はてなキーワード: 無為とは
ああ、春ですか。まあ、確かにカレンダーはそう言ってますね。でもあなたのその感傷的なつぶやき、まるで去年の花粉症の苦しみを完全に忘れたか、あるいは脳の記憶領域がスギ花粉で埋め尽くされたかのようで。
春ですって? そうですね、自然界は再生の季節ですよ。でも人間界は相変わらずで、SNSには「春だな~」という無脳な投稿が再生産され、まるで思考停止のループ。桜の花びらより軽いあなたの知性が風に舞っていますね。
「春だな」って、何が? 税金の支払いが迫ってくること? 新入社員という名の使い捨て労働力が大量投入されること? それとも花粉、黄砂、PM2.5で呼吸が罰ゲームになること? ああ、素晴らしい季節ですね。生きててよかった。
春が来たからって、あなたの人生に突然ポジティブな変化が訪れるとでも? 桜が咲いたところで、あなたの自己啓発本の積読タワーは相変わらずですよ。その「春だな」の一言で、空虚な日常をごまかそうとしてるのが見え見えです。
自然界のサイクルとやらに感傷的になる前に、あなたの部屋のサイクル(汚れ→さらに汚れ)でも見直したら? 春の訪れを感じるどころか、カビの繁殖を感じるレベルですよ。
ああ、春。就活生には地獄の季節。花粉症患者には拷問の季節。あなたのような浅はかなつぶやきをする人には「そうですね」としか返せない人々をイライラさせる季節。素晴らしいですね。
春ですよ! 新しい始まりです! といって、あなたが去年やり残したこと、挫折した目標、消えたやる気、全部そのままじゃないですか。桜が咲こうが、あなたのダメさは枯れ木同然。
「春だな」というありきたりな感想。その陳腐さは、コンビニの桜味商品並みのオリジナリティですね。せめて「春の訪れに、私はまた一年無為に過ごしたことを思い知らされる」くらいの自覚はあるのかしら?
春ですね、確かに。でもあなたのその言葉、まるでAIが自動生成したような薄っぺらさ。感情の深度がインスタントコーヒー並みに希薄です。もっと捻ったメタファーはないのか? 例えば「春は社会という歯車にまた噛み込まれる季節」とか。
ああ、春。あなたのような人々が一斉に「癒される~」とか言い出す季節。でも現実は、クソみたいな日常が色を変えただけ。桜のピンクに染められても、あなたの愚かさは相変わらず真っ黒ですよ。
春が来たからって、何か変わる? あなたのその怠惰な性格、自己中心的な思考、浅はかな価値観、全部そのままでしょ。季節が変わったところで、中身までリニューアルされると思った? 残念、人間はそう都合よくできてません。
「春だな」という安易な言葉。その裏には「何も考えるな、感じろ」という思考停止の命令が隠れてますね。まるで「とにかく盛り上がれ」という強制された陽気さ。春の嵐よりうるさいのは、こういう薄っぺらなポジティブ思考です。
春ですって? 社会の歯車がまた回り始める音が聞こえますか? 新年度という名のシステマティックな暴力が始まりますよ。あなたの「春だな」という言葉は、その暴力を美化するためのBGMに過ぎません。
ああ、春。自然は再生するというのに、あなたは相変わらず同じ過ちを繰り返す。去年と全く成長してないじゃないですか。桜の木は年輪を重ねるというのに、あなたの脳内は1周回って同じ場所。立派な停滞ぶりです。
春の訪れを喜ぶ前に、あなたの人生の冬を何とかしたら? 人間関係もキャリアも趣味も、すべてが凍りついたままじゃないですか。自然界のサイクルとあなたの成長が完全に同期してないことに気付いてる?
