はてなキーワード: 通夜とは
俺は増田。旧統一教会の祝福2世だった男だ。大学入学を期に実家を離れて世間を知り、なんか違うなと思って教会を離れた。両親は信仰があり、絡むといちいち面倒なのでLINEでのやり取りするぐらいで、疎遠にしていた。結婚して地方都市に住んでいる妹も教会を離れているが、用もないのに連絡をする仲ではない。不仲って、言うほどでもないが、一般的に兄妹ってそんなもんだと思う。
少し前に父が亡くなったので、何年かぶりに帰省した。持病があるのに医者と喧嘩して病院に行くのをやめていたので当然の結果だった。死に際は人に迷惑をかけるような状況じゃなかったのが救いだった。
この記事を読んでいる人の中で、ひょっとすると統一教会の葬式に出る人がいるかも知れないので、思い出がてら書いておく。
まず、喪服は着ない。男はスーツに白ネクタイ、女は白っぽいジャケットとスカートを着る。式場は教会の人ばかりだったのであまり気にならなかったが、火葬場で浮きまくって居心地が悪かった。
そして、葬式(統一教会では「聖和式」と言う)は新しい出発をするお祝いというていになっている。なので万歳三唱がある。世間一般とかけ離れたことばかりする集団にも顔色ひとつ変えず親切に対応してくれた式場の人にはプロ意識の高さを感じた。
その他、家庭盟誓(やばい会社の社訓みたいな奴の統一教会バージョンだと思ってほしい。8番まであって長い)を唱えたり、聖歌(教会の歌。何かと歌う)を歌ったりした。毎週の礼拝ってこんな感じだった。
もう何年も教会に行っていないので結構忘れていたが、やっていたらなんとなく体が覚えていて、嫌なノスタルジーを感じた。
妹は式の間ずっと口をつぐんでいた。
親族はコロナを理由にほとんど参加しなかったが、教会の人が足を運んでくれてそれなりに人が集まった。自分や妹の顔を見ると皆にこやかに「久しぶりだね〜」と言った。
教会の人って基本的に親切で優しくて、あなたの隣に住んでいても良き隣人であるような人が多いのだが、時々地雷がある。
父も反ワクチン・反マスクだったが、他にもいそうな雰囲気だった。ある人に「増田くんもワクチン打ってしまったんでしょう…?」と言われた、やっぱりカルトと陰謀論は親和性が高い。
また別の人に「お父さんは増田君の気持ちわかってたと思うよ…」っと慰めるように言われて何の話?となったりした。俺は「憎まれっ子世に憚る如く長生きするかと予想していたが、案外ポックリ逝ってくれて助かった」と言うのが本音だった。言える訳がないので曖昧に相槌を打った。
親切でちぐはぐで、柔らかくてグロテスク。言いようのない不快感があった。
父方の親戚で、一人の老紳士が通夜葬式の両日参列してくれた。もちろん、両親が教徒だと言うことは知っている。通夜の日、黒いネクタイを締めてきた彼は「明日は白いネクタイで来るね」と言った。色々思うところはあるだろうに、嫌な顔ひとつしなかった。なんて人間のできた人なんだと思った。こんな人を意味の分からない儀式に付き合わせて申し訳ないと思った。
後から聞いた話だが、葬式の時点で妹は妊娠していたらしい。「夫も子供も教会に関わらせたくない。必要ならできる限り経済的な支援はするが、それ以上は期待しないでほしい」と言われた。それでいいと思った。
教会には「氏族メシヤ」という考え方がある。教徒の親族に布教して家庭内の救世主になろう、という囲い込み戦略だ。しかし、実際は葬式に兄弟は来ず、子供達すら離れている。“統一”教会ってなんだよ、と思った。
人それぞれ。うちの場合、父方の祖父母は直葬、母方の祖父母は家族葬だった。
どこも一緒だろうが、(どこで亡くなってからによるけども)病院で亡くなったら葬儀屋に頼んで腐らないようにドライアイスで冷やしてもらって家に運ぶ。ほんで斎場に運んでもらって火葬、という流れ。うちは公営の斎場でやった。
通夜とかないけど、なくなったのを知った地域の知り合いの学会員さんがお別れに家に来たり納棺の時に来てくれた。
地域の葬儀担当のおじいさん(儀典長)がきて題目唱題をあげて終了。
(タダでやってくれるからありがたい話だ)
人それぞれ。公営の納骨堂に入れる人も多い。
学会が管理してる墓地は170万くらいで買えるのでそこに入れる人もいる。
金がかからないのはありがたい
父が死んだので数年ぶりに帰省した。
仕事から帰って寝ていると思ったら死んでいたそうで、実家の母は慌てふためきながら救急車を呼び、死亡確認後の諸々の手続きやら準備やらをやっていた。
幼少期を過ごした家から引っ越しをした実家に足を踏み入れるのは初めてだった。
和室に父が安置されていた。少し頬がこけてやつれた印象はあるが、概ね記憶通りの父を眺めた。私は父が嫌いだった。
私はお葬式は死者のためというよりも、『生きている人が気持ちを整理するためもの』という理解でいる。個人的には何も思い残す事はないので、そのまま焼いてもいいくらいだった。数年前の祖母の葬儀は家族葬で、母はその雰囲気も悪くないと思っていたようなので、そうなるか思いきや、兄が「ちゃんとやりたい」と言った。兄は祖母が亡くなった時は遠方にいたため、祖母の葬儀には参加していない。
兄は屁理屈をこねるのが上手く、昔から母は丸め込まれていたので、今回もその様になった。わたしはめんどくさいなぁと思ったが、話し合いをするのも自分が仕切ることになるのも嫌なので兄の意見を通した。
実家は信仰する宗教があるので、その作法に倣って式の段取りを決めていった。
なんとなく、家の中で事務仕事:兄、外に出る買い出しや手続き:私と母、と言った雰囲気になった。こちらが買い物をしている時や運転している時に電話をかけてくるのでイライラした。お花代を追加でもらったから式場に連絡して、と言われた時、直接式場に連絡してくれと返したら、腹を立てた様子で電話を切られた。
故人の紹介を誰に頼むか話しながら、私が五月雨的に名前を挙げていったら、あるところでイラついた様に「その人はない」と言われた。「何も知らないなら黙ってろよ」と小さく言ったのも、私の耳に届いた。
もう早く終わらせて東京の自宅に帰りたい、と思いながら時が過ぎるのを待った。
宗教での付き合いがある人達がそれなりに足を運んでくれたが、父の兄弟は隣町に住んでいるが来なかった。数年前、自分のは母親の葬式に父は参列しなかったので順当だな、と思った。
