はてなキーワード: 伊勢とは
https://anond.hatelabo.jp/20250317032703
↑で、南区はそれ以外で書いてあって、ブコメでのコメントがなさそうだから書いてみる。
一言で言えば、そこそこ便利だけど目立たない区なので、まあそれ以外の扱いであってる。
そこそこ便利なところを書いてみる。住むには実は結構おすすめ。
当然西区、中区の方が近いが、南区は隣なのでそこそこ近い。電車で10分程度。電車は京急か市営地下鉄。自転車でも横浜いける。
それ以外にも昔からある個人店で飲食店はもちろん、惣菜を売るような店も美味い店が多い。
スーパーも多め。
主要な道路は平坦。奥に行けば坂はもちろんあるけど、自転車は普通に使える。
もちろん場所による。曙町はダメだが、伊勢佐木あたりからの昔は治安悪かったところはかなり良くなってる。
とまあ住むには良い。特色はそんなないけど。
悪いところも。
当方、今年40歳なので記念に何か形に残る良いもの買いたいなと思い、ジュエリー有識者の知人に案内をお願いしてお伊勢参りをしてきたよ。
(ジュエリー沼の界隈では伊勢丹に行くことをお伊勢参りと言うそうな)
(ちなみに私はバツイチ独身なので自分で稼いだお金で買います)
前提として、20代の頃は300円ショップのアクセサリーをよく使ってた。
30代では身につけるアクセサリーはageteやヴァンドーム青山で、一桁万円の指輪やピアスを複数持ってて毎日使い回していた。普通に満足してる。
結婚の時はティファニーの一粒ダイヤ0.39カラットで当時40万円くらいのをもらった(相手には同額の時計を贈った)。そのダイヤは一粒だったけど、同僚からはパッと見は二粒だと勘違いされた事があるくらい輝いてたらしい。
で、本題。
数百円数千円のアクセサリーと数万円のアクセサリーの違いは、輝き、パーツの仕上がり、長期間の使用に耐えるかどうかが大きいと思う。300円のはパーツが明らかに雑。そして錆びたり変色したりベタベタしたりする。ピアスだと接着部分が雑とか。(追記、数百円はそもそもプラスチックやガラス玉なので宝石じゃないのが最も大きな違いだね)
3万円のものは加工がちゃんとしてるし、何年も使ってるけど錆びも変色もベタつきもない。
そんで数万円と数十万円の違いは、石の質と大きさと輝きとブランド体験が大きいと思う。
今回お伊勢りをして、色石メインで探して4つブランドをまわって40-60万円くらいの指輪を何個もつけたんだけどね、やっぱり輝きが全然違った。
その時身につけていたageteは控えめなデザインということもあるけど、同じ照明の環境下で見ても輝きが全然違った。
地金も各ブランドで全然違った。しっかりしたタイプ、薄めのタイプなど。これは好みもあると思う。
あと、ヴァンクリは最初から半個室に通され、おしぼりと水とメゾンドショコラの特製チョコが出てきた。買ってもないのにこのサービス。
SPRING VALLEYは増田も代官山で実験的なビールとハンバーガーを提供している醸造所兼レストランが開店した頃に行ったことがあり、当時は尖ったIPA仕込んでいたのに現状には悲しく思っている1人だ。
ブックマークコメントに同意できる発言している人も多く、はてなコミュニティにもビール好きってこんなに居たんだなと嬉しくなったので、例のマンガやゲーム作品の選出に使われるフォーマットで10本選んでみたい。
人に飲んで欲しいと思うビールを選ぶにあたり、入手容易性を重視した。クラフトビールとして限定醸造される商品はもちろん増田も好きだが、通年で入手し易いものを優先して選んだ。うちゅうとかWCBとかVERTEREとか、人気があって入荷後すぐ売り切れちゃうところも今回は選外とした。この辺のブルワリーのファンの人には申し訳ない。
また、クラフトビールで先行しているアメリカに倣って、日本でも缶流通をさせるところが増えているため、瓶よりも缶で流通しているビールを優先的に選んだ。スタイル表記についてはブルワリーが公式に掲げているものがあれば、そちらを優先している。
まぁ増田も日本中すべてのビール飲んだことがある訳ではないので、あーだこーだ言及してオススメがあれば教えて欲しい。
四大ビールメーカー看板ビールから選ぶなら増田はこれ。サッポロはドルトムンダーと言って売っているが、ヱビス以外にあまり聞かないので、まぁピルスナーとかラガーと言って差し支えないのではないかと思う。仕事後に疲れたおじさんが冷やして泡立てて飲んでる黄金色をした、一般的なイメージのビールだ。
ビールオタクが集まって「四大ビールメーカーでジャパニーズピルスナー最強の缶ビールを決めようぜ!」と話すと、大体はヱビス・クラシックラガー・プレモル・赤星ラガー辺りになるのではないか。増田はこの中ではヱビスが1番好みだ。「ザ・ホップ」も好きなんだけど通年販売していない(気が付くと店頭から消えたり復活したりする)ため選外とした。近年サッポロはYEBISU BARを各地に展開してブランドとして大事に育てている印象があり、好ましい。
日本における「クラフトビール」の前史と言える「地ビール」とは違い、大手のサッポロが工場などの縁があって製造し、それぞれの土地でしか流通していない「ご当地ビール」という変わったジャンルがある。風味爽快ニシテ(新潟)、静岡麦酒(静岡)、サッポロクラシック(北海道)などである。地域限定だったら入手性よくないじゃんって言われたら全くその通りなんだが、近年は通販やふるさと納税の返礼品で入手機会が増えているし、旅行先で飲んだことがある人も居るだろうから1本入れさせてくれ。