「春だな」という言葉の軽さ。まるでその一言で、自分が何か深いことを言ったかのような錯覚。その自己満足、春の陽気に浮かれた花粉のようです。一瞬で消えますね。
春が来たからといって、あなたの内面まで花咲くと思った? 残念、そこは不毛の地のまま。むしろ「春なのに何も変わらない自分」に気付いてさらに憂鬱になるのがオチでしょう。
ああ、春。この季節だけなぜか哲学者になる人が増えるよね。「命の尊さ」とか語りだして。でもそのくせ普段は平然とコンビニで使い捨て商品を買い漁る。矛盾もいいとこです。
春の訪れに感傷的になる暇があったら、まずはあなたの部屋の掃除をしたら? 冬物のコートの下から出てくるのは、去年の食べかけのお菓子じゃないですか。自然の循環より、あなたの生活のループの方が深刻ですよ。
「春だな」という言葉に込められた無内容さ。その空虚な響きは、あなたの頭の中をそのまま反映しています。せめて「春が来ても何も感じない」くらいの自己認識があれば救われるのですが。
春ですよ! 希望の季節です! ……と言い張る人々の、その根拠のない楽観主義。現実を見ろよ。春が来ようが、世界は相変わらずクソだらけ。あなたのその能天気さ、むしろ病気ですよ。
というわけで、春だな、とつぶやくあなたに春の訪れを祝うよりも、まずは自分自身の陳腐さを反省することをお勧めします。自然界のサイクルにすがる前に、自分という惨状と向き合いなさい。それができたら、まあ、それもまた春の奇跡ですね。
https://anond.hatelabo.jp/20250413023227
お前がグーグー寝てたりアンパンマン見てる時に俺たちは「怒りの葡萄」読んてたわけ。
でも別にアンパンマンも見ている。お前とは時間の使い方が違うから。
小学校に入ったら公文ピアノに加えて水泳と体操クラブと書道教室に通う。
小3からは四谷大塚。ちなみに朝は学校の陸上クラブにも参加している。
お前らが遊んだり無為に漫画読んでアニメ見たりしてる間に、俺達は四泳法身につけてるわけ。
ても別に遊戯王もやってりゃアニメやら録画したトリビアの泉も観てる。お前らとは時間の使い方が違うから。
中学になれば部活動も本格化して、朝練をして学校生活やって午後部活してから習い事。
でもお前ら以上に遊んでいる。お前らとは時間の使い方が違うから。
高校になるとガチめの体育系の部活に入るし習い事は卒業だ。全国大会目指して夜までネットリ部活。
でもお前が何もしてない間に俺たちはこういうスケジュールをこなしてるわけ。
基礎体力と気力とスケジューリング力が違うの。
ついでに小学生のころに高校の内容の勉強してるようなやついたろ?
だから社会人なんて「こんな楽なスケジュールでいいの?」って感じなの。なんで朝6時から行動しねえんだ?
なんで22時から別のことできねえんだ?って思うの。
それに加えて子育てやら家事振られても、ハッキリ言って何一つとして大変じゃないの。
そういうのが「普通の人」を名乗ってるの。
だからお前はもう生まれからして間違えて「普通じゃない人」になっちゃってるの。
それを認識しよう。
昨日までの週末、無為に時間を消費するときにしか得られない栄養を得た気がする
・にんたま
Eテレで入浴シーン見せてもらっていいのか?となってしまう、奥さんめちゃくちゃ美人なんだろうな
マジでこのあたりのシーンEテレでいいのか?とずっとキョドってしまった
山田伝蔵の照れ隠しの一面などもあり、大人たちの普段隠してるところをのぞき見てしまったようなそんなソワソワ感を感じてしまった
利吉、いつもキザ感あるのに急に息子ムーブするじゃん…
・かんこれ
デイリー全部消化
色々見ていたが何から手を付けていいのかマジで何もわからなくなってしまったので、やはり備蓄
タシュケント掘りもありなのだが、堀に対して消費コストがデカいのでイベント海域踏破してから触りたいところ
・にんつぼ
日課消化
オートで4600段全部クリアできるようになったものの、まだ速度は改善の余地が大いにある
せっかく引いた彦四郎くんをしまっとくのもな、と思い 同じように久作もしまっている
手持ちの★4も徐々に増えてきたので、通常ステージ向けと城向けでパーティを試行錯誤していきたい
・無双おりじんず
眠さに負ける
いやいや、キルケゴールさんの言うことも一理あるかもしんねけど、人生ってそんな簡単に答え出るもんじゃねぇべ?絶望だって、そりゃあんたの気持ちを深めるための一部かもしんねぇし。ほんで「普通」なんて、どこさあるんだべ?人それぞれの「普通」があんだべさ。
40代独身氷河期非正規って、そりゃあ大変だべけど、まだまだ人生これからだっちゃ!政府の広告なんて、まあ、あんまり期待しねぇ方がいいかもしんねけど、でもなんかのきっかけになるかもしんねぇしな。
夢を追いかけるのもいいし、生活保護だって、必要な時には頼っていいと思うべ。べつに恥ずかしいことじゃねぇし。それに、なにか新しいこと始めてみるのもいいかもな。趣味でも、ボランティアでも、なんでもいいから。
人生は自分で決めるって、そりゃあ立派な考えだっちゃ。無為に生きるなんてごめんなさいって思うなら、何かちょっとしたことでも挑戦してみるのがいいんでねぇべか?少しずつでも希望の光が見えてくるかもしんねっちゃ。ファイトだっちゃ!
全く分からん
絶望しながらも、希望を持とうと頑張ることが良いらしいが、過酷だよな
そんな「普通」なんてもはや手に入らない
40代独身氷河期非正規男性が、絶望しないでいられる状態ってなんだ??
マジで答えてくれ
絶望しながらなんとなく生きる、これだけはやっちゃいけないみたいにキルケゴールは言ってるんだけど
しかしどうやって??
「氷河期世代を救います!」みたいな政府の広告見ても薄寒いだけ
何か夢を追いかけたらいいのか?
それとも、最悪生活保護がある日本に生まれてラッキーとでも思えばいいのか?