母は人前に出るのを嫌がったので、兄が喪主を務めた。
あらかた式次第が終わって喪主の挨拶になった時、兄が懐から原稿を取り出した。
えっ何枚あるの?長くない?と思った。
内容は父ともっと関わっていればよかった、みたいな内容だが、兄自身の体験(父との思い出でなはい)や感情を膨らませた数分間の感動的なスピーチになっていた。
何を聞かされているのかと思った。「隙あらば自分語り」という言葉が頭をよぎったが、隙どころか舞台を与えてしまったので耐えるしかなかった。
これを明日をも聞くのかと思うとげんなりした。実際のところは、若干の改訂が加えられたものを聞くことになった。
葬式が終わり私が東京に帰る、という段になって家族写真を撮りたいというので嫌だと言ってそのまま帰った。いまさら仲良し家族ごっこができるか。
兄は父方の親戚から「父にそっくりになった」と言われる様になった。プライドが高くて人の話を聞かず、自分のやりたいことだけやるところなどそっくりだと思う。あと地雷を踏むと火がついた様に怒り狂うところ。そして母を蔑ろにするところ。
母が作った朝食に兄が手をつけないので、冷蔵庫にはラップをかけた皿が貯まった。今日は昨日のを食べようか、と言ったら「お兄ちゃんが食べるかもしれないから」と母は言った。
弔問客の対応はにこやかにするが、自分の食べたものを下げもしない兄。
最近は香典返しをしない場合もあると聞いて、母はそれを希望したが兄は反対した。「来てもらった人を蔑ろにすることになる」と怒る兄。(結局やるのは母になるのに)
兄よ、父の銀行口座が凍結して、母が当座の生活費を心配していることに気付いていますか。残った家族の中で、あなたが1番稼ぎが少ないのに、見栄を張るはどうなんでしょうか。
自分の考える正しさを振りかざす兄が嫌いだ。父も自分の正しさに則って身を正している人だったが、結局(兄も含めて)家族は誰もついていけなくなった。
人生の最期って人間関係の総決算という雰囲気がある。数年前の祖母の葬儀の際も揉めた。葬式に来なかった父、怒り声を荒げる叔父叔母、頭を下げる母。母が可哀想だと電話をしたのが、父と話した最後だった。
どんな葬式でも、どんな家族でも、親切に仕事をしてくれる葬儀屋さんってすごい、というのが、前回と今回の共通する感想だった。そしてどちらも、1秒でも早く東京に帰りたかった。
葬式は生きている人が気持ちの整理をつけるためにするものーー私にとっては面倒だったもろもろも、兄にとっては必要な儀式だったのかもしれない。私だって性格が悪い自覚があるが、黙って付き合っただけマシじゃないか?喧嘩しそうになったらわたしが引いたし。
そう遠くない未来、もう一度こんなやりとりをしなければいけなくなる。いまからうんざりだ。
喪主の挨拶で「もっと母と関わっておけば良かった」って言わなくて済む様にしなよ。
【追記】
たくさんの方に閲覧いただけているようで感謝です。
取り止めのない愚痴にたくさんのコメントありがとうございます。
補足というほどでもないのですが、私も兄も進学・就職を機に実家を出ており、実家では両親だけで暮らしていました。2人とも介護がなどは必要とする状態ではないですし、兄が世話していたわけでもないです。
兄が実家とどれぐらいやりとりしてたかは知りませんが、母の言い様と兄の喪主挨拶を聞くに私とそんなに変わらないと思います。
『葬式は生きている人のため』と書きましたが、私が帰省したのも兄のやりたい葬式に付き合ったもの、そうしないと母が困ると思ったからです。父を弔いたいみたいな気持ちはありませんでした。
しかし、実家で過ごすうちに、兄におもねってばかりの母や昔の出来事にイラついて、母に優しくできなくなりました。多分一緒に暮らしていける関係性でなくなっているんだと思います。
家族って難しいですね。
1番最初は学生の頃で春休み中、2回目は学校を忌引で休み3回目は職場の年末年始休暇中であった。
4回目は夏季休暇の最終日に亡くなり、本来ならかなり遠方まで葬儀に行かなくてはならなかったが家族の者が一人で行くというので私は行かなかった。
ただ当初は行く予定で数ヶ月前から体調が悪いというのは聞いていたので早めに職場には伝えていた。
その後亡くなった時に会社にはその事を伝えておらず、その2ヶ月後に仕事が忙しく手が空いている人が何も手伝ってくれず少数の従業員だけが毎日残業をしたり週末は休日出勤をしていたが
精神的にも肉体的にも疲労がたまり、転職を考えるようになった。
ふと前から伝えていた身内の者が今亡くなったことにして忌引を使おうと思い、有給も組み合わせて5日程連続して休むことが出来た。
家族葬でやると言い香典も辞退し、遠方に行くという体だったので会社関係の人が来ることはなく証拠を求められることもなかった。
本来ならいけないことだが一部の従業員だけが忙しく働いていることについて職場には全く理解してもらえなかったし、身内の不幸と言うことで休んでも文句を言われることもなくあのまま仕事を続けていたら精神的にもおかしくなっていたと思う。
5回目は先月だが本当に身内が亡くなり、職場には家族葬でやると伝え香典も辞退したが地元だったので実際に社長やお世話になっている先輩が通夜に来て香典をいただいた。
子供のころはよく遊んでもらった。
10歳年上の姉だったので、小学生の頃はマラソンの練習にも付き合ってもらっていた。
一番上の姉がとげとげしい感じの性格だったので、とりわけ二番目の姉は大好きだった。
姉が都会から帰ってきたときはとても嬉しかった思い出があります。ミスタードーナッツのお土産嬉しかった。
姉が都会に戻るときは泣いたよ。そりゃあもう。
まだ携帯電話も無い時代。姉が連休か何かで都会から戻ってきた時。
家電話を使って誰かと韓国語を喋っていることを聞いたことがあるが、今思えばあれは統一教会の関係者だったのかもしれない。
自分が中学の頃だった、1990年代中盤の頃にはすでに姉がヤバい宗教に入っていた事は家族の中では周知の事実で、でも現代のようにパソコンどころかスマホが普及する前の世界だったので、そもそも何がヤバいのか。どうヤバいのか。どう対処したらよいのかすらわからんかった。
なので、北海道の田舎にある我が家は、札幌から統一教会の脱会をサポートする「ライラックの会」の人を呼んだ。