北海道で食べるジンギスカンとサッポロクラシックの組み合わせが最強なのでご当地ビールとしてはこれ。異論は認める。
「日本のビール史上、もっとも重要なビール」で選んだらどう考えてもスーパードライが入るのだが、残念ながら増田はスードラがあんまり好きではない。そしてこのエントリは増田がオススメしたいビールを選ぶため、アサヒの黒生をすすめたい。クラフトビールシーンで流行しているインペリアルスタウトみたく強烈な黒ビールではなく、古式ゆかしいシュヴァルツビールである。見た目よりずっと飲みやすい。
アサヒは復活させたマルエフと黒生をもっと押し出して欲しいんだけど、やっぱりスードラの方がマーケティング上では重要視されてるよねぇ。
読み方は「イーパ」ではなく「アイピーエー」だ。情報処理推進機構のことではなくインディアン・ペール・エールの頭文字を取ってIPAなのだ。強烈なホップの香りと苦味、クラフトビールと言って真っ先に想起されやすいスタイルだと思う。
キリン資本になってからのヤッホーは色々言われているし個人的にも思うところはあるが、それでも各地でビールイベントやったり手軽に色んなビールスタイルを缶流通で提供していて、日本のビールシーンへの貢献度は高い。インドの青鬼はリリースされてからちょっとずつレシピが変わっていて、元々はイングリッシュIPAっぽい重さがあったのが、徐々にアメリカンIPAに寄っている。
小麦のビール「ヴァイツェン」は苦味も無くバナナのような香りで飲みやすい、増田はとても好きなスタイルだ。ビールは苦いから嫌いという人にぜひ一度飲んでみて欲しい。ドイツではかなり一般的なようだが、日本では通年販売しているブルワリーは少ない(限定醸造される事は結構ある)。
銀河高原ビールはヤッホーに事業譲渡され、ファンだった増田は心配したのだが、レシピは手を入れず続けてくれているようで良かった。居酒屋チェーン「世界の山ちゃん」で飲み放題コースにすると何故かこれが注文できて、味の濃い幻の手羽先とびっくりするくらい合わないのだが、事業譲渡後は注文できなくなったようだ。創業者同士が仲良しだった、みたいな裏事情があったのだろうか。謎だ。
ヴァイツェンと同じく小麦のビールで、こちらの方がよりフルーティーで大変飲みやすい。ベルギーのヒューガルデンホワイトが有名。常陸野ネストのホワイトエールは本家に負けないくらい美味しいし、フクロウのラベルが可愛らしい。
ヤッホー水曜日のネコや、サッポロホワイトベルグなど、より入手性に優れた商品が意外と流通しているスタイルで、増田は常陸野ネストかFar Yeast Brewingのホワイトがとくに好きだ。
海賊ドクロマークのかっこいいラベルで販売されているビール。エクストラペールエールと名乗っているが一般的にはアメリカンIPAではないかと思う。ぜひグラスに注いで鼻に抜けて行くホップの香りを楽しみたいビール。よりニガニガIPAが好みな人には、同じくオラホのカンヌキIPAをおすすめしたい。
長野県東御市に醸造所併設のオフィシャルレストランパブがあったのだが2024年現在は閉鎖してしまっているようだ。再訪問したかったので悲しい。
クラフトビールは一般的にはエールスタイルのビールを造っているところが多いが、ピルスナーを造っているところもある。小規模ブルワリーが造るピルスナーの中では、増田はCOEDOの瑠璃が1番好きだ。キリッとした飲み口でクリアな色も美しいビール。
Hazyというのはどろっと濁っていて、甘くて苦くてトロピカルジュースのように複雑なビールだ。アメリカ東海岸で始まって日本にも遅れてHazyブームがやって来た。伊勢角屋麦酒は、まだ日本でHazyが珍しかった頃にニューイングランドIPA(NE-IPA)としてこのねこにひきを瓶ビールでリリースした。
この度めでたく缶バージョンがリリースされたので選定した。Hazyは原料が贅沢なためお値段の高いビールだ。ねこにひきはハレの日の1本におすすめしたい。
蜜柑や桃の季節になるとフルーツビールをリリースするブルワリーは結構あるが、通年で販売しているビールは意外と少ない。このYellow Sky Pale Aleは、Purple Sky Pale Aleというエールビールに柚子を入れたバージョンで、Y.MARKETが醸造開始した早い段階から定番商品になっているフルーツビール。とてもリラックス効果が感じられて美味しいビールだ。
Y.MARKETでは、Lupulin NectarというHazyダブルIPAがあって、限定醸造だったのがあまりの人気で通年商品になって、増田はこちらもYellow Sky Pale Ale以上に大好きであるが、Hazyカテゴリではねこにひきを選んじゃったので、フルーツビールとしてYellow Sky Pale Aleを選出した。
件のSPRING VALLEY記事でもよくコメントに挙がったビール。増田も好きだが瓶ビールのため選外とした。
SPRING VALLEYの記事についたコメントで増田も思い出した。キリンがコンビニ向けに特殊なプルトップ瓶で流通させていたシリーズ。このブランドでは「梟の森」など色々あって、どれも美味しかった。増田は「ジ・アロマ」がとくに好きだった。スタイルは当時はあまり気にしていなかったがIPLなんだろうか?
