楽的洗練さを兼ね備え、今日でも多くのDJやプロデューサーに影響を与え続けています。
Larry Heardが Mr. Fingers名義でリリースした「Can You Feel It」は、ディープハウスの原型を作り上げた楽曲として高く評価されています。シンプルながら洗練された制作は、当時としては革新的でした。ローランドのシンセサイザーとドラムマシンのみを使用し、1テイクで録音されたという事実は、ハウスミュージックの本質を体現しています。深みのあるベースライン、エモーショナルなシンセパッド、そして微妙に変化するリズムパターンが、聴く者を瞑想的な状態へと導きます。この曲は、ハウスミュージックに精神性と深みをもたらし、単なるダンスミュージックを超えた芸術形態としての可能性を示しました。後のディープハウスやテックハウスの発展に大きな影響を与え、今日でも多くのプロデューサーやDJに尊敬され、頻繁にプレイされています。
A Guy Called Gerald(本名:Gerald Simpson)による「Voodoo Ray」は、イギリスのアシッドハウスシーンを代表する楽曲です。マンチェスターで生まれたこの曲は、独特のサウンドと反復的なリズムで、後のレイブカルチャーに大きな影響を与えました。Roland TB-303ベースラインシンセサイザーの特徴的な音色と、サンプリングされた「Voodoo Ray」というフレーズが印象的です。この曲は、アメリカのハウスサウンドをイギリス独自の感性で解釈し、新しい方向性を示しました。「Voodoo Ray」は、クラブシーンだけでなく、イギリスのポップチャートでも成功を収め、ハウスミュージックの大衆化に貢献しました。また、この曲の成功は、後のUKガレージやドラムンベースなど、イギリスの電子音楽シーンの発展にも大きな影響を与えました。
Masters At Work(Kenny "Dope" GonzalezとLittle Louie Vegaのデュオ)による「To Be In Love」は、ニューヨークのガレージハウスシーンを代表する楽曲です。India Arieのソウルフルなボーカルとラテンの要素を巧みに融合させ、ハウスミュージックに新たな深みと洗練さをもたらしました。この曲は、ディスコとハウスの伝統を受け継ぎながら、90年代後半の音楽性を反映しています。リズミカルなパーカッション、温かみのあるベースライン、そして感情豊かなボーカルが絶妙にバランスを取り、ダンスフロアを魅了します。Masters At Workは、この曲でハウスミュージックにおけるソングライティングの重要性を示し、単なるビートトラックを超えた音楽的深さを追求しました。「To Be In Love」は、今日でもハウスクラシックとして高く評価され、多くのDJやプロデューサーに影響を与え続けています。
Fatboy Slim(本名:Norman Cook)の「Right Here, Right Now」は、ビッグビートとハウスの融合を象徴する楽曲です。90年代後半のクラブシーンを席巻したこの曲は、サンプリングとブレイクビートを巧みに使用し、エネルギッシュでキャッチーなサウンドを生み出しました。特徴的なギターリフと「Right here, right now」というボーカルサンプルは、瞬く間に人々の記憶に刻まれました。Fatboy Slimは、この曲でダンスミュージックとロックの要素を融合させ、より広い観客層にアピールすることに成功しました。ミュージックビデオも話題を呼び、MTVの頻繁な放送により、ハウスミュージックの大衆化に大きく貢献しました。「Right Here, Right Now」は、エレクトロニックダンスミュージックがメインストリームに進出する上で重要な役割を果たし、2000年代以降のEDMブームの先駆けとなりました。
Stardustの「Music Sounds Better With You」は、フレンチハウスの黄金期を象徴する楽曲です。Thomas BangalterとAlan Braxeによって制作されたこの曲は、Chaka Khanの「Fate」からサンプリングしたギターリフを中心に構築されています。フィルターハウスの代表作として、ディスコサンプリングを効果的に使用し、90年代後半のハウスミュージックの方向性を示しました。反復的なリズムと中毒性のあるフックは、ダンスフロアを熱狂させる力を持っています。この曲の成功は、フランスのエレクトロニックミュージックシーンを世界的に注目させる契機となり、後のDaft PunkやJusticeなどのアーティストの活躍につながりました。「Music Sounds Better With You」は、ハウスミュージックの商業的成功と芸術的価値の両立を示し、今日でも多くのリミックスやカバーの対象となっています。