ライラックの会の人に何を説明されたかすら、今となっては覚えていないが、母親と同席した当時中学生だった私は「都会から来たわけわからん奴」っていう理由で、相手のことをひどく疑っていたし、事実私の意見が決定的となり、その人には丁重にお帰り頂いたと記憶している。
今の時代であれば、スマホで団体のWebサイトを調べるなり、SNSを調べるなりバックグラウンド調査を出来たはずだが、当時はそれも無理だった。
ある時、姉が結婚相手を連れてきた。キムさんだったかな。詳しくは覚えていないが韓国系の男性だったことは覚えている。顔はうっすらとしか覚えていない。
狭い町営住宅のリビングに姉、旦那、その向かいに自分、母と座っていた。姉の旦那からは白いセーターをもらった。
姉の旦那は「よろしくお願いします」とかなんとか言っていた。中学生だった自分は「あ、はぁ」みたいな感じだったと思う。
キムさんとは以後一度も会っていない。後にも先にもあの時一度きりである。
親戚づきあいみたいなことすら一度も無い。ただ、まだバカだった自分は「そういう人なんだな~」程度に思っていた。
今ならわかるが、姉の結婚相手は恐らくは合同結婚式で出会った相手なのだろう。
一時期韓国に住んでいた事もあったと記憶しているが、それも今思えば統一教会がらみだったのかもしれない。
その頃の姉は、今よりまだまともだった気がする。完全にPX-0になる前のバーソロミューくまみたいな感じである。
今のようにメディアで騒がれるかなり前から知ってはいたのだが、どう対応したらよいかが分からなかったというのが正直なところ。
対応も何も、全容も良くわからない得体の知れない団体で怖かったし、姉とは何か関りがあるらしいが、我が家にまでは影響は及ぼしていない。
そのため、静観する姿勢を取ったのだと思う。まぁ「何も出来なかった」のが正しい。
ある時、親戚が亡くなった。通夜が終わり火葬場にて、姉の話になった。その時自分はすでに20歳を超えていたはずなので、姉は30を超えていたと思う。
つまりは、姉が統一教会と接点を持ち始めてから10年経つか経たないかの頃じゃないだろうか。
姉が、親戚中に「お金を貸してほしい」と電話をかけているらしい。とのことだった。
大好きな姉だったので、この程度で姉を嫌いになるわけはないのだが「へー、そんなことしてるんだー」とあっけらかんに思った記憶がある。
その後も二番目の姉の問題は家族の中では腫れ物に触るような案件だったように思う。
その後メディアでもこぞって統一教会のことを取り上げるようになったのだが、これは意外だった。
なぜならこれまで統一教会のことを取り上げることなぞ全く無かったからだ。
止まっていた時計が進み始めた気がした。
鈴木エイトさんなどが、ワイドショーで毎日のように統一教会を追及をしている時、「このまま統一教会ぶっ倒れろ、ざまぁぁああああああ」と思っていた。
姉をめちゃくちゃにした統一教会をついに動かすことが出来たかもしれないからだ。
中学の時、突然目の前に現れた巨大な団体。でもどう対処してよいかわからずこれまで生きてきたが、ついに彼らを白日の下にさらすことが出来る。そんな気分だった。いいぞもっとやれ。
毎日そう思っていた。
表向きは「安倍首相が亡くなったんだね。悲しいね」という感じを取り繕っていたが、内心は「いいぞもっとやれ」一択だった。
実際母親も同じ意見だった。母親は姉が統一教会に入ったことを長年責めていたので、なおさらだったのかもしれない。
実はそのころ、兄弟3人で作ったグループLINEが存在していた。何かのタイミングでわたし発案でつくったものだ。二番目の姉とテキスト上ではあるが話が出来てとても嬉しかった。
兄弟3人は割と仲良しなので深い話をするのかと思いきや、お互い二番目の姉に気を遣うような発言ばかりが続きそれは一番上の姉も同じだった。
わたしは調子に乗って、二番目の姉に対して「お姉ちゃん、お母さんも心配してるよ。体に元気でね(詳細忘れた)」みたいなことを送ったと思う。明らかに山上事件を意識してのメッセージだった。
姉はそれに反応し「しばらくグループから出ます」とだけ言い残し、グループを退出してしまった。以後、それから二番目の姉とはちゃんとコンタクトは取れていない。
連絡先はつながっているので、ちょこちょこ連絡はするものの、何かと用事をつけて会うことを断られるのでもしかするともう会えないのかもしれないとは思っている。
この結果は姉にとってはどう影響するのだろうか。
アイデンティティを失うのだろうか。
仕事命のオジサンが退職と同時に急激に老化が進むのと同じように、姉にとってはおそらくは心の拠り所となっていたはずの統一教会。
それが解散となると姉の心はいったいどこに行くのだろうか。心にぽっかり穴が空いて自死でもしちゃうんだろうか。
姉は今は50代前半である。
立派に子供を育てている話も聞いている。たぶんその子たちは二世信者なのかもしれないが。
我々の人生がこのような運命を辿ることになってしまった理由の一因には、間違いなく統一教会の存在があるが「そんな状況を作り出した統一教会がとても憎い!」 というような気持ちは実は全く無い。
姉の人生の目の前には統一教会があり、わたしの目の前には統一教会が無かった。ただそれだけの話だったのだと思う。
だってコレクターズエディション(DVD2+本)で300円だったもん
安かったもん
あしたのジョーの人で、通夜だか告別式で富野がコメントしてた人
ネオヴェネツィアの話だっけ?と思ったらそっちはARIAだった
前情報なしで見ようとしたけど、ちょっと調べててゲロの止め絵がある事を知った
いたる絵、意外と気にならない
声ヒイロだ
時折出てくるジェットストリームアタック演出は面白い
止め絵使いすぎィ!
飲酒運転やん!
不登校だったのってそういう…
元々旅人と現地人の時点で別れるの濃厚ですけど
関西弁?の母ちゃんケロちゃんに聞こえて調べたらケロちゃんだった
ああああああああ😭
恋の病(致死性)
逃げるなァァァ
戻って来た!やったぜ
これ兵士さん殺してね?
説明しろや!伝わってるや!お前も探せ!探すんかい!(省略法ですね)
これ謀反では?
量産機にやられた弐号機みたいになってんじゃん(それはAir)
ケイスケさん!それはそうだけどお前が言うことではねえだろ
力ってそういう力なの!?