結局グランドキリンのブランドは、後に缶でリニューアルされるが、あまり人気が出なかった(実際、瓶の時よりも味が落ちたと感じた)のか、ひっそりと終了している。キリンはブランド育てるの下手だなぁ……。
秋味が終わった頃(11月)に毎年リリースされる一番搾りの限定ビール。ジェネリックハートランドと言える味わいでおすすめ。季節商品のため選外。
大阪へ行ったらビアバーへ寄って必ず飲むくらい好きだ。が、瓶ビールのため選外。しかも何だあの冷蔵庫に納まりの悪い細長い形状は。増田にとってはハートランドと同じく外の店で飲むビールという位置づけ。
ニガニガIPAの総本山といえばここ。定番IPA以外のシーズナルビールも外れなし。ただし瓶オンリー。
ベルギービールとアメリカンIPAを融合させた先進的なスタイル。とても美味しいから一度はオフィシャルタップルーム訪問したいのだが、気が付くとインバウンドで京都のホテルが高騰していてまだ行けていない。
クラフトビールビジネスの難しいところはインディーとメジャーみたいな対立構造にあり、ビジネスを大きくしようとすれば「そんなもんはもうクラフトマンシップじゃない」的な話になりがちだ。京都醸造の国内のクラフトビール業界が抱えるジレンマというブログエントリがはてなブックマークで物議を醸したことがあった。今回のSPRING VALLEY問題を予見するような内容だ。
造り手がこんな発信をするなという意見もあろうが、増田はこれくらい尖った意見があった方が面白いしいいと思っている。本場アメリカでもMake America Juicy AgainとかMake Earth Great Againと大統領に抗議するようなビールがあるくらいだし。
これはもう結論出ていて、ビアバーに行こう! 四大ビールメーカーなら銀座ライオン・YEBISU BAR・キリンシティなどがあるし、クラフトビールもビアバーでタップ繋がってる中から好みを見付けて行くのが鉄板だ。ペアリングの善し悪しもわかる。何よりビールは鮮度が命なのだ。繋がってるビールがちょいちょい入れ替わるビアバーがいいぞ。
キリンが推進している「タップ・マルシェ」なる簡易ビアサーバーシステムがあるが、あれが導入していたらビアバーと呼んでいいか、増田はちょっと微妙に感じているが……。ビール充実していないイタリアンバルとかに導入されていたら嬉しいかなくらいの位置付けだ。
で、その中で力のある者が王位に就いたのです。
そのためにはライバルを容赦ない殺戮を繰り返して天皇(大王)直属の伴造に統括する体制を作り上げた、まぁ極道と同じなのです。
しかし、そのままではただの成り上がり者なので権威付けが必要だった。
もともと日本にあった土着信仰を、さも関係あるかのように天皇と結び付けた。
そして、大陸から仏教が入ってくると、その宗教的権威を天皇統治に利用しない手はなく、鎮護国家として仏教を利用し、天皇や多くの皇族を出家させて高僧にした。仏教の権威を利用し、そのために仏教を保護したのです。
釈迦が欲望を抑えるために作った仏教を、広大な荘園を所有し天皇権力の権威付けに利用するというただ欲望のためだけに利用した。お釈迦さんが聞いたらこんなことのために仏教作ったんじゃないと怒るでしょうね。
そして、壬申の乱で大海人皇子が大友皇子を打倒すべく吉野から東方に遠征し伊勢の豪族度会氏を服属させた時、伊勢の太陽神アマテルの威光が見えたので、「そのおかげで大友皇子に勝利した!」と信じ込み、伊勢にあった地方神話の地方神アマテルを皇祖神に格上げした。
で、「その末裔の神武天皇という架空の天皇が初代天皇なのである」という筋書きで、天皇統治の正統性の根拠として作り上げたのが伊勢出身の稗田阿礼創作の「記紀」。
まぁしょせんこんな程度の家系なので歴史的にもロクでもないことばかりやってきました。
事もあろうに大嘗会で神聖な高御座に女官を連れ込んで情事を楽しんだ花山天皇。
去年は「実習生に日本の原風景を観に行こう」ってツアーで名古屋に行って名古屋城に行ったんだが
今年は伊勢に行くことになった
結局お姉さん先輩や不思議ちゃんが後ろでサントリーを飲みながら麻雀をしてたのでそっちに合流した笑
派遣のおっさんは今年も一番前の席に座ってたんだが、運転手さんに頼んでDVDをかけてもらおうとしてた
アンチャーテッド の映画を流そうとしてたんだがそのDVDが一般視聴用のDVDでドン引きした…
バスの運転手も「あのね。派遣さん、バスの中で一般視聴用のDVDを流すのは著作権法違反って書いてるでしょ。業務用のDVDじゃないと流しちゃダメですよ」
って言ってた
ぜんぜん何言ってるか自分でもよく分からないことがあって単語がどーんと一言入力されていたりして、
さて?