くそっ
誰も答えやしない
答えられないからだ
何か希望を見つけ出してやる
DVを言われるまで理解してなかった(認めたくなかった)その一点で、カウンセリングというか精神科一択
何が自分の事は〜だ
第三者目線の様な事言ってるのも、あなたと添い遂げたいのに上手くいかない可哀想なわたし🥲悲劇のヒロイン感を出したいだけ
あなたが精神科医に見て貰いたいので付き添って欲しいという理由でいいから引っ張り出して
予約の時に本来見て貰いたいのは奥さんだと伝えておくといいかも
専業主婦が奥さんの希望だとしても、あまりにも変わり映えのない毎日だと何もせず年取ってくだけの無為な人生の恐怖がありそう
引き籠もりに近ければ狂うよ
家の中に確固たる地位がないから(役立ってる自覚がないから)出ていく詐欺で試すのよ
(筆者だが、追記と編集を重ねた末に表示内容が見切れてしまい、不自然な終わり方をした文章に見える人がいると思うのでその部分を再投稿しておく)
無事訓練校に受かるとプログラミングの初歩を勉強した。しかし面接はたった数回受けてその感触の悪さで自分にはもう無理だと諦め、残りの在学期間は周りから見てなんで就活しないのか意味不明な無為に過している学生に映ったと思う。皮肉にも、就活なんかよりもこんなプログラミングよりも、もっと学問的なことを欲する自分がいて、この今からすれば浅ましいとしか言いようがない思いが、就活と就活をしている学のなさそうな若者やいい年をしたおじさんをこそ無為で愚かなものに認識させたのだった。
これはどちらかというと発達障害によるものだろう。その後大きく生活が変化することはなく1、2年後にコロナ禍になり、余計、私自身含め家庭全体での就職する機運は低くなった。
母はいまだに担任の発言に遺恨を抱いている。私の為とはいえさすがに求め過ぎだと思う。
少なくとも私は性格が悪い。これははっきりしている。上記の文章にも主旨に不要で性悪さが伺える自分語りが見られただろう。ストレスに弱い(≠優しい)統失の素因があっただけだ。
生まれてから30年が経った瞬間、お前にできることはもう、現状を所与のものとしてありのまま受け入れることだけ。
30歳になったくせにロクに仕事もできない。年収も低い。結婚もしてない。当然子どももいない。休日を無為にしか過ごせない。もはや友達すらいない。
そういう諸々の不足ごとに対して、お前に自虐する権利はもうない。
なぜなら自虐は、ただ若いからという理由で許されてるだけの逃げ方だから。
何かの拍子にお前の人生の弱点を突かれたとき、自虐でヘラヘラ逃げて、お前自身の人生の欠落が、「いつかは埋まるはずなんですけどね」みたいな態度をとることはもはやできない。
これから先、正論で斬られたとき、お前にできるのはただうなだれることだけ。
しょぼくれて肩を落とすことだけ。
それ以外選択肢はない。
お前がこれまで手に入れることができなかった、あるいは失ってきた人生の色々は、お前の人生にはもう永遠に充足されないものであって、それが埋まる「いつか」を担保に自虐することは、今後一切許されない。
だいたい、30歳のオッサンオバサンの自虐を聞かされる相手の身にもなってみろよ。
分かったら受け入れろ。拒否権はない。
受け入れろ。
分かったらもう二度と自虐をするな。考えるな。口にするな。
以上。
結論から言うと学歴が高いこととFXで勝てることとの間は負の相関があるからである。これは高学歴が無能だとか言いたいわけではなく、彼らはおおむね有能なのだけれどFXには絶望的に向いていない、というだけの話だ。以下、なぜ高学歴がFXで勝てないのかを述べていくことにする。
高学歴は公式が大好きであり、「AならばB」といった法則を至上のものとする。しかしながらFXにおいては「普段はAならばBでいいんだけど今回は織り込んでいたのでCでした」「織り込んでいたら普段はAならばCでいいんだけど織り込みが甘くてDでした」「トランプが何か喋ったからEになりました」「よくわからんけどFでした」といった理不尽な展開が頻発する。そもそも、例えば「利確千人力」と「利益は伸ばせ」といった矛盾する2つの格言が両立している時点で意味不明である。高学歴が得意とする「公式を習得し、そこから演繹的に結論を導いていく」という世界とは全く異なるルールで動いているのだが、過去の成功体験を捨てられない者が多い。
一説には東大生の4人に1人は発達障害であると言われている。この特性はFXにおいて明確に不利に働く。
ASDの有する「頑固であり、決まったルールを過度に順守する」性質は柔軟性が大事なFXにおいては致命的である。彼らはトレンドが変わったにもかかわらず過去のトレンドに固執して永遠に金を吐き出すことになるであろう。もちろん、「シンプルな優位性を発見してそれを無限に繰り返す」という方向で上手く活かせればこの特性は活きるかもしれないが、「シンプルな優位性」の賞味期限が多くの場合短いのがネックである。
ADHDはより深刻である。なぜなら彼らは常に刺激に飢えているがゆえにポジションを取り過ぎるためである。公式のないFXにおける数少ない黄金律「ポジポジ病はやめろ(無暗にポジションを取るな)」との相性があまりにも悪すぎる。高知能ADHDでFX勝てる人っているのだろうか。もしいるのであればどうやって勝てるようになったのか教えて欲しい。
