はてなキーワード: cmとは
気がつけば毎週火曜の夜、テレビの前で「開運!なんでも鑑定団」をリアルタイム視聴している自分がいる。録画じゃダメなんだ。あの、鑑定結果が発表される瞬間のドキドキ感を共有したい。
この番組の魅力って、視聴者がクイズ感覚で依頼品の真贋や鑑定額を予想できる参加感にあると思う。テレビの前の自分も鑑定団の一員になれる。「これは本物だろ!」「いや、これは怪しい…いくらになるんだ?」なんて、家族とやいのやいの言いながら見るのが楽しい。それに、自分だっていつか、家にあるガラクタ(かもしれない何か)を持って出演できるかもしれない、という夢があるのも大きい。
オープニングの軽快なビートルズ「Help!」で気分が上がり、スタジオでのゲスト鑑定へ。ゲストは呼ばれるけど、過度な宣伝はほとんどなく、番組を通して静かに立っていることが多い。この「出しゃばりすぎない」ゲストの扱いが絶妙なんだよね。
そして、スタジオ鑑定の合間に挟まれる依頼品のバックグラウンドを解説するVTR。これがまた良い。単なるお宝紹介に終わらず、歴史や文化に触れる教養番組としての一面も持っている。このVTRがあるから、鑑定結果への興味がさらに深まる。
番組の中盤には「出張鑑定団」。スタジオを飛び出して、日本各地のホールなどで公開収録する。その土地ならではのお宝が出てきたり、ちょっと目立ちたがり屋な市長さんとか地元の名士が出てきたりするのも、地域密着感があって面白い。これぞ日本のローカルバラエティって感じがする。
スタジオに戻って再び鑑定、そしてVTR。この流れが本当に淀みない。
エンディングで流れる、ようわからん歌も、なぜか番組の締めとしてしっくりくる。
さらに特筆すべきは、CMが入るタイミング。毎回ほぼ決まった時間に、ちょうど良い区切りで挟まれる。だから、番組の流れが途切れず、緩急とテンポが保たれている。このフォーマットは本当に完成されていると思うんだ。
だからこそ、「〇時間スペシャル」には少し不満がある。スペシャル版になると、この洗練されたフォーマットが崩れがち。無理にコーナーを詰め込んだり、ゲストがやたら増えたりして、いつものテンポが失われることが多い。それに、スペシャルの前週や翌週に放送が1週間飛んでしまうのも、毎週の楽しみを奪われるようで寂しい。
あと、これは個人的な意見だけど、司会の今田耕司(前任の紳助もそうだったけど)の、あえて無知な視聴者目線で振る舞うスタイルが、時々ちょっと邪魔に感じてしまうことがある。知識がないのは仕方ないけど、もう少し知的な好奇心を見せてほしいというか…。そういう意味では、かつての石坂浩二の博識ぶりは、番組の格調を高めていたと思う。石坂さん、戻ってきてくれないかなぁ…。
子供の頃、同居していた今は亡き祖母がこの番組が好きで、よく一緒に見ていた。お宝の背景にある物語や、鑑定額に一喜一憂する依頼人の姿を、祖母と並んで見ていた光景は、今でも大切な思い出だ。
視聴者参加の楽しさ、教養的な側面、地域密着の面白さ、そして確立された番組フォーマット。個人的な思い出も相まって、私にとって「開運!なんでも鑑定団」は、単なる長寿番組ではなく、毎週見ずにはいられない、完成されたエンターテイメントなのだ。
Ri-fie 確かに消えている。ただ、https://anond.hatelabo.jp/20250409032831の4月7日分1個と、8日分は丸々残っている。まだ捕捉されていないidで書いているのかな。
数年前から自演っぽいはてブのアカウントと増田を通報してきてるけど、垢BANされた場合でも投稿は残っているというパターンは普通にあったので、垢BANと投稿削除は必ずしもセットではない可能性はある。テクウヨ増田も復活する度にほぼ毎回通報してたけど、非公開ブクマ垢と一緒にBANされても投稿は消えないことも結構あった。
あと垢BANと同時に記事が削除される場合であっても、Not Foundになる場合とならない場合の2パターンがある。最近だと2025年3月23日に投稿されたこの記事から何本かのテクウヨ増田がNot Foundになってるけど、テクウヨ増田全体の中でいうと少ない方ではある。
テクウヨ(テック右翼)が「赤いきつねのCM批判者はたった1%!
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20250323134030
す……凄い勢いでキチガイが集まってくるZO!