これ何のメモだっけ?って
日にち薬とはよく言ったものよね。
すこーんと忘れちゃってるわ。
でもなんかあとで思い出すかも知れない鴨鹿なので、
それに、
このメモ何の時
私がどんな気持ちでメモしようと思ったのかしら?ってのもあるから、
あとで見返したときに前後の文脈も分かる様にメモした心境もその瞬間に書き残せておけば残しているんだけど、
それとあと、
時間ね。
前後私何してたっけ何処にいたっけ?ってそれも思い出したら
メモを思い出す手がかりになるから時間帯とかも結構重要視しているわ。
やっぱり見返すと定期的にメモを整理しなくちゃーって思いつつも
そうよ、
何かしらのワードに引っかかってきたら出てくるけれど、
メモを探すときにどの言葉で検索したらいいのかしら?って思うときはお手上げね。
そう言う時はやっぱりメモ全体をたまに見直す機会を私に与えた方がいいと思うの。
重要そうだったらピン留めできるし、
順番を並び替えたりタグ付けたりして整理できんの。
やっぱりそれでも埋掘されたメモは全体的に見ないと見付けられないので
たまにはじっくり自分のメモを見返す季節だってあってもいいのよね。
まあちょうどいい機会だから思い出したらなんとかって言うけれど
そういうタイミングかも知れないわ。
あと、
厄介なのが手書きの紙切れの端に書いたメモとかノートの隅に書いたメモなど。
検索性というより、
私の字がポンコツすぎて読めないって急いで書いたメモだからノートや紙を180度ひっくり返して読み返しても何が書いてあるか自分でもよく分からないのよ。
うーん。
さすがに平仮名の殴り書きは読めないわ。
辛うじてだから簡単な内容でもできるだけ漢字で書いておけば感じの単語の情報量で思い出せる欠片が一片でもあると思うので、
平仮名の殴り書きより、
感じの殴り書きの方が勝率が高いことに気付いたわ。
最悪なのが
あの時書いたメモどこやったっけ?
そればっかりはお手上げよさらにお手上げ。
どうしようもないわ。
明らかにメモこれもう役に立たないかの知れない役目が終わったメモも捨てどきが分からない季節があって、
これも季節季節に見直して捨てる機会を私に設けるべきだわって思ったわ。
あれ便利よね。
音声メモ。
私何言ってるの?って上手く使いこなせなかったけど、
こっちが思って言って吹き込んだことがちゃんと思った通りにテキストになってるので感激しちゃうわ。
車に乗ってるときとかはもっぱらそれよね。
手放しで喜んじゃうわ!
いや手放しでメモできるわ!って意味で藻あるダブルミーニングだったけれどね!
