はてなキーワード: 受動とは
【追記】04/15 16:30
こういうプロ驚き屋な記事をかくと、反応が入れ食いになるのがブクマのよいところですね。
ただ、コメントを読んだ感じ、どうにも僕が作品の中の起こってる事象そのもの以上に、そこで起こる人間の心理や価値観、欲望の表出に驚いてることがいまいち伝わっていなくて、自分の筆力の無さを感じている。
そもそも価値観や人間の心理って、線形の延長線上にあるテックな未来と比べると、イレギュラーに変化するゆえに想像つかないと僕は思っているが、どうにもブクマカは人間の心理は一定で変わることはないと思ってるようで、その辺が齟齬の原因かなと思ってる。
とはいえ、僕は小林恭二が忘れられた作家になるのはもったいないと思ってるので、もっとこの本を含めて読んでほしいなと思います。
あたりがおすすめです。
僕にとって、この人と薄井ゆうじの二人は、森見登美彦と万城目学のようなコンビのイメージなんですよ。
【追記終わり】
小林恭二という作家がいる。いやいたと言ったほうが近いかもしれない。今は専修大で作家育成をしていて自作は15年くらい発表していないと思われる。
僕は30年近く前の大学時代、この作家が世界で一番好きな作家だった。今もベスト5くらいには入る。あの頃読んだ現代作家の多くは、だんだんと思想の方向がどうにも自分と合わなくなってしまい作品を読むこともなくなった(すべては不用意な発言を垂れ流すTwitterが悪い)のだが、そういうのをやってなかったこともあって小林は今も好きなままだ。あと、もう一人薄井ゆうじという作家も好きだったがこの人も作品を書かなくなった。
きっかけは高校時代に書評欄に数行紹介されていた「ゼウスガーデン衰亡史」だった。のちに福武文庫で買ったその小説は、主人公がいない群像劇で今までに見たこともないとてつもなく魅力的な小説だった。のちの書評なんかを読むと「 『虚構船団』 の影響が大きすぎる」と言われたが、僕には「虚構船団」よりも「ゼウスガーデン衰亡史」のほうがはるかに好きだし、いまでも面白い小説の基準はこの小説になっている。この小説よりおもしろいことは小林の他作を含めてもなかなかないのだが。まあ、この作家を読んでたことで僕は今も奇想の強い小説や奇書が好きである。レムの「完全な真空」なんかも好きだ。
年末に書庫を整理したところ、小林恭二の「短篇小説」という単行本が出てきた。奥付を見ると1994年だが多分貧乏大学生の自分が買ったのは1,2年程度たった後の古本だったと思う。小林先生申し訳ない、たぶん自分が新刊で買ったのは数冊しかない。
何とはなしに読み直すことにした。けっこう好きな短編集だったが、特に好きなのは冒頭からの3作「光秀謀反」(戦国時代の戦国大名は、ハプスブルク家とつながっていた信長など、ヨーロッパ諸侯とつながっていたという話。めちゃくちゃ面白い)、 「豪胆問答」(生まれてこの方驚いたことない侍が化け物に遭遇する話、面白い)、「バービシャードの49の冒険 序章」(英雄バービシャードが冒険に出るまでの話。続きが読みたい)だったので、それ以外はあまりちゃんと読んでなかった。たぶん全部を丁寧に読むのは21世紀に入ってから初めてだろう。
なんかかなりグッとくるエロイ話とかあって、あれ、こんなにセクシーなのを書く作家だっけかと思ったりしたのだが「磔」という短編を読んでとんでもなくびっくりした。これ、現代の話じゃね??とちょっと動揺してしまったけど、共有するところが見つからなかったので増田で書き散らそうと思い書き始めている。いちおうKindle版もあるようだが、バッキバキにネタバレと引用をするので、ネタバレ回避したい人は読むのやめましょう。とはいえ、10編ある短編の一つなので1編程度のネタバレがあっても十分面白く読めると思うが。
主人公の男性はN区(都会の幹線道路沿いだというから中野区あたりかね)にあるビルの27階にある住居兼仕事場で暮らしている。主人公の仕事についての描写
わたしは、現在とある不動産会社にアナリストとして勤務している。仕事は、電話線を通してコンピュータに送られてくる膨大な情報の検索及び処理で、パソコンと電話機があればどこにいても可能な仕事のため、専ら自宅で仕事をしている
えっ、これリモートワーカーじゃね?? さらに続く文章に驚かされた
会社に行くのは一か月にせいぜい一度か二度くらい。近頃は外に出るのも億劫になり、買い物も通信販売と宅配サーヴィスにたよっているから、部屋を出ることも稀だ。
十年位前まではよく、そんな生活をしていて社会とのつながりが希薄にならないかと問われた。
私は答えたものだ。
「もともと会社や社会とのつながりを希薄にしたいために、こういう職を選んだのだ。わたしとしては月に一度程度会社にいくことすら面倒くさい」
これが2020年ごろに書かれた作品なら普通だろうけど、さっきも述べたように奥付は1994年。この作品の初出は1992年である。30年以上前の作品である。
小林はけして、現代SFの作家などにあるような科学的な考証などを積み重ねて世界を描き出す作家ではない。
実際、この後、主人公は仕事を終えて、自分用のパソコンのスイッチを入れるのだが
パソコン通信でクラシック音楽情報を専門に扱うネットにアクセスする。
ちなみに現在かかっているモーツアルトの歌曲は、昨日ネット内で教わったもので、近くのビデオ屋(CDも貸し出している)にファクスして取り寄せたものだ
と、ネット通販どころかインターネットすら登場しない。パソコン通信の会議室だ。(このニュアンスの違い、増田を読む人ならわかるだろうから説明は省く)
作者は自分の想像力の範疇だけで書いているのだ。おそらく小林氏は当時パソコン通信をやっていたと思われるのでそういう描写なのだろう。
どうやら、このクラシックの会議室には太陽暦氏というモデレーターがいて、今日のおすすめを教えてくれるらしい。(この辺、僕はパソコン通信詳しくないんだが、パソコン通信でこういうことをやってる人はいたんだろうか。誰か詳しいネットの古老の方は教えてほしい。)
ちなみに太陽暦氏はハンドルネーム、つまりパソコン通信ネット上のペンネームで、無論、ちゃんとした本名もあるのだが、ネット上ではハンドルネームで呼び合うのが礼儀となっている
太陽暦氏は私のほか何人かのクラシック初心者のために、三か月の間毎日推奨のレコードを挙げてくれることになっている。
それでもって翌日に曲の聴き所などレクチャーしてくれる。
年をとった人に言うと、それでいくらとられるのだと聞かれる。
無料だと答えると大概驚く。
こちらのほうが驚く。
この辺は、ちょっと時代が2周くらいした感じはある。現代社会、やはり情報は商品になっている。むしろこの時代よりはるかに商品度は高い。2000年代前半くらいまでのネットの価値観ではあるが、まあ、今も一部の分野、特に趣味の分野では無料になってる面はある。この後、情報についてのT.ストウニアの「情報物理学の探求」という本からの言及がある。ストウニアとこの著作は実在するようだが、現代社会でどういう評価なのかはちょっとわからなかった。忘れられた学者みたいな感じなんですかね。
まじで今の話じゃないの?