ドドドド
舌が腐ってるから酸味なんて有難がるんだ
ライムじゃなかったの?
からあげクンニ✋(👁👅👁)🤚せい
揚げたてなら絞る冷めてたら絞らない
🍋の🎁
ようやくマインクラフトムービーの予約ができるようになったんだけど
マイクラだぞ?子連れで見にいくものだぞ?吹き替えに決まってるだろうがアホかよ
小さめのシアターで吹き替え流して、客席の多いIMAXシアターは字幕
狩野英孝・ヒカキンとかのYoutube配信してる人を吹き替えに呼んでおいて
彼らのYoutubeで散々CMしてテレビのCMでも吹き替えで散々流しておいて
一番大きなシアターは字幕
控え目に言ってアホなんじゃないの
バブル崩壊が小学生低学年、中高と就職氷河期の時代を見てきた。
子どものころ、大人は楽しんではならない。遊んではならない。ルールは上司が作り、上司は気に入らないことがあれば理不尽に部下を虐げてもよい。
そんな理不尽な世の中だと思っていた。
だいぶ偏っている考えだと思っているが、いくつかルーツがあるんだ。
まず、小学校の頃だが、中学に上がると絶対に部活に入らないといけないということを知った。
親になんで部活に入らないといけないのかと聞いたら、「子どもを遊ばせないためだよ」という答えだった。
この遊びとは、今だと分かるが不良のような悪い遊びというつもりで言ったのかもしれないが、
小学生の僕は、「中学生に入ると遊ぶことは禁止されるのか…勉強の後は部活で、ゲームやプラモデルはもうできないのか…」と本気で思い怖くなった。
そのころ、テレビでは「24時間働けますか」というCMがやっていた。
また、CMやドラマではOL等が「明日から休みだ。旅行だ」と楽しみにしていると、理不尽に上司から残業を命じられたり。
子どもが楽しみにしているのに親が接待ゴルフのために約束を果たせないとか
急な転勤でせっかく建てた家なのに父親だけが一人どこかに行くとか
そんな描写ばかりで、もう恐ろしくなった。
※うちの家族は自営業なので、しょっちゅう家にいるので、家族がバラバラに命令でさせられるということに怖さを覚えた
また、中学には校則がありいろんなことが禁止されるという噂も耳にした。
これは管理教育の頃の記憶が新しかったためそういう話が子どもたちにも知られて噂になっていたのだ。
先輩の言うことは絶対聞かなければならない
先生は怒ると本気で殴ってくる
実際ちょっと前までは事実だったのだろうが、90年代にはなりを潜めていたのだが、そういうことがあった事実が恐怖を増幅させた。
特に音楽に関してはただ好きな物を聴いているだけなのに禁止されるのは意味が分からないと思っていた。
このように非常に強固に大人になることの恐怖を覚え、小学校高学年の頃は懲役刑に服す前の囚人の気持ちだった。
実際、中学に入ればそんなことはなく、正直肩透かしではあったが、
ただニュースから流れてくる話や、親がいう大学生が大変だという話を聞いて、
やはり会社にいる大人たちは地位を盾に不条理な仕打ちをして快感を感じているんだとおもった。
多感な時期に「人はチャンスがあれば相手を破滅させる行動にでる」という警戒心が無意識についた。
一例として、横断歩道を渡る時にかなり警戒するようになった。
通常であればわたっている最中なら徐行なりしてくれるだろうが、
相当車が遠くにいても、横断歩道を歩いている子どもがいれば運転手は理不尽に怒り、最高速度で轢きに来ると思っていた。
なので、信号がない横断歩道は、ずいぶん先まで車がいない時ではないと渡らなくなった
ちなみに、大人になっても若干それは感じるので、車線変更や右折のときに怒った運転手が追突してくるんじゃないかという恐怖は常にある。
他にも、大人に趣味や好きな物を言うと、それが逆鱗に触れると怒られるかもしれないとかも思った。
高校生くらいのときだって、「仕事の効率が悪くなるから結婚禁止や趣味禁止のルールがある会社は結構あるだろうな」とも思っていた。
ただ、このおかげでいろんな良いルートへの可能性を警戒感ゆえに潰してきちゃったかなっておもっている。
あれからテレビ局におけるドラマ制作は変わったのだろうか、脚本業界は変わったのだろうか。
昨今のニュースを見るに、増田には何ひとつ変わっていないように見える。
日テレは「セクシー田中さん」のドラマを、再び作り直してみてはどうだろうか。
ちなみにこれは単なる日テレや同事件の関係者へのディスりではない。むしろポジティヴな提案である。