見ながら内容とか出てきた面白そうな言葉とか自分はその時どう思ったのとかハイボールは何杯目なのかおつまみはその時何を食べていたのかなど多岐にわたり細かくメモするの大変だわ!って途中で飽きちゃって辞めちゃったことを今思い出したわ。
それに
そのやってるときにメモしていたのをメモしたままでそのまんまなのよね。
これも取り込んでいざデジタル化!って意気込んでいたけれど
それもそれで大変だわ!って
でもまた季節が巡ってきたので、
視聴メモも再開しようかしら?気が向いたらだけどね。
そういう季節かも知れないしタイミングでもあるかも知れないいい思い出しの機械になったわ。
メモの季節は年中なのよね。
うふふ。
ニケ効果ね。
晩はもう食べなくていいのよ。
朝晩しっかり食べれば今の私はね。
美味しくいただける調味料でもあるかも知れないわNIKKEは。
それは違うかー。
多少のレモンフレーバーをレモン味とまではいかないものの微かなレモンの香りがレモンだわ。
もうお湯を沸かしている間も
朝の手間をしている間でも朝のルーティーンの1つになってしまったわニケ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ここには、自ら築き上げてきたスーパーの廃業も辞さないおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
家督争奪戦での勝利: 義弟や義母を殺害し、堀越公方の地位を奪取したという事実は、彼の武勇を裏付けるエピソードの一つです。
伊勢宗瑞(北条早雲)との対決: 勢力拡大を図る伊勢宗瑞との戦いに巻き込まれ、最終的には敗れてしまいますが、一時は互角に渡り合ったという記録が残っています。
堀越公方としての統治: 堀越公方の地位を確立し、一定期間、勢力を維持していました。
周囲からの評価: 享徳の乱という動乱期において、一地方の勢力として一定の地位を築いたことは、彼の政治手腕を評価する材料の一つと言えるでしょう。
足利茶々丸は、武勇だけでなく、政治手腕も兼ね備えた人物であったと考えられます。家督争奪戦での勝利や伊勢宗瑞との対決は、彼の武勇を物語っており、堀越公方としての統治は、政治手腕の高さを示しています。
しかし、彼を単に「強い」と評価するのは、歴史上の人物に対する評価としては不十分です。なぜなら、彼の強さは、武力だけでなく、政治的な駆け引きや周囲の人々との関係性など、多岐にわたる要素によって形成されていたからです。
足利茶々丸の強さを評価する際には、以下の点も考慮する必要があります。
享徳の乱という動乱期において、生き残るためには、武力だけでなく、政治的な駆け引きも必要不可欠でした。
家臣やライバルとの関係性、さらには運の要素も、彼の強さに影響を与えたと考えられます。
後世の歴史家によって、彼の評価はさまざまに変化してきました。
足利茶々丸は武勇と政治手腕を兼ね備えた、力強い人物であったと言えるでしょう。 しかし、彼の強さは、単純に武力だけでなく、多岐にわたる要素によって形成されたものであり、一概に「強い」と断言することはできません。
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この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパーの進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去におしんが初恋した相手、並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパーの土地買収における重要な場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。
なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。
「おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしんの失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマの伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしんの家出の理由も最終週で回収される最大級の伏線のひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子や演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである。
特に佐賀編では、あまりの過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。
第1話から第3話にかけては、おしんが並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者はおしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である。
実際には、おしんは失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパーの進出についての話である。並木商店の大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである。
その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしんに土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのである。おしん厳しすぎるだろ。
おしんは大手の進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木の土地の大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。
仁は、母のおしんが交渉に失敗したと思い込み、失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚を宣言する始末。家族の崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。
おしんは仁に、離婚を再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店を倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである。
事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。
前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしんが商売において大切にしてきた価値観なのである。しかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんのドラマの終盤最終話、終了わずか10分前の出来事である。すごい。
橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語のラストにはそのメッセージが強く反映されている。
竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀の実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。
竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺は自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。
私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しかし戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!
これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉のなかに隣組という言葉が出てくる。
明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制や隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部からの委託で工場を経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。