損切りをしない勝ち組は存在しない。ところが高学歴は過度な負けず嫌いであるため損切りが苦手である。「トータルで勝つためにここは負けを受け入れる」という風に考えられれば良く、彼らも理屈は理解しているだろうが、苦手意識を払拭するのは簡単なことではないだろう。
FXは勉強や労働とは異なり、1時間稼働したから1時間の恩恵が得られるという類のものではない。しかし彼らは投下したリソースに対する恩恵を求める(得られる恩恵を想定してリソースの投下先を考える)傾向がある。結果として、恩恵を確定するために利確が早くなってしまい、コツコツドカンの道を歩むことになる。
「相場をずっと監視し、予想もするが、ポジションは滅多に取らない」これはFXが上手い人たちに共通する特徴の一つである。ところが高学歴は無駄な時間が嫌いである(実際は無駄な時間ではないのだが)。結果として、相場をただ監視し続けることに耐えられず、期待値の低い場面で過剰にポジションを取ってしまい、損失を重ねる。
もちろん上記の弱点を克服できた高学歴もいるだろうが、多くの場合ではそもそもFXで勝つことを諦めた方がいいと思う。シンプルに向いていない。冒頭にも書いたが彼らはFX以外ではおおむね有能なのだから、その能力を生かして労働して高い給与をもらい、雑にインデックス投資でもやるのが最善と思われる。
それでもどうしても勝ちたいという人は自動売買botでも開発すればいいんじゃないかな。裁量よりそっちの方が向いてると思う。
自分の抱える諸問題を総括すると、いかにして自分で決めたことを自分で守るか、ということになりそう。
他人が決めたことを自分で守ることは、たいてい自分で決めたことよりも容易であることが多い。より困難であればそのひとから離れたら良い。
自分で決めたこと、つまり自分で自分に対して何らかの課題を課すこと自体は、適切に行うことが容易であるように思える。
夜24時になったらベッドに入って余計なことをしないとか。毎日ある時間帯は勉強をしようとか、ある時間帯はスマホを手放そうとか。
毎朝ラジオ体操やストレッチや筋トレやらをしようとか、洗顔や化粧水やら手入れをしようとか。禁酒するとか禁煙するとか。
おそらくある種類のひとは、これらを実際に習慣にできている。
また習慣にできていないひとも、24時間監視されて破ったら即体罰とかされたら、概ね習慣にできるだろう。
といっても後者は他人によって守らされているだけで、前者のように自分で守っているのとは異なる。
やる/やめることについて、ハードルを下げる/上げる方法論みたいなものはあるのかもしれない。
だけれど、そのハードルを超える/超えないように、実際に行動/我慢するには精神論しかないように思う。
誰かが言ったように「とにかくやれ」でやるしかない。ああすればできる、こうすればできる、なんて特効薬はきっとない。
とにかくやれるひとは、それこそゲームでも絵でも曲でもそのひとなりに完成させられるし、
勉強や競技といった結果で評価されるものであっても、そのひとの才能の上限に近い結果で勝負することができるだろう。
あるいは精神的肉体的に健康に、そのひとなりに美しく充実した生活を送ることができるようになるだろう。
そのひとなりに納得できる人生を、今日を過ごすことができるだろう。
社会人一年目の冬だった。クリスマスを目前に控え、僕はアプリで知り合った女性と鍋を食べに行く約束をした。学生時代は彼女もできず、ただ無為に時間を過ごしていた僕も、とうとう社会人になった。同期たちは皆、学生時代から付き合っている彼女がいて、結婚だとか別れるだとかそんな話ばかりしていた。そういうのを聞き流すのにも疲れて、僕はいい加減、彼女を作る努力をしようと思ったのだ。
その女性とは何ともあっさりと会う約束ができた。どうやら彼女は最近彼氏と別れたばかりで、すぐに新しい彼氏を探しているわけではないらしい。でも、会話が楽しいと感じる相手と会うチャンスを逃すのはもったいないと思った。
彼女は華奢で小柄な女性だった。寒さのせいか、体を縮めて歩いている彼女はますます小さく見えた。「はじめまして」と少し照れたように挨拶を交わした後、僕は自然と手を差し出した。彼女は一瞬驚いたようだったが、すぐにその手を取ってくれた。その瞬間、彼女の手の温かさが伝わってきて、僕の下半身はすでに反応していた。それでも何とか平静を装いながら、僕たちはまるで長年の恋人同士のように手を繋ぎ、店へと向かった。
店に入ると、掘りごたつの席に案内された。彼女はマスクを外し、初めてその素顔を見せた。少し出っ歯な笑顔が彼女の口元に浮かび、それが不思議と彼女の魅力を増しているように思えた。
鍋を囲んで話をしているうちに、僕たちはどんどん打ち解けていった。狭い掘りごたつの中で、いつの間にか彼女の脚が僕の脚に触れていた。黒タイツ越しの滑らかな感触が妙に心地よくて、僕はその感触に意識を持っていかれそうになった。脚が絡み合うたびに、微妙な緊張と興奮が僕の中に湧き上がったが、彼女はそれを気にする様子もなく、ただ楽しげに笑っていた。