哲学の会議室で「かなり痛烈な罵倒用語を駆使」してメッセージを書き込んで去り、夜中に反論の嵐が巻き起こるのを期待している。荒らしかw
バーといっても本当のバーではなくネット上におけるバーである。
ここはバーカウンターにいるような気持ちで人のメッセージを読み、あるいはメッセージを書き込むという、いわば言葉の上でのバーを形成している
2ちゃんのバーボンハウスみたいなもんか。いや、あれは釣られて受動的に行く場所だから違うか。これもパソコン通信で実際にあったやつなんでしょうか。
まあ2ちゃんの雑談スレッドやXなどでなれ合いをしてるような感じだろう。
ここで主人公は、その日の夕方に自分だけが得たとっておきの情報を披露する。その情報が何なのかはまあ表題でネタバレしているが割愛しておく。
書きながら私はぞくぞくしていた。それは渇望していた情報を得たときの快感と対をなすものだった。それはパーフェクトな情報を発信する快感である。
この気持ちに心当たりのある人、手を挙げて! はーい! だからこのエントリーを書いてるんだよ!!
これってつまりバズる感覚ですよね。ネットでバズることの気持ちのよさをこの作者は30年前に理解していたのだ。いくら小説家という職業とはいえ、この感覚を90年代初頭に持っていたのは相当に新しいのではないだろうか。ほんとに深く驚かされた。
主人公の情報は狙い通りにバズり、彼はその日のその酒場での「英雄」となった。
そして翌日、彼は新聞で自分のバズらせた話題の件について読む。ここで新聞というメディアへの評価も非常に今の時代っぽいので引用しよう
こんな感じの印象を新聞(だけでなくオールドメディア全般)に持ってる人多いでしょうなあ。
最初にリモートワーカーの意味を言い切った時点で、うわっすげえと思ったのだが全部読んで、とにかく小林恭二の凄みを感じさせられた。
乱暴な話だが、資料をある程度収集して咀嚼すれば、未来社会がどんな風になってどんなものがあるかは書くことができる。それが30年後の現在と適合していても、ああ、資料よくそろえたね頑張った頑張ったくらいの感想どまりである。しかし、その未来社会で、人がどういう価値観を持ち、どういう欲望をどのように満たそうとして行動するかまで描いたら、そして、それが後世の人間からして違和感のないものであれば、まったく意味合いが違ってくる。
もし、僕が今時の書評系TikTokerのように「30年後のSNS社会を予見したとんでもない短編!!」とか宣伝したら、バズってこの主人公のような「パーフェクトな快感」を得られるだろうか?
参考文献(アフィはないのでご興味あればどうぞ)
多くの人は自身を「真面目」で「優しい」人物だと評価しているだろう。(知らんけど)
しかし、自身が思っているほど周りから評価されず、不遇な扱いにもどかしく思っているのではないだろうか。
他人が人を評価するとき、特に何もなく、無礼な人物でなければ「真面目」、内向的で大人しければ「優しい」だ。
私も小学生の頃、担任の教師に「真面目」で「優しい」と言われることがほとんどだった。
性格も受動的なので特に問題を起こすことがなく、内向的なので大人しく、また、掃除が好きだったので掃除の時間に他の子がふざけたり、サボる中、黙々と掃除を楽しんでいたので、そう思われたのだろう。
そんな程度のことで「真面目」で「優しい」と言われる。
つまり、「真面目」と「優しい」は多くの人が自身をそう評価しているように、多くの人が備えているありふれたものなので相対的に差がない。
(そんなことはない、世の中は嫌なやつが多いという人は、自身を見直すことを勧めたいが難しいだろう...)
多くの人が「真面目」で「優しい」中で、その性質を他者から評価されるには他の人よりも突き抜けた結果を出す必要がある。
そのためには日々の行動で「真面目」と「優しい」の回数を増やし、質も高めなければならない。
量と質、両方を意識することが必要で、片方だけでも評価はされるが、2つとも行った方が相乗効果で評価は上がりやすい。
以上が「真面目」と「優しい」を評価されるための基礎中の基礎となる。「真面目」と「優しい」も他者との競争により得られる評価ということだ。
島本理生といえば、元は純文学の出身だけれど『ナラタージュ』のヒットと、『夏の裁断』で芥川賞を逃したことでエンタメ文学に転向した…とされているけれど、『夜はおしまい』はちょうどその転換中に連載されていたので、一応、島本理生最後の純文学作品となる。しかもそのためか、つい最近に単行本が出るまで、5年間も本となることはなかった。
もっとも、『星のように離れて雨のように散った』のように、ここ最近島本理生はエンタメ誌に純文学時代の作品をアップデートしたような作品も書くようになってきている。
この先はエンタメ・純文学というくくりを考えずに書くようになるのかもしれないし、だからこそ『夜はおしまい』もようやく単行本化されたのかも…と思った。
『夜はおしまい』は島本理生作品の中でもかなり賛否両論っぽいけれど、個人的にはたまらない一作でした。
エグめの内容を、島本理生のあのリリカルかつ鮮烈な文章で、表面から内面までじっくり描写してくるので、胸糞な気分になる人がいるのはわかる。「体験談なのでは」と思ってしまうレベル。
ストーリーとしては、やはり気になるのはキリスト教についてだろう。
『アンダスタンド・メイビー』を書くためにキリスト教を学んだらしいけれど、響くものがあったのか、その後も島本理生作品には高い頻度でキリスト教の話が出てくる。
元々、島本理生作品は、損なわれた(傷を負った)女性の心の快復や、その救済を描いている印象があり、初期作では、その救済の過程に主に「男(恋愛)」を用いていた。
しかし、その展開に限界を感じたのか、『ファーストラヴ』での「臨床心理学」や、本作その他の作品における「キリスト教」のように、男(恋愛)以外の存在を救済のきっかけに用いることが増えたように思う。
特に『イノセント』はキリスト教による救済の物語と言ってもいい。
つまり、本作でもキリスト教による救済が描かれるのだが、イノセントのように救済されきってはいない
彼女たちの「夜」はまだ明けておらず、朝は来ていないのだ。でも、やがて明けるはずだからこそ、『夜はおしまい』というタイトルがつけられたのだろう。
それは、女性である作者が(ある種女性差別的な要素を含む)キリスト教を学んだことで、やはり一つの疑問を抱いてしまったからだと思う。
既に「罪」を負っている女性はどうすればいいのか。彼女たちのように(周りからおかしい、救いようがないと言われるような)、苦しい・いけないとわかっていても、自ら自分の身体に「罰(=罪)」を負わせずにはいられないような人はどうすればいいのか?