もしよろしければ最後までお読みください。
「セクシー田中さん」の漫画を読んだことがある人は同意してもらえると思うが、あの作品はただのラブコメではなく、ルッキズムやエイジズムなどの複雑なテーマを掬い上げ、現代の生きづらさと希望について描こうと挑戦した素晴らしい傑作だ。
それぞれ問題を抱えながらも、多彩で魅力的なキャラクターと、どこまでも繊細でのびやかなストーリー。
まさに笑えて、泣けて、ぐっとくる。
(四巻で朱里が「田中派」宣言をするところと田中さんが愛子先生と踊るところ、七巻で笙野が田中さんの影響を自覚するところが特にツボ)
残念ながら未完となってしまったが、2020年代の傑作として読み継がれるべき「セクシー田中さん」が、ただ痛ましい事件の象徴として後世に記憶されることについて、原作ファンの中には耐え難い思いをしている人も多いのではないか。
2023年に映像化されたドラマについてはあえてここでは言及しないが、日テレは「ケチのついた曰く付きの作品」としてただ過去に葬り去るのではなく、遺された原作ファンのために、敬意と誠意をもって再度作り直してみてはどうだろうか。
水俣病と闘う人々を描いた全6時間超えのドキュメンタリー映画「水俣曼荼羅」の第三部で、石牟礼道子氏(水俣病とテーマとした「苦海浄土(1969年出版)」の著者)が登場するのだが、彼女の説明によれば「悶え神」とは水俣地方の言葉で「他人の苦しみや不幸を我が事のように感じて悶え、何も出来ないけれど、せめて嘆き苦しみを共にし、加勢しようとする人」のことだという。
Xで「セクシー田中さん 日テレ」と検索すると、件のプロデューサーや脚本家への怨嗟のポストが溢れ、現在も更新され続けているが、増田はそこに「悶え神」の亜種としての心性を見る。
組織vs個人という構図、そして「傍若無人で横暴なテレビ局が個人を潰す」という従来のイメージに結びつきやすかったこともあるだろうが、こうした人々の思いというものは、なかなか簡単に消えるものではない。
日テレは昨年5月に調査報告書を出したものの、同業者である漫画家からは「中途半端だ」という批判が噴出、7月の定例会見では社長も「ミスコミュニケーションが生じたのは非常に心が痛む思い。改めて芦原先生には申し訳なく思います」と謝罪したが、当たり前だがそれで収まるわけではない。
このままだと今後もずっと、日テレと日テレの局員たちは何かある度に「セクシー田中さん」の件で責められ続けることになる。
「広告付き無料放送」という民放テレビ局のビジネスモデルは消費者(視聴者)から直接の収入を得ていないため、一般的な企業に比べて悪評やクレームには非常に強い耐性がある(今回のフジテレビの件で少し風向きが変わったが)。どれだけの悪評に染まろうが、組織としては「このまま風化を待つ」という選択肢が一番賢明だという考え方もあるだろうし、上層部の中には悪目立ちすることなく、退職まで逃げ切ることだけを考えている人もいるだろう。
だが、現場に残される局員たちはどうだろうか。
あの事件においては何人かの関係者が回復不能なほどの社会的制裁を受けたが、その余波は自分の持ち場で懸命に仕事をしている他の局員やスタッフにも及んでいるのではないかと推測する。
日テレが提出した調査報告書の別紙2の中でアンケートに答えていた局員の中には、真摯にドラマ制作に向き合っているプロデューサーや演出の存在を感じたが、彼らにも言い分があるだろうし、大きな舞台での名誉回復の機会があってもいいと思う。
これが理由の2つ目。
あの事件をめぐって、日テレは「謝罪のタイミングが遅かった」「当事者たちの処分、謝罪が不十分だ」と批判された。
政治家や芸能人、企業の不祥事が明らかになった時、本人や重役たちが謝罪会見を行い、テレビカメラの前で深々と頭を下げる慣習があるが、実は日本や東アジアの一部地域でしか行われない、世界的にも珍しい行為らしい。
「誰に謝罪しているのか?」と言えば、いわゆる「世間」に謝罪しているのだが、被害者に向けてではなく実体のない「世間≒空気≒同調圧力」に謝罪するという行為は、国外から見れば極めて異質な謎の儀式として捉えられている。
さらにその謝罪会見とセットで、政治家であれば離党や議員辞職、芸能人であれば活動自粛、企業であれば重役や担当者の懲戒処分などの自主的な制裁が行われるが、その背景にあるのは「お前も失業して生活に困れ!」という大衆の暗い欲望である。