抱け!抱けーっ!抱いただろこれ
あっもうゴールしてもいいよねってこれだったんだ…
今までミームだけ使ってたんだよね
感動しちゃったじゃん…出崎やるじゃん
キーホルダー持ってるやん
今ロゴ見て気付いたけどこれ手繋いでたんだね(ブランコ乗ってるかと)
名作でしたわね…映画で感動したの初めてかも(死なすのは卑怯だけども)
コスパも良かったですわ
当たり前だけど「さす九」を肯定するとかそういう話ではないことは分かって欲しい
祖父母が健在な頃はお正月とかに親戚一同が集まり一番年の若い自分よりも本家の祖母(祖父は婿養子)が下座にいた
違和感を覚えたのは中学に入る前ぐらいだと思う、祖父から上座に座っていき10歳の自分より還暦を超えた祖母が下座にいる違和感
門松作りとか力仕事は男性の仕事でお茶出しとかが女性の仕事って感じの分業制
親の代では通夜や葬式とかの時は、女性が料理を準備したり諸々の仕事をこなして男性はまあ、喋るだけ
町内会の役員とかそういうのは男性の役目、基本、女性はやりたがらない
自分たちの世代では、18歳で地元を出て今年帰ってくるまでいなかったから高校までの話だけど特にアレと思うようなことはなかった
家庭内の事情までは分からないけど地元でそこそこの進学校で女子は同数ぐらいだったし進路に制限を受けたという話も聞かなかった
理系は男子が多くて文系は女子が多いとかはあった、選択で生物を取ったけど女子が多く男子の多くは物理を取ってた
今の職場は周りが親世代なので自分が休憩の時に皆のお茶を入れたりすると驚く年配の女性は多い
なんで「さす九」が響かないのか考えてみたけど
一つは祖母や母親を見てきたから、親の世代までは差別というか、何かがあったけど祖母も母も私をとても愛してくれたから
罪悪感というか後ろめたさなのか何なのか、上手く言語化出来ないが幾らかの申し訳なさを覚えている
もう一つは自分たちの世代ではそれを感じないことによる切断処理
差別は過去のもの、自分たちの世代には関係ないということで「さす九」と揶揄されても他人事として見ている節がある
他にもあるけどこの二つが大きいかなと思う
「女性委員に怒られるけど」と前置きした上で「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」
「高校教育で女の子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」「社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいい」
こんなことを言っちゃったアンポンタン知事がいたという負い目も少なからずあり、2015年に中高一貫の全寮制公立男子校を作った人でもある・・・
発言の影響がどれほどかは分からないけど発言後の4期目を狙う知事選で新人に負けた、その後また出たけど負けた
今の知事は件の公立高校の共学化を掲げ来年度からは女子も入学できる
自分の周りの話だけど上の世代の人も下の世代に昔の価値観を強要する人は少ないし言われるほど悪い所じゃないよ
ぼく好きだよ鹿児島
今年も311が来た。
多くの人が亡くなったり悲惨な事があった。
自分も仕事で現地にまだ復旧半分の状態で4時間掛けてその事業所支援に行った。
その時は海岸線が夜は真っ暗でフレコン袋で補強してあった。
だから今はまだ落ち着いたけど、
当日前からお通夜みたいな空気がテレビやらでガンガン流れてた。
それに比べたら心のキズも少しは癒えた人もいるだろう。
でも完治する人は居ないと思う。
キズは一生治らない人は居る。
でもだからと言ってその人ばかりに付き合って自粛不謹慎モードに付き合い続けるのは正直辛い。
別に悲しんでいる人の目の前でケーキ食って楽しもうと言うわけじゃ無い。
ただ誰かの悲しい日は誰かの大切な日だってあるわけだ。
忘れてしまうというのも違うよ。
一方的に塗りつぶすのは小さな声を締め付けて消してしまっている。
それは忘れないで欲しい。
母さん、俺を産んでくれてありがとう。
世の中不幸な人も幸せな人もいるけれど、
今日が誰かの悲しい日でも喜びに溢れた日の一つだった事は忘れないでくれ。
今年も311が来た。
多くの人が亡くなったり悲惨な事があった。
自分も仕事で現地にまだ復旧半分の状態で4時間掛けてその事業所支援に行った。
その時は海岸線が夜は真っ暗でフレコン袋で補強してあった。
だから今はまだ落ち着いたけど、
当日前からお通夜みたいな空気がテレビやらでガンガン流れてた。
それに比べたら心のキズも少しは癒えた人もいるだろう。
でも完治する人は居ないと思う。
キズは一生治らない人は居る。
でもだからと言ってその人ばかりに付き合って自粛不謹慎モードに付き合い続けるのは正直辛い。
別に悲しんでいる人の目の前でケーキ食って楽しもうと言うわけじゃ無い。
ただ誰かの悲しい日は誰かの大切な日だってあるわけだ。
忘れてしまうというのも違うよ。
一方的に塗りつぶすのは小さな声を締め付けて消してしまっている。
それは忘れないで欲しい。
母さん、俺を産んでくれてありがとう。
世の中不幸な人も幸せな人もいるけれど、
今日が誰かの悲しい日でも喜びに溢れた日の一つだった事は忘れないでくれ。
正直、俺もババア先輩(32)もお姉さん先輩(49)も「えっ、本当に?」と驚いたが、死亡届も出されており、会社の連絡網でも正式に訃報が回った。
「いや、あいつが死ぬとか想像つかないんだけど…」と言いながらも、俺たちは黒いスーツに身を包み、お通夜の会場へ向かった。
葬儀場には会社の人間も集まり、皆しんみりと故人を偲んでいた。
「おっさん、意外と愛されてたんだな…」と俺が呟くと、ババア先輩も「まあ、憎めないところあったしね」としみじみ頷く。
遺影を見ると、いつもの少しふてぶてしい顔の派遣のおっさんが写っていて、なんとも言えない気持ちになった。
そして、いよいよ焼香の時間。
俺たちは順番に手を合わせ、「まあ、なんだかんだでお世話になったよな…」と心の中で語りかけた。
「……おい、なんか苦しいんだけど」
え?今なんか聞こえたか?と思った次の瞬間、棺桶の蓋がバンッ!と勢いよく開いた。
会場が騒然とする中、なんと派遣のおっさんがむくりと起き上がったのだ。
「……あれ?みんな何してんの?誰かのお通夜?」
いやいやいや、お前のお通夜だよ!!