つまり、はじめから「損なわれて」生まれてしまった人はどうすればいいのか、どうすれば救済され得るのか、という命題である。
「私たちはどんなに精神的に自立しても受動的な身体からは逃れられない。そしてそれはやっぱり時間を重ねて精神面にも影響するのだ」
「本当なら、ユダやペテロみたいな人間こそ救われないといけないんだと思う。だってあの二人は誰よりも人間っぽい」という2つの文章は、本作のテーマをもっとも直球に述べているのではないだろうか。
英語のbornが受動態であるように、「生まれる」ということは基本的に親によって「させられる」ものであると考えられています
よって、生まれ(させられ)て嫌だった人にとって、子供に生を与えることは当然倫理的に悪となります
ところで、生むという行為自体が「不幸を経験する可能性を新たに作り出す」ことなのであるから、子供を産むことは不幸の総数を増やすことであり、これは(生まれたくなかった人にとっての個人的ルールではなく)全人類に共通する普遍的悪であるというロジックが成り立ちます
なおベネターは「生む/生まれる」についてのみ述べており、これを「生きることも悪」に拡張して成り立つかどうかは諸説あるんですが、まあ何にせよ「自分は生かされたくないのだから他人を生かすのは悪いこと」という主張にどう答えるかは用意しておいた方がいいと思いますね
尺の都合でメインストーリーで語られなかったことが数年後に追加された別陣営視点のシーンで明かされるみたいなパターンもある
でも小説やアニメやドラマや映画では、5年も10年もおなじ世界観のモノを作り続ける前提で最初から作らないし、続くとしても新規エピソードにリソースを割くばかりで
過去シナリオを擦るところまで手が回ることは少ないから、仕込める伏線が浅く、期待を下回りがちになる
アニメ・映画等だと公式供給が豊富なのは元IPが映像作品でリリースされた頃つまりブームのピークとなる1年そこらくらいで、本編で語られなかったことはもう永遠に語られない可能性がかなり高い
でも太い運営型ゲームならゲーム内の書籍などのフレーバーテキストを大量に用意して考察材料を分散させることができるし
ゲーム外においてもサブコンテンツとして漫画・小説・動画・SNS投稿・音楽などのマルチメディア展開から継続的に情報公開をする余地がある
そういった小出しかつ網羅しきれないほどの設定公開が考察しがいを生み、物語への愛着とプレイ継続のモチベを与えることができる相乗作用がある
つまり優れたナラティブを作るためには、せいぜい十数時間で読み切ってしまい、全員が同じ素材を見て同じことを思うような受動的コンテンツではそもそもやりづらいわけ
アニメや映画でも大手が作った有名シリーズならある程度は視聴者の練度が試される深遠なプロットツイストを仕込みようもあるが、
長年シリーズ作ってても新作は数年おきとかになり、世界観や設定すらガラッと変えた異色シリーズがまざってくることもあり、整合性もいい加減になりがちで考察のしがいがなくなる
でも運営型ゲームは常にじわじわと続いていくので考察材料が頻繁に追加される、ただ常に論理的な面では不完全なシナリオしか与えられないので脳内補完能力が高く息の長い人でないとシナリオへの興味を失うリスクもある
だからこそ考察が一番たのしいのは背景設定がよく練り込まれてる気配のある気合の入ったリッチな運営型ゲーム、かつサービス終了しなさそうな母体の強いやつになる
考察に関して良い体験が得られないのはそもそもの作品選定に大きく左右されるということだ
だがだからといって考察を含む楽しみ方を諦めたり、そういう楽しみ方をする人を馬鹿にしたりするのは良くない
ただ考察オタクとして運営型ゲーム激推しの自分ではあるがこの手の性質のゲームはいつも期待以上のものをくれる一方で
考察のための重要な情報を期間限定イベント中の会話やフレーバーでひっそり出しがちな面もあり
考察勢として鼻を高くしたいならサービス開始初期から欠かさず人生かけてリアリタイムで追っていく方がベターなので
過去イベ動画を見漁るなど挽回の余地はあるとはいえ後発は不自由が多い環境になりがちという点だけは弁明しておく必要があるだろう
古城の一室。空気は濃密で、まるで呼吸するのを躊躇うかのように重く、深紅のベルベットは光を貪欲に吸い込み、室内を不道徳なまでの薄闇に閉ざしていた。トリニティは、黒曜石が汗をかいたかのように鈍く光るテーブルの前に、逃れられない運命のように座らされていた。皿の上には、完璧すぎて悪夢的なチョコレートケーキ。漆黒のグラサージュは粘性を帯びた光を放ち、添えられた深紅のベリーは熟れすぎた傷口のようだ。それは呪われた聖遺物のように蠱惑的で、視線だけで精神の鎧を剥ぎ取り、剥き出しの本能を直接焼くような、危険極まりない引力を放っていた。
対面の男、メロビンジアンは、猫のようにしなやかな動作で脚を組み替え、トリニティの魂の奥底まで見透かすような、冷たく愉悦に歪んだ視線を送っていた。指先がワイングラスの曲線的なふくらみを、まるで生きているもののように撫でている。「どうした、マドモアゼル。ただの0と1の虚構だ。だが君の肉体の奥底、最も渇いている場所が、これを求めて叫んでいるのが聞こえんかね?」
彼の声は、低く、湿り気を帯びた響き。それは鼓膜を震わせるだけでは終わらない。皮膚の下を這い、神経線維に直接触れ、脊髄をぞくりとさせるような、侵食的な親密さがあった。トリニティは革のコートの下で、内臓が冷たく収縮する感覚に耐えながら、かろうじて背筋を保っていた。ネオとモーフィアスは、この迷宮のような城で、別の形の拷問を受けているのかもしれない。分断され、試されている。この男は「原因と結果」の鎖を操り、生物としての最も原始的な衝動――生存本能、支配欲、そして理性を焼き切るほどの快楽への渇望――を弄び、その破綻を観察することに神にも似た悦びを見出すプログラムなのだから。
「あなたの歪んだ好奇心を満たすために、私はここにいるわけじゃない」トリニティの声は、鋼のように硬く響かせようとしたが、語尾が微かに掠れた。
「歪んでいる、かね? 私からすれば、快楽を拒絶する君たちの方がよほど歪んでいるように見えるが」メロビンジアンは喉の奥で、粘つくような笑い声を立てた。「これは好奇心ではない。実証だ。君という、あの『救世主』をも堕としかねない女が、このコード化された『原罪』の味にどう反応するか。このケーキはね、かつてマトリックスの深淵で狂気に触れたプログラムが、存在そのものを溶解させるほどの『絶対的な受容』を強制的に与えるために創り出したものだ。口にした者は、自我という檻から解き放たれ、快楽の奔流の中で形を失う」
彼は、毒蛇が獲物を狙うように、ゆっくりと銀のフォークを差し出した。その先端が、微かな光を反射して鋭く光る。「さあ、味わうがいい。君の信じる『意志』とやらが、この甘美な暴力の前で、どれほど無力か」
トリニティはフォークを睨みつけた。ザイオンの灰色の現実が、このケーキの放つ圧倒的な色彩と官能の前で、急速にリアリティを失っていく。これは単なる誘惑ではない。それは魂への侵犯であり、存在の根幹を揺さぶる冒涜であり、抗いがたいほどに甘美な汚染だった。
「……やめて」声にならない囁きが漏れた。
「やめろ、と本気で言っているのかね?」メロビンジアンは、トリニティの瞳の奥に宿る、恐怖と好奇心の危うい共存を見抜いていた。「君がネオと交わす熱、肌と肌が触れ合う瞬間の電流、互いの存在が溶け合うかのような錯覚…それらと、このケーキがもたらす、理性の枷を打ち砕き、存在の深淵にまで届く絶対的な感覚の津波と、一体何が違う? どちらがより深く、君という存在を根こそぎ満たすと思うかね?」
彼の言葉は、鋭利な楔のようにトリニティの自己認識を打ち砕こうとする。ネオへの愛、それは彼女の全てのはずだ。だが、その愛を構成する身体的な渇望、触れられたい、一つになりたいという根源的な欲求は、このケーキが約束する、境界線なき快楽の暗い魅力と地続きなのではないか?