食事を終え、夜の冷たい空気の中を歩きながら、僕たちは再び手を繋いだ。彼女の手の温かさが伝わるたびに、僕の下半身は再び反応していた。自分の心臓が高鳴るのを感じながら、それでも何とか冷静さを保とうとした。でも、彼女の手の感触と、黒タイツ越しの脚の感触が頭から離れなかった。(おちんちんはもうパンパン)
駅に着き、別れ際、さようならと笑顔で彼女を見送った。彼女の笑顔と温もりが、帰宅した後もしばらく僕の心の中に居座って離れなかった。そして、いまだにあの夜の興奮が黒タイツの感触によるものだったのか、それとも彼女そのものに起因するものだったのかは、僕にはわからないままだ。
そこで見た大人の人間関係が大変いびつであったことを思い出した。
まず、そのクラブの大人のヒエラルキーは大人の貢献度で決まる。
毎週クラブに顔を出し、親が監督やコーチになったり、親でない監督やコーチの世話をしたり、子供たちを試合会場に車で送迎できるとヒエラルキーが高くなる。
また、上の兄弟がスポーツクラブに所属していた過去があれば、その実績値も加算される。
ヒエラルキーが高い親の子供は優遇され、そうでない子は冷遇される。
そして、親のヒエラルキーが高いことによって厚遇されているということが、また親のヒエラルキーに反映される。
親がクラブ活動に貢献しているから、子供がレギュラーになり、子供がレギュラーだから親のヒエラルキーも上がる、といった具合に。
子供の能力もある程度は評価されるが、良いポジションや良い打順は高いヒエラルキーの子供だった。
後に親から聞かされたが、ぼくは能力順ならレギュラーになれたが、親のヒエラルキーが低いので先輩にレギュラーを奪われていたらしい。
ここまでが子供時代に見たことで、大人になって思い出してみると、ますますいびつさが増す。
まず、子供時代に見た、保護者ヒエラルキーは必ずしも親の年収や社会的地位とは比例しないということだ。
むしろ、土日祝日に他にやることもなく、子供の球遊びを熱心に追いかけ、小さな社会での地位競争に明け暮れる人が、自身の属す社会集団でどういう立場であるかは容易に想像できる。
自身の上がり目のない人生に早々見切りをつけ、子供の人生に自分の人生も託して、次世代の競争に賭けていたのだ。
今にして思えば、なんと退屈な人生で、子供に対して無責任な態度なのだろうと思う。
でも、地元の行く末を後追いできる今ならば、彼らが自分の人生に見切りをつけたのは間違いではなかったとは思う。
ただし、子供もスポーツで成功したという話は聞かないので、賭けに勝ったとも言えないのだが。
とはいえ、そんな子供時代やスポーツクラブを呪っているわけではない。
あんな無為で小さな社会で、ぼくのために人生を浪費してくれなくて良かった。
親のヒエラルキーの壁を超えるほどの天才的な活躍ができれば、ぼくも勘違いしてスポーツの道にのめり込めたかもしれないが、そんなことはなかった。
早々見切りをつけてスポーツで上を目指すことを諦めたことは、後の人生を助けてくれた。
そして、歪な親社会にフリーライドできたこともまた事実なのだ。
熱心な親たちのお陰でぼくたちの練習や遠征が成り立っていたし、低ヒエラルキーの子供でも、それなりに父兄は面倒を見てくれた。
彼らの歪な関係性のおかげで、ぼくは楽しく皆と遊べた。
ぼくが親になっても、彼らのようにクラブヒエラルキーを追い求めるのは無理だろう。
今でも全肯定はしないけど、それでも当時はあれで良かったのだと思う。
大人ってあんまり楽しそうじゃないと思っていたけど、子供の頃に想像していたよりは楽しい大人になれているし、ぼくにとっては良い経験だった。
mRNAワクチンは死亡率を下げるものであり、マスクは感染者からの感染拡大を低減するものだからだ。事態が進行中の時点において、医療者インフルエンサーで、「感染予防」という発信をしたひとはいたはずで、それは文字面だけみて「誤り」を発信したひととなったかもしれない。
感染予防という誤情報によって未接種者はウイルスをばらまく人殺しだと批難し、特に若者に対してリスク・メリットを大いに錯覚させ、すでに知られていた心筋炎リスクすら河野太郎や山中伸弥のようにデマ扱いしてまで呼びかけ、結果無為に若者の死者や重症者といった薬害を出すのは「近似的に目的に合致していた」からリスクコミュニケーションとして正しいらしい。
しかし、ふたつめ以後は、リスクコミュニケーションとして、不適切な部類に入る。ふたつめの安全安心なる表現も制度的介入行為になじまない。あらゆる医療的介入にはリスクとベネフィットがある。その勘案として専門家がリスクをベネフィットがうわまわると判断し、それを国民も承認した、という形になっている。不服があるなら民主的に議論する必要があるが、その議論はあくまで、クリティカルになされるべきである。
何言ってるのか全然わかんね。選挙で選ばれた政権与党が出した方針に対して選挙で選ばれたわけでない尾身茂をははじめとした専門家会議が逐一「了承」し、気に入らなければ五輪反対のように政治介入する体制が民主的だったとでも?