Eric Prydzの「Call On Me」は、2000年代に入ってからのハウスミュージックの商業的成功と大衆への浸透を象徴する作品です。Steve Winwoodの「Valerie」をサンプリングし、キャッチーなリミックスに仕上げたこの曲は、クラブシーンだけでなく、メインストリームのポップチャートでも大きな成功を収めました。特に、セクシーなミュージックビデオが話題を呼び、ハウスミュージックの新たな側面を示しました。Prydzは、この曲でクラシックロックとモダンハウスの融合を実現し、幅広い年齢層にアピールすることに成功しました。「Call On Me」は、ハウスミュージックがポップミュージックの主流となる過程で重要な役割を果たし、後のEDMブームの先駆けとなりました。また、この曲の成功は、サンプリングとリミックスの可能性を再認識させ、多くのプロデューサーに影響を与えました。
Disclosureの「Latch」は、2010年代のUKガレージとハウスの融合を象徴する楽曲です。若手デュオのDisclosureと、当時無名だったSam Smithのコラボレーションによるこの曲は、ハウスミュージックとポップの架け橋となりました。洗練されたプロダクションと感情的なボーカルの組み合わせは、クラブシーンだけでなく、ラジオやストリーミングプラットフォームでも大きな成功を収めました。「Latch」は、ディープハウスの要素を取り入れながら、キャッチーなポップメロディを融合させ、新しい世代のリスナーにハウスミュージックを紹介する役割を果たしました。この曲の成功は、エレクトロニックダンスミュージックがメインストリームポップに与える影響力を示し、2010年代以降のダンスポップの方向性を形作る上で重要な役割を果たしました。
Yellow Magic Orchestraの「Firecracker」は、厳密にはハウス以前の楽曲ですが、電子音楽の先駆けとして後のハウスミュージックに多大な影響を与えました。坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣によって構成されたYMOは、この曲でシンセサイザーとリズムマシンを革新的に使用し、未来的なサウンドスケープを創造しました。特に、ローランドのシンセサイザーとドラムマシンの使用は、後のハウスプロデューサーたちに大きなインスピレーションを与えました。アジアの音楽要素とエレクトロニックサウンドの融合は、グローバルな音楽シーンに新たな可能性を示し、テクノやハウスの発展に寄与しました。「Firecracker」は、その独特なリズムパターンとメロディラインで、特にアシッドハウスの発展に影響を与えたとされています。
……なんか納得感も有るしオチとかいい感じなんだけど味はしないな。元増田の方が味と臭いはあった。
https://anond.hatelabo.jp/20241102140715
過去の高校時代なんて今や他人事だから、学校サボるってなんかエモーショナルな体験だよな〜〜
「サボり」の実績解除をしときたかったけどもう取り返しがつかないぜ〜〜
くらいの感傷なのかもしれない。
それでも時々、そういう青春のテンプレート的勲章への未練ではなく、その時その瞬間に抱く感情ってどんなものだったんだろうなって思う。
高校まで、青春のエモーションとかそういうのが嫌いだった。青春とか口にする大人が大嫌いだった。
過ぎ去った時間への感傷を、今まさにその瞬間を生きている他人に向けて気持ちよくなってんじゃねえよゴミカス。テメーの後悔も懐古もテメーで抱えてろ。って思ってた。
もし自分がそうなってしまったら死んでくれと今のおれに呪詛を送っていたけど、受け止められなかったな。すまんこ。でもお前のせいで色々損もしてるからな。
まあそれも含めて、テメーの生き方の全てを肯定したい。まさにそういうのが滅茶苦茶嫌われそうだけど。
当時の自分がサボりを求める心はそういう「青春体験」を意識したような、どこか俯瞰的で冷めてるものではなかったと思う。
サボるという発想自体は無い訳でもないけれど、自分の行動コマンドの中にはない。
コケ脅しと分かっていても、「誰のおかげで」「お前の意志で通ってるんだろ」「嫌なら辞めても良いんだぞ」みたいな言葉は胃が痛む。
よりもいの1話は本当に刺さった。友達に欠席の偽装工作を頼んで、意を決してサボろうとしたけど結局サボれずに遅れて学校へ行ってしまう。まさに自分が思い浮かべていたような、でも結局実行は出来なかった、等身大の描写。
きっとおれが本当にサボれていたとしても、居心地は悪かったと思う。
遊ぶにも遠くへ行くにも金はいる。そもそも学校に辟易してサボっているのだろうから、そんな気分にはなれないだろう。
きっと着信に怯えながら、せいぜいブックオフで立ち読みでもして、マックか図書館にでも籠もって、これなら学校行ってた方がマシだったと思ったのかもしれない。それか、開き直って楽しむ事も出来ない自分が嫌になるか。