息詰まるような沈黙。トリニティの心臓が、肋骨の内側で激しく打ちつけている。メロビンジアンは、獲物の最後の抵抗が潰えるのを待つ捕食者のように、静かに彼女を見つめていた。
「一口でいい。舌の上で溶かすだけでいい」彼の声は、もはや囁きではなく、脳髄に直接響く命令のようだ。「君自身の身体が、魂が、この快楽の前にどのように崩れ落ちるのか、共に観察しようではないか」
抗えない衝動。それはもはや好奇心ではない。自己破壊への、暗い引力。あるいは、この男の言う通り、自分自身の最も深い場所にも、この禁断の味に呼応する闇が存在するのかもしれないという、絶望的な確信。
彼女は、まるで操り人形のように、震える指でフォークを握りしめた。指先は燃えるように熱いのに、背筋には冷たい汗が流れていた。ケーキにフォークを差し込む。それは熟れきった果肉のように柔らかく、濃厚でむせ返るような香りが、トリニティの理性を麻痺させた。
息を殺し、ほとんど無意識のうちに、フォークを唇へと運んだ。メロビンジアンの目が、爬虫類のように細められた。
舌に触れた瞬間、トリニティの意識は爆散した。それは味でも感覚でもない。存在の根幹を揺さぶる、甘美な暴力。脳髄を直接鷲掴みにされ、強制的に快楽の回路を開かれるような衝撃。全身の筋肉が弛緩し、腰が砕け、内側から込み上げるような熱い波が下腹部から全身へと広がっていく。呼吸は喘ぎとなり、視界は赤と黒の閃光で明滅した。思考は完全に停止し、自己の輪郭が溶け出し、ただただ押し寄せる快楽の奔流に身を委ねるしかない、絶対的な受動性。それは恐怖と恍惚が混じり合った、底なしの奈落へ落ちていくような感覚だった。ネオの顔も、ザイオンも、自由への戦いも、全てがこの圧倒的な「今」の前では意味をなさなかった。制御できない痙攣にも似た震えが、彼女の身体を支配していた。
「…………感じるかね? コードが君の存在を……書き換えていくのを」メロビンジアンの声が、快楽の霧の中から、悪魔の囁きのように響いた。
トリニティは、どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。喘ぎながら、かろうじて目を開けると、世界が歪んで見えた。快楽の余燼が、まだ身体の深部で燻り、疼き、微かな痙攣を引き起こしている。だが、その焼け野原のような意識の片隅で、消し炭のような意志が、弱々しくも瞬いていた。
(違う……これは……私を壊すものだ)
この快楽は絶対的だ。抗う術はない。だが、それは外部から与えられた、魂のない侵食だ。ネオと分かち合う、痛みさえも愛おしいと思えるあの繋がり、互いの欠落を埋め合うような一体感とは、本質的に異次元のものだ。あれは築き上げるもの、これは破壊するもの。
彼女は、全身の力を振り絞り、震える手でフォークをテーブルに落とした。カラン、という乾いた音が、異常なほど大きく響いた。口の中に残る、濃厚で背徳的な甘さは、もはや快楽の残滓ではなく、魂に刻まれた汚点の味だった。
「……あなたの……勝ちかもしれないわね」声は掠れ、ほとんど息のようだった。だが、瞳には、地獄の淵から生還した者の、狂気にも似た光が宿っていた。「でも、私は……これを選ばない」
彼女はメロビンジアンを睨み据えた。その視線は、折れてはいない。「あなたがどれほど深く私を侵食しようと……私の選択までは奪えない」
メロビンジアンの表情から、全ての感情が消え、能面のような無表情が浮かんだ。彼はトリニティの言葉の意味を咀嚼するように数秒間黙考し、やがて微かに唇の端を上げた。それは嘲笑とも感嘆ともつかない、奇妙な表情だった。「……興味深い。実に興味深い反応だ。快楽という絶対的な力の前に、なお『選択』を主張するか。その非合理性、その矛盾こそが、人間という存在の…あるいは君という女の…核心なのかもしれんな」
トリニティは、壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。足元がおぼつかない。食べかけのケーキは、まるで彼女の魂の一部を抉り取ったかのように、テーブルの上で静かに、しかし不吉な存在感を放っていた。
「……これで、終わりにして」懇願するような響きが、彼女の声に混じった。
メロビンジアンは、ワイングラスに残った液体をゆっくりと飲み干した。「ああ、今日のショーは、な」彼は立ち上がり、トリニティのすぐそばまで歩み寄ると、彼女の耳元で囁いた。その声は冷たく、蛇のようだった。「だが、勘違いするなよ、マドモアゼル。この味は、もう君の一部だ。君の細胞が、君の神経が、君の魂の最も深い場所が、これを記憶した。それは消えない刻印だ。これから君がネオを抱く時、あるいは一人で闇の中にいる時、不意にこの感覚が蘇るだろう…そして君は、自分が本当に何を求めているのか、自問することになる」
トリニティは何も言えず、ただ彼を睨みつけることしかできなかった。そして、よろめきながらも背を向け、部屋を出た。城の廊下の冷気が、火照り、そして今は冷え切った肌を刺した。身体の奥底で、まだあの甘美で冒涜的なコードの残響が、疼き、蠢いているのを感じた。それはもはや単なる記憶ではない。彼女の中に植え付けられた、異物であり、毒であり、そして抗いがたい誘惑の種子。
彼女の胸の内には、ネオへの想いと自由への渇望が、以前よりもさらに切実に、しかし同時に、この新しい闇によって汚染されたかのように複雑な色合いを帯びて燃えていた。あのケーキの記憶は、彼女の存在に深く食い込み、おそらく生涯、彼女を内側から苛み続けるだろう。それに抗い続けること、その疼きと共に生き、それでもなお「自分」であり続けること。それが、彼女に課せられた新たな戦いであり、彼女が「リアル」であることの、あまりにも重い代償なのかもしれなかった。彼女が歩き去るその後ろ姿には、以前にはなかった深い影が、まとわりつくように落ちていた。
古城の一室。空気は濃密で、まるで呼吸するのを躊躇うかのように重く、深紅のベルベットは光を貪欲に吸い込み、室内を不道徳なまでの薄闇に閉ざしていた。トリニティは、黒曜石が汗をかいたかのように鈍く光るテーブルの前に、逃れられない運命のように座らされていた。皿の上には、完璧すぎて悪夢的なチョコレートケーキ。漆黒のグラサージュは粘性を帯びた光を放ち、添えられた深紅のベリーは熟れすぎた傷口のようだ。それは呪われた聖遺物のように蠱惑的で、視線だけで精神の鎧を剥ぎ取り、剥き出しの本能を直接焼くような、危険極まりない引力を放っていた。
対面の男、メロビンジアンは、猫のようにしなやかな動作で脚を組み替え、トリニティの魂の奥底まで見透かすような、冷たく愉悦に歪んだ視線を送っていた。指先がワイングラスの曲線的なふくらみを、まるで生きているもののように撫でている。「どうした、マドモアゼル。ただの0と1の虚構だ。だが君の肉体の奥底、最も渇いている場所が、これを求めて叫んでいるのが聞こえんかね?」
彼の声は、低く、湿り気を帯びた響き。それは鼓膜を震わせるだけでは終わらない。皮膚の下を這い、神経線維に直接触れ、脊髄をぞくりとさせるような、侵食的な親密さがあった。トリニティは革のコートの下で、内臓が冷たく収縮する感覚に耐えながら、かろうじて背筋を保っていた。ネオとモーフィアスは、この迷宮のような城で、別の形の拷問を受けているのかもしれない。分断され、試されている。この男は「原因と結果」の鎖を操り、生物としての最も原始的な衝動――生存本能、支配欲、そして理性を焼き切るほどの快楽への渇望――を弄び、その破綻を観察することに神にも似た悦びを見出すプログラムなのだから。
「あなたの歪んだ好奇心を満たすために、私はここにいるわけじゃない」トリニティの声は、鋼のように硬く響かせようとしたが、語尾が微かに掠れた。
「歪んでいる、かね? 私からすれば、快楽を拒絶する君たちの方がよほど歪んでいるように見えるが」メロビンジアンは喉の奥で、粘つくような笑い声を立てた。「これは好奇心ではない。実証だ。君という、あの『救世主』をも堕としかねない女が、このコード化された『原罪』の味にどう反応するか。このケーキはね、かつてマトリックスの深淵で狂気に触れたプログラムが、存在そのものを溶解させるほどの『絶対的な受容』を強制的に与えるために創り出したものだ。口にした者は、自我という檻から解き放たれ、快楽の奔流の中で形を失う」
彼は、毒蛇が獲物を狙うように、ゆっくりと銀のフォークを差し出した。その先端が、微かな光を反射して鋭く光る。「さあ、味わうがいい。君の信じる『意志』とやらが、この甘美な暴力の前で、どれほど無力か」
トリニティはフォークを睨みつけた。ザイオンの灰色の現実が、このケーキの放つ圧倒的な色彩と官能の前で、急速にリアリティを失っていく。これは単なる誘惑ではない。それは魂への侵犯であり、存在の根幹を揺さぶる冒涜であり、抗いがたいほどに甘美な汚染だった。
「……やめて」声にならない囁きが漏れた。
「やめろ、と本気で言っているのかね?」メロビンジアンは、トリニティの瞳の奥に宿る、恐怖と好奇心の危うい共存を見抜いていた。「君がネオと交わす熱、肌と肌が触れ合う瞬間の電流、互いの存在が溶け合うかのような錯覚…それらと、このケーキがもたらす、理性の枷を打ち砕き、存在の深淵にまで届く絶対的な感覚の津波と、一体何が違う? どちらがより深く、君という存在を根こそぎ満たすと思うかね?」
彼の言葉は、鋭利な楔のようにトリニティの自己認識を打ち砕こうとする。ネオへの愛、それは彼女の全てのはずだ。だが、その愛を構成する身体的な渇望、触れられたい、一つになりたいという根源的な欲求は、このケーキが約束する、境界線なき快楽の暗い魅力と地続きなのではないか?