俺たちはパニックになり、遺族も葬儀屋も「こんなことある!?」と動揺しまくり。
しかし、派遣のおっさんはキョトンとした顔で「なんかよく寝たわ」と大あくびをかましている。
「いやいやいやいや!お前、死んでたんだぞ!?」とババア先輩が叫ぶと、
派遣のおっさんは「あれ?そうなの?でも、腹減ったな…通夜ぶるまい、俺も食っていい?」と普通に席に着こうとする。
流石にこれは現実か夢かわからなくなってきたが、最終的に医者を呼んで確認してもらったところ、
「えーと……心肺停止していたのは確かなんですが、何かの拍子で蘇生した可能性がありますね…」と説明され、結局「一度死んだけど復活した」という謎の結論に至った。
その後、派遣のおっさんは何事もなかったかのように通夜ぶるまいの席で寿司を頬張り、
「やっぱ、こういう場ではしめ鯖が一番うまいな!」と満足げに語っていた…。
帰り道、ババア先輩が「マジでお前とはもう一生関わりたくない」と震えていたが、派遣のおっさんは「でも、一度死んだらもう怖いもんないよな」と妙にポジティブな顔をしていた…。
昨日、俺とババア先輩(32)とお姉さん先輩(49)と派遣のおっさんの四人で、会社の元上司のお通夜に参列した。
「礼儀とかマナーとか、ちゃんとできるかな」と俺たちは不安だったが、とりあえず黒いスーツを着て会場へ向かった。
派遣のおっさんも「そういうの大事だからな」と珍しく真面目な表情でついてきた。
「香典ってこれで合ってるよな?」と確認していたら、封筒の種類を間違えていたらしく、派遣のおっさんが「それ結婚式用の祝儀袋だぞ」と即座に指摘。
「マジか!?」と焦る俺たちに、「ちゃんと不祝儀用のを持ってきたか確認しとけって言っただろ」と呆れ顔。
焼香のときも、俺とババア先輩は動作がぎこちなくなり、緊張しすぎてなぜか二回手を叩きそうになるという大失態。
「お前ら、神社じゃねえんだから…」と派遣のおっさんが小声で教えてくれなかったら、完全に恥をかくところだった。
お姉さん先輩に至っては、焼香の順番を間違えて先に進みそうになり、係の人に止められるというミス。
その横で派遣のおっさんは落ち着いた所作で完璧なタイミングと手つきで焼香し、軽く一礼して戻ってきた。
「お前、なんでそんなに詳しいんだ?」と聞くと、
「昔、親戚の葬式でいろいろ教わったからな。あと、こういうのは場数だよ」
さらに、弔問客が故人の思い出を語る場面で、俺たちは「正直、元上司とそこまで話したことなかったよな…」と気まずくなっていたが、
派遣のおっさんは普通に「〇〇さんには仕事でお世話になりました。お昼によく行かれてた店の話を聞いて、自分も行くようになりました」と自然に会話をリード。
遺族の方も「そんな話があったんですね」と微笑んでいて、場の空気が和やかになった。
極めつけは、お清めの席での振る舞い。
俺たちは「こういうときって酒、飲んでいいんだっけ?」と戸惑っていたが、派遣のおっさんは「飲んでもいいけど、飲みすぎないように」と言いながら、上司や遺族のグラスを程よく気遣い、
必要なタイミングでさっと席を立ってお茶を汲んだり、食事を取り分けたりしていた。
「お前、ホントに派遣か?」とババア先輩が思わず聞くと、「こういうのは慣れだよ」とサラッと言っていて、俺たちは完全に敗北した…。
帰り道、ババア先輩が「マジで今日ばかりはお前に感謝する」と頭を下げていたが、派遣のおっさんは「まあ、こういうのも社会勉強だからな」といつもの調子で語っていた…。
もうだいぶ経つけど、彼女がうけた傷をたいしたことないっていう人が世の中たくさんいるんだと悲しくなったので……
亡くなったのはだいぶ前だけど、従姉妹ちゃんは20代前半で亡くなった。
私より年下で、私が中学?高校?くらいの頃から気づけば親戚の集まりに来なくなっていた。
事故?かなにかでけがして入院してておばさんたちも大変なのよ、と何かごまかす感じで親に言われて、質問は受け付けないという雰囲気でただならなさを感じたのは覚えている。
その後もずっと親戚の集まりにも来ず、引きこもりらしい扱いになっていたので
聞いてはいけない雰囲気から私は勝手に学校でいじめられてその延長でケガをしたか、もしくは自殺未遂をしてしまったのでは、と思っていた。
おばさん(従姉妹ちゃんの母、私の母の妹)とおじさん(従姉妹ちゃんの父)は親戚の集まりとか法事で会うことはあった。
私が大学生の頃か、社会人になりたてくらいのときに祖母が亡くなった。
別の親戚のおばさん(従姉妹ちゃんの母ではない)が、通夜のあとみんなが食事してるときに会場の外の廊下でしゃがみ込んでた。
私は多分トイレ行こうとしてたのかな。
そのおばさんはお酒飲めない人だったのでもしかして飲まされて気分が悪くなったのかと思って声をかけたらハンカチで口元抑えながら泣いてた。
私はてっきりおばあちゃんが亡くなったことで泣いてるのだと思って、背中さすりながら向こうで風にあたります?気分悪いです?誰か呼びましょうか?みたいな声をかけたと思う。
ちょっと落ち着いたそのおばさんが、「従姉妹ちゃんのこと考えたらもう悔しくて悔してくて…」と言ってまた泣き出した。
通夜と葬儀には従姉妹ちゃんとその母は来てなくて、おじさん(従姉妹ちゃん父)だけが来てた。
私はこのときまで従姉妹ちゃんはいじめが辛かったんだなあという勝手な解釈をしてたので「大変みたいですもんね…」みたいな雑な相槌をうってたらおばさんが
「あんなひどいことされて、あの子の人生めちゃめちゃで、親にも会えないしまともに生きていかれないじゃないの」みたいに言いだして
そんなにひどいいじめだったのか…?会えないってなに?と思いながら適当に話を合わせてたら本当の理由を聞くことになった。適当に話し合わせて聞いてただけだったから断片的ではあったけど事実の概要は知ったという感じ。おばさんはそのとき私が成人だったから知ってると思って知ってる前提の会話をしたんだろうと思う。
そのとき初めて知ったのは、従姉妹ちゃんはいじめではなく性犯罪の被害に遭ってたということだった。
具体的な話も少しだけ聞いたけどここには書かない。
初めて聞いたとき怒りと悔しさで震えるとはこういうことかと思った。
被害は従姉妹ちゃんが小学生の時で、おそらく怪我して入院して…と正月に来なかった頃なんだと思う。
男の人を見るだけで恐怖で過呼吸や引きつけのような発作を起こしてパニックになり、父親とすら一緒に過ごせない。
学校も先生や生徒に男の子(男性)かいるからいけないというかそもそも家から出れない。
知らなかったけどおじさんは従姉妹ちゃんのために実は近くに安アパート借りてそっちで生活してたらしい。たぶんうちの両親は知ってたんだと思う。
カウンセリングか通院かはしてたらしいけど、もうずっと家の中で静かに過ごすしかない状態だったらしく、通夜のときに酒が入ったおじさんが「娘がおばあちゃんの葬式にも来れない」ということをこぼして、おばさんが涙をこらえきれなくなって廊下で泣いてたということだった。
このときには多少パニック発作?のようなものは落ち着いてたみたいだけど、ひどいときは宅配や水道業者とかの家に来る見知らぬ男性、家の外から聞こえる近所の男の人の声だけでもおばさん(従姉妹ちゃんの母)にしがみついて泣き叫んだりしてたらしい。
このおばさんは従姉妹ちゃんちの割と近くに住んでたので、従姉妹ちゃんちに度々行ってお手伝い(従姉妹ちゃん母が出かけないといけない時に従姉妹ちゃんと留守番したりとか)してたらしい。うちの母も姉妹だからよく相談受けてたけど私が未成年だったし内容もショッキング過ぎたので言わないようにしてたらしい。
あとで何がきっかけか分からんけどうちの親も「あ、この子従姉妹ちゃんのこと知ったんやな」というのを察して知ってる前提で少し会話することがあった。