キャンセル・カルチャーについては、大衆に残された最後の武器であり、完全に手放すべきではないとも思うが、私怨が入り混じり、行き過ぎた排斥運動は結果的に国民全員を萎縮させてしまい、発展的ではないようにも思う。
『セクシー田中さん』の再ドラマ化計画を推し進め、社内公募により新たにプロデューサーを募り、制作における全権を付与。最終的なクオリティに全責任を持たせる」
当たり前だが、すでに人が亡くなっている以上、誰も責任など取りようもなく、本質的な意味での償いなど出来はしない。
だが、日本の企業として、テレビ局というメディアとして、従来の"謎の儀式"と決別した、未来志向の「新しい責任の取り方」のモデルを示す機会なのではないかと思う。
これが理由の3つ目。
前段で書いた提案について、実際の現場で働いている人間にとっては「何を絵空事を」と思うかもしれない。
<参考①>
「セクシー田中さん、日テレの調査報告書に「書かれていないことがある」、テレビマンが指摘する問題の核心」
https://www.bengo4.com/c_18/n_17626/
<参考②>
『不適切にもほどがある!』磯山晶、日本から世界へ元気が出るドラマを
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00581/00098/
『プロデューサーと聞けば「偉い人」と思われるかもしれないが、現在のテレビ業界では「使いっ走り」とほぼ同義語』
と上記の記事にあるように、実際には地上波ドラマのプロデューサーにはそれほど権限がないにも関わらず、課せられているKPIが複雑すぎ、さらに言えば"顔を立てなければいけない関係者"が多すぎるという現実があり、それが結果的にさまざまな問題を引き起こして、脚本家や俳優、スタッフを含む末端まで苦しんでいるのではないだろうか。
それらは全て上記<参考②>の「CMスポンサーから製作費をもらってドラマを制作する」という構造に起因しているように思う。
日テレは昨年7月22日に「日本テレビドラマ制作における指針」を発表し、「ドラマ制作の適正なプロセスを再構築」することを宣言した。
https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240722.html
この改革が現場レベルでどのくらいの変化を生んだのか、結果となって現れてくるのはまだ先のことだと思われるが、「CMスポンサーから製作費をもらってドラマを制作する」というビジネスモデルを部分的にでも変えていかないと、ただの表面的な改革に終わってしまうのではないかと思っている。
脚本家は安い報酬で生活に追われてまともな推敲も出来ず、俳優は現場でリテイクをしないよう気を遣うあまりに無難で表面的な演技に終始し、低予算とタイトな納期に苛まれるスタッフはポスプロの廊下で倒れ込み、バブル時の権威などカケラもないプロデューサーは四方八方から飛んでくる「ご意向」に対応しなければならない。
この現状がいったい誰の得になっているのか、どういう未来に繋がっているのか。
一度立ち止まって、真剣に考えてみてもいいのではないかと思う。
これはあくまでも部外者からの提案だが、局内予算を組み直して制作予算を確保し、「自由に。そして質の高い、面白いドラマを作る」というシンプルなKPIを時限的に設定して、全スタッフのクリエイティビティを存分に発揮できるようなドラマを年に一本くらい制作してみてはどうだろうか。
そのための契機として「『セクシー田中さん』を再びドラマ化する」というのは上層部への説得材料として最適ではないかと思う。
それが理由の4つ目。
「ドラマ制作において一番重要なのは何か?」と聞かれれば10人のうち8人くらいは"脚本だ"と即答するだろう。
ではもし「セクシー田中さん」を再びドラマ化するとして、脚本を誰に書いてもらうか。
ここで野木亜紀子氏など第一線級の脚本家を招聘すれば、原作の良さを活かしつつ、ドラマ化における足し算と引き算を加えた素晴らしい脚本に仕上げてくれる可能性は高いだろう。
ただ、そのやり方はイージーに過ぎると思う。
そもそもテレビ局はなんのために新人発掘のシナリオコンクールをやっているのか。
それなりの予算を組んでシナリオコンクールを主催し、受賞者である書き手は局の大切な資産でもあるはずだが、その後のフォローと育成について、民放ではこれまであまりいい話を聞いたことがない。