息詰まるような沈黙。トリニティの心臓が、肋骨の内側で激しく打ちつけている。メロビンジアンは、獲物の最後の抵抗が潰えるのを待つ捕食者のように、静かに彼女を見つめていた。
「一口でいい。舌の上で溶かすだけでいい」彼の声は、もはや囁きではなく、脳髄に直接響く命令のようだ。「君自身の身体が、魂が、この快楽の前にどのように崩れ落ちるのか、共に観察しようではないか」
抗えない衝動。それはもはや好奇心ではない。自己破壊への、暗い引力。あるいは、この男の言う通り、自分自身の最も深い場所にも、この禁断の味に呼応する闇が存在するのかもしれないという、絶望的な確信。
彼女は、まるで操り人形のように、震える指でフォークを握りしめた。指先は燃えるように熱いのに、背筋には冷たい汗が流れていた。ケーキにフォークを差し込む。それは熟れきった果肉のように柔らかく、濃厚でむせ返るような香りが、トリニティの理性を麻痺させた。
息を殺し、ほとんど無意識のうちに、フォークを唇へと運んだ。メロビンジアンの目が、爬虫類のように細められた。
舌に触れた瞬間、トリニティの意識は爆散した。それは味でも感覚でもない。存在の根幹を揺さぶる、甘美な暴力。脳髄を直接鷲掴みにされ、強制的に快楽の回路を開かれるような衝撃。全身の筋肉が弛緩し、腰が砕け、内側から込み上げるような熱い波が下腹部から全身へと広がっていく。呼吸は喘ぎとなり、視界は赤と黒の閃光で明滅した。思考は完全に停止し、自己の輪郭が溶け出し、ただただ押し寄せる快楽の奔流に身を委ねるしかない、絶対的な受動性。それは恐怖と恍惚が混じり合った、底なしの奈落へ落ちていくような感覚だった。ネオの顔も、ザイオンも、自由への戦いも、全てがこの圧倒的な「今」の前では意味をなさなかった。制御できない痙攣にも似た震えが、彼女の身体を支配していた。
「…………感じるかね? コードが君の存在を……書き換えていくのを」メロビンジアンの声が、快楽の霧の中から、悪魔の囁きのように響いた。
トリニティは、どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。喘ぎながら、かろうじて目を開けると、世界が歪んで見えた。快楽の余燼が、まだ身体の深部で燻り、疼き、微かな痙攣を引き起こしている。だが、その焼け野原のような意識の片隅で、消し炭のような意志が、弱々しくも瞬いていた。
(違う……これは……私を壊すものだ)
この快楽は絶対的だ。抗う術はない。だが、それは外部から与えられた、魂のない侵食だ。ネオと分かち合う、痛みさえも愛おしいと思えるあの繋がり、互いの欠落を埋め合うような一体感とは、本質的に異次元のものだ。あれは築き上げるもの、これは破壊するもの。
彼女は、全身の力を振り絞り、震える手でフォークをテーブルに落とした。カラン、という乾いた音が、異常なほど大きく響いた。口の中に残る、濃厚で背徳的な甘さは、もはや快楽の残滓ではなく、魂に刻まれた汚点の味だった。
「……あなたの……勝ちかもしれないわね」声は掠れ、ほとんど息のようだった。だが、瞳には、地獄の淵から生還した者の、狂気にも似た光が宿っていた。「でも、私は……これを選ばない」
彼女はメロビンジアンを睨み据えた。その視線は、折れてはいない。「あなたがどれほど深く私を侵食しようと……私の選択までは奪えない」
メロビンジアンの表情から、全ての感情が消え、能面のような無表情が浮かんだ。彼はトリニティの言葉の意味を咀嚼するように数秒間黙考し、やがて微かに唇の端を上げた。それは嘲笑とも感嘆ともつかない、奇妙な表情だった。「……興味深い。実に興味深い反応だ。快楽という絶対的な力の前に、なお『選択』を主張するか。その非合理性、その矛盾こそが、人間という存在の…あるいは君という女の…核心なのかもしれんな」
トリニティは、壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。足元がおぼつかない。食べかけのケーキは、まるで彼女の魂の一部を抉り取ったかのように、テーブルの上で静かに、しかし不吉な存在感を放っていた。
「……これで、終わりにして」懇願するような響きが、彼女の声に混じった。
メロビンジアンは、ワイングラスに残った液体をゆっくりと飲み干した。「ああ、今日のショーは、な」彼は立ち上がり、トリニティのすぐそばまで歩み寄ると、彼女の耳元で囁いた。その声は冷たく、蛇のようだった。「だが、勘違いするなよ、マドモアゼル。この味は、もう君の一部だ。君の細胞が、君の神経が、君の魂の最も深い場所が、これを記憶した。それは消えない刻印だ。これから君がネオを抱く時、あるいは一人で闇の中にいる時、不意にこの感覚が蘇るだろう…そして君は、自分が本当に何を求めているのか、自問することになる」
トリニティは何も言えず、ただ彼を睨みつけることしかできなかった。そして、よろめきながらも背を向け、部屋を出た。城の廊下の冷気が、火照り、そして今は冷え切った肌を刺した。身体の奥底で、まだあの甘美で冒涜的なコードの残響が、疼き、蠢いているのを感じた。それはもはや単なる記憶ではない。彼女の中に植え付けられた、異物であり、毒であり、そして抗いがたい誘惑の種子。
彼女の胸の内には、ネオへの想いと自由への渇望が、以前よりもさらに切実に、しかし同時に、この新しい闇によって汚染されたかのように複雑な色合いを帯びて燃えていた。あのケーキの記憶は、彼女の存在に深く食い込み、おそらく生涯、彼女を内側から苛み続けるだろう。それに抗い続けること、その疼きと共に生き、それでもなお「自分」であり続けること。それが、彼女に課せられた新たな戦いであり、彼女が「リアル」であることの、あまりにも重い代償なのかもしれなかった。彼女が歩き去るその後ろ姿には、以前にはなかった深い影が、まとわりつくように落ちていた。
anond:20250310180429 の続き。
蛇足になるけれど、妻との馴れ初めが気になるという方を数名観測したので、その方たちに向けて書いてみる(届くと嬉しい)。
以下、分かりやすいように、妻のことを仮名で「Kさん」と表記する。
Kさんとの出会いのきっかけは至って普通であり、エピソードとして別段興味深いものではないと思う。
いわゆる理系男子だった私は、大学院を修了した頃から、漠然と「人生のパートナー」を求めていた。一人暮らしは気楽だけれど寂しいし、前記事に書いた通り、その家はしばしばゴミ屋敷の様相を呈していた。
それに、家庭環境が円満だったこともあってか、親しい他者との共同生活は穏やかで心地良いものであるというイメージを私は持っていた。