その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したものと想像していたのである。
日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争の責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要な役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任感から来ていたのである。おしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解したからかもしれない。
語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。
おしんが育った山形の貧困農家では、口減らしが普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性を犠牲にして平気な顔してきた作造も長男の庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組の責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。
しかし、どうだろうか。
竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃からの20年間、竜三は佐賀の実家へ依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。
禎の疎開のときですら、佐賀疎開という選択肢は排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。
太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀の実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーションが述懐している。
しかし、竜三が太い実家という表象の代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである。
おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これからは自由な社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。
敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後の物語では、昭和58年、物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢の海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。
ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代、翻訳、放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。
おしんのドラマは橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略や植民地支配の反省という視点は希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像はみえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体は動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組を他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。
同じ昭和時代の作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田で差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社の経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。
この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚を象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画「青春の門」筑豊編1980年で経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)
この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である。八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族の運命と二重写しに見える。植民地をいかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。
初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしんの長男・雄の戦死を契機に山形へ帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷なものであったといえよう。自殺を思いとどまり、米軍相手の娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしんの言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である。
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6月頃から見始めたおしん。ついに最終回に到達した。全297話を一気見して感慨深い。おしんは明治に生まれ、大正昭和と激動の時代をたくましく生き抜いた女の一代記である。
これまでも2019年頃に再放送された際に断片的にはみていたのだが、フルバージョンで通してみたのは今回が初。全篇を通してみて、いろいろと誤解していたことも多いことに気が付いた。
全く違った。もちろん困難に負けないといった不屈の精神みたいなテーマもあるし、海外ではむしろそこが受けたのだろう。しかし、おしんの本質はそこだけではないというのが全話みた感想である。豊かになるにつれ老害化してゆくおしんの姿は、立身出世物語にありがちな主人公の聖人化とはむしろ逆行していた。
いや、もちろん少女時代の奉公先での過酷な試練は、おしんのイメージともなっているし、全編通して苦労が絶えなかったのは確かである。それに耐えようとする根性もみせた。しかし、おしんは最初の奉公先である材木問屋からは逃亡しているし、佐賀の豪農の嫁となってからは、姑の嫁いびりに耐えきれずに幼い一人息子を奪うようにして家出している。7歳のおしんが座木問屋で受けた仕打ちにしても、24歳のおしんが佐賀の田倉家で受けたイジメにしても、視聴者から見るに堪えないとのクレームがあったほどのもので、おしんが耐えきれないのも無理はないものである。特に壮絶だったのは、妊娠したおしんに対する佐賀の姑の仕打ち。まかり間違えば自分が命を落としかねない危険な死産を経験したおしんはついに、佐賀の家を離れ東京行きを決意する。朝ドラとしては、佐賀時代は1ヵ月以上もあり、視聴者にとってもきつかっただろう。なにせ毎日いびられ、佐賀時代におしんが笑顔を見せることはなかったのだから。朝から気持ちを明るくさせるという朝ドラの使命を真っ向から放棄した凄まじく理不尽な展開だった。
後年、佐賀の姑・清を演じた高森和子は、こんなことを言っている。
佐賀編で、田中裕子さん演じるおしんをいびる田倉家の姑・清を演じた高森和子さんも「私はさほど厳しいと思っていなかった。きついといえばきついけど清から見たらおしんのことを我慢できない部分も当然あっただろうし。だから憎まれ役のつもりはなかった」という。ところが、まず舞台地の佐賀からどっと清に対する反発の声が上がった。「役者冥利に尽きるとも言えるけど、そんなに怒られると思わなかったので、最初は少し落ち込みましたね(笑)」。とはいえ、高森さんもおしん役の田中裕子さんの熱のこもった演技に、いびる立場でありながら「あまりにかわいそうで」思わず涙したこともあったようだ。(NHKアーカイブより)