以前、あるシナリオコンクールの審査員である局Pが「俺は原稿を見ない!(応募者の)顔と胸を見る(笑)!」と冗談交じりに発言していたと聞いたことがある。
その局Pがすでに現場とこの世から去っていることを祈りたいが、女性脚本家に対する局Pのセクハラについては、表面に出ていないだけで相当数あるのではないか。
(この話題を掘り下げるとあちこちで地獄の釜のフタが開きそうなのでこれ以上の深掘りは慎みたい)
再度、問いたい。
テレビ局はなんのために新人発掘のシナリオコンクールをやっているのか。
日テレは2023年のシナリオコンクールの応募者の中から「ライターズベース」を発足させ、ワークショップなどを行なっているが、日テレはライターズベースの中からメンバーをアサインし「セクシー田中さん」再ドラマ化の脚本開発チームを組んでみてはどうだろうか。もし「彼らでは役不足だ」というのであれば、そもそも自局での新人育成の意義を問い直すべきだろう。
原作のストーリーに心から共鳴し、田中さんや朱里の痛みを自分事として捉えることのできるようなシンクロ率の高い書き手をメインライターに据え、チームでアイディアを出し合う十分な期間の確保と、執筆に集中できるだけのギャラをチームに支払い、腰を据えた脚本開発をしてみるというチャレンジは、局にとってもまったくの無駄にはならないと思う。
漫画原作のドラマ化に"正解"の形はない。ベリーダンスにも"正解"の形がないように。
だからこそ、制作サイドはとことん迷うべきだし、その"迷い"こそが原作に対する誠意なのではないかと思う。
それが理由の5つ目。
近年の放送広告費の漸減により、各テレビ局はコンテンツ・ビジネスに活路を見出そうとしている。
各局はそれぞれの中期経営計画において、テレビ朝日は「コンテンツ&メディア360」、日テレは「コンテンツ中心主義」、TBSは「コンテンツIPにレバレッジをかけて新規領域の開拓を進める」と発表している。
(フジテレビも同様の計画を発表しているが、ほぼ中身が無く何も言っていないに等しいので割愛)
資料を見比べると一目瞭然だが、最も具体的で解像度の高いヴィジョンを提示しているのはTBSだ。
世界標準のハイエンドコンテンツ制作に向けたTHE SEVENへの出資と専用スタジオM6の設立、自社が保有するコンテンツを海外市場向けにリメイクして販売するSTORIESグループとの共同事業のスタートなど、そのアクションは他局と比べ抜きん出ている。
(ただ、大コケした「VIVANT」を"成功例"として社内外に無理やり記憶させることは、旧日本軍の大本営発表の如き悪手であり、非常に危険だと思う)
日テレはどうか。
2023年にはグローバルビジネス局の新組織としてスタジオセンターなるものを設立したが、個人的な印象では局内における組織改編の域を出ず、TBSのような大きな投資とチャレンジを行なっているという印象はない。
放送局として、今後どうすれば生き延びられるのか。側から見ている感じではあと数年で改革可能なポイントを過ぎてしまうと思う。
各局の配信事業に利益をもたらすストックコンテンツとして、ドラマの制作本数は軒並み増加傾向にあるが、一方で粗製濫造という批判もある。
コンテンツ・ビジネスにおいて、粗製濫造の先に待ち受けているのは、信用を失ったジリ貧の未来でしかない。
日テレは過去にいくつかの良作ドラマを送り出してきた実績がある。そのDNAはどこかに残っているはずであり、その力を結集してドラマ制作に向き合い、多くの人が納得する文脈の中で、あの事件をポジティヴな契機に変える大きなチャレンジをして欲しい、と願っているのは増田だけではないはずだ。
ご生前、芦原妃名子先生にお会いしたことはないが、他者の喜びや悲しみを自分のものとして感じるような、共感力と義侠心の強い、朱里のような人柄だったのではないだろうか。
前述した「悶え神(もだえがみ)」のような。
2024年1月29日、芦原妃名子先生の訃報をファンがどんな思いで聞いたか。
漫画業界や脚本業界にいる人間が、これからその業界を目指そうという人間が、どれだけの絶望に沈んだか。
川治ダムの写真を見たが、あんな寂しそうところで人生を終えられた芦原先生の胸中を思うと、心が押し潰れそうになる。
天まで届くような、素晴らしいお仕事をされていたのに。
日テレの関係者の中で、川治ダムにお参りに行かれた人は何人くらいいるのだろう。