一度だけ、この葬式のあとに泣いてたおばさんと出かけたことがあって、その後に従姉妹ちゃんちへ行ったことがある。
私も女で親族とは言え、長らく会ってないほぼ他人に近い人では従姉妹ちゃんを刺激してしまわないかと思ったけど、おばさんが行こうと言うならまあ大丈夫なんだろうと思って手土産のお菓子を持って行った。
天気が良くて、縁側みたいなところで日にあたりながら久しぶりだね、大きくなったねって当たり障りのないことだけ話してお菓子を隣りに座って食べた。
かなり痩せていて覇気がなく、まだ幼い子供のように見えるけど、同時にすごく疲れて老けても見える不思議な雰囲気だった。
その時に会ったのが最後で、その数年後に亡くなったことを聞いた。
自死だったらしい。
あの時泣いてたおばさんは葬儀ではより一層大泣きだった。
おばあちゃんの葬式の時に事実を聞いてから、生まれてきて10歳かそこらの小学生のときに被害に遭った従姉妹ちゃんの人生は何だったんだろう、性被害を受けて苦しむだけのためにその後の時間が使われて、そんなことのための人生だったのか?何だったんだって、今でも性犯罪のニュース見るたびに従姉妹ちゃんを思い出して胸が苦しくなる。
聞いただけの私がこれだけ苦しくなるなら被害に遭った人はどれだけ苦しいんだろう、辛いんだろうって思う。
たいしたことなんてない。
箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男
1987年 父親ほのぼのレイク、アイク、武富士、ワイドから数百万の借金。祖父が返済
1989年 父親武富士、ワイドから数百万借金。母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた
父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親、長男を正座させ祖父と父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す
1995年 父親、アコム、武富士から数十万の借金。長男学資保険を解約し支払い
2000年 正月帰省時、出前の寿司のお金が支払えず地元の寿司屋から催促。2ヶ月分割
2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜、葬式時のお礼なし食事なし
箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男
1987年 父親ほのぼのレイク、アイク、武富士、ワイドから数百万の借金。祖父が返済
1989年 父親武富士、ワイドから数百万借金。母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた
父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親、長男を正座させ祖父と父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す
1995年 父親、アコム、武富士から数十万の借金。長男学資保険を解約し支払い
2000年 正月帰省時、出前の寿司のお金が支払えず地元の寿司屋から催促。2ヶ月分割
2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜、葬式時のお礼なし食事なし
ばあちゃんが死んだ。
僕の40の誕生日の前日に死んだ。
葬式など諸々終え、家に帰ってきて、やっと落ち着いたところ。
今の心情を自分自身でもいまいち掴みきれてないので、書いてみる。
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とにかく人が多かった。
子ども4人、孫12人、ひ孫19人、子どもや孫の配偶者、ばあちゃんの兄弟、その子、その孫。
サマーウォーズより多いんじゃね?
ばあちゃんは寺の娘だったので、親戚には坊さんがいる。
3人の坊さんが経を読む。
先頭で経を読んだのは、ばあちゃんの甥の中で一番下の甥。
ゆるい良い葬式だった。
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完全に場違いのフルートに、皆ポカーンとし、奏者も可哀想だな…と思いつつ聴いて、葬式を終えた。
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僕も火葬場に向かった。
普通と違ったのは、坊さんも参列者と同じように、最後に声をかけた。
一番下の甥の坊さんは泣いていた。
僕は泣けなかったからか、何か知らんがそれを見て僕自身が救われた気がした。
その後棺は焼くことになり、焼けるまで1時間程度待つことになった。
後で聞いたのだが、そのドサクサに紛れて義理の息子である親父は泣いていたらしい。
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孫の中で僕は上から2番目。
年長の孫であるいとこ、一番下の甥の坊さん、3人で話をした。
最初に、一番下の甥の坊さんに、フルートの時プルプルしてたから泣いてたかと思ってたらアレ笑いを堪えてなかった?とツッコむところから話は始まった。
ばあちゃんがいつからゲームやってたのか、とか、何故やってたのか、とか、どんなゲームをやってたのか、とか色々話した。
俺の初めてゲームはばあちゃんのお下がりでディスクシステムのやつだった、パチンコにハマってたから抜け出すために息子(僕から見ると伯父)が買った、そういえばパチンコにハマってた時期もあった気がする、その前はルービックキューブだったらしい、俺が持ってないPS4とか持ってたぞ、ゲーム好きだったけど上手いわけじゃなかったからレベルアップでのゴリ押しが結構多くて1セーブプレイ時間400時間とか700時間だったぞ、、、。
僕らは子どもの頃に話して以降30年近く話をしてなかったが、話題は尽きなかった。
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なんというか、あっけなかった。
色々終わって帰ってきた、子どもらも寝かしつけ、一息ついたのが今。
微妙に落ち着かずふわふわする感じがあったので、消化するために文章に残すことにした。
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ばあちゃんがどんな人だったのか。
性格、キャラ的なものを今風に言えば、天然系、不思議ちゃん、なのに、生命力強い、どんな環境でも楽しんで生きる、そんな感じ。
やたら印象に残る言動をする人だったので、ばあちゃんの話題には事欠かない。エピソード力が強い人だった。
何故か鞄を持ち歩かず、ショルダーバックくらいの袋に荷物を詰め、そして下着の胸の辺り、ちょうどブラのパッドのあたりに、その袋を縫いつけ、小太りというか巨乳に見える感じになっていた。
何かを出す時は胸元から出すことになるが、昔は服の中に手を突っ込みゴソゴソして荷物を取り出してたが、そのうち上手く取り出せないからと、半分脱いで取り出すようになった。
普通に外でもそれをやるようになったので、買い物行く時は子どもや孫の誰かが連れていき、事前に財布を預かって、ばあちゃんの財布から支払う、というのが慣習となった。
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そういえば、ばあちゃんから直接昔の話を聞いたことはほぼなかったことに気付いた。