では、「人生のパートナー」とはどういう人物だろうか。私はほんの少しだけ自問した。私の性愛傾向に基づくと、共同生活を送るパートナーは女性であることが望ましい。年もあまり離れていないほうが好都合だろうという感覚もあった。それってつまりは「結婚」だろう、というのが、特に深く考えもせずに出た結論だった。
それでは、結婚相手を見つけるにはどうすれば良いのだろう。こんなとき、頭でっかちの理系男子がすることは一つだ。
そう。私は、「婚活」に関する書籍を読み漁った。ただし、男性向けの書籍は全然楽しくなさそうだったので、女性向けのエッセイ漫画とかをあれこれ買って読んだ。面白かった。
実際、読書によって私は様々な知見を得ることができた:
1. デートの際、食事をするお店は必ず予約すること。お店探しならびに予約は、男性が行うべし。
2. 食事をともにした場合、会計は男性が全額出すことが好まれる。女性がトイレに行ったタイミングで、スマートに会計を済ませるべし。
3. 女性のおしゃれ靴は、長時間のウォーキングに向いていない。女性を長距離歩かせてはならない。
4. 初回のデートは、短時間で済ませるべし。カフェでお茶をするだけ、あるいはランチだけなどが無難。
5. 女性と話すとき、男性は積極的に話を振って、女性を楽しませなければならない。
……無理では?
3とか4は楽勝だが、他は難易度が高すぎるというのが当時の私の正直な気持ちだった。当時の感情を思い起こしてみると、次のような感じである。
そもそも、外食なんてチェーン店しか行ったことがない。というか、家で食事をするほうが落ち着く(人目がある場所は落ち着かない)ので、チェーン店へ行くことすら億劫である。もっと正直に言うと、私は電話がとても苦手なので、飲食店の予約をするのに恐怖感すら覚える。上記の2が嫌なのも、お金を出したくないとかではなく、なんというか単純に、普通じゃないタイミングで席を立って店員さんに話しかけるのが怖いみたいな感情である。話を振るといっても、話題なんて何も思いつかない。そもそも私は、全然社交的じゃないのに……。
※なお、38歳の既婚おじさん(子持ち)になった今では、もはや何とも思わないので、当時の私の気持ちを理解できない人が居ても不思議ではない。もちろん、デートする相手なんて妻しかいないけれど。
さて、上記のような予習を経て実践に備えていた私。お相手探しは極めて受動的だった。
当時はまだ平成だったので、仕事がらみで知り合った人とかに、恋人の有無をカジュアルに聞かれたりするのが普通だったのだと思う。なので私は、恋人の有無を聞かれる度に、「結婚相手を探しているので、良い人がいたら紹介してください」と正直に伝えていた。
そうこうするうちに、仕事関係の知人である(年の近い)既婚女性から紹介してもらったのがKさんである。
後で聞いた話によると、Kさんはこの知人女性から、「増田くんを傷つけないように」と厳命されていたらしく、内心では(どれだけ過保護やねん)と思っていたそうだ。
紹介してくれた知人女性を交えて、仕事帰りに一度、一緒に食事へ行った。このときのことはあまり覚えていないけれど、ともあれKさんと連絡先を交換したことは確かだ。
さて、前述の「婚活5箇条」を覚えておられるだろうか? 1番目を見てほしい。Kさんとデートをするなら、私がお店を探して予約しなければならない。うわあ、どうしよう。
「増田さんは、おすすめのお店とかありますか? なければ、私の知っているお店へ行きましょう(顔文字)」
というのは半分冗談にしても、前述のように身構えていた私にとって、良い意味で不意を突かれた形となった。Kさんはお店の候補をいくつか挙げてくれて、そこから私が希望したお店を予約してくれた。
というわけで初デート当日。お店の最寄り駅で待ち合わせした。
しかしここで、大変困ったことがある。実は私には軽い相貌失認があり、つまり、人の顔を見分けるのがとても苦手である。
私は常識人なので、デート相手の顔を思い出せないことがとても失礼であるのは重々承知している。そのため、駅の改札付近でオロオロと周りを見回していた。何だか似たような背格好の女性がたくさん居て、どうすれば良いのかがわからない。
すると突然、後ろから声を掛けられる。振り返ると、にっこりと微笑んだKさんが明るい声で「こんにちは」と言った。本人を目の前にすると、ちゃんと顔が認識できる。(なので、「軽い」相貌失認である)。そうだった、Kさんはこんな感じで、笑顔がチャーミングな人だった。
お店に入り、ランチセットを注文。「何か話題を振らなければ」と考える暇もなく、Kさんがニコニコしながら話をしてくれる。
「今日は晴れて良かったですね」とか、「このお店は〇〇が美味しいんですよ」とか、「近くには△△屋さんとか□□屋さんがあって、見て回るのも楽しいですよ」とか、「少し歩いた先には神社とか広い公園もあるので、この時期はお散歩にぴったりなんです」とか、次から次へと、淀みなく話題が展開していく。私は楽しい気分になって、Kさんが振ってくれた話題に相槌を打ったり質問したりするだけで会話がスムーズに流れることに安心した。
話題はさらに、Kさんの仕事のこととか、家族のことにまで及んでいく。ちょっとややこしい人間関係に関する話題も、Kさんは明るく楽しげに話をするのが印象的だった。それに、ともすれば愚痴になりそうな内容でも、Kさんの手にかかれば笑い話として昇華されていることに素直に感服した。
(後に判明したのは、Kさんがこれだけ自由に喋りまくれる男性は私が初めてだったらしい。きっと、相性が良かったのだろう)
私は前述の5箇条を忘れていないので、伝票の位置に目を光らせていた。しかし、Kさんはトイレへ行こうとはしない。
どうしようと思っていると、コーヒーを飲み終えたKさんが「そろそろ出ましょうか」と言った。私が同意すると、Kさんは颯爽と立ち上がってカバンを手に取り、さっさと伝票をつかんでレジへ向かった。モタモタと後を追う私。
Kさんは、レジに立った店員さんに、「会計別々で!」と元気良く言った。……私は粛々と、自分のランチセット代だけを支払った。
いや今度こそ、前述の5箇条を思い出す必要がある。彼女との関係を続けるためにも、今日のデートはこれで解散にしたほうが良いだろう。
……みたいなことを考えているとKさんが、
ランチのときと変わらぬ調子で、Kさんのお喋りの勢いはとどまることなく、私たちはあちこちを歩き回りながらたくさん話をした。
昼食時に話題に出た場所は全部まわりきってしまい、結局、3時間くらい歩き続けていた気がする。
その後また、カフェに入って、日が暮れるまでお喋りをして、次に会う予定を決めて解散した。
とまあそんな感じで、Kさんと親しくなって、交際して、結婚しました。
海外出張の合間の暇つぶしに書いていたけれど、そろそろ時間切れになりそうなので、ここまでということで。(期待されていた「馴れ初め」に到達できているだろうか?)