マスクは感染予防効果があるんですか! と言い募るひとと議論はできないだろう。先に書いたように、未感染者に飛んできたウイルスの感染をマスク着用で低減するとは言えない。しかし、感染者がウイルス感染を拡大させるのを阻むためにマスクは有効だ。「文字面」というのはそういう意味だ。マスクは有効だった部分があると思う。したがってコロナ禍においてマスクは有益だったと評価したい。
ワクチンについても、ワクチンを打てば感染しなくなることもないし、感染拡大を妨げることもないが、感染したことで死亡するのを防ぐ効果があるものだったと理解している。これも、感染(発症)予防という文字面からは誤りとされるが、しかしコロナ禍においては同様に重要で有益だったと評価している。
「重要で有益だったと評価している。」[要出典][誰によって?] 結局、マスクもワクチンも有効だったと思い込みたいというのが言葉の端々からダダ漏れだけど大丈夫なん?『米国上院の報告書』読んでみたら?
つまりこういうことだ。「ウイルス飛来→感染→発症→死亡」という症状進行のステップと、「ウイルス飛来→感染→ウイルス複製→飛沫発生→感染拡大」という再生産のサイクルのどの段階に効いているかをあいまいにした議論は無効だと言っている。mRNAワクチンは症状進行のステップの最後の発症から死亡への矢印を抑えるものだったし、マスクはここでの再生産のサイクルの飛沫発生から感染拡大という矢印を抑えるものだった。
何言ってるのか全然わかんね。結果がすべてだぞ。日本よりマスクもワクチンも早々に辞めた諸外国が地獄にでもなったのか?
そういえばこの「ワクチン的利用」という表現も注意が必要なのだ。finalventにとってワクチンというのはあくまで「獲得免疫」を介した「感染・発症防止」に関するものとしてあり、感染(発症)を抑えることはできないmRNAワクチン(あるいは彼の表現を用いるなら、mRNA医薬)というのは、確かにその文字面としては正しいのはわかる。ただ、それは文字面として正しいだけなのだ。mRNA「ワクチン」を活用した企業・医療が、「ワクチン」という、ジェンナーの種痘以来のイメージに乗っかってプロモーションしたのは事実だ。それに対して文字面で批判したくなる潔癖の気持ちは、わからないといったら嘘になる。わかるのだ。
何言ってるのか全然わかんね。mRNAワクチンが従来のワクチンと一切の機序を異にするのは「文字面」の問題じゃないぞ。
でも、大事なのは死者を出さないことだった。その方針が、経済を妨げてまで行う必要があったのかどうかは、民主的な議論の俎上に載って然るべきものだが、それは本文で述べることではない。
生命と経済や文化との兼ね合いを勘案しないでどうやって生きるの?それをしない論って意味あんの?ていうか「民主的な議論」って何?
元ツイートはもとより、finalventのツイートもまたやはりリスクコミュニケーションとして不適切な部分が大きい。文字面としてだけ妥当するにすぎず、コロナ禍という事態の問題設定を捉えそこねているのだ。
まともな問題設定ができてないお前が何いってんの?経済や文化との兼ね合いを無視していいなら、あらゆるリスクを極大にとるのが正しいリスクコミュニケーションになるけどそれでいいの?じゃあなんでワクチンのリスクに関してだけは矮小化することが許されるの?