年寄りは昔話が好きな印象あるけど、ばあちゃんから思い出話をほとんど聞いたことない。昔手に入れた意味の分からん謎のハックテクニック、を教えてもらえる程度。こちらの心配する、子どもや孫など周りのこと、ゲームのこと、とにかく今の話しかしなかったからかもれしない。
でも、ばあちゃんの周りからは、ばあちゃんの今まであったことはよく聞いた。
ここからのばあちゃんの昔の話は、皆の話の集合での話なので、何が本当なのかは分からない。
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ばあちゃんは、山奥の陸の孤島のような村にあるお寺の娘だった。
結果、じいちゃんが良いとこの人だと分かり、許してもらい帰ってきた。昔っぽい。
あとで聞いたのだが、じいちゃんはバツイチ?寡夫?だったらしく、ばあちゃんが結婚した当時、ばあちゃんは20、じいちゃんは44。そりゃ反対するわな。
それに加え、じいちゃんを知るであろう寺近くの老人達から稀にじいちゃんの話を聞いたことがあるのだが、どれも掴みどころがない。水墨画を描いてた、木こりだった、スキー板を作って売ってた、馬に乗って駆けてた、等々。皆のいうことが毎回違いすぎて何をしてた人なのかがマジで分からない。今で言うフリーターだったのでは、と思ってる。
その後、ばあちゃんは子どもを4人産んだが、3番目の子である僕の母が4,5歳のときに、じいちゃんが結核で死んだ。
生活ができないので、子どもらは、伝手のある寺が運営する児童養護施設で生活することに。
何年かそんな生活が続き、長男(僕から見れば伯父)が中学を卒業してすぐ働き始め、生活ができるようになったので、ばあちゃんや兄弟らを集め、また一緒に生活し始めた。なんという「ひとつ屋根の下」。(ひとつ屋根の下、当時母はめっちゃハマって見てた)
その後しばらく経ってから長男は僕の母を除いた兄弟とばあちゃんで自営業を始めた。
ここからの人生に関しては、ばあちゃんにとって比較的順風満帆な人生だったと思う。
たぶん。
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僕はばあちゃんに一番可愛がってもらった孫だったように思う。
ばあちゃんがファミコンをやるひざの上に乗ってたのが僕だった。
今思えば理由は単純で、高橋名人が名言「ゲームは1日1時間!!」を家では親が守らせようとするが、ばあちゃんの家では、朝から晩までゲームをやっていても怒られない。
ばあちゃんも、ゲームの攻略に詰まると、孫を積極的に呼んで、攻略方法を聞いたり、分からなくてもプレイしてやってみてくれとせがんだ。
僕が一番可愛がられたが、他の孫達も顔を出せば、同じように攻略をせがまれたので、孫らは皆ばあちゃんとみんなゲームをした経験が一度はあるように思う。
息子(僕から見て伯父)の自営業の職場とばあちゃんの家が一緒になっていて、ばあちゃんの生活は、昼間は働き、ご飯風呂、趣味の畑仕事、残った時間はほぼゲーム、が大半だった。
昔はマリオとかアクションをよくやっていたが、途中からドラクエやFFといったRPGが好きだった。
先にも書いたようにゲームやるからといって賢かったり上手かったりするわけじゃなかった、いわゆる下手の横好きだったので、とにかく朝から晩までゲームをし、攻略ノートを作ってメモをし、自分の攻略ノートを見ながらプレイしていた。
何度も何度も飽きずにトライ&エラーを繰り返しまくるので、ばあちゃんのセーブデータは、装備やアイテムが微妙なのに、レベルが異常に高いことが多かった。
おかげで、途中からやった僕ら孫たちは、ばあちゃんが説明するハマりポイントをひと通り振り返ったあと、装備を整え、ちゃんとゲーム内の説明みてやれば、案外すんなり先に進めた。
他の孫たちもゲームをプレイし終わったら、中古屋でなく、ばあちゃんにゲームを流した。
ばあちゃんが自分でゲームを買っていた印象がほぼないが、とにかくばあちゃんの家にはゲームがたくさんあった。
ベッドの下の収納ボックスには、ソフトがギッシリ詰まっていた、
初代ファミコン、スーパーファミコン、PS、PS2、64、ゲームキューブ、xbox…僕も大きくなるにつれ頻度が減り、就職で地元を離れてからはさらに頻度が減ったので、僕の知らないゲームハードもありそう。
見た記憶では、古いハードのソフトはなかった気がするので、時折捨ててたのかも。
孫らで集まって話をした際に出てきたゲームタイトルは皆違ってた。
FF、ドラクエ、テイルズ、スターオーシャン、ゼルダ、武蔵伝、等々。
ばあちゃんの妹の孫とかいう若い男の子も来てて、ばあちゃんとのゲームの思い出話をしてたのは驚いた。
それもあって、親族のみの家族葬だったのに、縁のある親戚までも集まり、やたら人数の多い通夜、葬式になった。
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義理の息子である親父もかなり溺愛してたので、本物の息子一堂から、本物の息子より息子してる、と親父も笑われていた。
ばあちゃんは、下駄が好きでよく履いてたのに、胸元に袋が入っていたから、ハキハキ歩くことができず、ペンギンみたいな歩き方になっていた。
不安定なゆっくりな歩き方だったので、当然荷物はまともに持てないし、隣を歩く僕の服の袖のあたりをつかんだりすることが多かった。
僕がいない時は、親父が並んで服の袖をつかまれていた。
僕や親父はその認識だったのだが、妹いわく、妹と一緒だと、不安定な歩きのままズカズカ先に歩いて荷物を持ってる妹に早く行くぞと先行してく、僕や親父の前だと猫を被ってる!!男尊女卑だ!!と愚痴っていた。
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孫らから流れてきたゲームで躓くと、当然元々ゲームの持ち主の孫に攻略を聞くことが多かった。
雷平原〜マカラーニャの森あたりにいて、攻略手伝って欲しいからと、泊まって欲しいと、ばあちゃんにせがまれ、泊まることになった。
一緒にプレイし、ご飯も食べ、風呂も入り、寝る前にもう1プレイ。
ちょうどそこで、マカラーニャの森の超ロマンティックなラブシーン。
当時、高校生だった僕は、真夜中に部屋を暗くして、ばあちゃんと並んで何観てるんだろう……と絶妙な気分になっていた。
ふと、横目でばあちゃんを観ると、キラキラした目で、★★素敵★★みたいなリアクションで、滅茶苦茶一生懸命みてたので、まぁいいか、と諦めにも近い気持ちになった。
その後少し経って、新しい孫がまた産まれ、ちょうどその孫の名前がFF10のヒロインと同じ名前だったので、滅茶苦茶喜んで良い名前だ、と褒めていた。
葬式の最後のフルートが、美空ひばりの「川の流れのように」だったので、「ザナルカンドにて」をかけてあげれば良かったのにな、とフルートの演奏を聴きながら、このことを思い出していた。
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葬式の参列者の話などを聞くに、僕がばあちゃんのところにあまり行けなくなった後も、他の親戚やゲームの関わりもあって、楽しくは過ごせていたようだった。
それが、6年前、真夏の早朝に、もうひとつの趣味であった畑仕事の途中で、脳卒中で倒れ、近くの通行人に発見され救急車で運ばれた。
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主治医や長年お世話になっているかかりつけ医によると、意識が回復する可能性は万に一つもない、そんな状態とのことだった。
ばあちゃんは、これまで大病患って、入院して死にかけたことは何度かあった。