お分かりのとおり、Kさんは、私が学習した婚活5箇条を清々しいほどにぶっ壊していった魅力的な女性でした。いや、魅力的なのは過去形ではなく現在進行系なのですが。
「増田はクズ」。このタイトルを見て、ブックマーカーは「よくぞ言ってくれた!」と思い、増田は「ふざけるな!」と怒り出すかもしれない。
投稿がネットに乗って周囲に広がり、ブックマーカーがその毒を吸わされる。
増田の毒には何百種類もの罵倒が含まれ、受動増田によって脳癌や心疾患のリスクが高まることは非科学的にも証明されている。
なぜ、ブックマーカーがそんなリスクを負わなければならないのか?
道端、側溝、公園のベンチ周り、ありとあらゆる場所に増田の投稿者が堕ちている。
増田は「マナーを守っている」と言い張るが、本当にそうだろうか?
「一部のマナーの悪い投稿者だけ」などという言い訳は通用しない。
いくらここは綺麗なインターネッツエリアだと注意書きがあっても、一部の増田は平然と無視する。
指摘すれば逆ギレする始末だ。
増田の多くは「自分の金でデバイス買って、自分の意思で吐いているんだから自由だ」と言う。
しかし、彼らの自由は他人に迷惑をかけない範囲で成り立つものだ。
他人に毒を吸わせ、健康リスクを押し付け、ネットを汚し、それで「自由」を主張するのはあまりにも身勝手ではないか?
ネット回線使用料の価格が上がるたびに「高すぎる!」と文句を言う増田もいるが、むしろまだ安すぎるくらいだ。
なぜなら、増田が原因で発生する医療費の負担は、結局税金としてブックマーカーにものしかかってくるからだ。
健康を害して病院にかかり、その治療費の一部をブックマーカーが負担する。
こんな理不尽な話があるだろうか?
結局のところ、増田は自分の快楽を優先し、周囲の迷惑を顧みない人間が多い。
すべての投稿者がそうだとは言わないが、大多数が何らかの形でブックマーカーに不利益をもたらしているのは事実だ。
だからこそ、ブックマーカーから見れば、増田はクズに映るのだ。
増田の皆さん、どうか怒らないでほしい。
もし「俺はマナーを守っている!」と思うなら、それを貫いてくれればいい。
そして、その悪評は投稿者全体に向けられる。
出不精でなかなか人と出かけず「誘われると嬉しい」というものの自分から誘うことはない
そういう人間からすると誘う側の人間を計画的で実行力があるから、誘う必要を感じない部分があるのかもしれない
立案、世話、支持
そこで、誘うことが止むと、不安になって「最近誘ってくれないよね〜」と解消に走る
「誘えばいいだろう」と思うかもしれないけど、断られると傷つく
だから、『あなたからの誘いを求めることで断られる可能性を回避している』ものと思われる
お互いに誘い誘われるバランスのいい関係は、同程度の知性、感性、価値観を求められる
完全な一致は難しい
誘われたければ、誘われたいことを要求して、はじめて『誘う』って選択肢が出てくる
さらに「誘ってもいいんだ」という承認され得る安全地帯が確保されて、ようやく実行力を持つ
あなただけじゃない
よくある現象で、人間は怠惰で今の関係を維持する方が楽だと思ってしまう
そうしたら、理想が叶うかもしれない
それは今すぐでないだけ
さそってばっかりの人間
「ゲーミングGPUの意図的崩壊:市場需要と企業戦略の乖離が示す現代的パラドックス」
序論
グラフィックス処理ユニット(GPU)は、従来、ゲーミングPC市場の発展を支える中核的技術として位置づけられてきた。しかし、2025年現在、市場を寡占するNVIDIAおよびAMDが、高収益性を有する人工知能(AI)およびデータセンター(DC)分野に経営資源を集中させる一方で、ゲーミングGPUの供給を意図的に制限する現象が顕著である。本論文は、この状況を「ゲーミングGPUの意図的崩壊」と定義し、その要因、帰結、および歴史的文脈における独自性を分析する。本現象は、需要が堅調な市場が代替技術の不在下で企業により放棄されるという、他に類を見ないパラドックスを提示し、現代の市場ダイナミクスの再考を迫るものである。
ゲーミング市場は、2025年の推定市場規模が2000億ドルを超え、Steamの月間アクティブユーザー数が1億人以上を記録するなど、持続的成長を示している(Statista, 2025)。NVIDIAのRTX 5090に代表されるハイエンドGPUは、4K解像度やリアルタイムレイトレーシングといった先進的要件を満たす技術として依然高い需要を保持し、技術的陳腐化の兆候は見られない。対照的に、NVIDIAの2024年第3四半期財務報告によれば、総売上の87%(208億ドル)がDC部門に由来し、ゲーミング部門は12%(29億ドル)に留まる(NVIDIA, 2024)。AMDもまた、RDNA 4世代においてハイエンドGPUの開発を放棄し、データセンター向けEPYCプロセッサおよびAI向けInstinctアクセラレータに注力する戦略を採用している(Tom’s Hardware, 2025)。この乖離は、両社が利益率(DCで50%以上、ゲーミングで20-30%と推定)を最適化する戦略的判断を下していることを示唆する。
「ゲーミングGPUの意図的崩壊」は、以下の特性により定義される。第一に、供給の戦略的抑制である。RTX 50シリーズの供給不足は、TSMCの製造能力制約や季節的要因(例:旧正月)を超越し、NVIDIAがAI向けBlackwellシリーズ(B100/B200)に生産能力を優先配分した結果として解釈される。第二に、代替技術の不在である。クラウドゲーミング(例:GeForce NOW)は潜在的代替として存在するが、ネットワーク遅延や帯域幅の制約により、ローカルGPUの性能を完全に代替するに至っていない。第三に、市場の持続性である。フィルムカメラやフィーチャーフォンのように自然衰退した市場とは異なり、ゲーミング市場は成長を維持しているにも関わらず、企業による意図的供給制限が進行中である。この構造は、市場の自然的淘汰ではなく、企業主体の介入による崩壊を示している。
本現象を歴史的文脈で評価する場合、類似事例としてOPECの原油供給調整(1973-1974年)および音楽業界のCD市場放棄(2000年代後半)が参照される。しかし、いずれも本ケースと顕著な相違が存在する。OPECの事例は価格統制を目的とした供給操作であり、市場崩壊を意図したものではない。また、CD市場はデジタル配信という代替技術への移行が進行した結果、企業撤退が合理的であった。これに対し、ゲーミングGPU市場は代替技術が不在であり、かつ需要が堅調である点で独自性を有する。さらに、市場の寡占構造(NVIDIAとAMDで約95%のシェア、StatCounter, 2025)が、新規参入者による市場補完を阻害し、意図的崩壊の効果を増幅させている。これまでの「市場の取り残し」が技術的進化や需要減退による受動的結果であったのに対し、本現象は企業戦略による能動的放棄として際立つ。
本現象は、消費者および競争環境に多様な影響を及ぼしている。RTX 50シリーズの供給不足は、転売市場において希望小売価格の2倍超での取引を誘発し(eBay, 2025)、消費者不満を増大させている。市場競争においては、AMDがミドルレンジGPUで一定のシェアを確保する一方、ハイエンド需要の未充足が長期化し、新規参入者(例:中国系企業やIntel Arc)の市場参入を誘引する可能性がある。しかし、GPU開発における技術的障壁および製造コストを考慮すると、短期的な代替供給の実現は困難と予測される。将来展望としては、クラウドゲーミングの技術的進展がローカルGPUの代替となり得るか、または消費者圧力が企業戦略の再評価を促すかが、本市場の持続性を決定する要因となる。