精神疾患で何もできなくなり、数年ほぼ引きこもりながら寝て過ごした。寝て過ごした影響で体が弱くなり仕事に就いてもうまくいかない。そんな中、個人事業主への委託という形でだが仕事をさせてもらえる場所が見つかった。どれだけ休もうが遅刻しようが許されている。それなのに仕事に行きたくなくて(仕事内容がめちゃくちゃ難しいとかミスしたら怒られるとかもないのに)体が出勤時刻になっても起き上がらなくなってきた。休みと遅刻が増えていてその分は当然賃金ももらえない。雇用されているわけではないので有給もない。手当も保障もない。そんな形だからこんな体たらくも許されている。許されている間に体をまともに治したいが日に日にしんどさは増すばかりでどうすればよいのかと思う。しかし本気ではないのだ。しんどくなくて楽ちんな方法で改善したいという考えだけがある。考えているだけで全く行動は伴わず時間だけが無為に過ぎる。通院は続けているのだがこの己の怠惰な気質、しんどいことから逃げてしまう性質は改善するのか。己を責めても状況は好転しない。健常者ができることができるようになりたい。逃げたくない。しかし辛いことはやりたくない。毎日規則正しい時刻に起きて辛いけどなんとか着替えて外に出て行くべき場所に行く、それをこなしていた頃のことを思い出せない。思い出したい。1粒飲めば真人間になれる薬があれば良いのにな。普通に躁鬱の鬱期なだけかな?温かくなれば楽になるかな?部屋も年単位で荒れ果てていてそのせいで体調が悪いのかもしれない。1回部屋丸ごと空っぽにしたい。どうぶつの森みたいに一瞬で収納できる異次元空間が欲しい。寝具を良いものに変えてみたけど特に状況は好転していない。こんなに惨めで恥ずかしくても死ねない。だるいね
交通事故で膝の骨が粉々になり、半年くらい車椅子の生活を強いられていたことがある。俺はその間、一時的に「ひまわり学級」いわゆる特別支援学級に登校することになった。もといた教室までの階段を登れなかったし、エレベーターもなく、車椅子が入れるフラットなトイレも1階にしかなかったのが理由だ。
でもひまわり学級は身体障害者向けと言うよりは少し知能や精神に問題のある児童のためのものだった。3〜6年生のそういう児童が集められて、各自の進行度に合わせたプリントを進めたり、先生が一対一で教科書を読んで説明したりする。先生は二人いて、一人は児童の勉強を見て回り、もうひとりは大人しくしていられない子どもを落ち着かせたり指導をする、という感じだった。
俺は車椅子用に広めのスペースを開けてもらった教室の右後方からそれを眺めながら「こりゃヤバいところに来たな」と純粋に焦った。常に奇声が上がっているし、自閉症やダウン症の子どもの顔つきは申し訳ないけど同じ日本人とは思えず怖かった。先生たちが優しくしてくれるかというとそうでもなく、教科書を読み上げて事務的な言葉をかけてくるだけで、聞きたいことがあってもすぐに他の子どものところに行ってしまうし、基本的に自習に近い状態が続いて勉強もどんどん遅れていく気がした。授業と休み時間が交互に来る、という感覚が希薄で、無為な時間がダラダラと続いて一日がひどく長く感じる。最初のうちは大休憩にもとのクラスの友達が顔を出してくれたが、ひまわり学級の異様な雰囲気の気圧されるのか一週間もすると来なくなった。下校時も親が迎えに来るので学校での俺は孤独だった。当時、ひまわり学級のクラスメイトや先生を人格のある人間とは認識できていなかったんだと思う。
そんな日常が変わるかもしれない兆しを見せたのは、数週間経ってからだった。
新しい児童がひまわり学級に移ってきたのだ。そいつは女子で見た目は普通というか頭はまともそうに見えたし、何なら顔が結構好みだった。ついでに言うと胸もデカかった。当時の俺は別に巨乳に対して性的興味を覚えなかったが、それより何よりとにかく奇声を発したりよだれを垂れ流したりしないクラスメイトができたのが嬉しくて「なんでこのクラスに来たの」と声をかけた。
そいつは冷めきった顔で俺の足のギプスを見て、「あんたは怪我? じゃあ普通の人間だ?」と言った。冗談かと思って半笑いになったが相手は全然笑ってなかった。
そう言って今度は笑った。超でかい声で笑った。びっくりしたし、やっぱりこいつもだめだと思った。
でも結局このイカレ女が俺の初恋の相手だったんだと思う。プリントに見向きもせず窓際の席でずっと校庭を睨んでいる彼女の横顔を毎日3時間くらいは眺めていた。顔が好みだったから。
会話した記憶はあまり残ってない。一度、そいつが6年生なのに俺と同じ教科書を使ってたのが気になって「どこまで進んでるの?」とか聞いたときに「なんであんたに教えなきゃいけねーんだよ!殺すぞ!」って超でかい声で怒鳴られたのが怖くて、あまり話しかけられなかった。
そいつは生傷を作って来ることが結構あった。その頃は「荒っぽい性格だから喧嘩とかもするんだろうな」なんて思っていたが、今思うと虐待を受けていたのかもしれない。
俺がひまわり学級にいる期間内に運動会があった。もちろん俺は競技に出れるような状態ではなかったが、一応ひまわりの連中と一緒に出席だけはした。イカレ女子が借り物競争に出て、借りるものが書かれた紙を見ると会場全体をキョロキョロして、俺の方に向かって走ってきて「あんたにする!」とでかい声で叫んだ。俺は正直ちょっとときめいた。いかれてはいるが顔が好みの女の子に車椅子を押してもらえると思うと、思わずときめいてしまった。