まあそういうサボり方だったとて、それはそれで実行出来ていれば美しく脚色された後暗くもエモーショナルな青春の思い出になってたのかもしれない。
実際部活をサボって多摩川をチャリで下ったり高尾山登ったり、都心を目指して線路沿いを延々歩いた思い出は今も輝いてる。ただ当時の気持ちをしっかりと思い出せば、それも悶々とした気持ちを抱えながら歩いてた。
マンガの主人公みたく、河川敷にでも行って空を眺めるような生き方は出来なかったな。
マジメをよいこと、ストイックであること、誠実であることとの言い換えを可能にするような意味合いで使うのなら。
でも単に怒られるのが嫌だからではなかったのかもしれない。
実際大学ではサボりまくった。サボったけれど、冒険は出来なかった。
電車に揺られながら、このまま根府川にでも行って電車から海を眺めようか。いっそ鈍行で長野まで行って蕎麦でも食ってやろうか、という衝動に駆られはしたけれど、一度も実行には移せなかった。
突発的なサボりの日は大抵ゲーセンにでも吸い込まれるか、そうでなければ家で過ごした。都内を少しだけ遠出することもあったけれど、悶々とした気持ちが膨らむばかりであまり楽しめなかった。
今も上野とか行くと、衝動的に新幹線のってどこかへ行きたくなる事がある。でも行けない。
今も昔も、怒られたくないとか金や時間がないとか、もっともらしい理由はいくらでも挙げられる。ただその遠くへ踏み出せなくなるような重力の発生源は、もっと根源的なところにあるような気がする。
それのおかげで人は「まとも」に生きられるのかもしれないけど、たまには振り切ってみてえよ。
メジャーなバンドではないが、知ってる人を探すとそれなりにいる(と思う)バンド
そのバンドの個人的ベストソングに「どうせ生きるなら艶やかに」という曲がある
URLは最後に貼るので文章を全部読み飛ばして聴いてくれるだけでいい
本当に良い曲なのでとにかく聴いてみて貰いたいが、どういう曲なのかも知ってもらいたいので、超個人的解釈で解説する
この曲はどうせ生きるなら艶やかに生きようという事を歌っている 人生の応援ソング(ちょっと恋心要素が強いかな?)
そのままじゃん! そうです、申し訳ない
皆さん、生きていますよね?基本的には生きるしかないですよね?
生きている限り、様々な辛いことや悲しいことがあり、進むために何かを失い、何かを失い人生を進めていき、その上で人は変わってしまっていく が、
ならばせめてその生を艶やかに生きていこうよというメッセージである(艶やかはそれぞれが解釈を持ち自分が艶やかだと思う生き方をすればいいと思う)
この曲はグルーヴ感とかではなく歌詞を含めて味わうタイプの曲である(恐らく)
この曲、歌詞だけを見るとどうせ生きるなら艶やかにという部分以外は結構ネガティブな事を言っている しかし石鹸屋というバンドの良い部分が出ており、ダウナーさは感じない
疼くんだ 生暖かくて今にも破れそうな傷跡が
いつかそれすらも懐かしめるようになるのかしら
良いと思いませんか?傷つき、まだ塞がっていない傷跡を掻きむしりたくなる苦しみに悶えながらもこの出来事を懐かしむようになれるのかしら?と言い切りではないうっすらとした展望からスタートし
最後に
痛痒い心も 邪な気持ちも 増え続ける傷も どうせ生きるなら艶やかに で〆る
この邪な気持ちもという歌詞が非常に良いんです。わかりますか? ここでちょっとだけ人間のいやらしい部分が入る
そうなんです、みんな清廉じゃないんです 邪な気持ちを持っているんです それもひっくるめて行けば良いんです 皆さん、それも含めて生きてください
この曲のことは自分だけのエモーショナルとして誰にも教えたいと思ったことはなかったが、もっとこの良さを評価されても良いんじゃないかという気持ちで堪らず書いた
普段文章を書いたりする事もないので、何が言いたいんだかわからないと思ったら申し訳ない
ただただ、誰かにこの曲の良さを知ってほしい、その気持ちだけで書くに至っている
この曲を聴いて良いねと感じる人や励まされる人が一人でも増いたら、非常に喜ばしい
読んでくれた人も、URLだけ踏みに着て聴こうとしてくれてる人も、ありがとう
https://www.youtube.com/watch?v=3d7-ojjJ1oc
↑これはCD版 これを聴いてくれれば良い こっちの方が個人的には好み
https://www.youtube.com/watch?v=fOfSxkdTamM
↑PV版 若干違う ボーカルの恰好について思う事があるかもしれないが、そういうものだと思ってほしい
この曲が収録されている For Child というアルバムの最後に Bye Bye Blues という曲がある
歌ってる人が若かりし頃(二十歳くらいと言っていた)に書いた曲らしいが、これも非常に良い 卒業間近の高校生の気持ちを最大限のエモーショナルで歌っている
どうせ生きるなら艶やかにはこの曲があって生まれているんじゃないかな(特に最後の部分の心情)、と勝手に思っている セルフアンサーソング?