「ゲーミングGPUの意図的崩壊」は、市場需要の堅調さと企業利益追求の乖離がもたらす現代的パラドックスである。技術的代替や需要衰退による市場淘汰とは異なり、NVIDIAとAMDの戦略的資源配分が市場を意図的に崩壊させている点で、歴史的に稀有な事象として位置づけられる。本現象は、現代資本主義における企業行動と消費者利益の対立、および市場の長期持続性に対する重要な示唆を提供する。今後の研究においては、本形態の意図的崩壊が他産業に波及する可能性や、消費者側の対応策の効果について、さらなる検証が求められる。
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How to Make Our Ideas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to an idea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1] https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2] https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3] https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
俺たちのパソコンが、いつも「古い」とか「使えんようになった」って言われるのは、実は企業側がわざとそういう仕組みを作り出しているからである。たとえば、Windows 11のリリース時に、TPM 2.0必須や最新CPUしか動かんといった、技術的に見れば問題なく使えるパソコンにも無理なスペック足切りを課す。これによって、実際には十分な性能を持つパソコンが、あたかも使えへんゴミのように扱われ、消費者は新しいパソコンを買わされるラットレースに参加させられるのだ。
このような強引な需要創出の仕組みは、企業が売上を伸ばすための戦略であり、俺たちが自分の都合でパソコンを使う自由を奪っている。企業は、最新OSに対応しなきゃ安心できん、便利にならんといった幻想を植え付け、実際には問題ないはずのパソコンを、あたかも「時代遅れ」だと決めつける。それにより、無理やり新しい製品に買い替えさせることで、売上を確実なものにしようとしているのである。
さらに、この需要喪失を満たすために、企業は無意味な仕事、すなわちブルシットジョブを次々と生み出している。デヴィッド・グレーバーが指摘したように、「まるで誰かが、全員を働かせ続けるためだけに無意味な仕事を作り出しているかのようだ」という状況が、現実のPC業界にもある。新OSの導入に伴って、マーケティングやサポート、管理といった、本来は必要ないはずの職務が増え、働く人々はその無意味さを感じながらも、企業の策略に沿って受動的にラットレースに参加させられているのだ。
こうして、俺たちは実際には自由にパソコンを使えるはずなのに、企業が仕掛ける強引な需要創出と、それに伴うブルシットジョブのせいで、自分の都合で使う権利を奪われ、無駄な買い替えとアップグレードのサイクルに巻き込まれているのである。結果として、俺たち消費者は、企業のレント・シーキング戦略、すなわち新たな富を生み出すことなく既存の富を拡大するための手法に、金をむしり取られている状態にあると言える。
この現状を知れば、俺たちは自分たちの本当の使い方、つまり必要なときに自分の都合でパソコンを使える自由が、企業の策略によって奪われているということに気づかざるを得ない。企業は、自らの利益を守るため、無意味なアップグレードとそれに伴うブルシットジョブを通じ、俺たちの財布から無駄な出費を引き出し続けているのだ。これが、PC買い替えやOSアップグレードのラットレースに参加させられる理由であり、俺たちが自分の都合でパソコンを使う自由を奪われる根本的な原因であるといえる。
「メスとして可愛がられたり、責められたりする音声を聴きながら乳首やアナル刺激だけで絶頂に至る」というメスイキ嗜好が、かつてはニッチな特殊フェチと見なされていたにもかかわらず、数多くの日本人男性に受け入れられている現象は、以下のような複合要因によって説明される。
- 江戸期以前からの春画文化、男色・女形文化による“柔軟な性意識”
- 戦後の二次元表現(漫画・アニメ・同人)の独自発展と、ファンタジーで過激表現を可能にするモザイク規制の裏事情
- 長時間労働などで疲弊する男性にとって、被受動的立場は強いカタルシス
- 男らしさの呪縛から脱却したい(orそもそも求めない)草食系男子が仮想空間で自由な性を模索
- ASMR、バイノーラル録音、VRなどが「音声や視覚の没入度」を高め、“メス化”没入を容易にした
- DL販売や通販の匿名性が“恥ずかしいフェチ”を気軽に楽しめる環境を整備
- 日本固有の「二次元=自由な欲望発散」「現実=建前を重視」の文化が、過激な倒錯表現を大衆に広める土壌を形成
- 現実社会でのジェンダー問題解決とは直結しないが、男性の“自己開放”への潜在的欲求を刺激
こうしたマクロ要因が絡み合い、メスイキ嗜好やサキュバス責め・ふたなり支配などがもはや“スタンダード”の一つとなりつつある。その背後には、男性性の固定的あり方が崩れ、男女の役割分担が流動化している現代社会の姿が映し出されていると言えよう。
このような倒錯表現の流行が、男性性からの解放や女性上位のイメージを肯定的に扱っているからといって、直ちに現実の女性の権利向上に結びつくわけではない。むしろ男性中心のファンタジーとして再生産されている面もある。今後、社会的なジェンダー平等とどう折り合いをつけるのかが注目される。
表現の自由を最大限認める風潮と、フェミニズム・児童保護など公的利益を名目とする規制が対立する構図は今後も続く可能性が高い。二次元表現の規制に向かうのか、それとも創作と現実を明確に分離して許容するのか、社会的合意をどう形成するかが問われる。
日本発の「メス化」「ふたなり」などが海外でも一部マニア層に人気を博しているが、文化的差異や言語壁が大きい領域でもある。翻訳やローカライズが進めばさらに市場が拡大するかもしれないが、逆に海外規制や宗教的批判に直面する可能性もある。
男性が「メス」として扱われる性嗜好は、単なる“倒錯”という括りに収まりきらないほど大きな市場と支持層を得ており、そこで語られる「メスイキ」「乳首オナニー」「サキュバス責め」「ふたなり支配」などのキーワードは、現代日本社会のジェンダーと欲望のあり方を色濃く反映している。本来の男性性を脱ぎ捨て、女性的役割を演じて甘やかされたい、支配されたいと願う心理の広がりは、戦後日本が培ってきた“男はかくあるべし”の呪縛や、厳しい労働環境がもたらすストレスを映す鏡でもある。
現時点では、この“メス化”や“被受動的性快感”が社会全体のジェンダー観や性規範を大きく変革するかどうかは未知数である。しかし、男性性の揺らぎや多様化、そして二次元・音声メディアのさらなる発展を考慮すれば、今後もこの流れがより洗練化・拡大していくことは十分に予測される。そこには、単なるエロティックな消費だけでなく、日本人男性の深層に横たわる“自己解放”や“癒やし”の欲求が凝縮されているからこそ、多くのユーザーを惹きつけてやまないのである。
以上、本稿では、現代日本において急速に台頭した「男性のメス化(メスイキ)嗜好」をめぐる諸相を、歴史・社会・文化・メディア技術の多面的視点から検証した。今後の研究・議論を通じて、こうした男性性の再定義やファンタジーの実践が、どのように社会や個人を変えていくのかをさらに注視していく必要があるだろう。