でも違った。彼女は「走れ、走れ」と怒鳴るだけだった。俺は必死で車椅子を走らせたが、校庭の砂の上だし、そもそも普段そんなにスピードは出さないので勝手がわからず、隣であいつに怒鳴られながら一分くらいかけてなんとかゴールした。ゴールすると会場から障害者の健闘を称える盛大な拍手が巻き起こった。俺は恥ずかしくて顔が熱くて燃えそうだった。イカレ女子はまだ怒っていて「なんであんた遅いの?負けたじゃん!」と超でかい声で怒鳴られ、俺は悔しくて泣いてしまった。昼休み、見に来ていたうちの親がそのことで怒ってイカレ女子の親に抗議しに行くといい出した。やめてくれと頼んでも聞いてくれなかったが、結局何も起こらなかった。あいつの親は来ていなかったのだ。
彼女は午後の選抜リレーにも出る予定だったが、昼飯から戻ると席から消えていた。俺は気になって、トイレに行くと言ってひまわり学級の教室に車椅子を走らせた。俺の直感通り彼女は教室にいた。ただ上半身裸だった。体操着を脱いで私服に着替えているところだった。
ごめんと言って逃げようとしたが、車椅子を回すのに手間取っているうちに彼女が半裸のまま近づいてきて胸ぐらを掴まれた。そして超でかい声で怒鳴った。
「わたし帰るから! あんたが遅いせいで負けてやる気なくなったから帰る!!」
目を閉じようとしたができなかった。体は引き締まっているのにとにかく胸がでかい。乳輪が盛り上がっている。
「帰るなら、俺も一緒に帰ろうかな」
なぜか知らないが俺はそう口走ってしまった。怒鳴られるかと思ったが彼女はびっくりした顔でじっと俺を見ていた、それから過去一優しく笑って、
怒鳴らずにそう言って俺を開放し、そそくさと着替えて走って教室を出ていってしまった。追いかけようとしたが、もちろん車椅子では追いつけなかった。上履きを履いていなかった彼女の、裸足の足の裏がぺちぺちと廊下の樹脂を鳴らす音が誰もいない校舎に響いていた。
戻って先生にイカレ女子が帰ったことを報告すると「いいよいいよ」と興味なさそうに言うだけだった。彼女が消えたひまわり学級の観戦席には、奇声を発したり虚空を見て独り言を言い続ける子どもたちと疲れた様子の先生がいて、俺の車椅子のために広めのスペースが開けられていた。でもなぜだろう、唐突にここは俺の場所ではないと思った。最初からそうだったんだと思った。
その日のうちに俺は元のクラスに戻してもらうよう親に頼み、翌日から学校に行く日数を減らして代わりに病院でのリハビリを始めた。ギプスを付け替えて、松葉杖の練習をして階段を登れるようになるまで2週間かかったが、とにかく俺は元のクラスに戻ることができた。何ヶ月もいなかった俺をクラスメイトたちも何事もなかったかのように受け入れてくれ、ほっとした。変な感じにならないか少し怖かったのだ。まあ元からクラスで目立つ存在ではなかったから、いてもいなくても変わらなかったのかもしれない。
それ以降、俺がひまわり学級に顔を出すことはなかった。だから俺がイカレ女子を見かけるとき、彼女はいつも歩いていた。登校中か、下校中か、校庭をかけているか。俺は声をかけられなかった。あんたは無理、松葉杖で遅いから無理、と諦めたように言われるのが怖かった。
あれから随分立つが、今でも彼女が夢に出てくる。胸のでかい女子小学生はいつも歩いている。そして俺は決して追いつけないのだ。車椅子も、松葉杖もないのに。
統合失調症の姉と家族を記録した映画『どうすればよかったか?』について、閉じ込めた親が悪い、早期診断させるべきだったと簡単に言うが。
このように、精神医療は今でも患者の人権を軽視し抑圧している。40年前ならさらに酷かった事だろう。
医療に繋げさえすれば万事解決という短絡的な考えをやめてほしい。
https://www.hokeni.org/docs/2023102400019/
戦後日本の精神医療施策は、隔離収容入院を中心に組立てられた。遡ること1950年に、社会防衛思想にもとづく強制入院手続き法として精神衛生法が施行され、国は精神科病院の新増設と患者の隔離収容を進めた。1958年には「精神科特例」を定め、少ない人員配置で治療的かかわりも乏しく長期収容性の高い精神医療構造を作り上げた。1960年以降の「精神病院ブーム」により病床は増加の一途をたどり、強制入院させられた患者は、閉鎖病棟の中で無為な時間を過ごし、施設症化した社会的入院者となった。
1984年には、患者2人が職員による暴行で死亡した宇都宮病院事件が報道され、これを契機として精神保健法に改められた。初めて本人の意思に基づく任意入院制度が設けられたが、その後も病床は拡大し、1993年には国内精神病床数は36万3010床でピークを迎えた。1995年には精神保健福祉法に改正され、国は「入院医療中心から地域生活中心へ」という施策転換を掲げたが、社会復帰は進まず精神科病院には社会的入院者があふれている状況がなおも続いた。
2002年、国は社会的入院者7万2千人を10年間で退院させると宣言し、その後地域移行支援施策を展開したが、現在に至るまで顕著な実績を挙げられていない。入院患者の高齢化は進行し、2011年以降は精神科病棟内での死亡転帰者が年間推計2万人を超え、2018年には全入院患者に占める65歳以上高齢者は60%を超えた。
これまでの法改正によっても、家族等の同意に基づく強制入院制度の骨格は73年間変わっていない。本人の病状よりも社会的影響が勘案され、患者以外の家族や病院・地域・行政の都合が優先されていることが多い。他国にはない、入院させやすく退院しにくい制度設計は変わらず、むしろ法改正の度に強制入院の要件は緩和されている。
https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/blog/bl/pMdddVYk4M/bp/pv7nnnWQRX/