花束、お酒、線香。何を持って行こうが故人には届かないかもしれないが、もしいつか行く時があるのであれば、再ドラマ化した「セクシー田中さん」をDVDにでも焼いて持っていき、手向けてみてはいかがだろうか。
少なくとも、凡常な供花を持っていくよりは慰めになるのではないかと思う。
どんなに祈ろうが、何をしようが死者が甦ることはない。
だが、作り手の情熱によって何度も形を変えて甦るのが作品であり、芸術であり、エンターテイメントの世界である。
増田はあの原作の素晴らしさを十分に活かし、迷いに迷い、考えに考え抜かれて映像化された「セクシー田中さん」のドラマを見てみたい。
踊りを通じて呪いから解放され、どんどん世界を広げていく田中さんの姿を。
冒頭にも書いたように、「セクシー田中さん」が、ただ悲しい事件のアイコンとして後世に記憶されることは、原作のファンは誰一人として望んでいないと思う。
なんか急に暑くなってきたせいか、子供の頃に食べてたアイスのことを思い出して、妙にエモい気分になってしまった。
今みたいにお洒落で、なんかこう、素材にこだわりました!みたいな高級アイスも美味しいんだけど、昔のアイスって、もっとこう、雑というか、ストレートな甘さというか、そういう良さがあったよな。
まず思い出すのは、やっぱりメロンボール。あの緑色のメロン型容器に入ったシャーベット。食べ終わった後、容器を洗ってなんか小物入れみたいにしてた記憶がある(笑)。味は、まあ、今の感覚だと「メロン…風?」って感じなのかもしれないけど、当時は最高にご馳走だった。
あと、宝石箱。覚えてる人いるかな? バニラアイスの中に、色のついた氷の粒が宝石みたいにキラキラ入ってるやつ。あれ、なんで無くなっちゃったんだろう。CMもなんかキラキラしてた気がする。あれはちょっと特別感があったな。普段は買ってもらえない、みたいな。
それから、チューペット。正式名称は違うのかもしれないけど、ポリエチレンのチューブに入った、半分に折って食べるやつ。ソーダ味とかオレンジ味とか。夏休み、友達の家に行くと冷凍庫に入ってて、「一本ちょうだい!」って言って分けてもらった。手がベトベトになるんだけど、それがまた良かった。
駄菓子屋で買った10円か20円くらいの、棒に刺さった四角いソーダアイスとか。当たりが出たらもう一本!みたいな。ホームランバーとかもそうか。あの「当たり」のドキドキ感は異常だった。
スイカバーも外せない。あの見た目のインパクト。チョコの種。夏の風物詩って感じだった。今でも売ってるけど、なんか昔食べた時の方が感動があった気がするのは、思い出補正なんだろうな。
ビエネッタも、普段のアイスとは一線を画す「特別な日」のアイスだった。あのパリパリのチョコとアイスの層。ナイフで切る時のワクワク感。家族で分けて食べる、みたいな。
なんか書いてたら、色々思い出してキリがないな。ダブルソーダとか、パナップとか、3色トリノとか…。
今のコンビニのアイスコーナーも魅力的だけど、あの頃の、限られたお小遣いで必死に選んだ一本のアイスの価値って、すごく大きかった気がする。味だけじゃなくて、その時の空気とか、友達とのやり取りとか、そういう全部がセットになって「懐かしい」って感情になるんだろうな。
ああ、なんか無性に、昔ながらのシンプルなミルクアイスとか食べたくなってきた。
コンビニ行ってこようかな。でも、あの頃の味は、もうどこにもないのかもしれないな、なんて思ったり。
BSジャパネクストがリニューアル BS10の無料放送側で日曜昼などに放送中
見られなかったケーブルテレビ局でも見られるようになったので要確認
つながるジャパネットアプリで放送同期・スマートテレビや4月からtverを含め見逃し配信あり
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・CM 三毛(猫
・02 おとめ(座
・03 南禅 寺
・04 三尺下がって師の)影(を踏まず
・05 吉田松陰 よしだしょういん
・07 [すべて]オーストリア ドイツ スロバキア ポーランド
・08 『タイタニック』
・12 [ポチャッコクイズ][ある人物の名前]「サリバン先生」
・14 埼玉(県
・16 [立体漢字]春
・18 『こころ』
・19 Eと)s
・21 『シティーハンター』
・25 [3択]ツバメ