さほど厳しいと思っていなかったという回想は、放送から40年後に、おしんを視聴した私にとってはむしろ衝撃である。なるほど、あの姑・清の行動にリアリティがあるのはそのためか。清の役柄を完璧に理解してこその発言である。プロとしかいいようがない。おしんの娘が死産した際、ほぼ同時に出産した娘・篤子には乳が出なかった。困った清はおしんの乳をもらえないかと頼む。清は授乳するおしんの姿に慈母観音をみる思いだと感動し、死産した娘に愛と名付けていたことを知った清は、自分の孫に愛という名前をもらうことにした。もとはと言えば、おしんの死産は田倉家での嫁としての過酷な日々により体力が奪われていた結果である。自分の孫に愛と名付ける姑の無神経さもさることながら、こんなところにいたら殺されてしまうという思いがおしんの東京行きを決意させた。その際、一粒種の息子・雄を清の手から盗み取って、自立しようと家出するおしんを手助けしてくれたのは、田倉家長男の嫁・恒子。恐らく当時の日本全国の農家の嫁たち(視聴者)は恒子の行動に大きな共感をもっただろう。誰しもおしんのように行動はできない。つらくても長男の嫁として根を張って生きてゆくしかない。真の意味で辛抱する女は恒子である。
これは半分は正しいが、半分間違っている。確かにおしんは、9歳から16歳にかけての酒田の米問屋・加賀屋で奉公した際、大奥様から見込まれ、お茶や料理、裁縫などありとあらゆる花嫁修業のみならず帳簿の分析の仕方など商いのイロハを徹底的に仕込まれた。これは加賀屋を継ぐことになる孫娘加代が商売に何ら関心がなく、将来とても加賀屋を任せられない不安から、加代をバックアップしてくれる存在としておしんに期待していたからである。
しかし、全編通してみると、おしんの才覚はむしろ夫の事業や息子の事業をサポートするために発揮されていることがわかる。10代の頃に加賀屋奉公時代に培った経験は、のちに田倉商会の旦那と結婚し、田倉商店を支えようとするときに力を発揮する。帳簿をみて夫の田倉竜三の経営能力の弱さを見抜いたおしんは、そのを不安を源じいと相談する場面がある。源じいは佐賀の本家から三男・竜三のお目付け役として東京で同居していた使用人である。夢ばかり膨らみがちな竜三の経営には源じいもハラハラしており、おしんの商才を見抜いていた源じいは、おしんが竜三坊ちゃんを支えてくれるものと安心していた。しかし竜三は甘く世間知らずだった。田倉商店は詐欺にあい、あっけなく倒産してしまう。
田倉の再起をかけておしんは自ら稼ぐことを考えた。おしんは手先も器用だった。17で上京した当時、日本髪に弟子入りした経験から、出前の洋髪を始めるとたちまち客がついた。一方、竜三は堕落した。会社員の月給の何倍も稼ぐようになったおしんをしり目に、竜三はカフェを飲み歩く日々。完全に髪結いの亭主化してしまう。日本髪のお師匠さんに相談すると離婚してしまえと助言を受けるが、ここでおしんのとった行動がすごい。夫を再起させるために、自ら稼ぐことをやめてしまうのである。おしんが働くのをやめ、ついに貯金がつき、明日の米を買うお金も無くなった。お金が尽きたとお師匠さんに報告した際にいったタカの言葉「ダメは男はどこまでいってもダメなんだよ」は自分の胸に突き刺さっていたい。どん底を理解した竜三はプライドを捨て勤め人として働きだす。それからのおしんは、再び商売を始める竜三に対して、どんなに商売にセンスがなくても温かい目で見守ることにした。先行きに不安でも、それを表には出さずヨイショを欠かさなかった。夫と一緒ならどんな苦労でもすると明るく振舞う。黙って俺についてくればいいんだと竜三に言わせることで、おしんは夫の背中を押していた。やがて子供服の需要に目をつけ、竜三は工場建設に乗り出すも、関東大震災で多額の投資をした工場は瓦解、田倉商店の夢も泡と消えた。失意の竜三は佐賀に帰ろうと言い出す。そもそも三男坊である竜三は実家の資金で東京で事業を始め、失敗し、夢破れて、太い実家をあてにして舞い戻ってしまうような根性なしだった。前述のおしんの佐賀地獄はここから始まる。
それから数年、佐賀地獄から幼い息子を連れて脱出したおしんは、東京、山形と転々とし、最終的に伊勢に落ち着き、魚屋として地道に商売をする日々が続いた。いずれ夫と家族ともに暮らせる日を夢見て。最初の3年は一人で魚屋を切り盛りしていたおしんっだったが、夫の竜三からは手紙を出せどなしのつぶて。そんな折、有明海干拓の夢破れた竜三が、満州で一旗揚げると別れの挨拶にひょっこり伊勢に現れた。渾身のタックルで、逃げようとする竜三をつかまえるおしんの演技は、天才女優・田中裕子のすごさがわかるシーンである。竜三は自分には甲斐性がないことを承知していた。おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘っていたのである。しかしおしんには会いたい。干拓の夢破れた自分を恥じて、おしんに顔を向けられない。おしんに見つかった途端に逃げ出してしまう竜三。そんな旦那にしがみついて、プライドを捨てて魚屋から一緒にやり直そうと説得するおしんの行動には、ある意味、全篇通して変わらないおしんの本質がある。田中裕子の猛烈なタックルをみるだけでも「おしん」を見る価値がある。マイベストシーンといってもいい。
やがて伊勢に根付いて20年が経ち、この伊勢の小さな魚屋を軍部お抱え業者としての水産加工工場にまで事業拡大させたのは竜三の手腕である。
竜三と長男・雄を戦争で失い、おしんはもう一度魚屋として再出発する。魚屋を手伝い始めたおしんの息子たちはやがて魚屋をアメリカ式のレジを導入したセルフサービスの店に転換しようと奮闘する。それがのちのたのくらスーパーの出発点となった。今日ではどんな店でも当たり前のレジによる精算が当時は画期的な仕組みだったというのも興味深い。それまでは品物の中央に座りザルをぶら下げて、商品の受け渡しと代金の受け取りをするのが一般的だったのである。
魚屋として地域に根差し、身の丈に合った商売をしたかったおしんは当初は反対していたくらいであり、事業の原動力となったのは次男の仁である。おしんは夢ふくらむ仁の行動に不安を覚えつつも、その後の事業拡大を支えていたのは間違いなくおしんであった。しかし、情熱をもって会社をリードしていたのはおしんというより次男の仁であったというのは間違いない。
こうしてみてくると、おしんは実業家として全く野望を持っておらず、本心は堅実に地域に根付いた商売をしたかっただけである。
極貧の小作の娘から、女一代でスーパー16店舗をかまえる地域の実業家になった、というのは筋としては間違ってはいない。しかし、大正、戦前、戦後とその時代時代でおしんがしてきたことは、成功しようと夢見みて危険なかけにでる夫や息子の行動を冷静に分析し、正しく軌道修正しようとすることであった。事業拡大をしようと竜三や仁がいうとき、おしんはいつも反対してきた。これまで大切にしてくださったお客様など義理人情を捨ててまで商売をしようという考えはおしんには全くない、ある意味とても保守的な人間であり、実業家によくある野心家では全くなかった。野心家は夫の竜三であり、その血を引いた次男の仁のほうだった。
もちろん、おしんにはおしんの商売に対する信念があった。それは人のつながりを大切にすることであり、恩を大切にすることである。おしんは昔から自分を育ててくれたり支援してくれた人たちへの恩を忘れず、いつでも義理と人情に生きようとする人なのである。
大正時代に縫製工場を拡大したときも、従業員をこき使おうとする竜三に、社員の健康、福利厚生の大切さを説いていたおしん。ここにはかつて製糸工場で結核になったおしんの姉・はるが使い捨て同然に実家に戻され亡くなった経験がにじみ出ている。伊勢で魚屋の店舗を構えることになったときもおしんはお世話になったお客様を忘れず、なかなか行商をやめようとはしなかった。
またおしんをめぐる当時の関係人物にはそれぞれやはり、一宿一飯の恩義という観念がつよく働いていた。それを象徴するのが、息子・雄の戦友である川村である。雄は南方戦線で亡くなってしまうが川村は戦友に報いるために自分が取得した駅前の土地を田倉家に譲渡するという行動に出る。そしてなんといってもおしんの人生最大の恩人は16歳のときの初恋の相手・浩太である。浩太にとってもおしんは恩人であり、かつ激動の時代を共にしてきた戦友のような存在だった。
おしんの物語は、事業家としての成功の一代記というより、ひとの縁と恩を大切にする人生観がより胸に迫ってくる物語である。いってしまえば浪花節である。いやそもそも成功などせず、ほぼ失敗して物語は終盤に向かう。その失敗についても、その救済についてもいろいろと誤解していたことがわかった。
https://anond.hatelabo.jp/20240908082812(その2)へ続く
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911(その3)へ続く
※日焼け止めは色付きに疑問を持っているので色がついてないが白浮きしないタイプの日焼け止めをいくつか勧めるエントリ
>白い液のタイプはとにかく白浮きしてしまって、「お化粧した感」が出てしまい、
そうか?