速弾き: 「あの速弾きの部分、本当にスムーズで、しかも全ての音がしっかりと聞こえてきたよ。スピードと正確さを兼ね備えた演奏は、まるでプロみたいだった。」
タッピング: 「タッピングのフレーズがとてもクリアで、しかもリズムの中でしっかりと生きている感じがした。指の動きが完璧だね。」
正確なピッキング: 「速弾きなのに一音一音がクリアで、正確さがすごいね。」
ハンマリングのスムーズさ: 「ハンマリングオンとプリングオフが本当に滑らかで、メロディが生き生きとしてる。」
フィンガースタイルの巧みさ: 「指使いがとても洗練されていて、音に深みがあるね。」
アルペジオ: 「あのアルペジオの部分、指使いがとても滑らかで、メロディと伴奏が一体となって美しい響きになっていたね。聴いていて本当に心地よかった。」
複雑なコードチェンジ: 「あんなに複雑なコードチェンジをこんなにスムーズにこなせるなんてすごい!指の運び方が本当にスピーディで正確だね。」
ダイナミクス: 「曲のクライマックスに向けて、音がどんどん強くなっていくダイナミクスの使い方が見事だったよ。まるで物語が展開しているようだった。」
ビブラート: 「ビブラートのかけ方がとても繊細で、音がすごく感情的に響いてきた。弦を揺らすたびに、その一音一音がとても深い意味を持っているように感じたよ。」
ベンディングの味わい深さ: 「ベンディングにすごく感情がこもっていて、心に響くね。」
オリジナルのアレンジ: 「あの有名な曲を君のスタイルでアレンジしたところ、本当に斬新だった。原曲の良さを残しつつ、君ならではの個性がしっかりと感じられた。」
ソロの構成: 「ソロパートの構成が本当に見事だった。最初はシンプルで聴きやすいメロディから始まり、最後に向けてどんどんエモーショナルになっていく流れがとても印象的だった。」
正確なリズムキープ: 「テンポが速い曲でも、全く乱れることなく正確なリズムをキープしていたね。リズム感が本当に優れているのがわかるよ。」
グルーヴ感: 「バッキングでのカッティングがとてもリズミカルで、バンド全体のグルーヴが引き立っていた。君のギターがあるだけで、曲が一層躍動感を持つね。」
音作りのセンス: 「そのトーンの選び方がすごく独特で、一度聴いたら忘れられない。」
エフェクターの使い方: 「ディレイとリバーブのかけ方が絶妙で、音がまるで空間を飛び回っているように感じた。音作りへのこだわりが伝わってくる。」
アンプのセッティング: 「クリーントーンの設定が本当に美しくて、ギターのナチュラルな音色を最大限に引き出している感じがした。聴いていて心が洗われるような音だった。」
・色々あって行けた
なかなか行く機会なかったから
・ハンチョウで「1日で…周れるわけ無いだろうが…っ!」って言われてたから「無理やろなあ」と思ってたけど基礎知識の無さから終始豚に真珠状態で8/10周れた(歩けた)
あとハンチョウのあの楽しみ方できる知人、目茶苦茶レアで貴重すぎる
・人体骨格は唯一楽しめた
頬骨弓の立体的な構造わかんね〜ってなってたのでたすかる
上肢の骨格の復習できた たすかる
ドクターストーン好きっ子は喜びそう
・親子連れが多くて「おっ親子の思ひ出ができるエモーショナルな場〜」ってなった 子供は年齢的に概ね忘れる可能性が高そうだがほわっとだけ記憶される幼少期の家族のおもひでってエモーショナル〜ってなった 親は大変そうだった
ちょっと画質を期待しすぎたけど360度画面は初めてだったので観れてよかった
(半々だから180度じゃなかった?)
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。