入院のなか、どうしても回復傾向が見られない、という状況になってから、僕に連絡が来て、急遽地元に帰ってお見舞いに行くと、ばあちゃんとゲームの話になり、そういえばプレイ中だったあのゲームの続きがやりたい、早く治して退院せねば!!と急にやる気になって、そこから超回復、という展開があった。
今回は流石にダメそうだった。
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流石にばあちゃんももう90だったので、そういう覚悟をしておかなきゃ行けないことは分かっていた。
病院に見舞いに行った際、分かっていても、それがただ寝ているようにしか感じられなかった。
手術のあとに寝てます、みたいな感じで、ただ寝てるだけ。
もう起きることは無いのに、そんなふうにしか感じられなかった。
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僕がその後ばあちゃんの顔を見れたのは、少し経って、ばあちゃんの家で介護するようになってからだった。
病院よりも設備が簡素になったためか、ああ、これは本当にもう目覚めないんだな、と今さらながら実感した。
そんな中、母はばあちゃんの世話をしながら、前よりちょっと良くなったとか、こうやってやると反応する、など色々話をした。
もう目覚めない、と分かると同時に、まだ生きてる、とも感じられる。
死んでるのだが、生きてる。
ばあちゃんが死んだと聞いて、葬儀の一連の流れを終えた今、本当に死んだ今この時よりも、あの瞬間が正直しんどかった。
今、思い出すだけでも、心が重い。
死が突きつけられるのに、世話をすればちゃんと生を感じられる。
その中で世話をし続けられるのか。
母すごいな……と。
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あとは死ぬだけ。
それを受け入れるための有余の時間が与えられた感じだった。
ゲームができない、楽しみに一生懸命になれないばあちゃんは、ばあちゃんなのか。
身体なのか、脳なのか、心なのか、それとも人格なのか、習慣なのか。
生と死に対することをぼんやり思いにふける。
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そういえば、ばあちゃんは霊感が強い、というのがもっぱら周りの評価だった。
悪霊や死んだ人が見える、というより、死ぬ寸前の人が魂だけになって飛んでいるのを虫の知らせのような感じで分かるのだ、とか。
それで、遠方や疎遠になった知人の安否を確認し、それを当てることが多かったので、霊感が強いとされていた。
稀に、じいちゃんが迎えに来ると、まだやりたいことがあるから迎えに来んどいてくれーー!!と必死にお経を読むことがあるのだ、とか。
僕は実際にどの話にも立ち会ったことは無いが、確かにばあちゃんはその辺りの勘が冴えているような雰囲気があった。
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ばあちゃんの話を信じるとすると、脳死のばあちゃんには、ばあちゃんはいないことになる。
ばあちゃんがどこに行ったかは分からないが、ばあちゃんは生きているが死んだ。
幸い、受け入れるまでの時間を6年も貰ったので、ばあちゃんの死、葬儀はなんとか受け入れることができた。
コレがポックリいかれていたら、悲しすぎてどうなっていたかは想像できない。
正直助かった。
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心の準備は整えていたとはいえ、僕の誕生日の前日に亡くなり、僕の40歳の誕生日がばあちゃんの通夜になるとは、流石に予想つかなかった。
何もできないはずの死ぬ瞬間まで、印象を残す人だった。
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ばあちゃんの教え、みたいなのは、本当に全然覚えてないのに、ばあちゃんとの思い出はたくさん出てくる。
老人介護用おむつを買いに行った際には、コレ凄く便利でトイレに行かなくても良いからゲームができる!!とドヤ顔したり……
我が弟が母の付き添いでばあちゃんの買い物に付き合うため家に呼びに行ったら全裸でゲームしてたり……(前日夜風呂上がりに服着替える前にゲームをやり始めたら止まらなくて翌朝までやり続けていたのが真相)
僕がいとこと一緒に富士山近くに旅行した際、いとこに「富士山のかけらだ」と言って渡したそこら辺に落ちてた溶岩石が、何故か数年後ばあちゃんちの神棚に飾ってあり、いつの間にか凄い石だとして御神体みたいになってたり……
なんかあり過ぎて、もう思い出せない。
でも、何かあるたび、何気ない面白かった思い出が掘り返される。
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僕自身もばあちゃんと同じく、子どもが4人いるので、悲しみに暮れている暇はない。
悲しくてしんどい、みたいな感覚はないのだが、なんか気持ちがふわふわして落ち着かず、何かにつけてやる気が起きない。
この文章も、このままではいけないと思いを決して、何度かに書き分けながら、書き進めている。
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やる気がでないので、ぼーっと異世界転生もののアニメを観ても、ばあちゃんだったらマジで異世界にすら行きそうだな、行ってて欲しいな…と想像してしまう。
ココまで書いた文章を自分でも振り返ってみると、ばあちゃんの最大の教えは楽しむこと、それ自体のような気がしてきた。
昔から初七日とか四十九日とかに法要やるってことは、亡くなってからそれくらいの日数はこの感覚は抜けないのかもしれない、と諦めることにした。
とりあえず楽しめるようになるまで、このままぼーっとふわふわすることにしよう。
正直いまのフジテレビ、というか15年前くらいからフジテレビは嫌いだし、もはやこうなった以上停波すればいいと思ってる。
けど物心ついた時にはポンキッキを見てて、小学生の頃にウゴウゴルーガを見て、その流れでそのままめざめしテレビ見てたような生粋のフジテレビっ子としてはこんな状況になってるのは悲しくもあるんだ。
なので通夜の後の飲み会だと思ってさ、みんなの好きだったフジテレビの番組コメント・ブクマしてくれよ。
俺はやっぱり忘れられないのは「ラスタとんねるず'94」だな。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の充電期間にやってたわずか半年の番組だったがまあ伝説だった。
なんといっても「ジャイアント将棋」。正直当時は格闘技とか全然詳しくなかったのだが、異業種格闘家が戦うのは激アツだった。最終的にとんねるずの2人も格闘家も戦ってで、バラエティ系の競技だととんねるずが勝ったり、それこそ相撲かなんかで石橋貴明がガチで格闘家に勝ったのは胸アツだった。
それに「SPITTING IMAGE JAPAN」。人形劇で当時はなんか笑ってただけだったのだが、大人になってから改めて見たら政治風刺でめっちゃ攻めてて驚いた。「サタデー・ナイト」のパロディで「小沢(一郎)についてきゃ間違いないっ!」とか歌ってるの最高だった。
他にも「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」の南ちゃんを探せやマモーミモーはいまも覚えてるし、志村けんのだいじょうぶだぁの人間ルーレットとかもホント大爆笑だった。初代笑う犬の安藤さんへの繋ぎとかも最高だった。