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・29e 小学館
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・トイレブラシ
使いにくいし、室内に置いとくのが汚いから。使い捨てのシートで拭く方が簡単
・炊飯器
鍋で炊くから
三口だと置けず、二口だと物足りないから
・Googleフォト
Googleコミュニティでプラチナバッジの人に「利用規約に同意できないなら使えません」って言われたから
・スマホ
小さくて重くてかわいくないから
埃が積もるから
・ラジオ
・筆
字が下手だから
・カドケシ
・IKEA
畳部屋に住んでるから
・コストコ
・百貨店
行くまでの道が凄く混んでるから
・Seria
・イオン
近所に西友があるから。ポイント貯めるときの犬の声が悲しそうだから。
当日の予定を空けているから
・自家用車
置き場所をとるし、外に出しておくと砂が積もるから。運転が得意でないから。
・髪のカラーリング材
・浴槽
ボッチだから
※きょうは土曜日
先週日曜日とは別の回です
BSジャパネクストがリニューアル BS10の無料放送側で日曜昼などに放送中
見られなかったケーブルテレビ局でも見られるようになったので要確認
つながるジャパネットアプリで放送同期・スマートテレビや4月からtverを含め見逃し配信あり
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・03 10(億円
・05 岡山(城
・06 だいだい
・07 [すべて][順番]グリーンランド ニューギニア島 カリマンタン島[ボルネオ] マダガスカル島
・08 レフ・トルストイ
・09 リング(に向かう
・10 2780(か所
・13 globe
・14 腰越状 こしごえじょう
・16 キューティクル
・18 五十歩百歩
・19 [ふるさと][神奈川県横浜市]四川タンタン)一本(麺
・22 カピバラ
・23 1(番
・25 腎臓
・26 三重(県
・29 『シン・仮面ライダー』
・30 [3択]1 600(番地
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放送開始から3週間経った朝ドラ「あんぱん」、まあ主演が今田美桜ってことで、とりあえず見てる人も多いんじゃね?俺もその一人なんだけどさ。正直、ストーリーとか登場人物とか、まだ掴みきれてないんだけど、一つだけ言いたいことがある。いや、声を大にして叫びたい。
あのオープニング(OP)、なんなの?あれ。
なんか明るくて、カラフルで、今田美桜が楽しそうに動き回ってるじゃない?うん、まあ、朝ドラのOPなんてだいたいそんな感じだろうよ、とは思うんだけどさ。問題は、どうしても脳裏をよぎるんだよ、あのCMが。
今田美桜と言えば、個人的には「グロップではじめよう♪」って歌って踊ってるイメージが強すぎるんだよ。あの軽快な音楽と、奇抜な衣装と、ちょっと(失礼ながら)素朴な歌声。あれ、結構脳に焼き付いてんだよね。
今田美桜がニコニコしてて、ポップなCG映像が流れて…。もうね、完全に「朝ドラを見ている」って感覚じゃなくて、「なんか長尺のグロップのCMが始まったぞ?」って気分になるんだよ。
あんぱんのモデルはやなせたかしさん夫妻で、激動の時代を生きた話らしいじゃない?なんか感動とか、苦労を乗り越えるとか、そういうの期待して見ようと思ってたのに、あのOPでいきなり現実に引き戻されるっていうか。「あ、これは今田美桜のドラマなんだな」って、タレントイメージが先行しすぎる。
別に今田美桜が嫌いなわけじゃないけどさ、朝ドラってもっとこう、作品世界に没入させてほしいじゃん?なのに、あのOPはあまりにも「CMの人」感が強すぎて、安っぽいバラエティ番組の始まりみたいなんだよ。
もちろん、朝から元気をもらいたい人もいるだろうし、明るいOPが良いって意見もあるだろうさ。でも、もうちょっとこう、作品のテーマとか時代背景に寄り添ったOPにはできなかったのか?って疑問符がつくんだよ。
正直、毎朝あのOPを見るたびに、脳内で「グロップではじめよう♪」ってBGMが再生されそうになるのを必死にこらえてる自分がいる。 朝から変な精神戦だよ。
この違和感、俺だけ?なんかTwitterとか見てても、OPの雰囲気に首をかしげてる人、そこそこいるみたいだけど。