めちゃくちゃ疑問だ
よほど小さいところが下手に作ってる、たとえば「オーガニック系ノンケミカル(紫外線散乱剤不使用)」とかじゃない限り最近のは白浮きはほぼ心配せずにすむ
「顔だけ白浮きしがち(ほら、よく女でいるじゃん首の境目で顔だけ白くなってるやつ、あれになる、トーンアップとか書いてるやつはこの効果狙ってんだからな)」
「お化粧しました感が出る(BBクリームタイプはそもそも化粧感出すのが目的の1つ)」
と感じるわ
・量を使っても惜しくない値段のものを、想定の2倍使え
・日焼け止めの効果は値段より「メーカー想定量(消費者が考える2,3倍)をこまめに塗りなおせるかどうか」にかかってる、
高い物は汗でも落ちづらいとか肌への負担が軽めとか高い技術が搭載してある(肌のヨレについていく、紫外線の中から美容外科医が光治療に使う周波数だけ通す等)
しかしここ10年のものは安いものでも紫外線防止効果自体は十分に高いので
ただし本当に惜しみなく使え(そして夏の終わりに「え…安いと思ってたけど合計だと〇〇円も使ってんじゃん」と思うぐらい使え)
・ただし、アウトドアでの活動が長い場合はウォータープルーフと書いてあるものを選べ、でないと滝のような汗で流れていきがち
その上で具体的な商品名をドラッグストアで手に入りやすい資生堂中心にいくつか書く
以下資生堂アネッサ、パーフェクトUV スキンケアミルクNA価格¥ 3,058(税込)60mL
敏感肌ならアネッサのピンクのやつパーフェクトUVマイルドミルクNA価格¥ 3,058(税込)60mL
高いのが買える、現在地中海にて太陽に焼かれているなど過酷な環境なら
ザ・パーフェクト・プロテクター価格¥ 6,380(税込)50mL
を足すといい、
なおこの「クリアなスティックタイプ」は他のメーカーからも多数出ており扱いが楽なのでお勧めしたい
花王について。
2024年上半期「日焼け止め売れ行きランキングTOP15」の中に8品とほぼ半分を送り込んだ花王のニベアとビオレ、
ドラッグストアどころかコンビニでもスーパーでもとほぼどこでも買えて手ごろな値段、
と優れた商品展開をしている
だが正直言うと落ちやすい
長時間外にいる状況や汗の量が多い人には勧めない
「朝の通勤時間と昼の休憩に外に出る」ぐらいならぴったりなので是非
汗をかく量が多い人で、上の資生堂がご予算からはみ出してる人には
サンカット・プロディフェンスの「ミルクタイプで金色のやつ」をお勧めする
プロディフェンス タフネスUV ミルク、実売価格は1400円ぐらい
なおサンカットは上記のスティックタイプも出ておりこちらもお勧め
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催事物ではありません。
choayov 廃棄物処理の会社に勤めてた知り合いが、こういう百貨店の催事の衛生管理やばいよって言ってた。自分は催事でほぼ買わないので何がやばいのか聞かなかったけど、何かがやばいんだろうな。
findup デパートの催事なんて毎日全国のあちこちでやってるし、その中で死者一人。これがコロナだったら交通事故との確率がどうとか言うのに。
Falky 事故の確率が若干上がる理屈は想像できるんだけど、だからって一概に「催事物はヤバい」って表現をするのもね…。実績から言っても食の安全にきちんと取り組んでいる人々の方が多いはずで、ちと失礼だなあと。
richest21 連日30度を超える猛暑の中で今が書き入れ時とフル稼働で大量に作り置きしておいた催事向け弁当を食べる危険性。「鰻の旬は夏じゃない」とかではなくもっとこう医学的というか衛生的なアプローチで忌避すべき事象かと
ChillOut 昔、京王百貨店の北海道展で食べたウニ丼。鮮度が悪くてマズかったことを思い出した。鮮度管理が繊細な食品は催事で買わない方が良いと学んだ
preciar 百貨店で売る食品なんてテイクアウトの王様みたいなもんなのに、こんな雑なミスで死者までですのかという驚き/催事で弁当は買わんなあ。百貨店の食堂で食う(日本橋三越の食堂は最高)