頼むから、ドラマの本編でグロップのCMイメージを払拭できるくらい、素晴らしい演技とストーリーを展開してくれ。「あんぱん」制作陣さん、マジで頼むわ。今のところ、OPのせいで評価だだ下がりだよ、俺の中で。
今日、ぼーっとしてたら、ふいにあのメロディーが聞こえてきたんだ。
「テン、テン、東京ドームシティ!」
これ。これだよ。
若い子は知らないかもだけど、たぶん20年くらい前かなあ。俺がまだ幼稚園児だった頃の話。
日曜日の朝といえば、テレビ朝日だったんだよ。まあ、たぶんみんなそうだったんじゃないかな。戦隊シリーズとか、仮面ライダーとか、プリキュアとか、そういうのを見てた時間帯。
で、その番組と番組の間とか、CMタイムになると、高確率で流れてたのが、東京ドームシティのCMなんだよね。
なんか、色んな場所が映ってて、すごく楽しそうな雰囲気だった。子供心に「うわー!行きてえええ!」って思ってた記憶がある。
ジェットコースターとか、ヒーローショーの告知とか、キラキラして見えてさ。
で、そのCMの最後に流れる、あのサウンドロゴが、もう強烈に耳に残ってるんだよ。
映像がパッと切り替わって、たしか東京ドームシティのロゴが出てきて、あの女性の声で。
「テン、テン、東京ドームシティ!」
子供だった俺は、あのメロディーを聞くたびに、テレビにかじりついて「ここに行きたい!」って言ってた気がする。親に「いつか行こうね」とか言われたりしてさ。
結局、いつ行ったかはっきり覚えてないんだけど、あのCMとサウンドロゴは、俺の中で「日曜日の朝のワクワク感」と完全にセットになってるんだよね。
パジャマのまま、リビングのソファでゴロゴロしながらテレビ見てて、あのCMが流れると、一日が始まるぞ! みたいな気持ちになってたなあ。
今思い出すと、あのサウンドロゴ一つで、当時の空気感とか、家のリビングの匂いとか、日曜日のちょっと特別な感じとか、全部ブワーッと蘇ってくるんだから不思議だよ。
たかがCMのサウンドロゴなんだけど、俺にとってはタイムカプセルみたいなもんなんだな、きっと。
「テン、テン、東京ドームシティ!」
片頭痛持ちだと打ち明けると、「あ〜、わかる〜。私もたまに頭痛くなるタイプ〜」と気軽に返されることがある。うん、いや、うん、それはそうなんだけど……ちょっと違うのよ、たぶん。
目の奥がギュッとつかまれて、そのまま後頭部までずるずる引きずられるようなあの痛み。蛍光灯の光がナイフに見えてくるし、誰かの笑い声さえノイズに変わる。そう、世界が“うるさい”のだ。うるさくて、まぶしくて、重たくて、うんざりする。
そんな私が、ずっと憧れていたものがある。
でた、意識高い系の代名詞。なんなら「スタバでMac」よりも“できる感”が強い、あの2画面体制。だけど、まぶしい画面が2枚になるなんて、片頭痛持ちにとっては拷問でしかなくて、私にとっては夢のまた夢だった。
ところが最近、治療が効いた。予兆も減ったし、薬もよく効くようになってきた。ふと、思ったのだ。
「……もしかして、2画面、いけるんじゃ?」
思い立って、小さなサブモニターを買ってみた。ほんとに小さい、13インチ。慎重に、やさしく、まるで“新しい住人”を迎えるみたいにデスクに設置した。
結果。
使えた。ちゃんと、2画面を、使えたのだ。
Photoshopでメイン作業しながら、サブに参考画像。Googleドキュメントを開きつつ、もう一方で資料をめくる。あのときの感動ったら、「この靴、走れる!」って言いながらお気に入りのパンプスで駆け出すOLのCMくらいドラマチックだった。いや、ほんとに。
それまで、世界を避けるように、なるべくまぶしくないところで、なるべく小さく生きてきた。眩しさを遮るためにサングラスをかけ、通知を切り、なるべく音を閉じて。調子のいいふりをするのも、あきらめるのも、どちらもそれなりに疲れる。
だからこそ、この“画面がふたつある”というだけの、ささやかだけど革命的な変化に、ちょっと泣きそうになったりもする。
治療で良くなったから、ようやく「ふつうの人が当たり前にしていること」を私もできるようになった。ただそれだけなのに、「できない」時間が長かったぶん、ちょっとしたことがとても眩しい。
だけど、たぶんそれは悪いことじゃない。
ふつうが当たり前じゃなかったことを知っているからこそ、いまの“ちょっとラク”がちゃんと嬉しい。
2画面モニター。ぜいたくなんかじゃない。ただ、ずっと遠かっただけ。